ヒヨちゃんが行く!

松本市在住「大平滋子」の写真と詩のブログ

真実

2010-06-30 | アート
日曜美術館で、タマラ・ド・レンピッカが取り上げられていました。
時代の寵児にして、時代に見捨てられた亡命ロシア人女流画家です。

時代の寵児になるためには、
時代の匂いをかぎ、最先端のモードを発信していく、
そういう力が必要です。
彼女は時代の寵児になるべくして生まれた美貌と
表現力がありました。
けれども、社会の要請に応える形での作品発表はやがて壁にぶち当たります。

売れない画家になった彼女は
暗い面持ちの尼を描きました。
ファッショナブルな、最先端モードとは正反対の絵でした。

その絵を指し示して、
美輪明宏さんが、「真実」に向き合ったと表現されました。
自分にとっての「真実」と。
印象に残ったので、ここに記してみました。

森の中

2010-06-29 | アート
木々が茂って
森が暗くなりました。

あの新緑の美しさを求めたくて、
あちらこちらの梢を物色するのですが、
透明な緑には もう会えなくなりました。

仕方がありませんので、
遊んでみました。
また、妄想の時間ですね。
小さな、新緑の森ができあがったでしょうか。
素直なワンショットです。
撮影後、軽く色補正しましたけれど……。

五感と時間

2010-06-28 | アート
アドビ君の反抗期に手を焼きながら、
(完全に機嫌を取っている状態)
文句が増えたとブツブツ。

磨りガラス越しのバラの、
もう散り終わりそうな勢いの、
濁った色に浮かぶ、
ピンク色。

日が昇り、日が暮れて、
七変化しながら、
その存在を指し示しています。

移ろうことを 愛おしむには、
移ろうことを 我が身に引き寄せる時間がいりそうです。
それは、何気ない日常を 豊かにする兆しのようで、
目をやり、耳を澄まし、嗅ぎ、味わい、触感を楽しむ、
五感の時間のようにも感じられる昨今です。

たいへんだ!

2010-06-27 | ざれごと日記
PC君の不調……、
どうやら解放するしかないみたいです。
ぷっつり 更新が途絶えたら、PCのメンテナンス中と思って下さい。

で、雨の最中のイチョウの葉です。
不透明な葉も少しだけ柔らかくうつりました。

そうそう、水滴で思い出したのですが、
雨滴におこだわりの人の話を聞きました。
水面に落ちた雨滴を撮りたいと、
1000枚撮影したと、
そんなお話しです。
デジカメだからできる芸当のような……。
その手の話の現場は白鳥の撮影でも見ました。
私がワンショットずつ撮影している横で、
300枚撮ったとか、
150枚とか、
連写のものすごい音。
ひとりふたりじゃないんですもの、白鳥の湖。
もっとも、写真なのかビデオなのか、
その手もあるのですね。

私も撮りすぎの傾向があっていけませんけれど、
死ぬほどの連写はしたくないかも。
白鳥さんだってビックリだし、
雨音だって聞こえない。
なんてね、まずはその人のがんばりを褒めるべきなのでしょうけれど?

あ、たいへん。
PCを何とかしなくては……。

お祝い

2010-06-26 | アート
小さなお祝いの
小さな喜びを
小さな記録として
小さく心に結ぶ

小さな暮らしの
小さな結び目は
小さな記憶として
小さく心に刻まれる

小さなことの
小さきままに
小さな笑顔が
小さくあふれ出す

小さなお祝い

理屈と意思と

2010-06-25 | アート
少なからず思想的なものに興味があります。
若い時から読んできたつもりでした。
ところが、このところのディスカッションで、
芸術に関する思想とか区分などについて
全くの不理解であることを知りました。
タームや背景についての知識もなければ、
論争の焦点になっている思想そのものの知識もありません。

そのうち、口答えをする娘の真っ黄色なクチバシにズサズサ刺され、
その理屈に辟易しました。
彼女はいっぱしの芸術論(?)を持っていて、
自分の志向と相反するものに容赦がありません。
母の不勉強や見識の狭さ、
どこにでも理屈のつけようがあるのでしょう。
油断ならぬ目で、耳で、臭覚で、嘴を入れるチャンスをうかがいます。
知識とタームが増えるたびに、
彼女の論理は先鋭になるのですが、
だんだん、こちらにも耐性ができまして、
聞き流してみたり、かわしてみたり、褒め殺してみたり、
「面倒」を上手く回避する心が根付いてしまいました。

仕方がありません。
芸術がなんであるのかを私はわかりません。
芸術が目指す先も「漠」としています。
芸術の範疇も曖昧です。
芸術のスピリチャルな孤高性なんて言われても
全くのハテナです。

芸術をしようと思って芸術をしているのではなくて、
もっと単純な気がします。
「生まれてきてしまった」ぐらいの。

ただし、それを人が芸術であると述べ、
商業主義だと述べ、
その部分で私は大きくぶれているのだと感じています。
あるカテゴリーのなかに区分される自分。
それを推し量ろうとして苦しかったのですね、きっと。
このところのディスカッションで 少しだけ気持ちの整理ができました。

理屈と膏薬(芸術論)はどこにでもつく。
作りたいという意思は私の中にある。
ただし、それはあふれ出るものである。

以上!
ディスカッション、大いにお待ちしています。

雨の中

2010-06-23 | アート
雨の中、ちょっと写真を撮りに出かけました。
玄関から10メートル以内。
ちょっとお庭の薔薇を撮ったり、
ちょっと雑草を撮ったり、
石を撮ったり、
いろいろ。
雨上がりとも、曇天とも まったく違った色の庭。
違って見えることにワクワクした時間でした。

ちょっと違うこと、
それを伝えたくて、
花も石も雨も、
それぞれ表現者になっているのでしょうか。
(昨日の記事には、表現に関わる貴重なコメントを賜りました。嬉しく思いました)

客はバカじゃない!

2010-06-22 | アート
秋の展示(アート・クラフト・フェスティバル in 安曇野)の
打ち合わせ電話を頂きました。

で、のっけから、「客はバカじゃない!」と、
おしかりの言葉。
客の反応、
また来たいと思わせるなにか、
リピーターはいるのかね。

絶句……。

自己満足に終わるのか、
感覚共有の輪が広がるのか、
仲良しグループの仲良し褒めあい会に終わるのか、
それ以上のなにかがあるのか。

客の反応を見て学びなさいと……。

厳しい世界です。

綺麗ということ

2010-06-21 | アート
養老孟司ではありませんが、
私は脳内派で、イメージ先行の傾向があるようです。
綺麗と言えないものも好きと言うことです。

一方で、
綺麗も好きです。
好きなのですが、難しいですね。

綺麗とは 「見知った世界の、見知らぬ姿だ」と、
ある農業研究者が述べていました。
本来だったら原生林のある、
その傾斜地が百合の花であふれている。
知っているけれども、知らない世界。
ある種の幻想を伴った、世界。

あるいは、母の曰く、
「あなたのまわりの素直な景色」
「あなたが知っているけれど、私の知らない素敵なもの」
それをプレゼントされるから、綺麗なのだと。

仕方がないので、普通の風景写真やら、
綺麗と呼ばれそうな花の写真も撮るようになりました。
みんな身近なものばかり。
できるだけ見たままを切り取って、
時々、手紙にしています。

「綺麗、綺麗」と喜ぶ声の無邪気さに、
求められていることに応えることが
もしや、綺麗の「かたち」かと 不可思議な気分になるのでした。