釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

日本語の音

2012-05-01 19:14:26 | 文化
周囲の山々では淡い新鮮な緑が広がって来た。釜石の早く咲いた桜はもう散って来ている。朝、出勤時に道路脇に桜が並ぶところでは路上に桜の花びらが絨毯を作っているところがあった。染井吉野より少し遅れて咲く枝垂れ桜も今がほぼ満開だ。今朝早く犬たちの世話をしていると庭の椿の木にたくさんのシジュウカラがやってきて賑やかにさえずっていた。遅咲きの椿の花の蜜を食べに集まって来たのだろう。近くからはウグイスの声も聞こえて来た。釜石の桜が終わりに近づいたので、そろそろ遠野の桜が咲き始めているだろう。先日、職場の関連施設の方から旧仙人道路の遠野側に一本桜があることを教えていただいた。ここと遠野青笹の喜清院の桜は是非見ておきたいと思っている。3日には娘が3泊4日で大阪へ一時帰るため、また花巻空港まで送って行かねばならない。盛岡城趾の桜も見ておきたかったが、恐らく、この時ではもう散ってしまっている可能性が強い。やはり、遠野の桜しか見られないだろう。最近、中国の歴史映画を見ることが多くなった。同じ中国でも北京と香港で歴史映画であっても微妙にいくつか違いがあるのに気付いた。中でも中国語の違い方を聞いて、面白かった。肯定を意味する「はい」と言う返事をする時に、北京映画では「是(シー)」が当然使われているが、香港映画ではまさに日本語と同じ「はい」が使われていた。「万歳」も北京映画は「ワンスイ」だが、香港では「バンザイ」とまるで日本語と同じなのだ。「万歳」はもともと中国で皇帝にのみ使われた言葉で、皇帝が一万年の寿命を保つようにとの、祈りを込めた言葉として発せられた。この言葉が日本でも使われるが、日本でのこの言葉の歴史は意外に新しい。1889年、明治22年に大日本帝国憲法が発布された時に初めて使われた。余談だが、永井荷風や夏目漱石は「万歳」が嫌いだったようだ。この「バンザイ」の音は漢音と呉音が混在する読みになっている。明治政府がそれを承知で「バンゼイ」(漢音)や「マンザイ」(呉音)では聞こえが悪いとして、混在した音に決めたそうだ。中国始皇帝の秦で 字体の統一を図り、篆書(てんしょ)が制定された後、漢(前3世紀~後3世紀)の時代に 篆書を簡略化した漢字が用いられるようになった。日本では3世紀の中国の三国時代に南朝である呉の国からの文化を取り入れていた。このとき読みも呉音が日本に入って来た。そのため、漢音と呉音が存在するようになった。天照や卑弥呼などの王朝は古田武彦氏の言われる九州王朝であり、九州王朝は中国の南朝と交流があった。九州王朝の阿毎多利思北孤(あめのたりしほこ)は自分たちの天子であると仰いでいた南朝が滅び、代わった北朝系の隋を自分たちの天子であるとは認めず、自分と対等の相手と見た。607年に隋へ送った国書では「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と述べ、自分自身も天子として記した。これを見た隋の皇帝煬帝は怒り、隋書では「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と書かれてしまった。南朝系であった九州王朝に対し、白村江の戦いで九州王朝を助けず、勢力を温存し、台頭して来た近畿のいわゆる大和王朝は北朝系の隋や唐に接近し、さらに勢力を伸ばし、九州王朝に取って代わった。こうした歴史的な背景があるために漢音と呉音が日本に残ることになった。日本の正史では古事記に記された応神記の百済照古王(4世紀半ば)の時「名和邇吉師、即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」とあるのが漢字伝来の最初となっている。しかし、西暦57年に後漢の光武帝から「漢委奴国王」と書かれた金印が与えられており、当然この字は日本側でも読めるものがいたはずだ。大和王朝ではこれについても一切触れられておらず、これは九州王朝に与えられたものと思われる。大和王朝は九州王朝にまつわるものは破棄したものと考えられる。香港映画で日本と同じ音が使われているのは日本が大陸に侵略した名残なのかも知れない。 付記:呉音の呉の国は3世紀頃の中国の三国時代の呉の国であり、紀元前3世紀頃の中国戦国時代の小国呉ではない。この小国の呉はことわざの「呉越同舟」で使われる呉である。
八重桜「楊貴妃」

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