朝日新聞 2015年3月26日
論壇時評/作家・高橋源一郎
高橋源一郎
「仁義なき戦い」第1作:菅原文太
高校2年の夏休み、8月6日を広島で過ごそうと、友人と神戸からヒッチハイクをした。5日夜遅く、市内に入り、休むため原爆ドームの中に侵入した。結局眠れぬまま、辺りをうろついていて、子分を連れた若いヤクザに呼び止められた。
「なにしとんじゃ?」
神戸から来た高校生だと答えると、男の表情が緩んだ。わたしたちは近くに腰を下ろし、話をした。男は、慶応の大学院でスタンダール〈1〉を研究していたが、親が組長でその跡を継ぐために戻った、といった。今日、大きな出入りがある、あんたらが最後の話し相手になるかもしれん、と。明け方近く、わたしたちは別れた。男がしゃべったのはほんとうのことだったのだろうか。そのスタンダールの話は、とても魅力的だったのだが。
それから6年後、広島のヤクザたちの抗争を、事実をもとに描いた一本の映画が公開された。そのタイトルは「仁義なき戦い」といった〈2〉。
*
映画の冒頭、巨大なきのこ雲が映る。舞台は敗戦直後の広島県・呉。焼け跡の中、台頭してきたヤクザたちは、生きるために争う。そこで、彼らは「親(分)」と呼ぶもののために、生命を投げ出すのだが、一方で「親」は、子どもである彼らを単なる金もうけの手段としか見ない。そして悲劇が生まれる。観衆は、そこに、「天皇」と「兵士」や「国民」の関係をも思い浮かべることができた。
この巧妙なドラマの脚本を書いた笠原和夫は、海軍の若年兵として広島で暮らし、投下された原爆の光ときのこ雲を見た。「仁義なき戦い」シリーズのうち笠原が参加した4本は、高度成長期を描いた「頂上作戦」で完結する〈3〉。そのラストシーン、主人公が「もう、わしらの時代は終(しま)いで」と呟(つぶや)いた後、第一作のきのこ雲に呼応するかのように原爆ドームが浮かび上がり、ナレーションが流れる。
「こうして……やくざ集団の暴力は市民社会の秩序の中に埋没していった……だが、暴力そのものは、いや、人間を暴力にかり立てる様々の社会矛盾は、決して我々の周囲から消え去った訳(わけ)ではない」
雑誌「現代思想」の特集〈4〉は、先頃亡くなった俳優、菅原文太。「仁義なき戦い」で主人公、広能昌三を演じた。
菅原は晩年、政治的活動に踏み出し、「行動する知識人」とも見なされるようになった。農業を営みながら、ラジオや雑誌や様々な現場で、夥(おびただ)しい人たちと、社会のあり様について話しつづけた。
東日本大震災直後、わたしは『恋する原発』という小説を書いた。アダルトビデオの監督たちがチャリティーAVを作るという、不謹慎な(?)内容ゆえにか、相手にされることは少なかった。数少ない例外が、菅原からの対談の依頼だった。会って最初の一声が、
「あんたの小説は面白いが、難しいねえ。説明してくれるかい?」だった。
対話に際して、菅原の特徴は、まず「知らない」と宣言することだ。
俳人・金子兜太への最初の一言。
「俳句はまったくの門外漢でありまして。残念ながら金子さんの俳句も……」
後輩で憲法学者の樋口陽一には、
「オレは早大法学部中退なんだけど、じつは日本国憲法をよくよく読んだのは今回が初めてなんだ(笑)」〈5〉
では、菅原は不勉強な人間だったのか。当時、書店「東京堂」に勤めていた佐野衛は、毎回、真剣勝負のようだった、菅原の膨大な注文について書き、こう感想を漏らした〈6〉。
「このひとはただの読書家ではない。おそらく自分のなかにつねに問題意識をもたれていて、本は読まれるが自分の確認したいことが書いていなければ、その本は意味のない本なのだ」
「反知性主義」のタイトルを掲げた本が次々と出されている。その中の一つで、内田樹は、こう書いている〈7〉。
「バルト〈8〉によれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容(い)れることができなくなった状態を言う」
逆にいうなら、「知性」とは、未知のものを受け入れることが可能である状態のことだ。菅原のように、である。
*
森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』〈9〉は、「反知性主義」ということばの源流にまで遡(さかのぼ)り、その本来の意味を考えた。
「反知性主義には……単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる……知性そのものでなくそれに付随する『何か』への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである」
そして、森本は「知性と権力の固定的な結びつき」や「知的な特権階級が存在すること」に対する反感が、本来の「反知性主義」が意味するものだとした。
戦後そのものの映像化であるような「仁義なき戦い」だけではなく、多くの作品で、菅原は、歴史の決定的な瞬間に立ち合う役を演じているが、菅原が演じたのは、森本のいう「本来の反知性主義」者が多かったような気がする。
有名校の秀才から歩み始め、演技という現場から、身体で「知識」を吸収していった。「知識人」になった後の菅原と、俳優・菅原文太との間に齟齬(そご)が感じられなかったのは、彼が、演じることを通じて、自然に「知識」を、いや「知性」を身にまとっていったからなのかもしれない。そのことは、実はひどく難しいことなのだった。
*
〈1〉スタンダールは仏の作家。『赤と黒』(1830年)など。
〈2〉映画「仁義なき戦い」(主演・菅原文太)
〈3〉笠原和夫『シナリオ 仁義なき戦い』(電子書籍、14年刊)
〈4〉特集「菅原文太 反骨の肖像」(現代思想4月臨時増刊号)
〈5〉菅原文太と免許皆伝の達人たち『ほとんど人力』(金子兜太・樋口陽一らと対談、13年刊)
〈6〉佐野衛「菅原文太さんの書店訪問」(現代思想4月臨時増刊号)
〈7〉内田樹・編『日本の反知性主義』(今月刊)
〈8〉ロラン・バルトは、20世紀の仏の思想家。
〈9〉森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(今年2月刊)
※たかはし・げんいちろう:1951年生まれ。明治学院大学教授。近刊の内田樹・編『日本の反知性主義』に寄稿した。
掲載者注:高橋源一郎は広島県尾道市出身、東京育ち。麻布中から神戸の名門・灘高の卒業。横浜国立大学在学中の同級生の話によると、高校生時代からノンセクトの活動家で、大学紛争中はもっぱらデモとバリケート生活。現代詩が好きだと言っていた。警察に逮捕され拘置生活を送るが授業が再開するも出席せず、7年後に大学を中退。肉体労働、翻訳等様々な仕事をする中、小説と競馬にのめり込んでいた。学生時代の同級生とのデキチャッタ結を含め4回の結婚と離婚歴があり、現在は5人目の妻がいる。子供は合計で5人。
1988年『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞し、その賞金100万円を日本ダービーに注ぎ込み、一瞬にして失ったのは有名な話。2005年に明治学院大学国際学部教授に就任。
論壇時評/作家・高橋源一郎
高橋源一郎
「仁義なき戦い」第1作:菅原文太
高校2年の夏休み、8月6日を広島で過ごそうと、友人と神戸からヒッチハイクをした。5日夜遅く、市内に入り、休むため原爆ドームの中に侵入した。結局眠れぬまま、辺りをうろついていて、子分を連れた若いヤクザに呼び止められた。
「なにしとんじゃ?」
神戸から来た高校生だと答えると、男の表情が緩んだ。わたしたちは近くに腰を下ろし、話をした。男は、慶応の大学院でスタンダール〈1〉を研究していたが、親が組長でその跡を継ぐために戻った、といった。今日、大きな出入りがある、あんたらが最後の話し相手になるかもしれん、と。明け方近く、わたしたちは別れた。男がしゃべったのはほんとうのことだったのだろうか。そのスタンダールの話は、とても魅力的だったのだが。
それから6年後、広島のヤクザたちの抗争を、事実をもとに描いた一本の映画が公開された。そのタイトルは「仁義なき戦い」といった〈2〉。
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映画の冒頭、巨大なきのこ雲が映る。舞台は敗戦直後の広島県・呉。焼け跡の中、台頭してきたヤクザたちは、生きるために争う。そこで、彼らは「親(分)」と呼ぶもののために、生命を投げ出すのだが、一方で「親」は、子どもである彼らを単なる金もうけの手段としか見ない。そして悲劇が生まれる。観衆は、そこに、「天皇」と「兵士」や「国民」の関係をも思い浮かべることができた。
この巧妙なドラマの脚本を書いた笠原和夫は、海軍の若年兵として広島で暮らし、投下された原爆の光ときのこ雲を見た。「仁義なき戦い」シリーズのうち笠原が参加した4本は、高度成長期を描いた「頂上作戦」で完結する〈3〉。そのラストシーン、主人公が「もう、わしらの時代は終(しま)いで」と呟(つぶや)いた後、第一作のきのこ雲に呼応するかのように原爆ドームが浮かび上がり、ナレーションが流れる。
「こうして……やくざ集団の暴力は市民社会の秩序の中に埋没していった……だが、暴力そのものは、いや、人間を暴力にかり立てる様々の社会矛盾は、決して我々の周囲から消え去った訳(わけ)ではない」
雑誌「現代思想」の特集〈4〉は、先頃亡くなった俳優、菅原文太。「仁義なき戦い」で主人公、広能昌三を演じた。
菅原は晩年、政治的活動に踏み出し、「行動する知識人」とも見なされるようになった。農業を営みながら、ラジオや雑誌や様々な現場で、夥(おびただ)しい人たちと、社会のあり様について話しつづけた。
東日本大震災直後、わたしは『恋する原発』という小説を書いた。アダルトビデオの監督たちがチャリティーAVを作るという、不謹慎な(?)内容ゆえにか、相手にされることは少なかった。数少ない例外が、菅原からの対談の依頼だった。会って最初の一声が、
「あんたの小説は面白いが、難しいねえ。説明してくれるかい?」だった。
対話に際して、菅原の特徴は、まず「知らない」と宣言することだ。
俳人・金子兜太への最初の一言。
「俳句はまったくの門外漢でありまして。残念ながら金子さんの俳句も……」
後輩で憲法学者の樋口陽一には、
「オレは早大法学部中退なんだけど、じつは日本国憲法をよくよく読んだのは今回が初めてなんだ(笑)」〈5〉
では、菅原は不勉強な人間だったのか。当時、書店「東京堂」に勤めていた佐野衛は、毎回、真剣勝負のようだった、菅原の膨大な注文について書き、こう感想を漏らした〈6〉。
「このひとはただの読書家ではない。おそらく自分のなかにつねに問題意識をもたれていて、本は読まれるが自分の確認したいことが書いていなければ、その本は意味のない本なのだ」
「反知性主義」のタイトルを掲げた本が次々と出されている。その中の一つで、内田樹は、こう書いている〈7〉。
「バルト〈8〉によれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容(い)れることができなくなった状態を言う」
逆にいうなら、「知性」とは、未知のものを受け入れることが可能である状態のことだ。菅原のように、である。
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森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』〈9〉は、「反知性主義」ということばの源流にまで遡(さかのぼ)り、その本来の意味を考えた。
「反知性主義には……単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる……知性そのものでなくそれに付随する『何か』への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである」
そして、森本は「知性と権力の固定的な結びつき」や「知的な特権階級が存在すること」に対する反感が、本来の「反知性主義」が意味するものだとした。
戦後そのものの映像化であるような「仁義なき戦い」だけではなく、多くの作品で、菅原は、歴史の決定的な瞬間に立ち合う役を演じているが、菅原が演じたのは、森本のいう「本来の反知性主義」者が多かったような気がする。
有名校の秀才から歩み始め、演技という現場から、身体で「知識」を吸収していった。「知識人」になった後の菅原と、俳優・菅原文太との間に齟齬(そご)が感じられなかったのは、彼が、演じることを通じて、自然に「知識」を、いや「知性」を身にまとっていったからなのかもしれない。そのことは、実はひどく難しいことなのだった。
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〈1〉スタンダールは仏の作家。『赤と黒』(1830年)など。
〈2〉映画「仁義なき戦い」(主演・菅原文太)
〈3〉笠原和夫『シナリオ 仁義なき戦い』(電子書籍、14年刊)
〈4〉特集「菅原文太 反骨の肖像」(現代思想4月臨時増刊号)
〈5〉菅原文太と免許皆伝の達人たち『ほとんど人力』(金子兜太・樋口陽一らと対談、13年刊)
〈6〉佐野衛「菅原文太さんの書店訪問」(現代思想4月臨時増刊号)
〈7〉内田樹・編『日本の反知性主義』(今月刊)
〈8〉ロラン・バルトは、20世紀の仏の思想家。
〈9〉森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(今年2月刊)
※たかはし・げんいちろう:1951年生まれ。明治学院大学教授。近刊の内田樹・編『日本の反知性主義』に寄稿した。
掲載者注:高橋源一郎は広島県尾道市出身、東京育ち。麻布中から神戸の名門・灘高の卒業。横浜国立大学在学中の同級生の話によると、高校生時代からノンセクトの活動家で、大学紛争中はもっぱらデモとバリケート生活。現代詩が好きだと言っていた。警察に逮捕され拘置生活を送るが授業が再開するも出席せず、7年後に大学を中退。肉体労働、翻訳等様々な仕事をする中、小説と競馬にのめり込んでいた。学生時代の同級生とのデキチャッタ結を含め4回の結婚と離婚歴があり、現在は5人目の妻がいる。子供は合計で5人。
1988年『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞し、その賞金100万円を日本ダービーに注ぎ込み、一瞬にして失ったのは有名な話。2005年に明治学院大学国際学部教授に就任。
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