釜石の日々

子供の声は騒音なのか?

今朝は-3度で庭の水道は完全に凍っていた。日中は4度までしか上がらなかったが、風があまりなかったせいかさほど寒さを感じなかった。朝、出勤時に甲子川の下流で白鳥を見かけた。昼休みに、同じ場所に行ってみたが、残念ながら白鳥の姿はなかった。どこかに餌を探しに出かけたのだろう。また、戻って来てくれればいいが。最近は写真を撮りに出かけることも少なくなっているため、再び古いレンズを集め始めている。古くて安いレンズもとてもいい絵を描いてくれる。人の目ではとても結べない像を結んでくれる。 現在、東京都と川崎市では子供の声が「騒音」として環境確保条例で規制対象としている。東京都では保育所や公園などの子供の声を音量によって一律に規制している。しかし、昨年、都議会や都内自治体から違和感があるとして指摘された。東京都はこれにより、条例の改正に向けて検討に入った。年末年始を挟んで、一般の意見公募を行った。その結果条例の見直し案への賛成意見は59%であった。見直し案では未就学児の声などが規制対象から除外される。東京都や川崎市だけでなく、各地で子供の声がうるさいとして、住民が保育所建設に反対するケースが増えていると言う。騒音差し止め訴訟にまで至った例があると言う。横浜市副市長として保育施設の充実などに取り組んだこともある前田正子甲南大教授は「子どもの声を工場と同じ騒音として扱うのは、思い切り遊ぶ子どもの権利を大人が奪うことになる。保育所側も遊ぶ時間などのルールを決めて住民に説明し、譲り合って地域と共存を探る必要がある」と述べている。学校でも父兄が苦情を言って来ることが増えている。そのため学校内の規則が増えて行き、子供たちの自由が制限されて行く。条例や規則が変質して来ているように思う。その要因には人の寛容さの消失や家庭でのしつけの欠如があるのではないだろうか。公共の施設や公共の乗り物の中で騒ぐ子供を抑える親が少なくなっているように思う。その一方でそれを見かけた人たちがすぐに耐えることなく、強制的に適用出来る条例や規則で規制することに走る。子供には限りない可能性が潜んでいる。あらゆる規制はその可能性を奪いかねない。そのことを子供の親も周囲も忘れているように思う。公共の場での子供の態度は、基本的に親のしつけで決まるだろう。そのしつけの範囲であるはずの子供の行動をしつけではなく、条例や規則で規制することにはまさに違和感を感じざるを得ない。広い意味では「しつけ」は親だけでなく、周囲にもその責任はあるだろう。自立した個人の自由は必ず義務や責任を伴う。しかし、現在の日本は個人のレベルで自由だけが主張されつつあるように思う。人としての規範となる支柱が失われている。かって日本は東アジアがそうであったように儒教の影響を強く受けて来た。よくも悪くも少なくとも「支柱」があった。しかし、戦後、そうした支柱は廃されてしまった。精神的な支柱を失った日本は今後も同じような条例や規則がまた出て来るだろう。
今はないミノルタのレンズが描く絵
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