大倉草紙

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【東京・港区】 尾崎紅葉生誕の地

2010年09月20日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区芝大門2-7)
「港区指定文化財
 旧跡 尾崎紅葉生誕の地
 『金色夜叉』などの小説で有名な作家、尾崎紅葉(本名徳太郎)は、慶応三年(一八六七)十二月十六日、芝中門前二丁目二十五番地(現在港区芝大門二丁目七番四号)にあった首尾稲荷社のそばの家で、伊勢屋こと牙彫(けぼ)り師の尾崎谷斎(惣蔵)の長男として生まれました。四歳のとき母を失い、芝神明町八番地(現在港区浜松町一丁目十八番十四号)母の実家荒木家に養われることになるまでこの地に住みました。
 十七歳の時、日本最初の文学団体『硯友社』を結成して近代文学の先駆けとなり、十八歳の夏からは増上寺境内の紅葉山からとって紅葉山人と号しました。明治三十六年(一九〇三)十月三十日没。三十五歳。小説集には『芝肴(しばざかな)』の題をつけ、また『男心は増上寺』と題する短編もあり、終生出身地の気風をよく現わした人物でした。墓も港区の青山墓地にあります。
   囀(さえず)りの下に小さき祠かな  紅葉
 昭和五十七年十月三十日指定  港区教育委員会」(案内板より)

この白い建物は何だろう?と思って回り込んでみると、案内板に記されていた「首尾稲荷社」だった。


首尾稲荷社


芝公園方面へ向かう。
青空に東京タワーが映えている。
えらく暑いなあ……そしてこの後、私は熱中症でダウンしたのであった。

【東京・港区】 赤坂氷川山車巡行

2010年09月19日 21時00分00秒 | 祭り・催し
赤坂氷川祭の山車巡行を見に行った。
昨日は、氷川神社を14時に出発し、六本木通りを溜池方面へ進み、外堀通りの手前を左に折れて赤坂見附の駅付近まで行って、終点は赤坂サカス、というコース。
今日は、赤坂サカスを14時に出発し、赤坂通りを乃木坂方面へ進み、外苑東通りに出て六本木方面へ。東京ミッドタウンの脇の坂を下り、氷川神社へ戻ってくる、というコース。


赤坂通り。
出発したばかりの山車の先頭が見えてくる。


沿道は、祭りにしては人がまばら。
でも、龍馬さんも見に来ている。






こちらの山車は、「翁二人立」(赤坂新二会)。


「翁」の能を演じる千歳とそれを指導している翁の二つの人形がのっている。




こちらの山車は、「猩々(しょうじょう)」(赤坂表一二町会)。


明治時代に活躍した九代目市川團十郎が「猩々」を舞っている姿。
幕は、勝海舟の文字を刺繡したものだというが、刺繡ではなく、本当に墨で書いているように見える。




先がギリシャ文字のプシー(Ψ)みたいになった長い竹竿を持った人たちが動き回っている。
電線を持ち上げて、山車が引っかからないようにしているのだ。


「氷川神社祭禮番付」
かつては、神社の宮神輿を13台の山車が警固しながら巡行していたそうだ。
しかし、戦災や震災で山車は姿を消してしまった。
赤坂氷川山車の修復維持を目的としたNPO法人「赤坂氷川山車保存会」が、平成19年に1台、20年にもう1台を修復し、現在2台の巡行が復活したということだ。

【東京・港区】 赤坂氷川祭

2010年09月18日 21時30分00秒 | 祭り・催し

赤坂氷川祭に行ってみた。


神社の近づくにつれ、太鼓の音が大きくなってくる。


境内では、盆踊りが催されていた。


昭和30年代の写真が展示されている。
高い建物はなく、瓦葺きの小さな商店が連なる赤坂通り。
今からは全く想像もつかない風景だ。


出店も並んでいる。
ホッピーや赤坂有職や菊乃井の出店もある。


菊乃井の出店


菊乃井で、日本蕎麦を使った「和やきそば」を買ってみる。
九条葱と油揚げと豚肉が入っている。
なかなか美味しい。

【東京・港区】 万延元年遣米使節記念碑

2010年09月17日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区芝公園)
「西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使う村垣淡路守範正の詠にいう、
   竹芝の浦波遠くこぎ出でて
      世に珍しき舟出なりけり
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。
   1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会」(碑文より)

【東京・港区】 ペルリ提督の像

2010年09月16日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


(東京都港区芝公園)
昭和27年(1952)に催された日本開国百年記念祭に際し、ペリーの生誕地・ロードアイランド州ニューポート市から親善のために贈られた像なのだそうだ。


近付くとこんな感じ。
うーん、よく見るペルリ(ペリー)の顔とは違うなあ。
ペリーといえば、この顔↓だよなあ。

【東京・港区】 落語『首提灯』にちなんだ常夜灯

2010年09月15日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


増上寺の山門前の通りには、このような常夜灯が置かれている。
江戸時代、このあたりは暗がりだったらしい。
次のような説明があった。
「落語『首提灯』
江戸時代、芝山内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語『首提灯』の舞台となりました。侍とけんかした職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかずそのまま首を提灯代にして、火事見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。」(案内板より)

【東京・港区】 乃木希典特別遺品展 (乃木神社宝物殿)

2010年09月14日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
9月12日(日)

旧乃木邸が公開された9月12日と13日、乃木神社の宝物殿では、乃木希典の特別遺品展が開かれていた。


骨董市も開かれていた。


自刃当日の朝に撮影した写真


自刃直前の別盃に用いた葡萄酒の空瓶。
この葡萄酒は恩賜品と言われている。


乃木将軍御殉死の刀と静子夫人御殉死の短刀


展示室の様子


乃木将軍遺言
「遺言條々
第一
自分此度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候然る処明治十年役に於いて軍旗を失ひ其後死処得度心掛候も其機を得ず皇恩の厚に浴し今日迄過分の御優遇を蒙り追々老衰最早御役に立の時も無余日候折柄此度の御大変何共恐入候次第茲に覚悟相定め候事に候
第二
両典戦死の後は先輩諸氏親友諸彦よりも毎々懇諭有之候得共養子弊害は古来の議論有之目前乃木大兄の如き例他にも不尠特に華族の御優遇相蒙り居実子ならば致方も無之候得共却て汚名を残す様の憂へ無之為天理に背きたる事は致す間敷事に候祖先の墳墓の守護は血縁の有之限りは其者共の気を付可申事に候乃ち新坂邸は其為め区又は市に寄付し可然方法願度候
第三
資財分与の儀は別紙の通り相認め置き其他は静子より相談可仕候
第四
遺物分配の儀は自分軍職上の副官たりし諸氏へは時計メートル眼鏡馬具刀剣 等軍人用品の内にて見計ひ儀塚田大佐に御依頼申置候大佐は前後両度の戦役にも尽力不尠静子承知の次第御相談可被成候其他は皆々裁談に任せ申候
第五
御下賜品(各殿下よりの分も)御紋付の諸品は悉皆取纏め学習院へ寄附可然此儀は松井猪谷両氏へも依頼仕置き候
第六
書籍類は学習院採用相成る分は可成寄附其余は長府図書館へ同断不用の分は兎も角もに候
第七
父君祖父曾祖父君の遺書類は乃木家の歴史とも云ふべきものなる故厳に取纏め真に不用の分を除き佐々木侯爵家又佐々木神社へ永久無限に御預申度候
第八
遊就館は出品は其儘寄附致し可申乃木の家の記念には保存無此上良法に候
第九
静子儀追々老境に入り石林は不便の地病気等の節心細との儀尤もに存候家は集作に譲り中野の家に住居可然同意候中野の地所家屋は静子其時の考に任せ候
第十
此方死骸の儀は石黒男爵へ相願置候間可然医学校へ寄附可致墓下には毛髪爪歯(義歯共)を入れて充分に候静子承知
恩賜を領けと書きたる金時計は玉木正之に遣はし候筈なり軍服以外の服装にて持つを禁じ度候

右の外細事は静子へ申付置候御相談被下度候 伯爵乃木家は静子生存中は名義可有之候得共呉々も断絶の目的を遂げ度大切なり右遺言如此候也

 大正元年九月十二日夜 希典

湯地定基殿
大舘集作殿
玉木正之殿
  静子どの」


美しい絵燈籠がたくさん奉納されていた。


どれもこれも凝っている。


著名人が奉納したものもある。
これは児玉清さんが奉納した絵燈籠。


黒沢年雄さんが奉納した絵燈籠。


中井貴恵さんが奉納した絵燈籠。


柳家小さんさんが奉納した絵燈籠。


愛川欽也さんが奉納した絵燈籠。


毒蝮三太夫さんが奉納した絵燈籠。

【東京・港区】 今日は乃木希典の命日だから旧乃木邸屋内を。

2010年09月13日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
9月13日は、乃木希典の命日。
毎年、命日とその前日の12日に限って、旧乃木邸(東京都港区赤坂8-11-32)の屋内が公開される。
そこで、昨日、見に行ってみた。


表門

建物は、地階と一階と二階から成る。
一階に繋がる表玄関からではなく、地階に繋がる内玄関から入った。
地階の床面積は50.97坪(168.2㎡)。
内玄関を入って左手に書生部屋、正面の広間の向こうには台所と調理場、右手には調度品置き場、茶の間、納戸、女中部屋、浴室、便所があり、地階のほぼ中央部分に階段がある。

書生部屋に置いてある愛用の火鉢


台所

一階の床面積は48.35坪(159.56㎡)。
大応接室、小応接室、書斎兼来賓食堂、次室、大将居室、夫人居室、夫人化粧室、便所がある。

大応接室
手前の黒い椅子は、ステッセル将軍使用のもの。


左が勝典中尉戦死当時着用軍服、右が保典少尉戦死当時着用軍服。


大将常用机


書斎兼来賓食堂


乃木大将御手製盆栽


故大将之居室


殉死の室


乃木将軍自刃の図(佐藤紫雲画伯)の写真


血痕付着畳表


血染めの衣装


故夫人之居室


夫人愛用のシンガーミシン

二階の床面積は22坪(72.60㎡)。
二令息居室と書庫があるが、階段の老朽化のため、公開されていなかった。


旧乃木邸公開記念のスタンプ

旧乃木邸の庭の様子はこちら

【東京・港区】 平和の女神像

2010年09月12日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


東京都港区役所前に建つ「平和の女神」像(北村西望作)。
「あの悲惨な戦争が終結してから長い年月を経て、ややもすると薄れつつある記憶―私たちはその事実を歴史の中にうずめてしまうことはできません。港区では恒久平和の願いをこめて昭和60年8月15日、『港区平和都市宣言』を行いました。
 平和を願う港区民の心の結晶として、『平和の女神』像をここに設けます。
  昭和62年3月  東京都港区」

【東京・港区】 浅岡飯たきの井

2010年09月11日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
8月4日(水)


「『浅岡飯たきの井』の由来
 江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
 万治三年(一六六〇年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる。
 昭和六十二年(一九八七年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。
   東京都港区」(案内板より)


現在、井戸の中はこんなふうになっている。