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ある町の高い煙突(映画)

2019-07-09 | 映画・演劇

日の出のイオンシアターでこの映画を見て来た。明治後期の日立鉱山の煙害がテーマで、煙害被害の農民と煙害対策に取り組む会社の話し。新田次郎の同名の本が原作だそうだが、この本は読んでいなかった。

日立鉱山から日本鉱業、日産自動車、日立製作所が生まれるが、当時の経営者達の矜持を思い知る。エンディングでスポンサーの会社名がズラズラ~と流れるが、今でも日立鉱山の想いを受け継いでいる会社だと思うと何ぜかホッとする。

も鉱山会社に入社したが、新入社員の時から煙害対策の歴史をことあるごとに教えられた。公害対策はコストアップの原因で企業の競争力、収益力に寄与しないが、それを乗り越えて地域のためにと取り組んできた当時の経営者や技術者の想いを知ることが出来た。今の人には理解できないかもしれないな~?

日本は日露戦争後に工業化を急ぎ、需要拡大と主力輸出品であった銅生産増強が国策として行われた。日立鉱山も明治40年ごろから増産を開始したが、亜硫酸ガスの煙害が周辺の村々に引き起こり、農民とのトラブルが多発した。

政府は低い煙突で大量な空気を入れて希釈し、公害が広がらない方針としたが、却って近隣に高濃度の被害が広がる。社長の久原房之介は反対論の多い中で150mの大煙突を建設する。大正4年に完成し、冬は北西の風で亜硫酸ガスは太平洋に飛び、内陸部に向かう風の時は操業を調整して付近の煙害は減少したという。

昭和の文豪・新田次郎の同名小説を原作に、日立鉱山の煙害と戦った地元村民たちの実話を映画化。1910年。茨城県久慈郡入四間の地主の家に生まれ育った関根三郎は、隣村の日立鉱山による煙害が発生していることを知る。村の権力者である祖父・兵馬は事態を重く見て鉱山会社へ掛け合いに行くが、補償するので煙害は我慢するよう一方的に言われてしまう。受験を控えた三郎を心配する兵馬は、30年前に村長として採掘権を許可したのは自分だと告げるが、その5日後に亡くなってしまう。三郎は祖父の遺志を継ぎ、進学も外交官になる夢も捨てて煙害に立ち向かうことを決意する。

私が入社した昭和40年代は日本の高度成長期だったが、公害の時代ともいえる。それまでは一企業の問題といわれていたが、企業や国が一丸となって取り組む問題として対策が取られてきた。有機水銀、ヘドロ、水質汚染、赤潮、硫黄酸化物、排ガス、光化学スモッグなどが記憶に残っている。

50年前に足尾銅山に2週間ほど滞在したが、製錬所付近の山は完全な禿山で小林旭の和製西部劇・流れ者シリーズの撮影現場になっていた。当時から植林を行っていたが、土を入れ替えても育たないと担当者が泣いていたのを思い出す。昨年50年ぶりに足尾を覗いてみたがどうにか樹木が育ち始めていた。

日立鉱山も煙害時代は全て禿山だったと思うが、映画に禿山の様子が出てこなかったのは残念。日立も植林で苦労したと思うが、今では大煙突周りが美しい樹木に覆われていて日立の名所になっているという。

公害に強い樹木として日立はオオシマザクラに目を付けたようだが、四坂島はキョウチクトウ。今でもキョウチクトウの花を見ると四坂島を思い出す。若き日を思い出しながら、目に薄っすらと涙を溜めながらこの映画を見てきました。

現在の公害の代表例は地球温暖化やプラスチック、ゴミ問題でしょうね~。国を越えて世界全体で取り組まないと解決しない問題になっている。公害も世界的になった。

公害を金銭で解決しようとするのは大間違い。必ず後から大きなしっぺ返しが来る。

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