「教会員の同意」(Common Consent)というダイアログ誌のブログ
に掲載された投稿を要約して紹介したい。ウオルター・E・A・ヴ
ァン・ビークはオランダユトレヒトの宗教人類学者(末日聖徒)
である。
1 世界宗教:多様性とアイデンティティ
「世界宗教」と言う語は広報的響きもあるため、用語の定義に深
入りしないでむしろ今日世界宗教と認められる二つの宗教の主要
な特徴に注目してみたい。それはイスラム教とカトリック教会で
ある。両者とも発祥の地を越えて広範囲に広まっていることが特
徴的である。以下、他の共通の特徴を列挙してみると次のような
ものがある。両者とも一神教で聖典と伝統が中心的な位置を占め
ている。聖人を祀り、民間信仰が存在する。外部を改宗させよう
とした長い歴史があり、世俗の王朝ないしこの世の領域に深く関
わってきた。両者とも政教分離は自ら求めているものではない。
両者とも聖地を持ち、巡礼の伝統があり、聖戦を戦ってきた。両
者とも発祥の地や初期の隆盛の地が今もその重要性を保っている
が、信徒は民族・地理の両面でそれを越えて教徒としてのアイデ
ンティティを持っている。イスラムとアラブ民族とのつながりは
現在も強いが、イスラムは民族や地域に制約されることはない。
カトリック教会も同じである。ローマが中心で、エルサレムも歴
史的に関心の的となっているが、地中海を越えて広まっている。
私が注目したいのは教徒であるという自覚を持つ時の多様性であ
る。従って内面の多様性である。両宗教とも信仰と儀式の面で多
様な様式と表現を容認している。イスラム教はスンニー派だけを
見ても多くの法学校、教団、友愛団体、聖人、さまざまな民間信
仰、民衆のイスラム教などがある。キリスト教界全体もますます
多様化の過程にある。特に、カトリック教会は多様性が進行する
巨大な保護区のようなものである。超保守から超リベラルまで幅
があり、カリスマ的運動があるかと思えば基本的簡素な運動があ
り、内省的修道院から世俗的・科学的傾向の修道院に至る広がり
があって、カトリック教会は内に多様性を持ちながらも外面的に
は統一を保っている優れた例である。
もっとも多様性を見せているからと言ってこの二つの宗教が寛容
であったというわけではない。往時の異端審問の時代からは機能
が変わっているが、カトリックには検邪聖省が今も存続しており、
イスラムも背教者に戦いをしかけ、ムスリムの国に対しても相手
が本当のイスラムからはずれたという理由でジハードをしかけた。
しかし、両方の宗教において指導層の間に相違が生じるのを防げ
なかったし、逆に多様性を利用してきた面がある。様々な修道院
の存在がそうであるし、イスラムが民衆の信仰形体を許容してき
た点がそうである。いずれも草の根に浸透する有力な手立てであ
った。
言いかえると、個人が特定の宗教に属すると考えるその考え方
(自己定義)に弾力性があることを意味する。問題はどのような
神学的・社会的枠組みによって人がその宗教の中に留まることが
できるようになるかである。人が自分はカトリックである、また
はムスリムであると考える根拠は、人によって異なる。完全に十
全な献身(文字通りの「イスラム」)から非常に度合が低い意識
の人までいる。この後者がカギを握る。多くの人は実際に規律や
信条に忠実であるか否かにかかわりなく自分はムスリムである、
あるいはカトリックであると考えている。世界宗教は広く周辺に
人々を留める手立てを編み出しているように思われる。イスラム
教徒は五つの柱を実践し、一日5回祈り、メッカに巡礼する人も
いれば、ラマダンの日にアルコールを飲み豚肉を食べる者もいる。
それでもムスリムであると自称する。このような人もウンマ(共
同体)の一員と思っている。これができるのはこの宗教が許容す
る多様性である。包含的で、広範な傘のもとに広く周辺にいる人
々を容れている。
世界宗教は文化と無縁で存在しているのではない。カトリックも
イスラムも社会と個人に強い刻印を押す。例えばカトリック教会
の環境に育った人は、幼時よりカトリック文化の一部として育ち、
後に教会とどのような関係になろうと自分はカトリック教徒と意
識するか教徒として育てられたと言う。初等教育、中等、高等教
育がカトリック系であったかもしれないし、聖人の名がミドルネ
ームであったりする。カトリック文化がカトリックというアイデ
ンティティを生んでいる。イスラムについても同じことが言える。
以上のように多様性の局面と文化的包含が相まって、文化的な宗
教所属のアイデンティティを生みだす。ある宗教についての知識
がなく、確固たる確信がなく、深い疑いを抱いていても、人はそ
の宗教の一員と考えるに至る。このような宗教は核に信仰堅固な
信者の群がおり、非信者さえ含めて広範な様々な人々を周辺にそ
の宗教の傘のもとに収めているのである。
2 モルモ二ズムの場合:排他的アイデンティティ
モルモ二ズムの場合、復元教会の系譜を引く教会と様々な原理主
義的グループがあるが、いずれも国際的な広がりを見るに至って
いない。ユタ州に本部のあるモルモン教会だけを見ていけばよい。
モルモン神学の骨格は並はずれて統一されている。それは神学者
の階層不在、神学より管理運営優先の体質(分派の存在は歴史上
の理由による)、布教が若い訓練は受けているが素人宣教師に託
されていること、による。教義の単一性がアイデンティティの特
色である。日曜学校でディスカッションは行われるものの経験に
ついて語られることが多く、教義が問われることはない。
儀式の面、他の信仰表現の面においても標準化が目立つ。礼拝は
儀礼が簡素で説教が中心であり、会衆は聞くことばかりの時間と
なる。
3 オランダのモルモン教会の例から考察
1998年の平均的なワードで活発率は28%、残り72%の会員は自分
がモルモンであると考えているだろうか。答えは否である。米国と
違って内に留まる者と教会に来なくなる者の両極に分離するのが
実態であり、外国では世界宗教というより国際的なカウンター教
会(既存の宗教に対抗する教会)と規定される。社会の他の人々
から信徒を引き離し、世の傾向や流れに対抗する。集団的にも個
人的にも教徒であるという自己定義は排斥的色彩が濃厚で、それ
ほど熱心でない層の不在が世界宗教と異なる点である。
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アメリカでは破門されたマイク・クインもラバイナ・フィールデ
ィング・アンダーソンも教会を非常に近い存在と考えている。ク
インは自分をDNAモルモンと述べたことがある。それに対し、日本
もオランダに似た状況にあると考えられる。活発/不活発が両極化
している。それでヴァン・ビークによればモルモン教会は世界宗
教とは呼べる状況に至っていない。(このまとめの部分沼野)
http://bycommonconsent.com/2009/06/18/mormonism-a-global-
counter-church-i/
関連記事(当ブログ): 2006/5/30 「モルモン教会に部族的特徴」
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内容は、「教会員の同意」と言うより「教会員の帰属意識」と言う感じがします。
現在は礼拝堂に集う会員とネット上lds関連のサイトに訪れるインターネット会員を考えることができるのではないか、とコメントがありました。(そう言えば身内の一人がその中に入るな、と思っています。豚王国の隠れ臣民なのです。ここにも来ていると言っています。)
また、同じ関連で日曜学校では手引き通りの発言に終始するのに対し、ネット上では本音の議論が展開されていることを指摘したコメントもありました。ある意味ビークの言う周辺会員を生みだしている現象だと見ています。
日本人が漠然と自分をクリスチャンと定義することはないと思います。
逆にモルモンでも同じでユタにいけば「世界(社会の文化基盤)」宗教です。
はい。その意味では相対的な問題で、輸入された(進出した)宗教が少数派であるときカウンター宗教となります。(結局排他性のない宗教はない!?)
少数派であってもその宗教が信仰をなくした者をも周辺に含み得る(包含的)かどうかが世界宗教か否かの指標となると言っているのだと思います。
会員の密度が高く、その宗教の文化が浸透しているところでは、ビークの言う文化的包含の様相が出ているということでしょう。しかし、もうひとつの「多様性」を許容しているかどうかが問われます。
排他的アイデンティティに固執する段階から包含的宗教に変わるには歴史(時間)が必要なのだろう、と思います。カトリック教会もイスラムも長い歴史を持っています。