釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

人為的な原発事故

2021-03-13 19:15:00 | 社会
旧ソ連のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発では、1986年に4つの原子炉が運転中で、2つの原子炉が建設中であった。1983年から営業運転されていた4号炉は、4月25日、点検修理のため,運転開始以来はじめての原子炉停止作業に入った。作業は翌日まで続き、その過程でいくつかの作業ミスが重なり、原子炉は停止ではなく、暴走し始め、核分裂を抑える制御棒駆動のための電源も喪失しており、4月26日1時24分に4号炉は大爆発を起こした。ウクライナだけでなく、ベラルーシ、ロシアでも放射性物質で汚染された。4月末までにはヨーロッパ各地で、5月上旬にかけては、日本を含む北半球のほぼ全域で放射性物質が観測された。チェルノブイリ原発の原子炉は原爆用プルトニウム製造のために開発された原子炉を雛形としており、原子炉設計の構造的欠陥もあったと言う。事故直後に消防士6人と原発職員24人が亡くなった。チェルノブイリ原発はウクライナ共和国にはあったが、共和国の北端にあり、むしろ原子炉爆発の被害は、ウクライナ共和国の北に隣接するベラルーシ共和国の方が大きかった。ベラルーシの15歳未満の甲状腺癌は、事故前11年間(1975~1985)ではわずか7名であったが、事故後の11年間(1986~1996)では508名と、事故前に比べ72倍にも達している。成人を含む15歳以上では同じく事故前11年間の1342人から事故後の11年間の4006名と約3倍になった。日本では、原子力発電が商業用として初めて運転開始したのが1966年7月の東海発電所で、福島県大熊町に東京電力福島第一原発1号基が営業運転開始したのが1971年3月である。2011年の東日本大震災前には54基の原子炉が全国で運転されていた。地震大国である日本に原発の耐震指針が策定されたのは1978年である。しかも、それ以前に建設された原発には適用されず、その後も最新の科学的知見に基づいた改訂も定期的に行われなかった。1995年に阪神大震災が発生した時でさえ、耐震指針を改定しようとはされなかった。地震研究者の神戸大学石橋克彦名誉教授は、1997年には、岩波書店の『科学』10月号で、「原発震災-破滅を避けるために」を書き、2005年2月23日には、衆議院予算委員会公聴会で、「「迫り来る大地震活動期は未曾有の国難-技術的防災から国土政策・社会経済システムの根本的変革へ-」を訴え、地震や津波からの災害を回避するための原発の防災の必要性を説いた。2007年新潟県中越沖地震による柏崎刈羽原発の被災の後には、「日本の海岸線を縁取る原発の地震被害が日常的風景になるといってもよい」とまで述べている。2006年9月には初めて原発耐震指針が改定されたが、「電力会社と保安院は一体となって原子力安全委員会に「圧力」をかけ、運用を骨抜きにした」。東京電力は大津波の可能性を知りながら、対策を怠った。2011年3月11日に、福島第一原発事故が起きても、「想定外だった」と言い張った。2007年7月16日、新潟県中越沖地震が発生し、東京電力は自社最大の原発である柏崎刈羽原発を長期に停止せざるを得なくなった。津波対策を講じるには、さらに福島の第一、第二原発10基をも止めなければならなくなる。チェルノブイリ原発事故は、明らかな人為災害であったが、福島第一原発事故もまた、明らかな人為災害であった。自然災害ー地震と津波の警告は既に何人かの科学者から出ていたのだから。それへの対策を怠れば、災害の責任は人にある。福島第一原発では、現在もなお事故処理の目処が立たない状況が続いている。にもかかわらず、政府は「二酸化炭素削減」を口実に原発の再稼働を目論んでいる。しかし、今は地震や津波の警告はむしろ震災前以上に強まっている。
枝垂れ梅

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