僕の家の南側には掃き出し窓がある。掃き出し窓、とは耳慣れない言葉である。いや、少なくとも僕は今日まで知らなかった。
足元まで窓があって、それを開ければ下につっかけが置いてあって、ようするに「そこから出入りできるような窓」である。今までそこここに文章を書くときに「窓」と書いていたのであるが、それではどうも雰囲気が出ないから、今日適切な単語を調べてみたら、「住宅建築専門用語辞典」なる大層なサイトに出くわして、そこでようやく「掃き出し窓」という正式メーショーを体得したというわけである。はい。
さて、折角だから、その定義はなんなのか、その住宅建築ほんにゃほんにゃという長いタイトルのサイトから引用させていただこう。曰く、コホン、「掃き出し窓とは、一般的には外部に人が出入りできる大型の窓で、窓の下枠は室内の床の高さと差がない窓。」だっそーだ。うーん、この表現は僕には思い浮かばなかった。さっき書いた、「そこから出入りできるような窓」が精いっぱいの説明である。しかし、そこから出入りできる、だけでは、泥棒さんにとっては「どの窓も出入りできますよん」ってなってしまうし、やはり、「窓の下枠は~~」という説明じゃないと不十分みたいですね、ふむ。「下枠」、、「かわく」って読むのか「したわく」って読むのかわからないけどね。
さて、タイトルと違う話になってしまった。今日はのんびりと家に居る。というかいつものんびりと家に居る。外出する気が湧かないほどここんとこ二か月は寒いから家に居る。寒さで常にこわばっているから筋肉痛で背中が痛い。座り仕事ではあるけれど、屋外の仕事が多いですのでね、いつも寒いんです。そのせいで全身筋肉痛なのですよ。そうして休みの日はこうやってぼんやりとヒーターのついたリビングと称する部屋の大きなテーブルでぼんやりとしているのである。ぼんやりついでに、掃き出し窓、(そうここで掃き出し窓を使いたかったのだ!)、から見える南天を眺めている。窓から1メートルぐらいの距離にあるので南天はよく見える。
毎年この季節になると、南天にヒヨドリがやってくる。やってくる、と言っても、そこに住むわけではなくて、ちょいちょいやってきて、南天の真っ赤な身をついばんで、立ち去る。それだけである。掃き出し窓からは家の中がよく見えるし、窓の中ではアタシやら両親やらたまに兄弟やらがのしのし動き回っている。家族全員それほど大きい体格ではないが、鳥からみたら巨大な動物であるから「のしのし」が適切な表現だろう。鳥は南天の細枝に止まっても枝が折れないのだから、そりゃあ鳥は小さくて軽い。窓の中で巨大な動物が動き回っていたら、そりゃあ怖いに違いない。なので、ヒヨドリはいつも、きょろきょろ見回しながら一粒か二粒程度食べるだけで、すぐ立ち去ってしまう。そのくせ、すぐ帰ってくる。それを繰り返す。お忙しいようで。
南天の真っ赤な実は、まさしくたわわに実っている。ふさふさだ。正直おいしそうで以前あたしも口にしたことがある。大層まずかった。全く大人になってそんな実験をするもんじゃないと思った。にもかかわらず鳥はやってくる。味覚がどうかしているか、よほど他に食べるものがないんだろう。寒いもんね。お疲れ様。
今はまだ半分以上実が残っているが、そうやって頻繁にやってきて食べている内に、一、二週間で無くなってしまうだろう。実がすべて無くなった南天の枝は、実をすべて食べ終えたブドウに似ている。なんとも間が抜けた感じになる。ブドウがテーブルに出てきたときはわぁい、と盛り上がるが、最後の方になると緑色の枝だけが無残に転がるような、あの見た目に似ている。南天がそんなさびしいいでたちになるそのころには、寒さの底を抜けた季節になる。ほんの少しだけ春の近づきを感じる。だから、南天の実がたくさんある今は、寒くて当然だ。
僕はただヒヨドリと南天のやり取りを眺めて、今年は寒いなあ、と思って、それ以上もそれ以下の感慨もなく、鳥のきょろきょろウォッチングをほんの少しおかしみをもって眺めて、そうして生きる意味について考える、、、訳がない。ではまた。実が無くなる前に南天の写真でも撮ってきます。掃き出し窓をがらりと開け、つっかけを履きながら。
足元まで窓があって、それを開ければ下につっかけが置いてあって、ようするに「そこから出入りできるような窓」である。今までそこここに文章を書くときに「窓」と書いていたのであるが、それではどうも雰囲気が出ないから、今日適切な単語を調べてみたら、「住宅建築専門用語辞典」なる大層なサイトに出くわして、そこでようやく「掃き出し窓」という正式メーショーを体得したというわけである。はい。
さて、折角だから、その定義はなんなのか、その住宅建築ほんにゃほんにゃという長いタイトルのサイトから引用させていただこう。曰く、コホン、「掃き出し窓とは、一般的には外部に人が出入りできる大型の窓で、窓の下枠は室内の床の高さと差がない窓。」だっそーだ。うーん、この表現は僕には思い浮かばなかった。さっき書いた、「そこから出入りできるような窓」が精いっぱいの説明である。しかし、そこから出入りできる、だけでは、泥棒さんにとっては「どの窓も出入りできますよん」ってなってしまうし、やはり、「窓の下枠は~~」という説明じゃないと不十分みたいですね、ふむ。「下枠」、、「かわく」って読むのか「したわく」って読むのかわからないけどね。
さて、タイトルと違う話になってしまった。今日はのんびりと家に居る。というかいつものんびりと家に居る。外出する気が湧かないほどここんとこ二か月は寒いから家に居る。寒さで常にこわばっているから筋肉痛で背中が痛い。座り仕事ではあるけれど、屋外の仕事が多いですのでね、いつも寒いんです。そのせいで全身筋肉痛なのですよ。そうして休みの日はこうやってぼんやりとヒーターのついたリビングと称する部屋の大きなテーブルでぼんやりとしているのである。ぼんやりついでに、掃き出し窓、(そうここで掃き出し窓を使いたかったのだ!)、から見える南天を眺めている。窓から1メートルぐらいの距離にあるので南天はよく見える。
毎年この季節になると、南天にヒヨドリがやってくる。やってくる、と言っても、そこに住むわけではなくて、ちょいちょいやってきて、南天の真っ赤な身をついばんで、立ち去る。それだけである。掃き出し窓からは家の中がよく見えるし、窓の中ではアタシやら両親やらたまに兄弟やらがのしのし動き回っている。家族全員それほど大きい体格ではないが、鳥からみたら巨大な動物であるから「のしのし」が適切な表現だろう。鳥は南天の細枝に止まっても枝が折れないのだから、そりゃあ鳥は小さくて軽い。窓の中で巨大な動物が動き回っていたら、そりゃあ怖いに違いない。なので、ヒヨドリはいつも、きょろきょろ見回しながら一粒か二粒程度食べるだけで、すぐ立ち去ってしまう。そのくせ、すぐ帰ってくる。それを繰り返す。お忙しいようで。
南天の真っ赤な実は、まさしくたわわに実っている。ふさふさだ。正直おいしそうで以前あたしも口にしたことがある。大層まずかった。全く大人になってそんな実験をするもんじゃないと思った。にもかかわらず鳥はやってくる。味覚がどうかしているか、よほど他に食べるものがないんだろう。寒いもんね。お疲れ様。
今はまだ半分以上実が残っているが、そうやって頻繁にやってきて食べている内に、一、二週間で無くなってしまうだろう。実がすべて無くなった南天の枝は、実をすべて食べ終えたブドウに似ている。なんとも間が抜けた感じになる。ブドウがテーブルに出てきたときはわぁい、と盛り上がるが、最後の方になると緑色の枝だけが無残に転がるような、あの見た目に似ている。南天がそんなさびしいいでたちになるそのころには、寒さの底を抜けた季節になる。ほんの少しだけ春の近づきを感じる。だから、南天の実がたくさんある今は、寒くて当然だ。
僕はただヒヨドリと南天のやり取りを眺めて、今年は寒いなあ、と思って、それ以上もそれ以下の感慨もなく、鳥のきょろきょろウォッチングをほんの少しおかしみをもって眺めて、そうして生きる意味について考える、、、訳がない。ではまた。実が無くなる前に南天の写真でも撮ってきます。掃き出し窓をがらりと開け、つっかけを履きながら。