5月4日(月)
当日の行程:(車) → 【投入堂(三徳山三佛寺)】 → 【三朝温泉たまわりの湯】 → 【鳥取二十世紀梨記念館】 → 【藤まつり(住雲寺)】 → 【門脇家住宅】 → 【法華寺畑遺跡・伯耆国分寺跡・伯耆国府跡 国庁跡】 → (倉吉泊)
カーナビに「国分寺跡」と表示された。
気になるものを見つけた時は、たいてい立ち寄ってみる。
「史跡伯耆国府跡案内図」があったので、これをたよりに回ってみた。
【法華寺畑遺跡】
「この遺跡は、古代の伯耆国(鳥取県の中・西部地区)の政治の中心であった伯耆国庁に関連する役所跡と推定しています。敷地は一五〇メートル四方の大きさで、まわりには溝と板塀をめぐらして四つの門があります。南門を入ると広場があり、この北側に中心となる三棟の建物があり、西北隅を除いて各隅に付属の建物を配置しています。国分寺とおなじ頃につくられ、十世紀頃まで使われていたようですが、ほかに類例がなく、どのような役所だったかはわかっていません。ただ、平安時代の記録や地名からは、伯耆国分尼寺であった可能性もあります。
昭和四六年に国分寺関連の発掘調査でみつかり、遺跡の重要性から、伯耆国庁跡とともに昭和六十年に国の史跡に指定されました。」(案内板より)
四脚門
「四脚門は古代から建てられていますが、現存する建物は中世以降(13世紀以降)のものです。法華寺畑遺跡は8世紀中頃から10世紀頃まで使われていたので、四脚門の復元は、奈良・平安時代の他の形の門や建物、絵巻物を参考にしました。
柱の太さや形は、発掘調査で出土した柱穴を基にし、高さは柱穴と柱穴との幅などを基にして決めました。材料は奈良時代の建物を参考に栗や松材などを使用し、釘などの金物も当時の形態に合わせています。
また、柱や板など木材の加工も当時使用されていたとされる「槍鉋(やりがんな)」で仕上げており、表面の仕上がりに荒い感じがあります。」(説明板より)
【伯耆国分寺跡】
「史跡 伯耆国分寺跡
所 在 地 倉吉市国府及び国分寺
指定年月日 昭和四九年三月一二日
整備年月日 昭和五六年三月二〇日
国分寺は、奈良時代の天平一三年(七四一)、聖武天皇の国分寺建立の詔によって、当時六九カ国(現在の県のような行政区画)に分かれていた国ごとに建てられた寺院である。国家の平安を祈るためにつくられた国分寺には、僧寺と尼寺の二つがあり、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と呼んだ。
伯耆国分寺跡は、古くから瓦・礎石などによって、その存在を知られていたが、昭和四五年からはじまった発掘調査で、より明確となった。寺域(寺院の範囲)は、東西一八一・九メートル(六〇〇尺)・南北一六〇(五二八尺)あり、周囲には土塁と溝がめぐっている。
本尊仏を安置する金堂や、僧侶が仏法を講じ、法会を行う講堂などの中心建物は、寺域の西寄りにあり、塔は金堂東南の離れた位置にある。しかし回廊・中門・僧房などの位置や規模についてはまだわかっていない。
なお、伯耆国分尼寺跡(推定)は国分寺の北東約五〇メートルのところにある。そして、記録によると、平安時代の天暦二年(九四八)に、両寺とも焼失し、その後には、再建されることもなかったようである。 倉吉市教育委員会」(案内板より)
講堂跡
金堂跡
東方建物跡
回廊跡
塔跡
【伯耆国府跡 国庁跡】
「史跡 伯耆国府跡 国庁跡
国指定史跡
平成十二年九月六日指定
倉吉市の西方に広がる丘陵地の東端に、国司が政務を司った国庁跡、それに関連する官衛(役所)である法華寺畑遺跡・不入岡遺跡、国の華ともいわれる国分寺跡が近接して所在します。
国庁跡・法華寺畑遺跡は平成12年に不入岡遺跡を加え史跡『伯耆国府跡』と名称が変更されました。
このあたりは、古代からの景観がよく保存されており、古代の地方行政のあり方を示す資料として貴重な地域です。
国庁跡は、東西273m・南北227mの規模で、儀式などをおこなう内郭(政庁域)と実務をおこなう外郭(官衛域)からなり、東辺にはさらに東西15m・南北149mの張り出し部が設けられます。内郭には南門・前殿・正殿・後殿などを規則的に配置し、外郭には北側と西側で建物群が確認されています。
8世紀後半に造営され、10世紀代まで存在したと考えられます。その間4期の変遷があり、Ⅲ期(9世紀中ごろ)には掘立柱建物から礎石建物へ建て替えられています。 文部科学省 倉吉市教育委員会」(案内板より)
この日は倉吉に宿泊。
倉吉は、白壁土蔵群・赤瓦で有名。
カエルや「ひとまちいぬ」もいる。
のんびりしていて良い町だ。
当日の行程:(車) → 【投入堂(三徳山三佛寺)】 → 【三朝温泉たまわりの湯】 → 【鳥取二十世紀梨記念館】 → 【藤まつり(住雲寺)】 → 【門脇家住宅】 → 【法華寺畑遺跡・伯耆国分寺跡・伯耆国府跡 国庁跡】 → (倉吉泊)
カーナビに「国分寺跡」と表示された。
気になるものを見つけた時は、たいてい立ち寄ってみる。
「史跡伯耆国府跡案内図」があったので、これをたよりに回ってみた。
【法華寺畑遺跡】
「この遺跡は、古代の伯耆国(鳥取県の中・西部地区)の政治の中心であった伯耆国庁に関連する役所跡と推定しています。敷地は一五〇メートル四方の大きさで、まわりには溝と板塀をめぐらして四つの門があります。南門を入ると広場があり、この北側に中心となる三棟の建物があり、西北隅を除いて各隅に付属の建物を配置しています。国分寺とおなじ頃につくられ、十世紀頃まで使われていたようですが、ほかに類例がなく、どのような役所だったかはわかっていません。ただ、平安時代の記録や地名からは、伯耆国分尼寺であった可能性もあります。
昭和四六年に国分寺関連の発掘調査でみつかり、遺跡の重要性から、伯耆国庁跡とともに昭和六十年に国の史跡に指定されました。」(案内板より)
四脚門
「四脚門は古代から建てられていますが、現存する建物は中世以降(13世紀以降)のものです。法華寺畑遺跡は8世紀中頃から10世紀頃まで使われていたので、四脚門の復元は、奈良・平安時代の他の形の門や建物、絵巻物を参考にしました。
柱の太さや形は、発掘調査で出土した柱穴を基にし、高さは柱穴と柱穴との幅などを基にして決めました。材料は奈良時代の建物を参考に栗や松材などを使用し、釘などの金物も当時の形態に合わせています。
また、柱や板など木材の加工も当時使用されていたとされる「槍鉋(やりがんな)」で仕上げており、表面の仕上がりに荒い感じがあります。」(説明板より)
【伯耆国分寺跡】
「史跡 伯耆国分寺跡
所 在 地 倉吉市国府及び国分寺
指定年月日 昭和四九年三月一二日
整備年月日 昭和五六年三月二〇日
国分寺は、奈良時代の天平一三年(七四一)、聖武天皇の国分寺建立の詔によって、当時六九カ国(現在の県のような行政区画)に分かれていた国ごとに建てられた寺院である。国家の平安を祈るためにつくられた国分寺には、僧寺と尼寺の二つがあり、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と呼んだ。
伯耆国分寺跡は、古くから瓦・礎石などによって、その存在を知られていたが、昭和四五年からはじまった発掘調査で、より明確となった。寺域(寺院の範囲)は、東西一八一・九メートル(六〇〇尺)・南北一六〇(五二八尺)あり、周囲には土塁と溝がめぐっている。
本尊仏を安置する金堂や、僧侶が仏法を講じ、法会を行う講堂などの中心建物は、寺域の西寄りにあり、塔は金堂東南の離れた位置にある。しかし回廊・中門・僧房などの位置や規模についてはまだわかっていない。
なお、伯耆国分尼寺跡(推定)は国分寺の北東約五〇メートルのところにある。そして、記録によると、平安時代の天暦二年(九四八)に、両寺とも焼失し、その後には、再建されることもなかったようである。 倉吉市教育委員会」(案内板より)
講堂跡
金堂跡
東方建物跡
回廊跡
塔跡
【伯耆国府跡 国庁跡】
「史跡 伯耆国府跡 国庁跡
国指定史跡
平成十二年九月六日指定
倉吉市の西方に広がる丘陵地の東端に、国司が政務を司った国庁跡、それに関連する官衛(役所)である法華寺畑遺跡・不入岡遺跡、国の華ともいわれる国分寺跡が近接して所在します。
国庁跡・法華寺畑遺跡は平成12年に不入岡遺跡を加え史跡『伯耆国府跡』と名称が変更されました。
このあたりは、古代からの景観がよく保存されており、古代の地方行政のあり方を示す資料として貴重な地域です。
国庁跡は、東西273m・南北227mの規模で、儀式などをおこなう内郭(政庁域)と実務をおこなう外郭(官衛域)からなり、東辺にはさらに東西15m・南北149mの張り出し部が設けられます。内郭には南門・前殿・正殿・後殿などを規則的に配置し、外郭には北側と西側で建物群が確認されています。
8世紀後半に造営され、10世紀代まで存在したと考えられます。その間4期の変遷があり、Ⅲ期(9世紀中ごろ)には掘立柱建物から礎石建物へ建て替えられています。 文部科学省 倉吉市教育委員会」(案内板より)
この日は倉吉に宿泊。
倉吉は、白壁土蔵群・赤瓦で有名。
カエルや「ひとまちいぬ」もいる。
のんびりしていて良い町だ。