
東大寺南大門 金剛力士 阿形像
運慶と快慶作と言われている南大門の有名な8mもある木像で、何度も目にしてきた。
最初に出逢ったのは、中学3年の修学旅行だった。
そのリアルな立像をただ唖然と見上げ、恐れのような感情を抱いて、それが人の手によってつくられたとは思いもしなかった。
ガイドさんの話は聞いていたが、作者の運慶・快慶ときいても、その名が自分と同じ人間とは想いつながらなかった。
それはまるで自然に生まれてそこに立っているという感じだったのだ。
人の業というものに意識が及ばなかったのだろう。
社会人になって何度も奈良を訪れる機会があり、
その際にも南大門の仁王さんは必ず拝顔していたが、私の識域にある仁王像は、最初に見た鮮烈なイメージを超えるものではなかった。
これが昼間見る仁王様。
ところが先日、夜の南大門で観た仁王像はそんな私の識域から一気に人のなせる神業を見せてくれたのだ。
それは照明による効果だったのかもしれない。
昼間に見あげているだけでは観ることのできない深さを感じて、身がすくんだし、彫られた筋肉や表情、着物の襞、指の一本に至るまで、立体的に人の業を感じたのだ。
見事な創造の業、人の可能性の大きさに固唾をのむ一瞬だった。
人間に出来るんだ!という不思議な思いが湧き上がった。
はじめて私は、仁王像の前で、違った見方をしている自分に気付いた。
そう、
この仁王像は、人間の可能性をうたっていたのだ。
人間の創造する可能性
想像することの無限の領域を守る番人として奈良時代から立っているということを。
想像して作りだす
その人の業の素晴らしさを私達に教えてくれているのだと。
時代を超えて、奈良の仏師たちの息吹を感じた一瞬だったのかもしれない。
こちらは吽形像 定覚・湛慶 の作と言われていいます。
味わうこの身に
奇跡の朝
とわに来る
「自分に般若の智慧がわかると、すべての人がそのままでいいと肯定できる。
悉皆成仏だ。みなそのままでいい。自然法爾だ。
自分で般若の智慧がわかって、人間性の本質をついて、
人類進歩の終点に着くと、すべてがそのままでよかったと肯定ができる。」
山田無文老師のお言葉は、ここに尽くされていると思います。
老子の言う「無為自然」とも通じる真理ですし、迷いの私達にとって、すべてがそのままでよかったと肯定ができることはまさに人類の進歩の終着点ですね。
進歩を便利になると勘違いしている人間には見えない至福と言えるでしょう。
今朝草引きの最中に、身体が痛いほどの集中豪雨に見舞われました。
ほんの数十分で通り過ぎましたけれど、
草引きに集中しているとほとんど気になりませんが、滝に打たれるような雨がふと私に龍を思わせました。
今描いている絵と滝のような雨と、草引きの手の動きが混然一体となって、草をつかむ手が龍に見えました。
この至福の瞬間を無文老師は説いているのかもしれません。
それは私たちが、自分の力でつくるものでも達成するものでもない。
その思い上がりを消したとき、おのずと終着点に立っていると云うべきなのかもしれません^ね^
私には難しい法典は分かりませんが、それでもいいと、無文老師に言われているような気がします。
ありがとうございます。
無文老師の次なることば、楽しみにしております。
おはようございます!
山田無文老師の御言葉
お読みくださいまして
有り難うごさいます。
そしてのしてんてんさんのご感想☆
彼岸につくとは渡ること。
つまりそこには道がない。
往きて悟りを得るためには
道なき上を渡るしかない。
論理(道)を捨てて飛び越えなさいと
言うことなのでしょうね。
みなが渡って成就する菩提(悟り)とは
結局思考の妄想から解放された唯一無二の宇宙を
意味しているように思われます。
(のしてんてん画伯)
のしてんてんさん
私もそのように思います。
まさにのしてんてんさんは
一を聞いて十を知る!
ご紹介させて頂いています私も、
のしてんてんさんから学ばせて頂いています。
有り難い限りで^す^☆
それでは再び、山田無文老師の御言葉です。
よろしくお願いいたします。
∞∞∞∞∞∞∞∞
そこで自分が終点に着いてみると、
「一仏成道、観見法世界、草木国土、悉皆成仏」だ。
自分に般若の智慧がわかると、すべての人がそのままでいいと肯定できる。
悉皆成仏だ。みなそのままでいい。自然法爾だ。
自分で般若の智慧がわかって、人間性の本質をついて、
人類進歩の終点に着くと、すべてがそのままでよかったと肯定ができる。
自分に俳句という心境が開けると、見るもの聞くものが句の世界だ。
自分に歌心というものがわかると、見るもの聞くもの、
嬉しいことも悲しいことも人生の深刻な悩みでさえも、
美しい歌に歌い出されてくる。文学に目が開けてくると、
見るもの聞くものが美しい文学の対象になってくる。
罪悪さえも、煩悩さえも、お互いの文学的な対象になってくる。
ロダンは、
「どんな顔でもお互いの美の対象にならん顔は一つもない。
知性的な顔の人を見れば、もちろんこれは彫刻の対象になる。
美の対象になる。知性のない人の顔は被われたる知性として
眺めることができる。愛情に富んだ顔は、これは立派な美の対象になるが、
愛情の現れん顔も、ベールを着た愛情としてつかむことができる。
どんな人の顔でも彫刻の対象、美の対象にならん顔は一つもない。」
といったそうですが、自分の心眼が開けてくると、
この世界に捨てるものは一つもない。憎むべき人は一人もいない。
嫌う底の法は一つもない。すべての人を拝んで合掌されていく人格ばかりであると、こういう境地が得られるのであります。
北野元峰という曹洞宗の館長さんが、ある時、
刑務所に説教を頼まれて行かれた。
じっと囚人の顔を一まわり見回して、手を会わせて、
「みなさま仏さまばかりじゃ。どなたも仏さまばかりじゃ。
気の毒なことじゃ。ご苦労なことじゃ。」といって、
ボロボロ涙をこぼされたら、囚人がみんな顔をうつむけて
泣いてしまったということであります。
それ以上はいうこともなければ、いうこともできなかった。
ただ、「みんな仏さまだ、みんな結構な仏性をもっておるのに、
気の毒じゃ、お気の毒じゃ」と、たったこれだけだ。
こちらに般若の智慧が開けると、いかなる邪悪な者でも、
いかなる悪人でも、いかなる罪悪の者でも、拝んでいける境地が
開けてくる。それが、羯諦、羯諦だ。我も渡れり、人もまた渡れり、
みんな渡ったのだ。波羅羯諦だ。実に人類の行き着くべき終点に着いた。
これから何百年かの革命をして、そうしてやがて人類が
着かねばならん終点へ、今このままで着いたのだ。
煩悩の身のままで終点に着いたのだ。罪悪のままで、
この肉体をもったままで、人類の終点に行き着いたのだ。
般若の智慧というものは、実にそういう喜びの叫びであります。
羯諦、羯諦、波羅羯諦。私も救われた、みんなも救われた!
人類の最後に行き着く所へ着いたのだ、きたのだ!
波羅僧羯諦。みんな着いたんだ、みんな救われたのだ、
私が救われると同時に世界中が救われたのだ!
菩提薩婆訶。人間がこの地上に生まれた、人類の最後の目的が、
今日ここで解決されたのだ!
これは釈尊の胸の中からついて出た大きな喜びの叫びであります。
羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏。
山も川も草も木も成仏した、みんな救われた。
こういう心境が般若の心境でありますが、
この言葉を唱えることによって
私どもがそういう心境を呼び起こし、
呼び起こすことができるならば、
まさにこれが般若の呪文であります。
∞∞∞∞∞∞∞∞
今日はここまでにしましょう
今も不滅の生命を体現なさっておられます
山田無文老師のお声が聴こえています。
のしてんてんさん!
のしてんてん流に
のしてんてん龍見地からも
お読みくださいまして
ありがとうございます♪
私も学ばせて頂きまして感謝申し上げます☆
水道の
お水が甘いと
感じる朝
夜明けの空気
奇跡の息吹
(まかこ)
今日もどうぞ善き時をお過ごしくださいませ☆
感謝一念
まかこ 拝
彼岸へすべて渡りぬ、菩提は成就されたり
私も渡った、人も渡った、向こうの岸へ渡った。
みんなそろって向こうの岸へ渡った。そして悟りが成就した。
(山田無文老師)
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。
(等覚寺雅道)
二つの訳を比較するとより分かりやすいですね。
彼岸に往くとは渡ること。つまりそこには道がない。
往きて悟りを得るためには道なき上を渡るしかない。論理(道)を捨てて飛び越えなさいと言うことなのでしょうね。
みなが渡って成就する菩提(悟り)とは結局思考の妄想から解放された唯一無二の宇宙を意味しているように思われます。
人類の進歩の終点とは、とても分かりやすい言葉だと思います。
教えられることがたくさんありました。
紹介ありがとうございました。
おはようございます!
虫の声
しみて無文の
肌涼し
(のしてんてん画伯)
有り難うござい^す^!
虫の声
しみて無文の
肌涼し
熱きこころの
紅葉冴えて
(真鹿子)
です^ね^;;
それでは悟りの道
山田無文老師の般若心経の御言葉
∞∞∞∞∞∞
菩提は悟りであります。
薩婆詞というのは、完全に、確実にできあがった、
成就した、という意味になります。
羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆詞。
渡りぬ、渡りぬ、彼岸へ渡りぬ、
彼岸へすべて渡りぬ、菩提は成就されたりと。古人は、
我も渡りぬ
人もまた渡らせ畢んぬ
彼岸へあまねく渡らせ了れり
かくて、悟りの道成りぬ
と翻訳されております。
私も渡った、人も渡った、向こうの岸へ渡った。
みんなそろって向こうの岸へ渡った。そして悟りが成就した。
これが般若のとなえごとであります。
今日、社会生活の上で進歩という言葉がよく使われます。
進歩でなくてはいかん、私どもは日々進歩して行かねばならんと。
しかし、その進歩の終点に着いたらどういうことになるのか、
いつまでも進歩、進歩ではいかんはずである。
終点があるはずた、終点についたらどういうことになるのか。
そこはやはり、平和でなくてはならん。大きな人類愛でなくてはならん。
お互いが平和に愛し合っていくという世界に到着しなければならんと思う。
血を流したり、闘争したり、喧嘩したりするのは、ごく低級な運動である。
ほんとうに進んできて、進歩の最後に到着したら、お互いが奉仕の精神を持ち、合掌の精神を持ち、感謝の心を持って、みんなが愛し合っていく世界が
なければならん。それが進歩の終点でなくてはならんでありましょう。
その進歩の終点を、私どもは今日の政治の上では見ることはできませんが、
般若の智慧がわかるならば、この人類の進歩の終点に着いたことになるというのであります。般若の智慧がわかって、自分と社会とは別ものではない、
自分と人類とは別ものではない、一体であるという悟りが開けるならば、
それが進歩の終点に着いたことです。人間性の本質だ。これだけはもう変わらない、絶対に変わらない人間性の本質をついたものだ。
人類進歩の終点をつかんだのだ。これが羯諦だ。
∞∞∞∞∞∞
今日はここまでにしましょう☆
山田無文老師は穏やかにかつ熱くお話くださいます。
宮沢賢治先生の(すべてがわたくしの中のみんなであるように
みんなのおのおののなかのすべてですから)とやはり通じていますね♪
それにいたしましても投稿が遅くなりましてすみません
私には不眠症は無縁です。
歯医者さんでも夢うつつ状態で半分眠っていますけれど、
快眠症?快眠過ぎるのも問題です^ね^;;
目が覚めれば、ここはどこ?
今つねに奇跡 奇跡体!
奇跡宇宙から発生している
奇跡宇宙の一部
奇跡体だ!
の、意識も
問題児ですが (汗)
それでは今日も一期一会の1日
善き日をお過ごしくださいませ☆
それにしましても
のしてんてんさんの
龍魂草引き☆素晴らしいですね!!
感謝感激∞8∞
まかこ 拝
泥棒さんは最も大事なものを見落とした。
今も気付かずに、お金の悪夢を見続けているのでしょうか。
文字となった山田無文老師が直接に見せてくれた人間ドラマなのかもしれませんね。
それだけ御縁のあったまかこさんこそ、果報者というべきなのでしょうね。
その(2)が楽しみです。
虫の声
しみて無文の
肌涼し
のしてんてん
こんばんは!
それではのしてんてんさんのご質問、
「悟りの道というのは、結局みな同じ
一つの点にたどり着くということでしょうか」
これから引き続きお答えさせて頂きますけれど、
その前に山田無文老師と私のご縁ですが、
相当に深いかもしれません。と言いますのも、
たしか山田無文老師とは平成9年か10年頃に
ご縁を結ばせていただきまして、当時わたしは常に、
しおり挟みの無文老師にバックに入って頂き、
いつもご一緒させていただいておりました。
ところがある時、私がぼんやりしているものですから、
置き引き盗難に遭遇、バックが有るべきところから、
影も形も消えている喪失感に愕然、びっくり仰天
ほんとうに驚きました。けれどもバックの中の
しおり挟みの般若心経の本を見て、泥棒さんは
何を感じているのだろうと、考えたりもしていました。
すると2,3日後に警察から連絡があり、
バックがある建設会社の裏庭に放棄されていたようで、
勿論お金は小銭までなくなっていましたが、
しおり挟みの山田無文老師は何事もなかったように、
無事もどって来られ☆有り難き深いご縁を♪今も感じています。
のしてんてんさんもきっと山田無文老師とご縁が
おありになると思います☆
では、無文老師の熱情の籠った語り口はそのまま
ご紹介させて頂きたく、長文になりますので、
分割しまして投稿させていただきます^ね^
どうぞよろしくお願いいたします♪
遅くなりましたがごゆっくりおやすみくださいませ☆
まかこ 拝
意欲があって何かが生まれるよいうよりも
何かがあるから意欲が生まれるというのではないかと・・・
その何かを意欲が引きだして来る。
そう考えると、この自分の中に何があるのか、それこそ興味津々です^ね^。
この世に己一個の救済などありえないということと受け止めました。
そもそも、「私」があるのではなく、空なる真実はただ一つののですから、その彼岸に至る道はすべての他者を救済する道となるということなのでしょうね。
本当に心に響く言葉をありがとうございました。
山田無文老師のお話も興味津々です。
よろしくお願いいたします。
意欲があれば、きっかけやヒントを自然と拾えるようになる…それが目指すものを叶える…と。それこそが熱意や意欲の持つチカラだと。
真鹿子様のコメントを見て、この考えと重ねて思った事があります。
「自分を救うため、もっと救うためには他人も、も~っと救うためには世界を」…きっとかつての修業者たちは…より大きな救済の為に…全身全霊を持って、最後の最期まで
”より素晴らしい救い”を目指し続けたのでは…と。
貴重な記事、貴重なコメント…その全てに感謝を!
こんにちは!
東大寺南大門、金剛力士、阿形像と向き合っている
のしてんてん少年のあどけなく純粋な驚嘆の様子が見えます^よ^
運慶☆快慶☆抜群!超人ですよね。
一部の狂いもなくそれでいて雄大で、
彼岸と此岸を行き来しているかのような
仁王像の陰影美☆
まさに人間の可能性をうたっていますね♪
人間の創造する可能性
想像することの無限の領域を守る番人として
奈良時代から立っているということを。
想像して作り出す
その人たちの業の素晴らしさを
私たちに教えてくれているのだと。
時代を超えて、奈良の仏師たちの
息吹を感じた一瞬だったのかもしれない。 (のしてんてん画伯)
そこで私が閃きましたのが、
般若心経の最後のインパクトマントラの
ご真言です。
ご存知のように般若心経は、
数あるお経の中でも最も短いお経と伝えられており、
本文わずか262文字、
題号「摩訶般若波羅密多心経」を入ましても272文字の
一文字宇宙の貴重なお経☆
私のところにお越しいただいております
山田無文老師の般若心経の本では、
日本では、玄奘三蔵法師翻訳の般若心経がよまれているようです。
そもそも26歳の玄奘三蔵法師が、中国を脱出して、
危険を顧みず艱難辛苦インドへ行き、
各地で経典を求め、梵語(サンスクリット語)を学び、
なんと17年が経過、再び危険な帰路を、大般若600巻
その他数多くの経典を持ち、長安に戻られ、
般若心経を翻訳なさいましたのが、
玄奘三蔵法師48歳の西暦649年、
なんという強靭な信念でしょう。
その玄奘三蔵法師が翻訳なさいました
般若心経の最後のマントラ☆
羯諦。羯諦。波羅羯諦。
波羅僧羯諦。菩提薩婆
日本では、
ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテー
ハラソウギャーテー・ボージーソワカ
山田無文老師は真言は訳するものではなく、
唱えるものだとおっしゃいます。
私も人間の認識力は微々たるもの、
むしろ全身全霊で唱え感得するものであるとも感じますが、
それでも無文老師は訳してくださっています。
そこで山田無文老師のお話をご紹介させて頂く前に、
私がYahoo!の知恵袋ので知りましたベストアンサーの
等覚寺雅道さん素晴らしい解釈でしたので、
ご紹介させて頂きますね☆
∞∞∞∞∞
ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテー
ハラソウギャーテー・ボージーソワカ
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、
彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。」
今の自分にしがみついても、
どこにもしがみつく自分などありません。
もとより自己を構成する五薀(色・受・想・行・識)は
皆空(実体ではない)のです。
五薀皆空(五薀は実体ではない)なればこそ、
変遷万化する自己も世界も、
あるがままに成立しているのです。
もしも、「五薀」などの「法」(ダルマ)が
実体であるならば、この世界には変化もなく、
自己の人間としての成長もないでしょう。
「空」「無常」「無我」なればこそ、私のような凡夫でも、
六波羅密(布施・持戒・忍耐・精進・禅定・智慧)を具足して、
菩提を証得することが可能なのです。
すなわち瞬間瞬間と今の自分を打ち破って、
新たな自分に蘇生する前向きなありかたを
「往ける者よ、往ける者よ」と表現しているものと思います。
イチロー選手が「今日の自分に満足してしまえば、
明日の自分はないわけだし、野球人としての成長は止まります」
と言っています。彼は宗教家みたいに「無我」だ「空」だ
なんて言わないけど、彼なりに「往ける者よ、往ける者よ」と
当たり前のように実践しているからこそ、
前人未到の大記録を達成出来たのだと思います。
「彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ」とは、
精進する瞬間瞬間は、自己否定の瞬間であると同時に
自己実現の瞬間でもあるのだから、
そこには自己や自己の対象に対する「執着」は微塵もありません。
自分は自分のみで有るのではない。
他のすべてに支えられて活かされているのだと、
「縁起の理法」を覚る時、
自ずと他者に対する感謝の念が湧き、
他者の為に少しでも役立とうとする気持ちが芽生えます。
これが「菩提心」すなわち大乗の菩薩の心です。
「彼岸に全く往ける者」とは、如来のことですが、
そこには此岸(迷いの世界)から彼岸(悟りの世界)に往ける者という意味と、
彼岸から此岸に来たれる者という
二つの意味合いを一身に体現した存在だという事です。
仏陀の悟りとは決して現実と遊離した別世界にあるのではなく、
この現実世界こそ仏陀の悟りの世界であることを
説いているものと思います。
度一切苦厄
「一切の苦厄を度したまえり」という意味は
観世音菩薩「自行化他」に亘る救済を意味し、
仏教の目的が自分だけの救済目指すものではなく、
他者の救済を実践することの中に、
自己の悟りもあることを
説示したものであると受け止めています。 (等覚寺雅道)
のしてんてんさん長くなりましてごめんなさい。
けれども、等覚寺雅道さんは、元教員をなさっておられまして、
平成23年に仏界に入られましたので、
こちらは等覚寺雅道さんの貴重な遺言書でもあります。
有り難いですね☆
山田無文老師のお話は、次回にいたし^す^;;
今宵もどうぞごゆっくり
善き時をお過ごしくださいませ☆
いつも感動をありがとうございます
感謝感激
まかこ 拝
作品を見て頂けてうれしいです。
龍の図は始まったばかりでして、これから進化していかねばならない未熟さを感じております。
勿論それが意欲の原動力なのですが、そう思えば未熟さは喜ばしいことなのかもしれませんね。
ところでひらめきというのは、へび太のように瞬間にやって来て、完成に至る。
あの興奮は、ものづくりにとって生きているもっとも至福の瞬間なのかも知れません。
隔たりなく真実とつながっている。
そのつながりが、時間を超えるということでしょうね。
第二、第三のへび太を楽しみにしております。
折師さんもそれを他人事のように楽しみにしていたら、ひらめきが加速されますから、肩の力を抜いてものづくりを楽しみましょうね。
いつもありがとうございます。
「なぜ~さんはあんなにリアルな絵を書けるのか…きっと”見ている画素が細かい”んだと思う。」
そして想像のものを作ることが多い人間として…若輩者には畏れ多い言葉ですが
「”くっきりと見えた時、どんなに想像の存在でも作れる”」
…食器蛇類のへび太は特にそうでした。発想0.1秒から完成まで5分足らず…短距離走真っ青の速度でした。
のしてんてん様の”のしてんてん 龍の図”を実際に拝見させていただいた時、想像の存在にも関わらず…鱗の色の濃淡、ひげの持つ質感、手の肉感…それは一つの実物でした。間違いなくあの龍は”いる”…と。
きっと運慶・快慶が見た仁王の姿が見えたのだと想います。今までのしてんてん様が培ってきた心の目がその姿を捉えたのだと。
だからそれに至る道が自然と見え、運慶・快慶の隣に立てた…そんな素晴らしい体験ができる境地に至った…。
素人ながら…そんな事があってもいいと想いました。
こういった話は見ていて励みになります。これからも楽しみにさせていただきます!