12月30日(火)
当日の行程:(車)→ 【鳥取砂丘】 → 【鳥取城跡】 → 【城崎(温泉寺・一の湯)】 → 【智恩寺】 → 【天橋立】 → 【元伊勢籠神社】
鳥取城は、天文年間(1532-1554)に因幡守護・山名誠通が築城したといわれているが定かではない。
1580(天正8)年、羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めの時に、城主・山名豊国は降伏したために家臣に追放され、代わって毛利方の石見福光城主・吉川経家が入城するが、間もなく秀吉の「鳥取城の渇殺」で開城し、経家は自刃する。
この頃の城郭は、久松山(きゅうしょうざん)の上にある山上ノ丸と西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられていた。
関ケ原の戦いの後は、戦功のあった池田長吉が入り、山麓部に天球丸、二ノ丸、三ノ丸が増築された。
その後は、池田光政が城下町を整備。
領地替えで岡山の池田光仲を迎え、12代続いた時に明治維新となる。
久松公園入口から城跡を巡る。
北ノ御門跡
西坂下御門
仁風閣
西坂下御門から、仁風閣が見える。
仁風閣は、明治40年(1907)の嘉仁皇太子殿下(のちの大正天皇)山陰地方行啓にあわせて建てられた。
宿舎として使用されたらしい。
「仁風閣」は、東郷平八郎の命名。
二ノ丸の三階櫓石垣
三階櫓跡
二ノ丸跡
鳥取城山下ノ丸のほぼ中央部。
池田長吉父子、光政、光仲、綱清、吉泰ら藩主の居館があった場所。
菱櫓跡
天球丸を望む
天球丸は、修築工事中。
近くまで行くと、下のような感じ。
天球丸井戸跡
天球丸跡
天球丸三層櫓跡
表御門跡
こちらの鳥居をくぐって山頂へ。
頂上までは0.8キロメートル。
約30分かかる。
結構キツイ。
山上ノ丸(二ノ丸)跡
本丸跡
車井戸
池田長吉が場内大改築の際に掘ったといわれる。
天主櫓跡
天主櫓跡からの風景
千代川が流れているのが見える。
久松山の標高は263メートル。
遠くに鳥取砂丘もかすかに見える。
太鼓門櫓跡より天球丸の石垣を望む
下りは、三ノ丸跡である鳥取西高校のほうへ。
太鼓門櫓跡は、高校の目の前にある。
太鼓御門石垣
中ノ御門跡
右手に見えるのが、鳥取西高校。
久松山
手前に見えるのが大手橋、橋を渡ったところが中ノ御門跡。
頂まで登るのはくたびれたなあ、と山を仰ぐ。
堀端には、吉川経家公像が建っている。
当日の行程:(車)→ 【鳥取砂丘】 → 【鳥取城跡】 → 【城崎(温泉寺・一の湯)】 → 【智恩寺】 → 【天橋立】 → 【元伊勢籠神社】
鳥取城は、天文年間(1532-1554)に因幡守護・山名誠通が築城したといわれているが定かではない。
1580(天正8)年、羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めの時に、城主・山名豊国は降伏したために家臣に追放され、代わって毛利方の石見福光城主・吉川経家が入城するが、間もなく秀吉の「鳥取城の渇殺」で開城し、経家は自刃する。
この頃の城郭は、久松山(きゅうしょうざん)の上にある山上ノ丸と西方に延びる急峻な尾根を中心に設けられていた。
関ケ原の戦いの後は、戦功のあった池田長吉が入り、山麓部に天球丸、二ノ丸、三ノ丸が増築された。
その後は、池田光政が城下町を整備。
領地替えで岡山の池田光仲を迎え、12代続いた時に明治維新となる。
久松公園入口から城跡を巡る。
北ノ御門跡
西坂下御門
仁風閣
西坂下御門から、仁風閣が見える。
仁風閣は、明治40年(1907)の嘉仁皇太子殿下(のちの大正天皇)山陰地方行啓にあわせて建てられた。
宿舎として使用されたらしい。
「仁風閣」は、東郷平八郎の命名。
二ノ丸の三階櫓石垣
三階櫓跡
二ノ丸跡
鳥取城山下ノ丸のほぼ中央部。
池田長吉父子、光政、光仲、綱清、吉泰ら藩主の居館があった場所。
菱櫓跡
天球丸を望む
天球丸は、修築工事中。
近くまで行くと、下のような感じ。
天球丸井戸跡
天球丸跡
天球丸三層櫓跡
表御門跡
こちらの鳥居をくぐって山頂へ。
頂上までは0.8キロメートル。
約30分かかる。
結構キツイ。
山上ノ丸(二ノ丸)跡
本丸跡
車井戸
池田長吉が場内大改築の際に掘ったといわれる。
天主櫓跡
天主櫓跡からの風景
千代川が流れているのが見える。
久松山の標高は263メートル。
遠くに鳥取砂丘もかすかに見える。
太鼓門櫓跡より天球丸の石垣を望む
下りは、三ノ丸跡である鳥取西高校のほうへ。
太鼓門櫓跡は、高校の目の前にある。
太鼓御門石垣
中ノ御門跡
右手に見えるのが、鳥取西高校。
久松山
手前に見えるのが大手橋、橋を渡ったところが中ノ御門跡。
頂まで登るのはくたびれたなあ、と山を仰ぐ。
堀端には、吉川経家公像が建っている。