
イザヤ書は66章からなり、預言者イザヤは4代の王の時代、40年間にわたって活動したとされる。しかし、記載された文に表れる人名や、前提と見受けられる歴史的背景などから、研究者は1-39章と40章以降の2つに分けられると見る。その執筆者を第一イザヤと第二イザヤと呼んでいる。(さらに56-66章を第三イザヤとする考え方もある。)
古くは1966年、ヒュー・ニブレーが教会の月刊エラ誌9月号に、イザヤの弟子が記録を継承・編集して残し、さらにその弟子が同じようにした、と図を添えて説明していた。第二、第三イザヤの存在を支持する文面に読めた。そして最近ではグレゴリー・プリンスがサンストーンシンポジウム2018年で、第二イザヤ(Deutero-Isaiah) の存在を前提とする発言をしている。
ほかに比較的最近の例では、暫く前から注目していたグラント・ハーディが間接的で控え目な表現ながら、聖書学者たちの長年にわたる詳細な資料分析(イザヤ書が複数の著者によって書かれたという共通認識)を尊重すべきであると述べている(2010年)。またデビッド・ボコボイが2016年に、今や保守的であった福音主義派でさえイザヤ書40-66章が元来のイザヤ以外の執筆者によって書かれたことを認めるようになっている、それは第二イザヤの存在を支持する根拠が反論の余地がないものだからである、末日聖徒を含めて保守的な群れも受け入れるよう適応すべき時が来ている、と記事をインターネット上のサイトに寄せた。
従来、末日聖徒を含めて保守的な、福音派ないし根本主義的な教会は、イザヤ書が一人の預言者(紀元前8世紀)によって書かれたと考えていた。44:28, 45:1にペルシャ王国のクロス(紀元前6世紀。新共同訳ではキュロス)が出てきて、時代錯誤の記載となるが、霊感によって将来の受膏者(牧者、油注がれた人。新共同訳)の果たす役割を予見できたのだとしていた。この問題は第二イザヤを想定することで解決できる。
ボコボイは次のような根拠によって、第二イザヤを想定する方が理に適うと言う。1、イザヤが預言し始めた頃、エルサレムは安泰な町であった(31:5-9)。それが40章に入って急に捕囚の民(紀元前6世紀)の記述に転換する。2、第二イザヤは、エレミヤ書、哀歌、その他捕囚後の文書から強い影響を受けている。例、50:1はエレミヤ3:8から。3、アラム語の影響。40章以降、アラム語の影響が濃厚である。ユダヤ人はこの時期、ヘブライ語ではなくアラム語を話していた。4、捕囚後のヘブライ語の使用。言語は年月の経過とともに変化するが、イザヤ40-66章には捕囚期および捕囚から帰還後に現れたヘブライ語が多く見られる。学者は言語の特徴を見て、書かれた時代を特定できる。
日本の女子パウロ会の記者は、「イザヤ書を読んでいくと、40章からは雰囲気も歴史的な背景も異なっているのに気づきます」と述べ、分かりやすい表を掲げている。以上、イザヤ書の時代背景や構成(特に第二イザヤの存在)、誰を対象としたか、預言のテーマなどを知ると理解の助けとなると思って書いた次第である。
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なお、モルモン書にイザヤ書40章以降から引用されていることが、大きな問題となっている。事実、引用された大部分が40章以降である。そのことについてボコボイは、一つの答え方は、「なぜ捕囚後の内容がモルモン書にあるのか分からない。ただ、この書物によって自分が神とつながっていると感じることは確かである」と言うか、もう一つは、モルモン書が古代文書から普通の意味の翻訳が行なわれたというより、ジョセフ・スミスを通して啓示によってもたらされた宗教書であることを認め、イザヤ書40-66章を含めて預言者がミドラシュ*的な取り組みを行なったと理解すればよいのではないか、と提案する。(*ミドラシュはユダヤ教ラビが聖書などを注釈すること )。
(デビッド・ボコボイはヘブライ語聖書と古代近東の分野で博士号を取得し、ユタ州立大学で聖書とユダヤ教学をオンラインで教える教授。)
[www.preceptaustin.org Jensen's Survey]
参考:
・関根正雄訳「イザヤ書上」、「イザヤ書下」岩波文庫, 1965年
・沼野治郎「モルモン経に引用されたイザヤ書と編集者の役割」モルモンフォーラム3号(1989年 春季)H.ニブレーの図を含む。
・Grant Hardy, “Understanding The Book of Mormon: A Reader’s Guide” 2010.
・David Bokovoy, “The Truthfulness of Deutero-Isaiah: A Response to Kent Jackson”
https://rationalfaiths.com/truthfulness-deutero-isaiah-response-kent-jackson-part-2/
・https://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_Isaiah.php
・Earl M. Wonderli, "An Imperfect Book." 2013.
なんか奥歯にゴミが詰まってるよな~
もっと素直にならないと
JSの時代はアメリカ原住民は移民クリスチャンから動物のごとく非人道的に扱われて土地を奪われ生活の糧を荒らされて大量に死んでいってましたから、14歳のJSは生のキリスト教のやり方には反感を抱いていたのでしょう。
モルモン書の当初の目的は、集合の地におけるアメリカの原住民をイスラエルの子孫と位置づけ信じさせることで、白人クリスチャンを人道的に改革させることと、生の聖書ではインデアンたちが拒絶するのは無理もないので、そこで受け入れやすくするための緩衝材の聖典としてモルモン書(JSによるイザヤ書の解き明かし)を必要としたと考えられます。
同時にインデアンたちに自分たちが迫害される理由を物語り形式で提示することで彼らを謙遜にさせ、もっと建設的な関係を結ぼうという意味もあったのでしょう。
結果については、インデアンの改宗はそれほどうまくいかなかったかも知れないが、理想的とは言えないけれども聖徒たちにはある程度の効果(抑止力)はあったと思われます。
モルモン書に学問的な価値があるならば、内容ではなく(現にモルモン書自身が内容に学問的価値はないと明言しています)、そのテキストが出てきた動機(神話の導入による白人とインデアンの和解の試み)にあるのでしょう。
肝心なことは、そのJSの試みが神の意思の反映であったと信仰することが、従来の主張を捨てて第二イザヤを受け入れ始めた末日聖徒の今後の課題になっていきそうです。
ボコボイの一つ目の答えは、信仰の篤い教徒が答えるとしたら、こうなるだろうかと、成り代わって書いているので、まどろっこしい表現に聞こえるのだと思います。(私の訳のせいかもしれませんが。)彼の本心の答えはもちろん、二つ目の方です。
教会員R さんへ
初めて接する答えで卓見であると思います。考え付いたことがありませんでした。深い。この再定義、大変注目に値します。(一体Rさんはどなたなのでしょう!)
私はぱっとしない、ただの一教会員です。批判精神は人より強くてモルモンの異端者だと自分でも分かっていながら、教会員との付き合いは私にとってやはり大切で、教会内で重鎮の保守的な人ともめるのも困るので、身分を明かすのはご勘弁下さい。
初めて接する答えで卓見とのことですが、本当にちらっとでも考えつかなったのでしょうか。
JSの正義感が強くて大胆でどっちかというと人道的に優しい人柄、アメリカにおけるクリスチャンたちの黒歴史、こじれきっていた原住民とクリスチャンたちとの信頼関係。
そして極めつけは古文書の翻訳という手法を取るにせよ、わざわざ周囲の反発が分かっているネイティブアメリカンを持ち出さずとも、啓示によって現在のような洗練された聖書解釈の教会はいくらでも作れたのに何故リスクを取ったのかという疑問。
すべての状況証拠が、モルモン書の動機がクリスチャンと原住民との和解であったと告げているとしか思えないのです。
本来なら歴史資料で裏付けるべきなのでしょうが、JSにはネイティブアメリカンの友人がいたらしい以外、例によって見つかりません。教会はモルモン書の動機はもっと大きいと宣伝している手前、教会は都合の悪い資料は出さないでしょうし、出すとしても何年もかかることでしょう。
もしも裏付け資料が見つかったら論文ものだと思います。
「イザヤ書は大きく3つに分けられます。39章までがバビロン捕囚以前、40章から53章までがバビロン捕囚の間、54章以降が捕囚から帰ってきて新たなエルサレムを再建するそれぞれの時代の民に向けての預言者の言葉」と説明しちゃいましたよ。
もちろん同じように日曜学校教師であるNJさんも説明されたんですよね?
これってちょっと検索すれば見つけられる常識レベルなのですが、LDS教会の資料(インスティテュート)などでは説明を避けていますね。
やはりこれに触れてしまうと、なぜバビロン捕囚前にアメリカに渡ったニーファイの民がそれを引用できるのかという矛盾にぶち当たるからでしょうか・・・?
イザヤ書を理解するにはモルモン書を参考にすることだと会員たちは言いますが、実はモルモン書の存在がイザヤ書の理解を一番妨げているのでは?
教会の資料ではイザヤ書(およびその他の部分でも)について、これはキリストの予言である、これは末日に関する予言である、と説明しているのですが、それは正しい理解と言えないと思います。
まず当時のユダヤ人たちに対して預言者が何を伝えたかったのかを理解することこそ、古代から伝わる書物に対するリスペクトなのではないかと。その上でイザヤ書の中にはキリストへの予見がある、末日の人間へのメッセージが読み取れると解釈するのもありでしょう。
ボコヴォイさんにしても、第二イザヤということで予言者ジョセフの教えと齟齬をきたすことになっても、それはそれでね、どちらがどうというよりは、天命の先にはさらなる展開というのが見えてるのかもっすね・・・・
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=bokovoy%20%20lds
キリスト信じての(2ニファイ33:10)学問・研究、自由に束縛されず究めて各自天職まっとうするみたいな、そういうことなんでしょう・・・
Another argument against the Deutero-Isaiah theory is that it is not consistent. Take, for instance, the reference to Isaiah’s son in Isaiah 7:3 (Proto-Isaiah): Shear-Jashub. The names Isaiah used were highly symbolic, and this son’s name means “a remnant shall return.” As this clearly refers to (among other things) to the Jews returning from Babylon, why isn’t it considered part of Deutero-Isaiah? The answer, of course, is that Isaiah spoke in apocalyptic terms, and this fits into the same apocalyptic pattern as chapters 40-66.
As Gileadi explains,
An Entity Synthesis. A common error of scholars is to interpret prophecies about figures or entities featured in the Book of Isaiah on the basis of historical facts. The only valid basis for interpreting such prophecies, however, is not to read into them historical data, but simply to view the book’s entities as they appear in the text; what matters is not the historical facts surrounding Isaianic entities, but the way they are characterized in the book. The characterization of Isaianic entities, which centres on three pairs of major figures, is generally a blend of things historical and things not historical, and consequently its intention is not to depict entities as purely historical.
With regard to Assyria, for example, it is significant that the Book of Isaiah deals with an Assyrian Invasion (see 5:25-29; 7:17-20; 8:7-8, etc.) but not with an Assyrian Exile, although both were major events of Isaiah’s day. For the theme of Israel’s Exile, where apparent in the Book of Isaiah, occurs throughout as a presupposition, being nowhere explicitly predicted. Moreover, whereas the Assyrian Invasion of Israel represented a historical ....
"
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22avraham%20gileadi%22%20isaiah%20deutero
15 1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスは,キュロスに関するイザヤの預言について何と述べていますか。
15 最後に,1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスの証言を考えてみましょう。ヨセフスによると,イザヤ書にあるキュロスに関する預言は西暦前8世紀に書かれただけでなく,キュロスもそれらの預言を知っていました。ヨセフスは,「キュロスは,[イザヤ]が210年前に残した預言の書を読んでこれらのことを知った」と書いています。ヨセフスによれば,キュロスはそうした預言を知っていたので,快くユダヤ人を故国に帰還させることまでしたのかもしれません。キュロスは「書かれたことをぜひ自分の力で実現させたいという思いにかられた」,とヨセフスは書いています。―「ユダヤ古代誌」(秦 剛平訳),第XI巻,i章,2節。
16 イザヤ書の後の部分でバビロンが優勢な強国として描かれているという批評家たちの主張について,どんなことが言えますか。・・・・
”
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102001021
少数の一人説学者さんもいるようであり(モルモン以外で)、翻訳されたりネットで少しでも・・・内容は英語でも見当たらないかぁぁ・・・
”[Richard L. Schultz, "Isaiah, Isaiahs, and Current Scholarship," in James K. Hoffmeier and Dennis R. Magary, eds., Do Historical Matters Matter to Faith? A Critical Appraisal of Modern and Postmodern Approaches to Scripture (Wheaton, IL: Crossway, 2014), Kindle edition, chapter 10.]
https://www.jefflindsay.com/LDSFAQ/bomproblems.html
ま、エホバの塔のでも読んで、あれですか、バランスとって・・・
その先生方の何割くらいの方々が、第二イザヤ・高等批評等の学説のほうにひかれ・影響・感化・啓発され・納得し・受け入れてるんでしょう。
まぁ、信仰上での聖域とでもいいましょうか、各自のみなさんがそれぞれ持つ、到達しえた至宝の極み、神聖不可侵の至聖所とでも、そんなところにも結びついていくんでしょうかぁぁ・・・
ふむふむ。第二イザヤとか知りませんでした。
https://www.fairmormon.org/archive/publications/deutero-isaiah-in-the-book-of-mormon
あなたがモルモン書を本当に受け入れるなら、Deutero-Isaiahの「問題」はありません。しかし、私はモルモン書がその挑戦に耐えるだけでなく、問題が実際にイザヤの性質を明らかにするために使用できると感じていますなぜこのような深遠な本であるかについての光。
・・
これらのテキストはいずれも2000年以上のものであり、纪元前200年頃であるが、Qumran Isaiahのテキストと現代の聖書(すなわちKing James Version)が基づいているヘブライ語のテキストとの違いはほとんど存在しない。これは、イザヤを一つの本として扱う伝統が少なくとも紀元前200年にまで遡ることを示しています。これはバビロンから帰ってから約300年後のことであり、
・・・
色々研究してるんですね。
>すべての状況証拠が、モルモン書の動機がクリスチャンと原住民との和解であったと告げているとしか思えないのです。
こちらも超興味深い。
英語なんだわさぁぁ・・・
https://www.shields-research.org/Books/Sperry/Spry_Isa.html
ミドラシュ説を支持するなら、金版の実在を否定しなくてもすむので、今後、こちらの説を教会は取り入れていくのでしょう。
神に導くためなら、なんでもありというのも真理からかけ離れているように感じますが、あらゆる宗教に共通する常套手段ですので、しかたありません。
こうなるとポール・H・ダンも糾弾できないような気がします。
宗教の欺瞞と言えば、それまでですが、わからないのは神の意図。
神は偽りともいえる手法を使って、ご自身のことを知らせるのでしょうか?
神はもっと正攻法でご自身を証するのではないかと
思ってます。
悪魔以上に老獪な知恵を持っているのでしょうが、
正義や正直というものが神の要素であれば、どうも
釈然としない気持ちが残ります。
>神はもっと正攻法でご自身を証するのではないかと思ってます。
ですね。
既存の教会を「彼らの信条はことごとくその目に忌まわしいものであり、信仰を告白するそれらの者たちはすべて腐敗」していると非難した神からの啓示を受け入れて設立されたLDS教会ですが、何か不誠実だと指摘されるたびに「他の教会でもやってることだ」みたいな言い訳を繰り返すのはどういうことなんでしょう?
最初の示現もモルモン書も創作だと仮定すると全てに説明がついてしまうのがなんとも悲しいです。
信者さんで学者脳傾向が優勢になれば悩ましい状況になるんでしょうね・・・
学者脳マインドの世界では予言の霊的賜への信心とかって最小限に縮小・無視・否定されるのがあたりまえの常識みたいな・・・
そんなことなんでは??
この件だったら、たまWEBとしては、そのヨセフスの記録なんかを信じたいですかねぇぇ・・・
ttp://www.geocities.jp/waters_of_mormon/hozon/bomsyouko.html
それは、アルマ書第7章10節で、(アルマにとっては未来であるのですが)イエス・キリストがわれわれの先祖の土地であるエルサレムで生まれられる、と書かれている部分です。
モルモン 書を批判する人々は,「モルモン教かキリスト教か、エルサレムかベツレヘムか」と言うバ ンパースティッカーまで作りました。そして、嘲るような口調で、「簡便してくれよ。どん な子供だって、イエスがベツレヘムで生まれたことは知っているよ。」と言います。
ーーー
学術的証拠も真理の一部ではありますが、宗教の本質ではないし教会もそれを無視しているわけではありませんし。
イエスがエルサレムで生まれたとしても矛盾ない。とわかっても信仰は取り戻せない人が多いように思いますし、果てしない捏造の証拠探しをやっても詮無い気がします。
そういった意図の記事ではないでしょうし。
・・・いいのかそれで?
まぁ、もち、第二イザヤの学者さんグループのひとではないわけでしょうが・・・
北の10支族はアッシリアの手によって追われたわけですが、彼らが戻ってくるときアメリカの地にロシア・パワーが入ってるとか想像で・・・
現在、米国トランプ大統領自身はロシアとの対立を主張してはいないような・・・
教会歴史ではチャレンジャーさんタイプにはいるんだろうか・・・聖文に関係とすれば・・・教義と聖約67章あたり?!・・・
「あなたがたの目は、わたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアのうえにあった。あなたがたは彼の言葉を知り、また彼の不完全なところを知った。そして、あなたがたは自分の心の中で、彼の言葉よりも優れた表現をするために知識を求めてきた。このことはあなたがたも知っている。
06 さて、あなたがたは『戒めの書』から、まことに戒めの中で最も小さいものを捜し、またあなたがたの中で最も賢い者を選びなさい。
07 あるいは、あなたがたの中のだれかを選び、最も小さい戒めと同等のものを作るならば、そのとき、あなたがたはそれらが真実であるとは分からないと言っても義とされる。
08 しかし、あなたがたがそれと・・・」
『Isaiah Decoded』(2002)というのけっこう驚くべきような面白い内容らしい・・・
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=avraham%20gileadi
教会管理本部に公開図書室があってさぁ、何冊かそういう関連の置いてるなぁぁんてことになればえぇどすのぉぉ・・・
何はともあれ、信奉組の飛び散らす火花で、眠れるような平信徒の勉強意欲に活を入れて・・・という効果ありでしょうかぁぁ・・・
ジョセフスミスは、イザヤ書を使って、何を主張したかったのか?そんなことをふと思いました。
と言うのも、モルモン書も、教義と聖約も数ある旧約の予言の書から、イザヤ書の引用が極端に多いんですね。
私が思うのに、ジョセフがイザヤ書を多用したのは、
1、メシヤ誕生の予言
2、ステーク確立の予言
3、終末期の警告
等が、ジョセフの宗教観と一致したからじゃないでしょうか?
教会のテキストに共通している事ですが、モルモンが聖書を読むときは、モルモンの教義に関連した聖句だけを抜き出して、教義解釈の根拠とする手法がほとんどです。
その観点から見ると、イザヤが一人でも百人でもモルモンの教義には全く関係ない、って思えますね。
旧約聖書自体が、もともと裏心ある人たちが編纂したものだと考えているので、「真実」と言う言葉は、使えない様な気がします。
蓋し、ギリアデさんの40年以上にもなるというイザヤ研究は聖書学者やユダヤ教ラビ等々から高い評価、賞賛を受けてるということだね、まぁ、モルモンの神学として触れるようなのは除外なのかもですが・・・68年にラビになろうということで当時住んでいたオーストラリアからエルサレムに移住、元々、ユダヤ系オランダ人の両親。で、図書館でモルモン書と出会い、改宗、73年ユタ州に。結婚9人子供・・・
彼の研究が探求するモルモンにとってせめてもの救いみたいなもんでは・・
https://vimeo.com/128617821
誰か字幕でも作ってぇぇ・・・
ということでたまWEB学者脳なしですが、その本でも手に入れて・・・なぁぁんてね・・・
https://www.youtube.com/results?search_query=avraham+gileadi
「ってきたのである。
その頃、収入が不安定だったからだろうが、漫画家としてある一定のレベルにある状態(前述の通り)と、水戸ワードで受けた祝福師の「貴方は自分に与えられた才能を如何なく発揮して成功を得る!!」祝福をそう易々と捨てるわけにはいかない。
すると、次にMi副ステーク会長がやって来て、「諦めなさい!モルモンは一生安定したサラリマンが最もふさわしい!!」と面接してきた。
それを断ると、今度はSi監督が同じことを指導したが、それも断ったため、「断食献金」から受ける援助資格を打ち切ってきた。
日本の教会では、アメリカでは常識の「たとえ少額でも十分の一を正しく払うメンバーの生活費を教会が面倒をみる」約束は顧みられず、指導者のサジ加減一つで打ち切られる。
後3か月後に、再掲載と連載の目途が立つ寸前に、教会に足を引っ張られるのは真っ平で、神の教会でこんな指導は絶対あり得ない出来事だった!!
その為だろう、いざという際にメンバーが献金している「断食献金」の額が、日本だけが桁違いにプールされ、当時のPBO高級職員達の「自分たちが指導する日本のメンバーが如何に優秀か(誰も援助を受けたがらない=優秀)を示す指数」……つまり自分達の優秀さの目安になっていた。
」http://lds-2.jugem.jp/?_ga=1.186226144.873832387.1486201293
そういうことでは、やっぱり教会は伸びないよね・・・
その指導でどれほどの会員がお休み、去ってしまったことでしょう・・・
指導方針とかってどういうことだったのかぁ、このネット時代、正直・公正の判断がつくよう、公開してほしいもんですなぁぁ・・・
」 (2ニーファイ12)
「16 タルシシのすべての船、すべての麗しい船舶に臨む。 」 (イザヤ2)
は、七十人訳にはあるようだにゃ。
リグランドさんの解釈、間違いの可能性ありやなしや?!
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/37a6e87b5376e5937468ca4a7202a658
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/4a3bf87c3aff581b76f1d48f54cf2c70
それなのに来年の日曜学校学習ガイドではタルメージの著書からしっかり引用されていたりしますけど・・・どういうこっちゃねん???
公式な教義じゃないけれど参考になるから使ってる的な言い訳を護教派の方々はしますが、私にとっちゃそれは不誠実としか思えないんですよね。フェア・モルモンみたいな護教サイトは不誠実の塊で私は大嫌いなんです。
そんな私ですが、今年はどうしたことか旧約聖書を教える教師に召されましたが、LDS系のサイトは一切参考にせず、普通のクリスチャンのサイトから学んで教えました。反応はまちまちで、良く分かったと言ってくれる生徒もいれば、教会の日曜学校ではそういう内容を教える場ではないと言う人もいましたが、召されている間は好き勝手にやらせてもらうつもりです。
来年はクビかもしれませんが・・・(笑) 何十年も教会員をやってきましたが、今年は人生で一番聖書を学んだ年となりました。
主から召されているのですから、自信をもって頑張ってください。
日曜学校と言うと、来年から、隔週ですね。
ますます、モルモン会員の聖書学習が減りますね。
正典を理解できないモルモンが増えそうですね。
蛇足ですが、「モルモン」禁止令(教会の名前をモルモンと言うなって話)ですが。
LDSもダメだってね。
モルモンタバナクル合唱団等、散々使ってきたのにね。
末日聖徒イエスキリスト教会タバナクル合唱団・・・って長すぎ。