ずっと以前に、作品を発表した時、
(それは私にとって大きなイベントでした)
こんなに世間の評価は世知辛いのかと
痛い思いをしたことがあります。
自分が思ったように世間は自分やその作品を評価してくれませんし、
評価といえば、すわ、批判だったりしました。
あるいは無関心。
その結果、私はオロオロするばかりでした。
世間の世知辛さなどという表現から解放され、
まあ、小さな石でも投げ込めたから
良かったと思えたのは、
ずいぶん経ってからでした。
できなかったことばかりにとらわれて
できたことを肯定できなかった。
失敗が人生の糧だと肯定できなかった。
まあ、若かったわけです。
石を投げ込めば波紋ができます。
その波紋が 明日の半歩にでもなったら
それで良いではないですか。
激しい風に揺れる稲田を見ながら、
回想。
それがなかなか……、ポジティブばかりにはいかないけれど ね。
(それは私にとって大きなイベントでした)
こんなに世間の評価は世知辛いのかと
痛い思いをしたことがあります。
自分が思ったように世間は自分やその作品を評価してくれませんし、
評価といえば、すわ、批判だったりしました。
あるいは無関心。
その結果、私はオロオロするばかりでした。
世間の世知辛さなどという表現から解放され、
まあ、小さな石でも投げ込めたから
良かったと思えたのは、
ずいぶん経ってからでした。
できなかったことばかりにとらわれて
できたことを肯定できなかった。
失敗が人生の糧だと肯定できなかった。
まあ、若かったわけです。
石を投げ込めば波紋ができます。
その波紋が 明日の半歩にでもなったら
それで良いではないですか。
激しい風に揺れる稲田を見ながら、
回想。
それがなかなか……、ポジティブばかりにはいかないけれど ね。
むなしさや無力感。
波紋が明日の一歩ですか。
なんかこの記事、僕に言われてるみたいに感じます。
「みらい」でのシンポジウムに参加してきました。
3人の大先生たちや編集者の話は悲観的でつまらなかったけど・・「BAT TRIP」は凄かった。
写真と言葉の力に一筋の光が見えたような作品でした。
ヒヨさんはどう思いましたか?
なんとなくヒヨさんと話がしたい気持ちになりました。
その時は、伝えたくて必死でした。でも、表現過程の葛藤以上に、表現後の葛藤の方が大きい、そんな体験でした。自分なりに練って練って、そこに至ったつもりでしたが、まだまだ未熟でした。
その後、人口に膾炙するような甘言に走る自分と、やっぱり辛辣を旨としようとする自分の葛藤が待っていました。そのように考えた末に、わかったことは、伝えようと思うことを、伝わる形で表現しなければ駄目だ、ということです。
二つの方向性がありました。
一つは、全部詳らかに示すやり方。結論はこれだと、相手が納得するようにくみ上げてしまうということです。たとえば、原爆絵図とか……。
もう一つは、余韻としてなにかが伝わる、というやり方です。なにか心に引っかかるような、そういうくみ上げ方です。そうですね、ちょうど、オオムラサキがボロボロの羽で飛んでいる、あの写真のような感じ。
その両方があるのもいいですね。コウモリを取り巻く生態全体を映し出そうとした組写真。michiさんのブナの林もかな? 結局、全体性と部分の関わりをどこまで表現できるかが、伝達の上では重要なのかと わたし自身は考えています。
あまりに部分に固着すれば、全体が暗く見えなくなりますし、森ばかりを照らせば木が見えない、そういう感じでしょうか。その両方が見えることで、余情が生まれるかもしれないと……。
偉そうに書きましたけれども、私が体験したのは写真や絵画の芸術分野のことではありません。けれども、共通するものとして、伝えることと伝わることはいつも相反する「なにか」を生み出してしまいます。そのことを大切にしたいと感じます。
相反する価値、意図通りに伝わらなかったこと、それを体験して、私には初めて見えてくるものがありました。その時は、たいへんシビアな感情にさいなまされましたが……。無関心も反応、それも波紋でしょうか。
自分が石を投げ込まなければ生まれ得なかったことを、まずは肯定したいと思います。投げれば波紋ができ、波紋が届く岸辺も、揺り返してくる波もあります。それが、わかるのに、私は多大な時間を使いました。
いやはや、偉そうなことを延々とかき立ててしまいました。ご精読、ありがとうございました?