釜石の日々

釜石が語る教訓

昨夜も今朝も庭に出ると手足が寒さで痛くなって来た。今朝は-7度だ。連日外の水道は凍ってしまっている。釜石へ来てからこんな冬は初めてだ。家のすぐそばに職場の関連施設があり、そこに今朝出勤して来られた同職の方が一面凍った路面に集中して自転車のハンドルを操作しておられた。こちらが近くにいることも気付かないし、こちらも危ないので声をかけるのを控えた。よくこの路面を自転車で来られたものだと感心した。手には軍手をはめておられた。タイヤは恐らくスタッドレスではないはずだ。日中も風がひどく冷たかった。三陸の海はとても豊かであるが、この豊かさは昔からずっと続いていた。正規の文献とされるものの中で初めて三陸が登場するのは『続日本紀』巻第七「霊亀元年十月」(715年)の条だ。『又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以来。貢献昆布。常採此地。年時不闕。今国府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請、於閉村。便建郡家。同於百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。』蝦夷の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)らが『先祖以来』献上している『昆布』を運ぶのに『国府』が遠く離れているので『閉村』に『郡家』を建てて欲しいと請願している。この時代も三陸沿岸では昆布が献上されるほどに特産物になっていたのだ。ここで『閉村』は多くは現在の宮古市とする説をとっているが、『北上市史』ではさらに現在の宮古市の「大須賀」あたりで、津軽石川の河口付近だろうとしているようだ。山内丸山遺跡で知られるように縄文時代の津軽は国内でも繁栄を誇った地であり、弥生時代以後東北に打ち立てられたと思われる荒覇吐王国の中心でもあった津軽の人たちが太平洋側の交易を行うのに現在の宮古市の「津軽石」に拠点を置いたものと考えられる。従って「蝦夷の須賀君古麻比留」もここを治めていた人物だろうと思う。この太古から豊かであった三陸の地を何度も津波が襲った。昨夜の時事ドットコムによれば「下北沖にM9級震源域か・・・切迫度高い」とある。地層の堆積物から津波の痕跡を調査されて来た北海道大学の平川一臣特任教授(自然地理学)は過去の震源として「(1)根室沖-襟裳岬(2)下北-陸中沖(3)陸中-常磐沖。」の三カ所が注目され、(2)の「下北-陸中沖」が既に800~900年が経過しているため、およそ1,000年間隔の発生を考えると警戒が必要なのだと言われる。記録が残る1896年の明治三陸地震も1933年の昭和三陸地震も震源地はいずれも釜石沖200Km前後のところであった。明治三陸地震では震度はわずか3しかなかったにもかかわらず、津波は釜石市の小白浜で16m、両石で14.6mにもなった。昭和三陸地震の場合は震度が5で、津波は小白浜で6.0m、両石で9.5mとなっている。当然被害は明治三陸地震の方が大きい。当時の釜石町(釜石村と平田村が合併)の人口6,529名中死者行方不明者は4,985名にも達した。ちょうど津波が襲った午後8時頃は日清戦争が終わり、帰郷した戦勝兵士たちを祝う酒宴が催されていた。今は釜石市に合併されている当時の唐丹村などは人口2,807人中2,100人が亡くなっている。流失家屋は341戸あり、壊滅状態となった。昭和三陸地震の場合は釜石町では火災が発生し、249戸が焼失している。死者・行方不明者は403人だ。唐丹村は359人だった。地震の震度と津波の高さは比例しておらず、地震による犠牲者と津波によるそれとの違いは、犠牲者の傷付き方だ。津波では流される家屋や建材などにより犠牲者の肉体が極度に破壊されることだ。それだけに津波が引いた後の惨状は凄まじいものがある。明治三陸地震の釜石の状況は「1896年明治三陸地震津波による釜石市の状況」で見ることができる。現在よりずっと山が海に迫っている。つまり現在はこの頃よりさらに海を埋め立てたり、山を削って平地を広げていると言うことであり、それだけ津波の被害地域になる可能性のある範囲を広げてしまった、と言うことになる。江戸時代には薬師公園の下は海だった。30年の歳月と1,200億円をかけて造られた防潮堤を信じ過ぎたのだ。原発の安全性を信じてしまったのと同じく。岩手の三陸沿岸に伝承されて来た古人の「津波てんでんこ」(津波が来た時には家族や友人にかまわず、個々がともかく逃げろ)こそ現代人が学ばねばならないことなのだ。防潮堤ではなく、高台移転なのだ。原発推進ではなく、廃止なのだ。これほどの惨事に学ばなければまた必ず同じことを繰り返すことになるのだ。
雪の大樹

コメント一覧

管理人
こちらこそありがとうございます
過分のお言葉、かえって恐縮いたします。やはり古田史学の会の方たちは歴史だけでなく、古田武彦氏と同じく「民の視線」をお持ちなのですね。どうかこれからも宜しくお願いいたします。
古田史学の会一世話人
ありがとうございます。
http://plaza.rakuten.co.jp/hukohitomi
ぜひ使わさせて頂きます。釜石さんの確かな文章、展開、会の人も見習って下さると思います。釜石さんの他に「ハナサンピン」さんという方にも現在お頼みしています。この方の文章も確かです。大阪へ来られたときにはぜひ例会を覗いてやって下さい。毎月第3土曜日第2ビル5階第3研修室で例会をしています。私も歴史から原発問題に軸足が移り、乳酸菌運動を展開中です。
管理人
結構ですが・・・
別に紹介・転載はしていただいてもいいのですが、最近は歴史についてあまり触れていないので、申し訳ない気がします。以前時にこのブログにコメントいただいた「一生」さんは古田史学の会へも確か投稿されておられた方だと思います。私はあくまで東北の明かにされていない歴史に興味があり、特に和田家文書を早く古田武彦氏がひも解いて下さることを願っています。無論、これまで通説とされて来た日本史の誤りを明快にされた古田氏の各書もむさぼるように読ませていただきました。ただ震災後はそうした時間も、気持ちの余裕も失い、内容が歴史から最近は離れて来ております。それでも古田氏の常に持たれている民の視線には敬服しております。つたないブログで興味の赴くままに書いているものですが、ご利用いただけるのであればご遠慮なくお使い下さい。
古田史学の会一世話人
ブログの紹介・転載のお願い
http://blogs.yahoo.co.jp/huzi2149
以前から読ませて頂いております。最近、会報の企画アイデアを頼まれました。すぐに浮かびましたのが「釜石の日々」さんでした。ぜひとも会の皆さんに紹介したいなあ、きっと皆さんに喜んでもらえるなあと・・・。全くぶしつけなお願いですが、ブログの紹介・転載をお願いできないでしょうか。突然、変なメールで気を悪くなさらないで下さい。だめでも、構いません。ブログを楽しみに、きれいな写真を楽しみにしております。
管理人
関東の雪
そうですね、ニュースでも関東の雪で事故や怪我をした人がいることを知りましたが、普段、雪があまり降らないと、どうしても不用意になってしまいますよね。人はミスをする、というのが安全対策の大前提ですが、問題は1度起こしてしまったミスはもう2度と起こさないように、いかに備えるか、が問われて来るのですよね。たかが雪、されど雪。・・・・
いつも訪問いただいているようで、ありがとうございます。
夕焼け
釜石津波
歴史から学ぶという 謙虚さが大切ですね
人間のおごりや高ぶりを 立て替え直さなければ…
いつもblogありがとう御座います
〓神奈川県も冷え込みが厳しいです 暖かさのなれた方には厳しいかなと思います
関東での雪の事故など見て…泣き言を話しても甘い 甘いと 言っている私です
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「文化」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事