社伝によれば、垂仁天皇18年(紀元前12年)の創建だというから、玉造稲荷神社の歴史は長い。
聖徳太子は、仏教受容問題で物部守屋と争ったとき、この地に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願したところ、枝葉が生じ、戦いは勝利に終わったとも伝わる。
今日は、お昼を奮発した。
雪がちらつく大坂城を眺めながら食事を楽しんだ後、玉造稲荷神社へ足を運んだ。
拝殿
拝殿には、おみくじがあり、運試しにひいてみた。
「吉」と出る。
嬉しい。
利休井
千利休は玉造稲荷神社の南側に屋敷を構えていたという。
利休屋敷には「利休井」がり、「玉造清水」という良質の水脈を茶の湯に用いていたそうだ。
拝殿に向かって左手にあるこの「利休井」は、同じ水脈である利休ゆかりの井戸とのこと。
社殿に向かって右手には、「恋キツネ」という名の絵馬がかかっている。
2匹のキツネがハート型を作っている。
夫婦銀杏
豊臣家奉納鳥居(慶長8年〔1603〕3月)
境内には、豊臣家奉納鳥居がある。
平成7年(1995)年の阪神・淡路大震災で基礎が損傷し、このような形で保存することになったそうだ。
約400年も建っていたのだから、何でも見てきたのだろう。
石製鳥居としては、大阪では、四天王寺正門の鳥居に次いで古いものだという。
秀頼公胞衣塚(よなづか)大明神
文禄2年(1593)、豊臣秀頼が誕生したとき、胞衣(えな・「よな」とも。胎盤、胎児を包んでいる膜など)を埋めたのが大坂城三の丸に当たる玉造の地であったのだという。
子の悩みや夜泣きに霊験あらたかだとか。
玉造稲荷神社の御朱印
玉造稲荷神社は、豊臣時代~徳川時代には大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と呼ばれていた。
現在の社名は、この地が、古代、玉作岡といって、曲玉作りに従事する者たちの集団居住地であったことに由来する。
御朱印にも、「鎮座 玉作岡」とある。