回覧板

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表現の現在―ささいに見える問題から⑧ (同音異義から)

2015年12月12日 | 回覧板

 言葉の表現において、語音の同音による表現技法は、平安期の「掛詞」があり、またお笑いの「ダジャレ」がある。外国語の事情はわからないけれど、日本語には他の言語より同音異義語が多いという文章を読んだことがある。書き言葉の場合は、漢字かな交じり文として書き分けるから誤解は少ないけれど、話し言葉では、前後の言葉のつながりから判断しているのが現状である。

 おそらくこの列島の太古にも通じると思うが、「はは」は「母」以外をも指示する言葉であったとマリノウスキーを引きつつ吉本さんが触れたことがある。


 …では子どもにとって実の「母」や実の「父」と親族組織がひろがっていったために 「母」とは(ママ 「とか」か)「父」とか呼ばれることになる母方の兄弟(伯叔父)や姉妹(伯叔母)はおなじ呼称なのにどう区別されるのだろうか。マリノウスキーによれば、おなじ「父」 や「母」と呼ばれても、実の「父」「母」と氏族の「父」たちや「母」たちとでは感情的な抑揚や前後の関係の言いまわしによって呼び方のニュアンスがちがい、原住民はそれが実の「父」や「母」を呼んでいるのか、氏族の「父」たちや「母」たちのことか手易く知り分けることができると述べている。またこの地域の原住民の言葉(マラヨ・ポリネシアン系)には同音異義語がおおいのだが、それは民族語として語彙が貧弱なためでも、未発達で粗雑なためでもない。おおくの同音異義語は比喩の関係にあって、直喩とか暗喩とかはつまりは言語の呪術的な機能を語るものだと述べている。 わたしたちがマリノウスキーの考察に卓抜さを感じるのはこういう個所だ。たとえば「母」という言葉は、はじめはほんとの「母」にだけ使われる言葉だった。それがやがて「母」の姉妹にまで使われることになった。これは子どもの「母」の姉妹にたいする社会的な関係がほんとの「母」にたいする関係と同一になりうることを暗喩することにもなっている。そこでこのふたつの「母」を区別するために「母」という呼び方の感情的な抑揚を微妙に変えることにする。これによってほんとの「母」と、「母」の姉妹との社会的同一性とじっさいの差異を微妙にあらわし区別することになる。
 (「贈与論」『ハイ・イメージ論』 吉本隆明、
    『吉本隆明資料集115』「ハイ・イメージ論9」より 猫々堂)



 ここで、吉本さんは同音異義語の発生の歴史的な段階と事情に触れていることになる。人類の幼児期や幼年期の感性が今の私たちのどこかにしまい込まれていて、何らかの形で発現してくるのと同じように、現在の同音の表現には深い歴史性が埋め込まれていることになる。また、太古に地名は地形から名付けられたと柳田国男は明らかにしているが、現在の人の名字も地名から来ているのも多い。特定の時期や時代としての具体像としてははっきりとはイメージできないけれど、ある段階的なものの移行としてなら考えられるかもしれない。

 ある地に住んでいた場合、おそらく血縁もある同族としてのつながり意識からその土地の名を冠したのかもしれない。その中から同族を統率するような者たちが現れ、庄屋や武家層を生み出していったのかもしれない。この場合、現在の家族や個人単位の名字とは違って、同族意識や共同意識が強かったものと思われる。最初は、土地の地名=そこに住む者の名字だったのが、つまり、特定の土地と結びついた同音同語のような強い絆の共同意識だったのが、次の段階として他の地域へ移動しなくても次第に分離して地名→名字の同音異義語のような意識に移行してきたものと思う。これは、同族内の階層化の進展と対応しているかもしれない。

 同族は疾うに解体され、親族といっても薄いつながりになってしまっている現在にあっては、土地の地名とそこに住む者の名字とは完全に分離を遂げてしまっている。言いかえると、土地の地名と名字が同音異義語だったとして、そのつながりの痕跡をたどることは難しくなっている。しかし、以上イメージしたような起源的なものが、現在の同音の言葉に見えない「蒙古斑」のように記されているのは確かであろう。同音を意識した作品を上げてみる。


① カレー臭すると子どもが大歓喜
           (「万能川柳」2015年2月17日 毎日新聞)
 
 ①の註として
  その昔抱きしめた息子(こ)の加齢臭
           (「同上」2014年11月2日)
 
② 来客に夫婦のようになる夫婦
           (「同上」2014年11月4日)
③ 捨てられた猫の鳴き声泣き声に
           (「同上」2015年3月12日)
 
④ 毎日を毎日読んで半世紀
           (「同上」2015年8月20日)

 
 
 ①の作品は、どこにも何とも書いてないけれど、わたしは同音の喚起から註として付している「加齢臭」(かれいしゅう)を想起した。強いていえば「カレー臭」と表現されているからか。一般に「臭」は嫌なにおいで、「匂」は良いにおいと見なされている。また、「匂」は和製漢字で音読みはなく、視覚的なイメージを表す言葉のようである。万葉集に出てくる。読みは少し違っても、口に出して発音すると同音と見なせる。同音喚起によってこの作品にユーモアの広がりを付け加えている。「あの加齢臭と違ってさ、こちらは良い匂いなんだけど、そのカレーの匂いがすると子どもたちは大喜びするね。」といった意味になる。

 ②③④は、「夫婦」(世間的にあるべき姿としての)と「夫婦」(現実の具体的な)、「鳴き声」と「泣き声」、「毎日」(新聞)と「毎日」いずれも同音であるが、現在では明確に区別された別々の概念(あるいは指示されるもの)である。しかし、いずれの同音にも先に触れたような太古からの同音にまつわる歴史的な事情が、わたしたちの現在にも痕跡のように存在しており、それらがなんらかの感触やささいなイメージのようなものとして、現在のわたしたちにも発動してくるように思われる。ほんとうは、わたしが知りたいのはそれらの太古からの概念や意識の積み重なり方と、どこでどのように古層や中層からそれぞれ発動されて表出されるかということであるが、これは少しずつ明らかにするほかない大きなテーマである。


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