昨日、名無さんが、
>阿含宗の「桐山靖雄」は念力で護摩を焚いているのではありません。手品で焚いているのです。
とのコメントを記していきました。
ん~、何ともコメントのしようがありません。
というのは、手品だという理由がないためで、桐山氏も念力の護摩は簡単にできないと述べているからですね。
まぁ、私としては1回くらいうまくできたのではないか、と思いたいところですが・・・。
よく超能力のできる人に対して、あれは手品だと非難する人、また、同じようなことを手品でみせる手品師がいたりで、結構、詐欺呼ばわりしますが、中には詐欺師もいるかもしれませんが、超能力は確かにあります。
現に、この無能な-超能力の能力はないという意味です-私でも、そのような能力のある人-そのへんにいる普通のおばさんです-から力を借りて、スプーンを曲げたことがあるので、間違いなく超能力はあります。
手品でもなんでもありません。確かに曲がるはずのないスプーンは、飴のようになり曲がりました。
ですから、そのような力は、そのへんにゴロゴロしているのではないでしょうか?
でも、そんなものはなんの役にも立たないし、スプーンの無駄。
という訳で、桐山氏の話も何とも言えないわけです。
次いでに述べておきますが、私は鮮明な心霊写真を見たことがあります。
よくテレビなどで騒いでいるような何だか分からん類のもではありませんし、1体ではなく多くの顔が写っている写真なので、レンズの反射では絶対にないという代物です。
被写体は外の花なので、人は被写体にいません。そのなかにマッチの軸より小さい人の顔が、鮮明に、10人以上写っていました。
一見してみえるものではなく、本人も気づかなかったのですが、友人に見せたところ、「あら、霊がたくさんいるわ」と言われて、虫眼鏡でみたところ、確かに・・・。
私もみせて頂いたけれど、直ぐには分かりませんでした。虫眼鏡でみると確かに沢山います。何か、”写真を撮るぞ~”ということで集まったみたいな感じで、嫌な雰囲気はありませんでした。皆、ポーズをとっており、笑える写真でした。
一応、お払いをして燃やしてもらうとのことでしたが・・・。
ということで、私の体験では、嘘だ、手品だと非難する人々が間違っていることは断言できます。
但し、手品などで人を騙そうとする人も沢山いるので、一概に誰の行為でも信じるのはマズイですが。
何でも、自分が体験できないから、信じないというのもどうでしょうか?
例えば、超能力は科学的でないという人もいますが、現に科学として研究されている事実からして、信じないという人、科学的でないという人は”自分のよって立ついい加減な科学なるもの”に依拠しているにすぎないということでしょう。
これも迷信の一つで、”科学教の迷信”といっていいでしょうね。
今日のお題とかけ離れたことを長々と書きましたが、最近、他の人のブログを見ていると、奇妙な危機感を感じます。
”何か、マズイぞ!”という感覚です。
多分、平衡感覚の欠如なのではないか、と思われるのです。
この点については、今度、取り上げてみたいと思います。
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さて、今日は休みということもあって、奇妙な題にしてみました。
まぁ、神と言っても、人間より優れた者という意味で、真の意味で神ではありませんし、創造神のことでないこともないことは断っておきます。
神なんかいないぞ~!と叫んでいるブログも、最近、目にしましたが、まぁ、好き好きですね。
一昨日、ウトウトしていると今日のお題が思いついたのですが、要は宗教団体に参加している、いないに関わらず、神に逢える基準は違うところにあるということです。
神なんかいないぞ~!と叫んでいる人でも、突然、神に逢うことはあるといえます。
多分、その基準は心、精神、霊の清純性(純粋性)ではないでしょうか?
清らかな心には神も宿るということで、あの世の神と共振するということでしょうね。
この世で生活している以上、何かと心は汚れていくもので、へたに純情な心などでいたらボロボロにされてしまいますね。
そんなことだから、そのへんの大人は、まず神に逢うことはありませんから、ご安心下さい。
小さな子供が、霊にあったり、マリアにあったりするのは、まだ、純粋性があり精神が汚れていないからであることは確かです。
私の子供も3歳ころに、変なおじさんがいるとか子供が部屋にいるとか、死んだ爺さん(私の父ですね)がいると騒いだことがあります。
無論、私には見えませんでしたが、どうも子供には見えたようです。(今はもう見えないようです。)
で、何を言いたいかといえば、宗教の基本は神に逢う、或いは如来の心に到るなどですから、例え、あなたが宗教団体に入っていようがいまいが、心霊の清らかさを獲得できたなら、あなたは神に逢う或いは如来の心に到ることは可能であるといえるのです。
ですから、そういう意味では宗教団体など無用なわけですが、人間の営みといいましょうか、なかなか一人でそうした心へ到ることは難しいわけですね。
それで、その道のベテランが導くということになるのですが、いつの間にか教団化し、ご都合主義の戒律ができ、ご都合主義の地獄と天国ができ、堕落した人間集団が”宗教”と一般に呼ばれているわけです。
この世に財産を持つなといいながら、どでかい教会やお寺を造っているのはお笑い草ですね。(←愛の命一刀斎に全て下さい! 活用します!)
結局、あなたが考えている宗教というものは、以上のようなものですから、私は団体に入信することは無駄といいたい分けです。
好きで入るぶんはかまいませんが、まず、自分の心・精神のあり方をよく自己観察することをお勧めします。
そんだこんだで、あなたの努力次第で、あなたも”神”に逢うことはできるかも知れないということですね。
お金をどんなに積んでも”神”に逢うことはありませんので、くれぐれもお間違いのないようにお願いしますね。
お金が余っているのなら、一刀斎教に”布施せんかい!”。
では、また
私の祖父は亡くなる数日前に、夢枕にパウロ二世が立ったと
言っていたそうです。
しかし、その時氏はまだご存命で「生霊かよ・・・」状態だったんですけど、キリスト教信者として育った祖父にとってはお釈迦様じゃなくてパウロ二世が死へと導く人だったんでしょうね。
私なんぞは神様仏様競馬の神様でも何でもいい人なので
死ぬ時に夢枕に立つのはなんなんだろう・・・と誰も迎えに来てくれない可能性高し!ですね。
神様を信じる信じないはその時の自分自身の気分の問題に
左右される事がほとんどですから、よい事があったら「ありがとう」とちょっと思う位でいいんじゃないかとか思うのですが
愛の命一刀斎様としてはこんなんじゃダメでしょうか?
やはり布施千回の心が大事でしょうか・・・?
意味不明ですね・・・。
昨日は仕事も休みで、ウトウトと8時過ぎまで寝ていましたら、コロポックル(本当は農家の人ですが)がきて、今年の新米を置いていきました。(ありがたやぁ~)
”おぼろづき”という新種だそうで、こしひかりを越えると評価されているお米だそうです。(メモがありました)
で、今、炊いてる最中です。低農薬米で農家から直接買っている(最近、お金払ってないですが・・・w)米です。
どんな味か楽しみですねぇ~。
昨夜は何故か寝付かれなくて、ウトウトしていると午前3時ころに異常な音が天井付近でなり、私とネコがビックリして起きてしまいました。その後、ゾクゾク感があり、マズ~イ雰囲気。
まぁ、何とかお帰り願いましたが、そういうものは感じたくありませんね。
知沙さん、こんにちは^^
コメント有難う御座います。
いいんじゃないですか?
宗教が大切なのではなくて、個々人の心のあり様が大切なんだと思いますよ。
それが、宗教の本当の本質なんだと思いますね。
布施千回=20回分の生まれ変わり予約ですよね~。毎度あり~。
そうそう、知沙さん向けに特別講座を用意する予定です。
題して、知沙さんでも分かるユダヤ教のすべて。かな?
乞う、ご期待!
ご指名ありがとうございますぅ(ホステス風味)。
ホントに私ってば聖書すらまともに読んだ事ないんです。
母が旧も新も大事に持っておりますし、
子供の頃は週一回牧師さんの話しなんか聞いて
讃美歌を歌ってみたりした経験もありますが
行くと貰えるカードが欲しくて行ってたようなもんで・・・。
ユダヤ教についても軽く調べたりしましたが
「よく分からん」ですね。
お忙しい(筋肉痛)中わざわざ私の為にお時間を割いていただける事に
感謝いたします。楽しみにしてますね。
「布施千回♪」
これもシンクロなのか、ただ今、イスラーム教ではラマダンの真っ最中なのですね。今日、夢でラマダンのことを見て知ったのですが。
また、私もたまーに夜中に経験しますね。以前は頻繁に経験していましたが、意識を繋げないように無視していたら、次第に回数が少なくなってきました。きっと、向こうも相手にしてもらえないと断念したのでしょうね。
それと、さむーくなるのは、あまり性質のよくない霊みたいですね。反対にあたたかくなるものとか、楽しくなるもの、清涼な感じになるものもけっこうありますよ。まあ、いいものというのは、あまり夜中にはお出ましになりませんが。
夜は熟睡に限りますね。でも、猫が傍にいるのなら安心ですね。