外国映画、たぶんアメリカ映画と思うが、観ていて気になることがある。懐中電灯の持ち方がわたしたちと違っていることである。わたしたちと同様にアメリカの映画監督や俳優もおそらくそのことに無意識なんだろう。
食事でも、欧米のナイフとフォーク、わたしたちの箸を使う、インドでは手を使う、などその摂り方の違いがある。さらに、わたしたちの箸を使うという以前は、おそらくインドのように手を使って食べていたという歴史的な推移の問題もある。しかし、食事の摂り方の違いがあっても、食事を摂るということでは人類、あるいは動物含めて、共通、普遍的である。
こういう無意識の、つまり自然な行動となっているものは、世界のどの地域の人々にもそれぞれ存在しているはずである。そしてそれらはその地域での長い生活のくり返しの中から生み出されてきたものであろう。つまり、人のどんなささいな仕草や表情でさえ、それぞれの個性という固有性を超えて、ある地域の中で長い時間にわたって織り上げられてきた固有の結晶(固有の共同性、風俗、慣習)ということができる。したがって、外国人同士に限らず、異なる地域出身の人々が出会えば、互いにささいなことにも異和感を抱くことがあるはずである。そして、相互の付き合いの中からその異和感は次第に解消していくのだと思われる。
文章においても割と無意識的な固有の慣習やその推移というものがある。現在では物語は、人間界の人と人とが関わり合う心や精神の物語が主流になってしまっているから、その自然描写の部分は、わたしたちは十分に味わうことなくおそらく無意識のように読み飛ばしているのではないか。おそらく遙か昔の人々が語りを聞くという段階では、そのような自然描写に相当するある地の描写などは聴衆はもっと切実なもの、感動を呼び起こすものとして味わっていたものと思われる。
いくさやぶれにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたうたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓もて、連錢葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいてのたる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。……」
(『平家物語』巻九 敦盛の最期)
この物語の語り手が、敦盛の戦衣装や武具や馬のおそらくすばらしさを次々に描写している思われる部分は、登場人物の熊谷次郎直實も「大将軍」の証として見つめているのだろう。おそらく当時の語りや物語においては〈貴人〉の証としてのこういう描写は必須のものだったし、観客や読者もまたその描写を必須のものと思ったに違いない。これから数百年後の、二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年頃)の出だしでも、街中に出てくる勤め人たちの長ったらしい細かな描写から作品は始まっている。こちらは〈貴人〉の描写ではないが、無意識のうちに語りの描写の伝統を踏まえてるのかもしれない。しかし、現在のわたしたちはそのような両者の描写には深くは入り込めない。言いかえると、現在では余り感動を呼び起こせない、死語のような死表現になっているからだ。わたしたちの心から流れ出すある感性やイメージがすぐに言葉の表現に結びつくわけではない。その感性やイメージが時代の先端を走るものである場合はなおさらである。表現の定型との格闘を通じて新たな表現は実現される。二葉亭四迷の『浮雲』から約30年後の大正三年に書かれた夏目漱石の『こころ』では、人と人とが関わり合うこの世界の入口から、次のようにストレートに始まっている。現在のわたしたちが読んでも抵抗がないほどの練り上げられた漱石固有の表現の位相が獲得されている。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。 (『こころ』夏目漱石 青空文庫)
こういう場面への入り方や場面の描写法という表現の歴史的な推移というものは、避けがたいものとしてある。また、こういう違いが気になるということは、病的であると見なさないならば、現在が、グローバル化した人と人との関わり合いでも、文学表現の世界でも、新たな段階に到っているということの促す現象であるのかもしれない。