[アラム語/英語対訳新約聖書]
パレスチナに住んだイエスや弟子はギリシャ語ではなく、アラムを母語として話していたのに、なぜ新約聖書はギリシャ語で書かれたのか、新約聖書でヘブライ語を話す信徒という表現が出てくるが、本当はアラム語ではなかったのか、また、二つの言語はどれくらい違っていたのか、など疑問があった。それを自分なりに今の時点でまとめてみた。(ブログ記事の目的は一部自分のためのノートのような役割を果たしています。)
まず、アラム語はセム系言語の分類でどのような位置にくるのか、次のようにまとめられている。(飯島紀「アラム語」国際語学社、2001年)
東セム語・・・・アッカド語、バビロニア語、アッシリア語
北西セム語
カナン諸語・・ウガリット語、フェニキア語、ヘブライ語
アラム諸語・・古アラム語、国際共通 (linguafranca) アラム語、一部旧約聖書のアラム語、中期アラム語、現代アッシリア語、パルミラ語など
南西セム語・・・アラビア語、エチオピア語など
[セム系言語の系統樹]
そして、その歴史を概観すると次のようになる。
~BC1,200 古アラム語時代
BC740~BC300 国際共通 (linguafranca) アラム語
BC170 一部聖書にアラム語
BC200~AD700 パレスチナアラム語
AD100~ シリア(アラム) 語
[アラム語関連の歴史が項目で記されている]
上の国際共通アラム語は、アッシリア、バビロニア、ペルシャ帝国に広く使用されたリングァフランカで、古代ユダヤ民族は捕囚から帰還後、民族の伝統的言語(ヘブライ語)を用いなくなり、周囲の世界の支配的言語(アラム語)を日常語として用いるようになった。そのため、旧約聖書のヘブライ語が読めなくなり、アラム語訳を必要とした(「タルグーム」と呼ばれるものがそれ)。同じセム系の姉妹言語であるが、ヘブライ語とアラビア語同様異なる言語なのである。(わたしはヘブライ語が時代の変遷とともに、変化して新約時代のユダヤ人には読めなくなった。それがアラム語であると誤解していた。ちょうど、現代人が日本語の古文を読めなくなっているように。)
イエスも弟子たちも普段このアラム語を母語として話していた。例えば、新約の中に
「タリタ・クミ」マルコ5:41
「アバ」同14:36
「マラナ・タ」Iコリント16:22
「ラカ」マタイ5:22 (口語訳で「愚か者」と訳されている)
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」マルコ15:34
とあるのはアラム語である。従って、福音書記者たちが用いた伝承資料の少なくとも一部はアラム語で書かれていた可能性が高いが、アラム語で書かれた新約聖書の写本は現存しない。
時に耳にするアラム語で書かれた福音書、ペシッタ訳(AD1世紀~5世紀。シリア語訳であるが、アラムはシリアを意味する) は、しかし、いろいろな写本を照合してできた信頼できる学術的なものになっていない。むしろ、だんだん付け加えられていき、「受けの良い」「通俗的な」(peshitta) 聖書と呼ばれるに到った。それで、例えば「らくだが針の穴を通るよりやさしい」(マタイ19:24) は「綱 (rope) が針の穴を通るよりやさしい」とこのアラム語新約聖書にあっても、研究者はこれをよりオリジナルに近い本文と見ていない。
参考文献
飯島 紀「アラム語:イエスの誕生、キリスト教の全貌」国際語学社、2001年
榊原康夫「旧約聖書の写本と翻訳」いのちのことば社、1972年
榊原康夫「新約聖書の生い立ちと成立」いのちのことば社、1978年
田川建三「書物としての新約聖書」勁草書房、1997年
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「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」マルコ15:34はアラム語。
一方マタイの「エリ・エリ・ レマ・サバクタニ」はヘブライ語。
この部分はイエス様が詩篇第22篇を引用したのですから、
22:1わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
ヘブライ語で語っても日常語のアラム語で予言の成就として語ってもおかしくない。
しかし、少なくともヘブライ語で書かれた旧約聖書は読めたはず。
なので、両方読めたし喋れたかもと。
詩篇22篇を二通りの形で引用していたのですね。やはり、ヘブライ語とアラム語がよく似ていることをここでも確認できました。
私には専門的な知識はありませんが、専門的に研究されている方々がおられるので、その恩恵に与ることができることを本当にありがたいことだなーと思っています。
アダムは、神様と話すことができました。私たちがするように声を介したものであったかどうかはわかりませんが、きっと神様の言葉を神様が意図された通りに理解できたでしょうね。
アダムのあと多くの時を経て、地上ではさまざまな言語が使われるようになりました。また、今でさえ新しい言葉が生まれる一方、死語となる言葉があり、世代間で理解ができないという状況があり、言葉そのものが変質するということもあります。
多言語の発生でひとの意思疎通は困難なものとなりました。それだけでなく、ひとの言語の概念が、神の言語の概念と異なってしまうことで、ひとは神の語ったことを正しく理解できない状況に置かれている・・・。
実際、私は聖典は日本語訳のものを使っていますが、時々訳が原典とは違っていることを見つけます。違和感を感じて自分から調べてみることもあれば、意図せずに出会うこともあります。
「そのとき、わたしは、国々のくちびるを変えてきよくする。彼らは、みな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える」(新改訳ゼパニヤ3:9)
「その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、
すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる」(口語訳3:9)
くちびる(サーファー)は言葉。神は、諸国民の言葉の概念を変えて、神の概念をはっきりと理解させる、つまり主の御名を正しく理解し心を一つにして主に仕えることができるようになさると宣言されている。
聖書を日本語で読むことの限界を知った時、自然と原典で読むことに意識が向かい始めました。
ヘブライ語がゼパニヤで言われる神が選ばれた言語なのか、今は分かりません。でも、それによってもっと旧約聖書に親しみを感じるようになりました。
ギリシャ語で記録された新約聖書にアラム語を残したというのは、そこに何らかの意図があるかも知れませんね。
長くなりましたが、コメントを書きながら、ちょっとダニエル書を調べていたら偶然にこんなのを見つけましたので、最後に一つ。
ダニエル5:25-28。メネー、メネー、テケール、ウーファルシーン、神様は「その指で」宮殿の壁にお書きになったとあります。これは、アラム語だということですが、バビロニアはアッカド語だったかなと思います。なので、ペルシャザルはその解説をダニエルにさせたのでしょう。面白いな~と思いました。
●Basics of Biblical Aramaic: Complete Grammar, Lexicon, and Annotated Text
●A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament: Based upon the Lexical Work of Ludwig Koehler and Walter Baumgartner
私的にはヘブライ語とアラム語はスペイン語を理解できる人がポルトガル語やカタルーニャ語をまなぶような差異かと予想しております。
ご注意ください。
聖書で書かれている緊迫感を映像化すると
こんな雰囲気になります
https://www.youtube.com/watch?v=lPV7TlPxnkA
このように不当な仕打ちを受けいろいろな
苦難をうけて人類を救ったか考えれば
日曜日も感謝の中ですごせるのではないでしょうか。
マリアはちょっと停滞しておりまして、元気もらうかなと立ち寄ってみました。
えっと、アラム語ですね。「マラナ・タ」ですけど、正しくは、「マラナカ」と発音するときいていますが。「THA]なのに?不思議だなーと思った記憶があります。違っていたらすみません。以前は、確かこの表記「マラナタ」と聖書には載っていたそうですね?今は、「主よ、来たりませ!」って日本語に訳されてますけど。
黙示録の最後もこれで締めくくってありますか?
どこの教会だったかな、今でもこ言葉が祈りの言葉として使われているようですよ。
この短い言葉に込められた想いを推し量るに、自分にこんな気持ちがあったかな、祈ったかな、とすごく考えさせられました。「主よ、来たりませ!」正直に自分の生活を省みる時に、とても言える言葉じゃない。こういう祈りができる生き方をしないとなーと、心が鎮まりました。
余談ですが、釈迦は経典はないほうがよいと思っていたらしいです。でも、弟子が是非残して欲しいと頼み込んだ。しかたなく、釈迦は許可するけれど、条件として、口語、普通に使っている言葉を使用するように指示したそうです。でも、パーり語で書くべきところをサンスクリット語で書いてしまった。難しい言葉ならちょっと威厳が出るかな、と思ったんでしょうか。
外典「シラの書」にはまたこんな風に書かれています。「他言語に訳すと、本来の意味から離れてしまうよ」
イエスの話した言語はアラム語。他の言語になると本来の意味が損なわれる可能性がありましたね。
聖書を読むたびに痛感します。空間的に時間的に言語の概念に差異があることを自覚して読まないと。
「柔和な人たちはさいわいである。彼らは地をうけつぐであろう」。詩編37:11で「柔和なものは国を継ぎ」とありますが、ヘブライ語の「柔和」と言う言葉には、「心のうち砕かれた」という意味が含まれてるそうです。日本語の発想では「穏やかな」とか「優しい」みたいな・・・全く違うんですね。なるほど、でした。
映像は、時として人間の本来あるべき思考を鈍らせることもある。人の思考は簡単にコントロールできるらしい。とか。
教会のビデオにすごい顔したおじさんが「CRUCIFY HIM!CRUCIFY HIM!」と連呼すると、だんだんその言葉が広がってすごいことになる。もう、本当に憎たらしい!!って感じで。こんな人たちがイエス様を十字架につけたんだよね!と・・・・。
で、イエスさまは殺されたのか。彼は、屈辱を味わわれたけれど、最後まで無抵抗でした。聖書にも、みずから、命を捨てられたとある。本質的には殺されていないんです。となると、キリストが「殺された」悲劇のお方となるかどうかは、全くわたしたち次第ではないかとつらつら考えています。
すみません。テーマとは全く関係ない話でした
アラム語は俯瞰できるようにざっとまとめただけで、全く詳しいわけではありません。・・maranatha について、発音が最後「カ」となるのではということですが、それらしい情報は見つかりませんでした。