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子どもでもわかる世界論 2.言葉としての人間

2017年06月19日 | 子どもでもわかる世界論

子どもでもわかる世界論

    ―宇宙・大いなる自然・人間世界

  

 

2.言葉としての人間


 わたしたちが植物や動物と同じようにこの世界に埋もれるように生きていて、この世界についてやそこに生きる自分について考えるということができなければ、今から述べるこの世界の成り立ちとそこに生きるわたしたち人間ということは、想像すらできないことです。

 ここで人間というもののはじまりの段階を想像してみます。なぜかわたしたち人間は、「人間」と「世界」とが分離された意識を持ってしまい、「言葉」(註.1))というものを手に入れてしまいました。言いかえると、自分自身や自分の生きている世界を頭の中に思い浮かべて、あれこれ「考える」ということができるようになりました。あるいは、目の前にないものでも思い浮かべて感じ考えることができるようになりました。そして、それは外に表されることによって、人と人とがあることを伝え合ったり、ある気持ちを共有することができるようになりました。また、歌や踊りや絵などの芸術を生み出しました。あるいは、宗教のようなものや取り決め(後には「宗教」や「法」となります)や集落社会の仕組み(後には「制度」となります)を生み出してきました。また、考えたことを外に出し実行することによって、わたしたち人間が生きていく上で必要な道具や建物などを作り上げてきました。これらを別の言葉で言えば、文化やもっと大規模には人類史の一つの段階を表す文明と呼ばれるものを築き上げてきました。

 動物も言葉のようなものは持っているように見えますが、人間はそこから突き抜けて言葉というものを獲得してしまいました。このことが人間と動物との決定的な別れになりました。以上のことをひと言で言い表すならば、人間は言葉としての人間になってしまいました。

 現在のところ言葉には、話される言葉と文字によって書かれる言葉があります。わが国では、紀元後辺りから先進中国より漢字が流入してきたようです。そこからたぶん悪戦苦闘を経て中国の文字である漢字をわが国の従来からの言葉に苦労して当てはめて、万葉仮名と呼ばれる表記法を生み出します。平安時代になると、漢字から仮名を生み出し、現在の漢字仮名交じり文が形作られていきます。

 もちろんこの段階では、一部の貴族などの知識層を除く大多数の普通の人々は、それらの文字とは無縁な生活だと思われます。したがって、書かれた文字を偶然にでも目にしたら、何かとてもありがたいものでも目にするような宗教的な感情を持ったのではないかと想像します。(註.2)近世になって寺子屋で庶民の子どもに読み書きが教えられるようになったということは、近世辺りには普通の人々にも文字が普及し始めていたのだろうと推測されます。

 文字の成立は、時代的にはわが国では古代国家の時代に相当します。この文字の成立とその活用によって、文明はその土台を強化し、複雑化することが可能になったと思います。つまり、文字が文明の駆動力のひとつになったと思われます。

 ここでひとつ付け加えておけば、例えば「言葉」の獲得一つを取っても人類はとてつもない時間の中でそれを行って来たということです。近代以降は、文明の度合いというものが急上昇してきますが、それ以前はとてもゆるやかな上昇の時間だったと思われます。現在の科学技術含む様々な分野での急激な変貌の中のわたしたちのせわしない時間の感覚や意識で太古の時間を計るのはズレが出てきます。人の時間の感覚や意識も歴史の時間の中で変貌してきています。また、人間にとっての時間にはわたしたち人間ひとり一人の生涯という目下百年足らずの時間と人類の歴史としての何十万年、何百万年というとてつもなく大きな時間という二種の時間があります。さらにそれらの人間世界を超えた時間というものもあります。宇宙時間とも呼ぶべきものです。しかし、いずれの時間も人間が世界を捉えるスケール(ものさし)として人間の意識や言葉が考え生み出したものです。




(註.1)
 言葉と心の関わり合いを踏まえて、表現された言葉というものを深く考察した人に吉本隆明という人がいます。次は、彼の言葉の考察(『言語にとって美とはなにか』)の基軸を本人がわかりやすく説明したものです。若い頃実験化学者でもあった著者は、科学や数学の方法を駆使して、言葉というものを自己表出と指示表出で織られた織物と見なしています。この自己表出と指示表出を言葉の基軸に置いた捉えかたは、言葉を表現しているわたしたちの日頃の実感にもかなったもので、わたしたちが言葉とは何かを考える場合のあいまいさを整序して見通しの良い視野を与えてくれるはずです。少なくとも今後100年や200年は生き残るすぐれた考え方だと思います。この言葉の捉え方の本格的な展開は、『言語にとって美とはなにか』(1965年)でなされています。



 暗記しなくてもいい国文法であり、国際的にもどこの言葉にも使える文法は作れないかといつも考えさせられた。わたしが考えた暗記不要の国文法の入口のところだけをやさしく述べてみよう。もちろん国文法だけでなく、どこの種族語、民族語にも使えるし、中学生にも専門の文法学者にも使えるはずだとおもっている。
 まず、すべての言葉は、「自己表出」と「指示表出」をタテ糸とヨコ糸として織られた織物だとみなすことにする。少し説明する。ここで「自己表出」というのをやさしく解説する。
 例えば、きれいな花が咲いているのを見て「きれいな花だ」とか「ああ、きれいだ」と思わずつぶやいたり、心のなかだけで言葉にならず感嘆したとする。もちろん大声で叫んで傍にいる人々が視線の方向を見た場合でもいい。この場合、他人に伝達するために「きれいな花だ」といったのではなく、思わずその言葉を発したり、内心にいいきかせたり、つぶやいたりしたことだけは共通で確かなことだ。言葉のもつこの側面を「自己表出」と名づける。
 「指示表出」というのはこの場合、自分だけにしかわからない場合も、傍にいる人々に花の方に視線を集めさせた場合も、自分または他人に花を指示させたことは確かである。言葉のもつこの側面を「指示表出」と呼ぶ。するとすべての言葉は「自己表出」と「指示表出」の度合いに違いがあるが、「指示」の目的が多くて「自己表出」の度合いはそれほど大きくないとか、その反対だとかということができる。
 極端に考えると、数字は「指示表出」だけ。胃が痛いのを「痛い」とおもっただけで他人には全くわからなかった場合には「自己表出」だけと考えられるかもしれない。けれどこまかく見れば「3プラス5は8」を暗算するのと、声に出すのと、ノートに記すのとは「自己表出」の度合いが違っている。胃が痛いと内心でつぶやくのと、沈黙のままでいるのとは「指示表出」の度合いが違う。だから言語はすべてこの両者の織物で、その度合いが違うだけだとみなすのが妥当だといえよう。するとすべての言葉は「自己表出」をタテ軸に「指示表出」をヨコ軸にとると次のように表すことができる。


(※ この図は、『言語にとって美とはなにか』に第4図として載せられている図とは少し違って、修正されています。)



 助詞(てにをは)の場合はどう考えるべきだろうか。例えば、

      私は掃除した。
      私が掃除した。

 この二つの文を比較してみよう。「私は」「私が」の助詞「は」と「が」はどう考えたらよいか。二つの助詞の相違はよくわかるとおもう。「私は」の場合やさしい言い方では他の人も掃除したかもしれないが、何はともあれ自分は掃除したという意味にとれる。「私が」の場合は、掃除をやったのは自分だということを特に強調した意味にとれよう。助詞「は」と「が」は品詞としてはおなじ「自己表出」の位置にありながら「指示表出」としてははっきり違う意味を与えている。
 これは助動詞の場合もおなじようなことがある。

      私は先生です。
      私は先生である。
                  
 「です」とは身分とか職業とかを明かしているだけにとれるが、「「(で)ある」の方は何となく強調の意味を含み、威張っているようにも感じられる。
  (『中学生のための社会科』第一章「言葉と情感」P51-P56 市井文学 2005年)





(註.2)

 平安時代の『古今和歌集』のひらがなを用いて書かれた序文の方の「仮名序」に、次のように書かれています。


やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり


 前半は、人の心は、日々いろんなものを見聞きすることである感情を呼び起こされて、それを言葉に表現しようとします。歌はそうやって生まれてきました。後半は、その歌の言葉は、天地(自然)を動かしたり、鬼神を感動されたり、男女の仲を取り持ったり、勇ましい武士の心をも慰める力を持っているということです。

 現代では、言葉の歌(和歌)よりも音楽の歌の方がわたしたちの心を強く揺さぶる時代になっているのかもしれません。現代ではその言葉の威力は薄れてきているとしても、歌(言葉)をそのような威力を持っているものと当時の知識層が捉えていたことは大切なことで、おそらく当時の雨乞いなどで唱えられる言葉とも地続きの意識だと考えられます。つまり、普通の人々は、知識層以上に言葉(文字)に対する宗教的なイメージや近寄りがたさを抱いたものと想像できます。


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