大倉草紙

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【鳥取】 大山

2009年05月09日 20時00分00秒 | 旅 - 鳥取県
5月5日(火)
当日の行程:(車) → 【大山(大神山神社奥宮・大山寺)】【生野代官所跡】 → 【生野義挙跡】 → 【掛屋】 → 【山田顕義終焉之地】 → (朝来泊)


年末に鳥取を旅したときに、雪を被った大山を見た。
凛とした佇まいに心惹かれた。
大山は山岳信仰の聖地として知られる。
かつては、年に一度だけ、役僧が祭事を執り行うために登る以外は登頂することは禁じられていたのだそうだ。
夏山登山道を通って山頂を目指す。
この道は大正9年(1920)にできたというから、『暗夜行路』が書かれた頃は、大山を登るということは、今よりも神秘的な行為であったのだろうと想像する。


頂上までは2.6キロメートル。
8時8分に出発。


登山口付近は、緑が多い。


すぐに右手に見えるのは、大山寺阿弥陀堂(重要文化財)。


五合目にある山の神。
以前はここに遥拝所があり、登山者は日の出を拝み、登山の安全を祈ったという。


六合目非難小屋


六合目から上には、雪が残っていた。
気温もだいぶ低く感じる。


こんな道や、雪でぬかるんでいる道も。


ダイセンキャラボクに囲まれた木道に出たら、山頂まではあとわずか。


頂上小屋


大山頂上1710.6メートル。
10時ちょうどに到着した。
山頂は、靄でかすんでいる。
気温は低く、上着を一枚増やす。
山頂付近の風景を何枚か。








下りは、行者谷を通るコースで。
緑が多く、道は整備されていて歩きやすい。
だから油断したのか、この写真を撮ったすぐ後に、足を挫いてしまう。
痛くてすぐに立ち上がれない。
靴下を脱ぐと、足首が腫れている。
同じ道を通って下山する方々に大変お世話になった。
湿布を下さった方、杖を貸して下さったガイドの方、暖かい言葉をかけてくださった方、とてもありがたかった。
幸い自力で歩くことができ、そしてお世話になった方々に下山途中で再び会ってお礼を申し上げることができた。


ここまで下りてきたら、次に目指す大神山神社奥宮はすぐ。


山頂とは全く違う風景。
足が痛いけれど、気持ちがいい。


【大神山神社奥宮】

大神山神社奥宮の御朱印


大神山神社奥宮社殿(重要文化財)
現在の社殿は、文化2年(1805)建立。
国内最大の権現造りだという。


摂社・下山神社(重要文化財)


神門(裏側)


神門(表側)
神門は、表裏が反対になっているので「後向き門」といわれているそうだ。
閂が外側についている。


明神鳥居

大神山神社奥宮の参道は、自然石が敷きつめられている。
その長さは約700メートル。
国内最長だという。
大神山神社奥宮から大山寺の間には、どちらの敷地に属するのか定かではないが、次のような碑などがある。


和合の岩


暗夜行路ゆかりの地の碑
志賀直哉は、大正3年(1914)7月、大山にある宿坊蓮浄院に滞在していたそうだ。


佐々木高綱の等身地蔵
「宇治川の先陣争い以来の功によって、建久四年(一一九三)山陰道七ヶ国の守護として赴任の途中大病にかかり、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治したので、等身の地蔵を寄進したと伝えられるが、寛政八年(一七九六)焼失し、嘉永元年(一八四八)田中氏により石で再建されたものである。」
(案内板より)


信濃坊源盛の碑
「名和長年公の弟にして大山寺の別当であった源盛は、元弘三年、兄長年公が後醍醐帝を船上山に奉じた際、僧兵数十名をひきつれて長年公の義挙に加わり各地を転戦し、肥後八代で正平十三年五十七歳で戦死されたが、後年その功により宮家御下賜金をもってこの碑が建立された。」
(案内板より)


【大山寺】

山門
大山寺は、奈良時代養老年間(717~723年)に俊方(金蓮)によって開かれたといわれる。
西日本の天台宗の一大拠点である。


護摩堂


開運鐘


本堂


大山寺の御朱印

無事(?)に下山して一安心。
感謝。


「大山まきばみるくの里」に寄って、ヨーグルトと牛乳を味わう。
こんなに牛乳っておいしいんだ、と感動。
ソフトクリームを食べてみたかったけれど、すごい行列なので諦める。
お土産を買ってから、生野方面へ移動。


当日の歩数:22,247歩

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