goo blog サービス終了のお知らせ 

もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

本はたくさん並べられていれば良いってものじゃない

2024-09-11 20:08:09 | 日本でニャー2024
腕の痒みはまだまだ治らない。このまま腕1本溶けてしまいそうだ。メルカリか楽天で義手売ってるだろうか?Amazonでも構わないが。まあいい。


先日、活断層ハウスに友人が来て言った。「ここに本は置かないの?」
良いところ突いてくるねぇ。置くつもり。でも、今手持ちの本ときたら表紙眺める系の本ばかり。読んで面白い本はこれから集めようと思う。

ところで、活断層ハウスからそう遠くない場所に郊外型の少し大きな書店がある。ずっと以前からあるのでよく行っていた。そこにやっと今回行ったのだが、ガッカリだった。大きなガラス戸を開けて入るとどうやら棚の配置は変わっていない。縦並びの棚の最も右側は雑誌だ。変わっていない。雑誌の棚を奥まで行くと突き当たりは単行本の棚だ。これも同じだ。ただ、その左手のフロアを見渡すと、愕然。全部マンガだった。つまり書店のフロアの2/3がマンガ。後はほとんどが雑誌類。まともに読める本はとても少ない。

10分しないうちに書店を出た。

「ここに本は置かないの?」
「置くつもりだけれど、ただ置くだけというのはしないつもりだよ」

書店でも図書館でも本はただ背表紙をこちらに向けて置かれているだけだ。そこから取り出されて読まれる本はその中の何冊、何%だろう? 1000冊並んでいても数冊だけじゃないだろうか? 書店も図書館もだいたい寂しい。自分がここに本を例えば100冊置いて、そのどれかに興味を持って手に取る人はどれだけいるだろう? 絶望的な数字しか思い浮かばない。だからちょいと工夫が必要になる。

その知恵は何十年も前にある賢人さんがすでに案出している。それを真似てやってみようと考えている。詳細については今後のお楽しみということで。



明日は手術した病院へ行って検査と腫瘍の検査結果を教えてもらいに行く。朝8時出発だ。

人は羽蟻のように地面に降りて羽根を捨てる

2024-09-10 23:29:05 | 日本でニャー2024
買い物に出てスーパーの駐車場に停めようとした時、キャサリンさんが言った。
「私のことおかしいと思ってるでしょ?精神科で診てもらった方が良いと思ってるでしょう?」

病院に行った方が良いとも思わないが、もし第三者に話を聞いてもらってヒントが掴めるのであれば悪い選択ではない気がする。もっとも病院の医者をそんなことに利用して問題ないのかどうかはわからないが。

なぜキャサリンさんがそんなことを言うのかというと、自分でも感じているようだが、あまりにも近くにいる人のちょっとした事が気になり過ぎるのだ。そのことが頭から離れず、四六時中その人の悪いところばかりを気にして批判してしまう。

世の中のほとんどの人は神様でも聖人でもないのでちょっとした間違いはする。それに加えて高齢になるとある部分の判断力が鈍るようなことはある。後者は明確に医学的な脳の障害が出てきた場合もあるのでその人が性悪というのとは違う。

そういう他人の所作に関して多くの人はどうにか上手く対処している。なぜなら高齢だろうとそうでなかろうと「自分の側から見て」おかしな人は山ほどいるのにあまり問題にはなっていない。普通に仕事している中でもかなりいるし、そのおかしなところを特徴として自分なりの成果を得ている人もいる。その特性が良く見える時もあるしその逆の場合もある。

だから問題の本質がどこにあるかというと、それは自分の側だし、その結果のダメージを受けるのも自分の側だ。自分が歩き回れる世界をどんどん狭めていってしまい、何もできずに萎縮して生きることになってしまう。

人間というのは生来、自由であるべきものだ。これは現代社会において認められた権利なのだけれど、それが本質的に何であるかとか使い方は教えてもらえない。特に日本では。難しいから。その代わりに義務はきちんと教えられる。説明が簡単だから。

自分を鳥だと考えてみる。もちろん羽根がないので空気中を飛べはしないが、心は自由に飛び回ることができる。鳥は3次元空間を移動できるので滅多に誰かとぶつかってしまうことはない。けれども、鳥は上から地面を眺めている。だから鳥は地面で起きていることが気になって仕方ない。地面で誰かが変わった動きをすると横に広く広げていた羽根を縮めて急降下して地面に降りる。地面に降りてしまえば羽根はもう無いも同然で、地面を這いずる動物や虫と一緒だ。平らな面にいると当然変わった動きをしていた相手とぶつかってしまう。気になって気になってもう飛ぶことを忘れてじっと相手を見続ける。目が離せない。自分に羽根があって飛べることを忘れた鳥は自らその相手に捕らえられたのと同じ。

でも、人間の多くはそんな生き方をし続けている。snsで目立つ何かを見つけるとそこへすっ飛んで行って口を挟む。それを見るまで興味も知識も何なかったところへ思いついた一言を投じる。その自分の一言が自分をその地面に縛りつけることになり、そこの住人となる。地面に落ちた羽蟻の羽根がポロリと落ちてもうどこへも行くことはできない。

そんな生き方は快適なのか?


空中を飛んでいれば、地面で起きている事を地面にある定義だけでなくいろいろな定義で説明できる。ある定義はその悪い面を説明するが、別の定義はそうならざるを得なかった理由を説明し、別の定義は良い面を説明、そして別の定義はその事にあまり意味がないことを説明するだろう。けれど、飛んでいなければ定義は平面にあるただ一つに限られる。

たった一つの定義にこだわるのは人生にとって時間の無駄だ。なぜなら永久に何も改善しないやり方だから。しかもそれは自分が解決しなければならない自分の問題でもないのだから。

痒くて痒くて病院へ

2024-09-10 22:50:30 | 日本でニャー2024
また病院へ行くことになった。今度は皮膚科だ。

先週、庭仕事をしていた時に右腕が少し痒くなった。放っておいてもすぐに戻るだろうと思ったが甘かった。その後活断層ハウスへ行った時には水ぶくれができて黄色い液体が流れ出すようになった。そして痒みも増したので今日病院へ行った。

強いステロイド剤が処方されたので痒みはマシになったがしばらくはガーゼを巻いて過ごさなければならない。どうもやけど虫だったらしい。



LXA-OT3について検索して調べてみたが核心に迫る情報が少なかった。
1) 付属のACアダプタのリップルノイズを測定した人がいない。(オシロスコープを持っている人はいるのに)
2) スピーカー出力にコモンノイズが出力されているらしい。これは出力ICの仕様で仕方ないらしいし、スピーカーでは再生されないので問題無いかもしれないが出力の両極がハード的に完全に同じなのか?という不安は無きにしもあらず。

スイッチング電源のDC側ラインに入れるとフィルターも売られているようだが、誰も測定していないので効果の確認ができず、買って良い物かどうかちょっとわからない。この件、もうちょっと考えよう。



活断層ハウスの屋根修理は40万円ほど。これに電気工事を加えて見積待ち。

また、町からは改修補助金の追加予算が確定とのことで電話連絡が来た。見積後に申請しよう。


オーディオ用電源キットに完全キットは無いのか?

2024-09-09 20:45:41 | 日本でニャー2024
マレーシアからのお土産をいただく。ありがとう!
油(たぶんマーガリン)を混ぜて煎ったコーヒー豆を粉にしてティーバッグ状の袋に詰めたもの。ドロっとした濃いコーヒーになる。



日本ではコーヒー豆は何も混ぜずに煎るものと決まっているが、こういう飲み方でも良いのではないかと思う。ちょっと思っただけ。



昨日入荷したLXA-OT3を中華真空管プリアンプに繋いでセレっション5で鳴らしているが、昨日活断層ハウスで聞いた時の傾向は維持されている。もちろんスピーカーが違うので音は違うが、音の背景が微妙にざわついているのは感じる。電源をトランス式に換えてみた方が良いだろうか? それともしばらくすると気にならなくなってしまうのか?

ところで、安定化電源のキットを探してみたところ完全キットは無くて、トランスとブリッジダイオード別だった。トランス別ということは配線やプラグ、もしスイッチを付けるならそれも別購入という話になってけっこう面倒だ。流用できる物は無いだろうか?

トーテムポールとアンプ入荷したので

2024-09-08 20:12:24 | 日本でニャー2024
友人からパワーアンプLXA-OT3を半永久的に借用させてもらった。(それはいただいたのでは?)

音は、こんなに小さなデジタルアンプなのに十分満足できるものだった。活断層ハウスにはプリアンプが無いのでDVDプレーヤーダイレクト接続しているが、このアンプの仕様から考えてこれでも良さそう。でも、家に帰ったら例の中華真空管プリアンプに接続してみる。

今の状態でちょっとだけ気になるのはもしかするとチャンネルセパレーションが少し劣るのでは?ということ。なぜなら音像が多少中央に集まっている気がするのと、音の背景が微妙にざわつく気がしないではない。無音ではちゃんと無音なのだが、音が出ている時に感じる背景が・・・ サンスイやマランツのプリメインアンプと比較して聞いているから気になるだけかもしれない。はっきりとわからないが、そんな気がする。でも、これでダメということは全くない。きちんと音が出ているし、スピーカーを切り替えて聞いてもちゃんとスピーカーの個性が出ていて、ラジカセとかカーステレオの安い感じは全くない。

とりあえず、家に持ち帰ってセレっションに繋いでみよう。それで悪くなければ特に改造まではしないつもり。でもケースには入れてやろう。100円ショップで適当なのを調達してね。



アンプとともにソファとトーテムポールもやってきた。ソファは大きくてこの場所には入らないかと考えていたが入った。ここに自分でソファ代わりのものを作るつもりだったがこれでOKということにする。

トーテムポールは玄関にでも固定しよう。入って良いかどうか、トーテムポール内の電灯の点灯でわかるように。ただ、電球の交換が難しい。裏のガラス蓋を開ける方法がわからない。後でよく見てみる。

隈研吾は悪人だからあんな建築をするのか?

2024-09-07 21:56:16 | 日本でニャー2024

活断層ハウスに来ている。世にも珍しい商店街の先に見える富士に日が沈む、つまりダイヤモンド富士を見に来た。アナウンスしたのに来たのは自分以外にたった1人。ガッカリだ。こんな富士と夕陽、他のどこで見られるっていうんだい?! まあ、今日は山頂のみ雲がかかって見られなかったけどさ。

仕方ない。



たまには建築のこと。
Xである建築家であり建築関係のジャーナリスト?のようなことをされている方が隈研吾氏の建築についていろいろ言い始めた。というのは隈作品は外壁や屋根上などに木材を使用しているものが多いが、先日そのうちの1つの公共建築物で木造がボロボロになっていて改修費用が高額という報道が出たのがきっかけだ。



ただ、その建物は28年経過していてそこまでにメンテナンスされていなかったらしい。それを設計責任とするかメンテナンスを怠った結果とするかはいろいろ考えなければならないが、上の画像のように「被害」のように言っている。

ちなみに税務会計法上の耐用年数は22年。つまり22年経過すれば(家屋の場合)固定資産税はゼロで無価値扱いになる。(実売買ではそうではない) また、国土交通省の木造住宅期待耐用年数(住宅)は最長100年だが、骨組みや基礎軸組の木材が適切に保たれていて長期優良住宅でメンテナンスが行き届いていればという注釈付でのこと。

つまり、これを被害のように言う根拠というのは無いと考えられる。住宅メーカーのセールスマンならもう価値が無いので建て替えてくださいと提案してくる建物と言える。

まあ、そういうわけなので隈研吾氏の設計を一方的に悪扱いするのはどうなのか? (自分は隈研吾建築が好きで擁護するわけではない。特に氏のファンでもないし、作品が好きというのでもない)

ここまでは前置きとして・・・


我々はこうしてある物事を基にその行為者(人間)を批判することに何とも思わない習慣がある。事でなく、人をターゲットにする。

仮に、隈研吾氏の作品の耐久性が他の建築家のそれと比較して極端に低いとした場合、隈氏はわざとそうしているだろうか?メンテナンス収入を余計に得たくて発注した自治体の議員と結託して耐久性の劣る設計をしただろうか?それとも何か他の意図や悪意あってのことだろうか? それなら確かに人を批判するのはあり得るだろうが、たぶんそんなことはない。

つまり氏の設計方法に問題があるとすれば、批判されるべきは氏本人でなくて設計の手法の方のはずだ。この違いは小さくはない。もし人を批判してしまうとそこに議論は発生しないからだ。「隈さん、あなたの作る空間は見事だが、建築物として考えた場合耐久性が悪すぎませんか?」というのと「これは隈研吾による被害だ」というのでは違う。「あいつはバカだ」と言ったら相手が「はい、すみません。私は確かにバカです」とでも言わなければ次の話にはならないが、そんなことがあるわけはない。

そもそも建築というのは、作品を作る行為ではあるが、その行為は過去から数ある建築作品の議論の中に自らの作品を投入して議論に参加するということだ。その議論を拒否した時、それは建築という行為なのか?建築というやり方と言えるのか?ということでもある。

建築に限らず、一般社会の中で「あいつ、バカ」と言ってそこから相手との間に何か産まれることはない。あいつはなんとか派だ、あいつはリベラルでこいつは保守だとか右翼だ。そんな分類をすることは多いが、それは相手との話をしないという決意表明過ぎない。相手を取り残したまま自分だけが正しい、永久に。自らの考えを覆すことはないし、誰かがたまに良いことを言っても無視して自分はこれ以上学ばないという宣言だ。

そんなやり方の何が面白いのだろうか? 人間として議論せずにいて自分だけが正しくあり続けるというのは正しいやり方なのか?

世の中に問題はたくさんあるけど、それって本当に問題なの?

2024-09-06 20:06:32 | 日本でニャー2024
Xを見ていると、世の中には多くの問題があってそれに対して怒っている人がたくさんいる。その問題は多岐に渡っていて多くの他人が共感できるものやほんの些細なことで受け流されるだけのことといろいろだ。いずれにせよ世の中は何らかの、そして種々のレベルで問題だらけのようだ。

しかしながら、そうした状況を見て思うのは何か一つでも問題は解決しているのだろうか?ということ。見る限りにおいて解決はほとんどしていない。もちろん明確に犯罪があるなどで犯人逮捕となればそれは一つの解決ではあるが、そんな明確な解決はあまりない。

なぜなら法律で裁ける種類の問題は少しだけであって、ほとんどはAさん側が自分を正しいと思っているがBさん側はそうでなくて自分を正しいと思っているからだ。もしかするとAさんはBさんが言っている正しさも問題も気にしていなくて問題ではないということもある。

まあ、皆さん問題を自分の中に抱えることはするが解決策も同時に頭の中に思い浮かべてしまってそれが他の誰の解決策にもならないというのは普通にある。会社である人が「これは問題だ!」と叫んだところで周りは皆シーンとして「じゃ、次の議題に行こう」となるとそれは問題じゃない。問題じゃないから解決する必要もない。終わり、だ。そういう経験は仕事でもしていると皆あると思う。残念ながらそういうことばかり。世の中だって同じ。

つまり、「問題」というのは解決策が本当にあることだけだ。それ以外は問題と言って良いものではない。

でも、こう言うと釈然としないと思う。そういう時は少しよく考えてみる必要がある。もし自分が問題だと思うことを解決しなかった場合どうなるだろう?放っておいて何年か過ぎたとしてどうだろう?気にしなかったらどうだろう?自然と問題が消えていくことは考えられないだろうか?他にも似たようなことを問題と言っている人がいて、その人は解決できているだろうか?まあ、繰り返し繰り返し、世の中にはいろいろあって決定打はないとすぐにわかる。その結果がXなのだ。


そしてもう一つ言えるのは、問題の相手が物分かりが悪いとか理解力がないと思えた時、自分はどう対処するかだ。Xでよくあるように罵り合いをするならば絶対に相手は自分の間違いを認めることはない。ちょっと前に都知事選に出たI氏は自分が正しいとずっと言い続けて戦った。言っていることは合理的なものであったにせよ、戦うという方法で相手はどうなったかだ。「はい、私が間違ってました。改めます」とは言わなかった。正しいことを言ってさえいれば、というのはとても独りよがりで解決策の一部にはならないとわかる。犬がワンワンと怒って吠えた時に自分もワンワンと吠えたら解決にはならない。自分は犬じゃなくてその上の立場に立って相対する時に初めてどうにかなる。そのためには酔っ払った時のように前頭葉の働きを減衰させて感情的なっていては無理だ。自分は別のレイヤーに退避して体勢を整えなければいけない。

まあ、多少訓練が必要だろけれど。

コスパ良くてもかけるコストが低いと得られるパフォーマンスは・・・あれだよね

2024-09-05 19:05:03 | 日本でニャー2024
日本では「コスパ」という言葉がしばらく前から流行っていたらしい。snsなんかではよく聞く。というか、家に籠っていることが多いので「コスパ」という言葉を口から出して言っている人と会うことがないのだが。それはまあ、いいけど。

コスパというのは昔からある言葉のコストパフォーマンスの略語だとか。

意味はわかるのだが、その「パフォーマンス」の部分がどれだけパフォーマンスなのか?と思ってよく見ると、うーん??? まあね、確かに価格に対してあれだね、量とか質とか普通より良いかもしれない。でも、驚くほど、わざわざ言うほどでもないよね、というのが多々ある。

うちなんか、無収入家庭だからコスパを求めてどうこうするとすればスーパーに行ったときに出ている見切り品買うとかなわけ。つまり、かけるコストを最低限にするからパフォーマンスにもかなり限りがある。5万円で売っているステーキ用の肉が100円の見切り品になっているわけなくて、せいぜい100円なら元値200円の半額って程度。200円の肉が感動的に美味いわけないからすぐ食べちゃうならお得だね、程度。

うちと同じでお金無い人ほどコスパなわけだけど、コスパねぇ・・・って思うわけ。

1年間節約、節約、節約してお金貯めて、年に1回だけ10年とか20年とか修行した職人さんが作る料理を食べる方がパフォーマンス良い気がするよ。

日本では幸運は歩いて来ない。だから自分から

2024-09-04 17:58:11 | 日本でニャー2024

先日近所でいただいた鈴虫がよく鳴く。ありがとうね、鈴虫。

今日はきなこの3ヶ月毎のノミの薬の日。


半年ぶりに関西に移った元同じ会社にいたHさんに電話してみた。声が元気そうで良かったがいろいろあったようだった。コロナ感染で知らぬ間に意識を失って倒れていたのを弁当の配達の人に助けられたとか、ホクロと思っていたのが皮膚癌だったとか。いずれにせよ今日元気に話せるようにまでなっていたのは幸運だったと言える。弁当配達の人が素通りしていたらそのまま死んでいたかもしれないし、皮膚癌がたまたま小さなうちに発見されなければ、これはよくわからないが進行の速い癌らしいから大変なことになっていたかと思う。

先日も書いたが、生命が助かるラッキーはあるが、健康診断その他のラッキーを自ら引き寄せる方法もある。これを読んだ人はぜひ引き寄せる行動をして欲しい。毎朝の同じ時刻にFacebookに何か一言書いていて、書かな買ったらおかしいと思って見に来てもらうみたいなこともできるし、玄関灯を同じ時刻に毎日消すとか点けるとかだけでも良い。とりあえず誰かに異変がわかることなら何でも良いのだ。

こういう事って、自分でどうにかしなければいけない。弁当屋さんに発見されたり自分で電話したりすればその先には公的サービスという助け船があるけれど、公的サービスはほとんどの場合あちらからやって来ない。自分でそこまで泳がないと乗れない船だ。ゴミの回収はやってくれるけれどゴミ捨て場まで持って行かないと回収されないのと一緒。高額医療費の補助その他、ほとんどのことはこちらから使わせてと言いに行く必要がある。それができるかどうかで幸運に到達できるかどうかが決まる。

役所はこれだけコンピュータやAIが発達して便利になってきていても、いまだに公務員さんたちの仕事の大半は机の上に置かれる。高齢化が進んでカウンターに行けない人が増えてもまだまだそのあたりは変わっていない。デスクワーク中心から外回りに重心が移動するのを期待したいが、いつのことか・・・

停電があって誰かが怪我して誰かが助ける。それだけのこと

2024-09-03 17:12:39 | 日本でニャー2024
思いもよらないことってのがあるものだ。

深夜2時頃に停電があったが、3時過ぎに救急車が来て近くに停まった。停電が原因で近所の方が家の中で転んでしまい呼んだそうだ。

高齢の方が二人で住んでいる家なのでもう一方の方が救急車で一緒に病院へ行かなければならない。その方、最近ちょっと心の病の傾向がある。救急車に乗るのに上半身裸のままで良いと言う。そうもいかないので家に戻って自分のTシャツを着てもらう。

救急隊の方には自分の電話番号をメモしてもらって病院のスタッフに伝えてもらい、もし助けが必要ならかけてもらうようにしてもらった。もし一人で帰宅となった場合、自動車で1時間の距離、あまり利用しない交通手段で帰れるのだろうか?と不安に思う。迎えに行くくらいのことならお安いご用なにだが。


その後一度あちらの携帯電話から電話が来てすぐに切れた。電波が悪いのかと思い何度かかけ直すが繋がらない。いる場所は病院だから本当に用があればどうにかするだろうと待っていたが連絡が無い。病院にかけると診療中とのことで伝言をお願いする。

さらに待てど暮らせど連絡なし。まあ、子供ではないのだし、どうにかするだろうと半ば諦めていたところ午後遅くになって玄関のベルが鳴る。救急車に同乗した方が電車バスを乗り継いで帰ってきたのだった。携帯電話の電池切れだったそうだ。怪我した方の方は明日に手術で3日程度で退院できるとのこと。

消息がわかったのでこの後は病院に行く、帰るなど必要な時に呼んでもらうことにしよう。



人にはいろいろな事情がある。高齢で足腰が悪いままに誰からの補助援助もなく住まわれている方にもそれなりの事情があるだろう。こうした場合家族親戚が面倒をみるのが当たり前のように言う人もいる。でも果たしてそれが全てだろうか?当人たちの事情も去ることながら、我々は血縁や地域のしがらみが嫌でそれに煩わされないような社会を作ってきたはずだ。それが緊急時だけ、そして他人の手を煩わす可能性のあと時だけ血縁に頼れというのは矛盾ではないだろうか?また、そうでなければ公的サービスやお金を使って頼める私的サービスを使うのが筋というのも言う。資本主義について文句を言いつつその発想から一歩も抜け出さないでいるぞという頑固な決意表明に過ぎないのではないだろうか?

いったい、我々は今後どんな社会を望むんっか? 自分に金銭的余裕があったり、血縁上の問題が無いように見えたりする時だけ都合良くああすべき、こうすべきと言うのはどんなものだろう。

自分は他人を少し助けたからと言って「良い人」なんかではないし、来世やあの世のことを心配して功徳を積んだりはしない。まして聖人になろうなんて思わない。ただ、思うのはお金(私的なものと税金と)で解決できないことの隙間、溝というのがどんどんと拡大していくだろう。そこで個々人がどう動くのが人間らしいかを考えなければならないのと、今までのように誰かの要請に従ってやっていれば済む(と思っていた)くだらない社会を変えたいだけだ。

自民党総裁選で出てくる30年前の課題とは

2024-09-02 21:53:52 | 日本でニャー2024
自民党総裁選なんかどうでも良いのだけれど、「解雇規制緩和」と聞くとちょっとそそられる。鬼太郎の髪の毛ピン。


賛成か反対かと皆さんに聞くとごく若い世代は賛成する人もけっこういるとか。でもそれ以降は反対が多そう。流動性勝手に高められるより安定雇用、安定した給料ってことだろう。だって、家買う時のローンは普通30年超えだし。30代で良いとこにマンションでも買うとローン払い終わるのは定年の頃。それまでに売値が上がればラッキーだけど普通は「官製」無価値化があるから家は消耗品扱いで買った人貧乏化システムになっている。

さらには、転職して別の会社に行くと都会から田舎の小学校に転校して来た子供みたいになって、なかなか元からある仲間システムの一員になれないというのが絶対ある。仲間になれないだけならまだしも、昇進も昇給もできない。だって単純に長くいることにメリットのあるシステムになっているから。金銭面でも絶望的。

だからきっと被雇用者は反対が多いと思う。

死んだ母、父が周囲との折り合いが悪くて転職して昇進は無くなったし給料も上がらなかったので子供には学校の先生とか公務員になりなさい的なことを言った。あまり強くは言わなかったが、気持ちはそうだった。時々「子供には好きなように」って親がいるけれど、音楽とかスポーツとか特別なスキルがなければ一生浮きあげれない貧乏人になれと言うのと同じだ。日本ではね。


前置きが長くなったが、自分は解雇規制緩和に賛成の立場だ。

これはもう30年前だけれど、我々(自分の世代と同僚たち)は安全に転職できる世の中を本当に望んでいた。いくら景気が上がっていても会社に雇用されているとそのメリットなんて何も無かった。(バブル時期もそうだ) 自分が勉強したり仕事中で何か一所懸命やってスキル身につけても転職すると必ず給料は落ちると決まっていたし、転職先のシステムは途中入社の人間には開かれてはいない。アホ上司に当たってしまって腐って転職しようものならどんな有能な人間でもほぼ転落となる。

そのあとすぐに小泉内閣ができていろいろ変えた。我々はそれを歓迎した。多少の痛みはあるとわかっていた。だって全部いっぺんに良い方向に変わるってはずはないから。でも、すぐに失意は来た。小泉首相が去った後で、自民党のジジイたちは全てを巻き戻そうと躍起になった。そして改革は中途半端になった。

今、小泉竹中批判は一般的に言われる。あいつらが壊したのだと。でも、それは全くの誤解だ。(何も問題が無かったとは言ってない) あの先もっと整備していろいろ変えなければならなかったのをダメにしたのはその後の自民党だ。雇用流動性させたらそれを受け入れる場所ややり方を作る必要があるし、学び直す時間経済的猶予は作らなければならない。でも、それを止めたのだ。既得権者に良い顔して元に戻そうとしかしなかったから。あの後、誰も改革を推し進めようなんてしなかった。だから今でも転職は安全ではないのだ。

小泉竹中批判は対象が間違っている。その後引き継いだあの男とその周辺にその批判は向けられるべきなのだ。(死んだけど) 推し進めなかったから今またこうして流動化とか言ってる。あの時に済ませていれば今、それは問題になってないはず。


そして2000年代のその頃、自分は台湾にいた。日本の会社に雇用というか委託だったけど。ある時、台湾の人の聞かれた。「もう今の仕事何年になるの?」その頃で5年ほど経っていたと思う。それを言うと「なんでずっとやってるの?」と驚かれた。

台湾では同じ会社に3年超えていると昇進して偉くなっていなければよほどの無能と思われるのだ。だから台湾人たちはコピーソフト屋で汎用ビジネスアプリケーションのCD-ROMを買って自分のパソコンに入れてスキルをせっせと身につける。ゲームソフトとかオフィスソフトばかりじゃない、普通に買えば何万円とかするビジネスソフトだ。

そして転職して給料が倍になっていたりも普通にあるし、給料が良ければ大陸中国にも平気で渡っていた。それが彼ら「個人として」の目的意識に適うやり方だった。驚いたよ。


他人にアドバイスするって大丈夫なことなの?

2024-09-01 20:59:53 | 日本でニャー2024
昨日のように建築のことを割と真面目に書いてもほとんど誰も興味を持たない。一般の人は建築論がどうだろうと税金の無駄遣いの方が大問題だろうし、自分の家については通勤圏、コンビニ近、LDKしか大切なことと考えない。そんなものだ。山本理顕が誰だかなんて知る由もないから氏が何を言おうと知ったこっちゃない。

まあいいや、そんなものだ。


以下、建築とは全く関係ない話。



ほとんどの人は自分が合理的に何かを判断していると思っているだろう。そうだよね? たぶんその信念が崩れたら大変なことになる。まあ、それはそういうものだ。

ただ、日常でよくあるのが「アドバイス」という行為。

これ、自分が合理的に考えていると思わなければできない。「それはこうすると良いよ」「すべきだよ」断定的に言わないときもあるけど、要は「そんなのはこうするのが当たり前」的なこと。

こういうようなことを言ってくれるのは、その行為自体はとてもありがたい。でも、内容は・・・あまり・・・。だって、誰にも反対できないような一般論として正しいことだから。その何が問題かというと、ディテールにおいて誰も理論物理学の仮想空間のような理想的な状況にはいないわけだし、もう一つは時間(時点)の問題もある。

それだけで、外から見てあの人はこうしたら良いのにねとか言ってもほとんど余計なお世話だ。

さらにもう一つあって、ある人が(近)未来に今とは違う在り方を考えていたら、今現在は少し無理がかかるにせよ理想を実現する行動になるかもしれない。そういうのも放っておいてあげるのが良いはず。こちらにわからないけれどトライアルだから。自由だから。


逆に、アドバイスする側の方が思考のパラメータが少ないとも言える。まあ、一般にそうで、きっと少ない。簡単に思い浮かぶアドバイスなんてするのはだいたい言う側は悩んだりするほど考えてない。そして相手が成功しようと失敗しようと他人事だから学ぶこともない。

まあ正しい意見なんて思いついちゃったら自らを見直してみるべきだよね。考えてないんだから。

大阪・関西万博で建築家は敗退したのか?それとも敗退していたのか?

2024-08-31 21:12:15 | 日本でニャー2024
今日は大阪・関西万博の話題。(建築を主に)

とりあえずこの動画を観ていただきたいが、長いので下に概要メモを書いてある。
また、最初に言っておくと、自分は万博反対派でも賛成派でもない。・・・なかった。なぜなら興味が無かったから。この動画は建築仲間から紹介していただいて観た。



(更新)
スーパーザックリ要点
1) 万博開催、メンバー選定、各段階での意思決定プロセスが何も公表されておらず、また350億円の予算についても根拠が開示されていない。
2) 建設に適していない場所で行われているせい等で建設不可能、遅延、撤退が発生しているが、場所決定もプロセスが開示されていない。
3) 建築家が建築を行う考え方がおかしい。本来は原理を明らかにしそこから全てが発生するべきであるし、建築には批評性があるべきだが、見た目だけ他者参照して(パクリ)いるように見える。(リング)
4) 建築家の仕事は役所と住民の調停役でもあるが、そうした意識の無いままに建築が行われている。前記の決定プロセス不明瞭なままであることと併せて独裁的(2重の意味で)になっている懸念。しかも指揮者に責任感が無い無責任。


上記を大きく2つに分けて言うと
a) 維新の中で適当に物事を決められる体制であったことと、そもそも以前から日本の政治制度(慣習)がおかしいのが東京オリンピック含めて陰を落としている。市民の意見が政治もこうしたイベント開催にも反映されない「独裁」政治の様相。
b) 建築家が見た目の良いものを作るだけを目指すようになっている。(これは建築のあり方の議論) こうなったのは世代性や徒弟制度的であった建築界のあり様が変わってしまったことによる。


ここからは感想(番号は上の番号とは無関係)
1) 万博自体に何の興味も無かったので政治とその周辺での決定プロセスはノーマークだったが、オリンピックやそれ以外の多くの事案(例えば原発問題、高速道路や各種施設建設、制度他)に関して昔から何処かの料亭で決定されているというのは変わっていないと考える。たまたま今回は維新であっただけ。今の具体的な政治家のせいとも言えるが、それを許してきた我々のせいでもあるはず。
2) 建築論に関しては建築勉強すればここであげられたのと同様のことは勉強するが、結局議論しないとただの知識、それも使われない知識にしかならない。建築家になりたいと言っても建築家という職業は無く建築士となるだけだし、建築士になるには徒弟制度も議論も不要なので知識は知識のままになってしまうのは必然性があると考える。
3) 建築家は徒弟制度からしか生まれないと言うならば徒弟制度を一般のものとして普及させる努力は行われるべきだっただろうが、若手を育てる他のやり方が無かったかなどもこの時代の前に誰かが考えておくべきだったはず。すると問題はこの万博だけのことではないだろう。
4) 建築には批評性があるべきというのは一般にそうだし、正しいと考える。(天才除くかもしれない)けれど、閉じた国内で小さな家屋を建てることで生計を成り立たせなければ(つまり建築家でなくて建築士)ならない者は批評性を捨ててLDKでやらなければならないと想像する。大先輩、先輩建築家飲み歩いたり殴り合いする輪に入れないなら国際コンペにどんどん出すことでもしないと批評に耐えられるデザインはできないかもしれない。けれど現実には資格取り学位取りの場以上のものでは無いのでは?


5) このシンポジウムの議論と万博内の個別デザインの議論は分離すべきではないだろうか?森山氏は日経の記事(つまり建設前中の断片情報)だけ元にして批判しているが、理解せぬままに言うのはどうかと思う。
6) シンポジウムと言ってもこちらも居酒屋での話から始まったようなもの。なのでこの動画だけ観ているのは情報の非対称性を増加させることになり、また分断を促進する危険も含む。安藤忠雄なども読んで議論する形の方が好ましいが、無理だろう。


7)(各論)建築というのは原理、根源のようなものを探し出すこととそれを適用して表現するというのはわかる。日本の建築にそうした姿勢が希薄というのもわかる。ただ、日本で行う建築に西洋の根源を適用すべきかどうかというのもあり、そうでないとした場合に日本における根源とは何かという議論がどれだけ深まっているか?というとここは手薄ではないだろうか?公共建築物だから神社の構造を適用するような安易な発想は建築全体での議論の薄さの現れとは言えないだろうか?(LDKの方が手っ取り早くお金になる国でで何ができる?)


建築家の敗退も万博の迷走も歴史の必然のようにも思える。



追記
実はこれに先立って、例の石を吊った休憩所の件に関して別のところに書いた。こちらは万博全体についてではなく、しかも石吊りの構造にも触れず、ただ外見上のデザインについてのもの。建築は総合的なものなので、構造その他と体験分離して評価することも可能だから。


犬のお伊勢参り おかげ犬 を現代に再現できるか?

2024-08-30 20:16:38 | 日本でニャー2024
お伊勢参りというものにこれまで全く興味がなく行ったこともなかったけれど、面白いことがあったのだなと最近知った。
それはこれ↓

人の代わりに犬がお伊勢参りする「おかげ犬」だ。代わりにといっても、犬がどうやって江戸から伊勢まで行けるのか?と思ったら、同じ伊勢参りの人やたぶん同方向へ行く旅人がリレーで引き受けて連れて行って、お参りさせて帰っても行く。中には単独で行った犬もあるようなことだが、ただただ驚くばかり。

中には行方不明になって帰れなかった犬もいたかもしれないが、流行ったというのだから成功率は納得できる程度あったのだろうと想像できる。

もし、この現代が明治維新を経ず江戸幕府自動の延長で今でも多くの人がお伊勢参りする習慣が残っていたらどうだろう?今でもおかげ犬は残っていただろうか?

新幹線におかげ犬用チケットや座席が確保され、犬トイレ、犬用車内販売といろいろあっただろうか?宿泊施設も小さな犬単独部屋があって犬朝食セットで予約でき、犬用大風呂敷や足湯のサービス・・・だったらかなり楽しい世の中だったかも。

ところで、今おかげ犬をやるとしたらどうする?

いきなり江戸時代ふうにできるわけはないから、Xなどで情報をリレーしながら次々と犬の受け渡しをしていくようなやり方が現実的では?

もしうちに犬がいればぜひやってみたいところ。(犬がOKしてくれるかどうかは別)

退院した (入院day08)

2024-08-29 21:17:19 | 癌になる
午前8時半、向かいのベッドの方が手術のための病室を出て行った。簡単に挨拶をしてお互い少し笑顔で別れた。

9時、キャサリンさんが来たのでまとめておいた荷物を休憩所に全て持って行った。少し待つと会計の方が来て計算書を渡してくれた。3割負担分で約63万円。
(念の為書いておくが、高額医療補助とか活用できる制度は知っているのでご心配なく。全額クレジットにしたのはポイントがつくから)

まずは支払い窓口へ降りて支払い完了。再度休憩室に戻ると退院後の説明を担当してくれた看護師さんから聞いた。簡単なものだった。それと病理検査の結果が出る日を聞いて、その日に外来の予約が入る。9月半ばだ。

10時少し過ぎ、荷物とともに街へ出る。駅は遠くない。地元にない珍しい物を売る店に寄ったが買う物なく、それより雨が心配になって電車乗った。電車とバスで約1時間の後に家に到着。ミニバラがよく咲いていたし、暑さで弱っていた花も復活していた。やはり水道水より雨水が植物には合うのだろう。




snsに退院報告するといつものメンバーがたくさんのお祝いメッセージを入れてくれた。活断層ハウスの街は大雨で倒木で道が塞がったところも出たそうだ。心配してもここからできることは無いが。


この子のところにワクチンが届かなかったというだけで治療困難な病気にかかってしまったそうだ。こうならないようにするのは非常に簡単だ。これまで通りワクチンを届けておけば済んだ。それをするにはあいつが悪いこいつが悪いという言い争いを止めれば良いだけだ。そんな争いとこの子を助けるのとではどちらが人間として正しい行動なのか?どの神様が正しかろうが、どの言い分が正しかろうが、そんなことと子供のために行動するのとどちらが優先で人間のすべきことなのか?

そんなことを短い英文にしてFacebookに書いておいた。Facebookは自動翻訳もあるしもしかしたらどこかで戦地に繋がっているかもしれない。