先日、のしてんてん喫茶室(コメント欄)に集うお客様の間で、禅の話題に花が咲きまして、私もカウンターごしに興味深く話を聞かせてもらいました。
ことの発端は 吾は空なり、新たな道(未知) 8 で提唱しました、ぐうたら禅(食禅)に取り組んでいるという むっちゃんさんの話が発展して、食禅があるのなら、ウオーキングは禅にならないのかと、頬杖ついてチョコレートをかじりながら申します。
門外漢のマスター、コーヒー豆を取りこぼしながら目を宙に泳がしておりますと、
今まで静かにホットココアを飲んでおられた、まかこ女史が助け舟を出してくれたのです。その話が実にすばらしく。マスターもコーヒーポットを持ったまま聴き入ったほど。
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千葉県館山市の曹洞宗の西光寺さん、
むっちゃんさんのご質問に
お答えしてくださっているようなコーナーがありましたので、
割愛しても長文になるのですが、
ご紹介させていただきますね。
さて、ご質問の主旨ですが、
禅には座る禅以外に、立禅、動禅があるということですが、
結論から申しますと、立禅も動禅もあります。
さらに申せば、食べる禅もあれば、寝る禅もあります。
泣く禅もあれは、笑う禅もあります。歌う禅もあれば、
「糞する禅」(ごめんなさい)もあります。
決して冗談で申しているのではありません。
禅とはつまり生活総てと捉えるべきなのです。
生活総ての基本が「挫禅」に始まるべきだということです。
それは挫禅を総ての生活に応用することで、
「禅的生活」を送ろうという意図です。
ですから禅は形においては限定されていません。
では禅とはなんでしょうか。
それを一言や二言で言うのは難しいことですが、
あえて一言で申せば「なりきり」ということです。
「なりきり」とは無我無心の境地であり、
悟りの世界に最も合理的に通じる手段なのです。
悟りの世界はこの「なりきり」の境地が
入り口になっていると言ってよいでしょう。
その「なりきり」を狙った公案こそが、
有名な「無字の公案」なのです。
「なりきる」ことで「一切皆空」「諸法無我」
「涅槃寂静」といった「世界」を感得することを
狙っているのです。その感得を悟りというのです。
その「なりきり」の最良の手段が「挫禅」なのです。
ですから挫禅こそ悟りの入り口ということになるのです。
さらにほんとうにその意味が理解されたときこそ
「挫禅そのもの」が「さとりの姿」と
捉えることができるのでしょう。
まさに挫禅こそ安楽(さとり)の法問なのです。
すなわち、挫禅と同じ境地で、
「起きる」「顔を洗う」「食べる」
「歩く」「トイレに入る」「働く」「寝る」
ということです。
このことを「立禅」「動禅」と言うのです。
つまり言い換えれば、生活すべてが
修行の場であるということなのですよ。
しかしいずれにしろ基本は「挫禅」であると
いうことを忘れてはいけません。
以上ですけれど、むっちゃんさん、
長くなりましてごめんなさい。
それにしましても、ずいぶん割愛させて
頂きましたけど、こちらのお坊さま
すごく熱心で挫禅への熱い思いが
強烈に伝わってきまして感動!感謝です☆
つまり禅的生活とは、生活総てに
無心になって集中、無心三昧、熱中すると
いうことでしょうか。私自身、悟りとかは、
気持ちがそこまで行かないのですが、
今に集中、無我無心で今に熱中するとは、
よいことだとおもいます。
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どうです?まかこさんのお話に、手を合わせたくなりましたよ。
禅 なんていうと、えらいお坊さんが無我の境地に入ってするもの。修行、苦行に耐えなければできないものと、半ば自分とは縁のないものと思っておりました。
しかしそのえらいお坊さんが、寝っころがっても禅だとおっしゃる。
我々庶民にも、禅の御利益があるんですね。
ぐうたら禅にも、えらいお坊さんが良しとおっしゃる。
お墨付きを頂いた訳です。
さあさ、みなさん。
何をやってもいいのです。
自分の気に入ったことをやりながら、禅の御利益を頂こうではありませんか。
『質問しますよ?』『どうぞ(論破しますし~)』
とでもいう感じの、決まり文句、と、私はとらえています。
……違うのかもしれませんけど。
かの『次郎物語』にも禅問答のエピソード、ありましたね。
諸国を巡って修行を積んで帰って来た弟子へ、和尚さまは問う。何を学んだ?と。
弟子のお坊さんは、無言で砂地に円を描く。それだけか、と和尚さまに叱責され、お弟子さんはさっさとその円を消した。
『実に面白いだろう?』
朝倉先生にそう言われ、彼の生徒たちはキョトン。
ついでに読者の私も、キョトン……。
もちろんお話の中では、ちゃんと朝倉先生は解説しつつ彼の生徒たちを諭しましたけど。
そういう、凡人には理解出来ない境地が、禅……かと思っていました。
凡人の当たり前の暮らしでも、『禅』に触れる機会がある、というのが、なんだか楽しくなってくる気がします。
こんにちは!
この度は禅の記事をご掲載くださいまして、
有り難うございます。
禅の基本は、挫禅による瞑想
宇宙と一心同体であるという真実
無我無心の境地感得の
持続にあると心得ておりますが、
この境地が叙々にでも日常生活に応用、
日本の世界の日常生活に根付いて行くと
良いです^ね^
極微力ながらひとえに精進させて頂きます☆
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
いつもご厚情感謝申し上げます
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませね♪
真鹿子 拝
出逢った自分になりきるということなのかもしれませんね。
何をやってもいいから、自分になりきる。
芝居をやっているわけではないですが、
なかなか自分になりきれないのが凡人ということでしょうか。
この度のコラボでは、
心にあった五次元の感覚が、言葉のリズムに現れたように思えて、喜んでいます。
ありがとうございます。
まかこワールドがますます広がりますように願っております。
今日もよき日でありますよう^に^。
基本、すんごく楽しいことです。
だけど。
ある意味、すんごく恐ろしい。
私は……そうです。
一個人の人間として、一番恐ろしいこと。
それは、一切誤魔化さずにむき出しの自分自身と対峙すること。
私はそう思っていますね、以前から。
ごまかしのない自分自身と向き合うのは、清々しいです。何度かやったので、それは間違った感覚ではないだろうと思います。
でもずうっと向き合い続けてると、消耗して死にたくなります(……えっ⁉ とりあえず生きている、が、座右の銘のむっちゃんが?……死にたいような気分になる、程度の感覚でしょうが)。
向き合い方がやや、歪んでいるのでしょうけどね。ウォーキングをしていて死にたくなったことはないですから(笑)。
カッコつけたい、自分を守りたい、そういうふにゃふにゃした諸々が、対峙は恐ろしい、そう言わせているかもしれないです。
凡人(私?)はなかなか、なりきれない。
演じるのが恥ずかしい、役者やめとけや級のヘボ役者、というヤツでしょうか?
だけど芝居(生きて対峙すること)、好きなんですよね➰(苦笑)。
結局、そこに尽きる。
マスター、ばちっと目が覚める、濃いめの珈琲、お願いいたします!
のしてんてん様
こんにちは!
こちらこそ有り難うございます☆
私がとぼとぼひとり歩きをしているところ、
のしてんてん船長が助け船を出してくださいました。
『二つは一つ 宇宙今空間エンドレス円相螺旋を 永遠に歩いて行く』の
リーダーはのしてんてん画伯です☆
お陰さまで私は朗読波動サーフィンをさせて頂きながら
歩を進めることも出きるようになりました♪
感謝感激で^す^!
『なりきり』のことですが、私ものしてんてんさんと同感です。
なりきりの言葉と出会った瞬間、
自分になりきることだと直感しました。
つまり私たちは、
この宇宙でそれぞれが唯一無二の
かけがえのない貴重な存在です。
なりきりということは、
この貴重な個性を活かして、
深く無心になって、自分になりきるということ、
つまり、宇宙同根多種多様万物一体の
この宇宙で唯一無二の
かけがえのない貴重な個性を
今も常に与えてくださっている
この宇宙と一体であることを自覚、
宇宙と一体になりきり
いまだ創造過渡期である
宇宙の創造に貢献できるように
個性を磨き、
世界に、家族に、仲間に、自分に
貢献できるように
宇宙と一体になりきり
宇宙と一体である
自分になりきろう!と
おもいを巡らしているのですが、
むっちゃんさん☆こんにちは♪
ばちっと目が覚める、濃いめの珈琲いいですね!
このところ、我が家の炬燵さまが、
妙に冬眠引力を発揮、睡魔を放つので (汗)
マスター、わたしにも、むっちゃんさんと同じ濃いめ珈琲
お願いいたしま~~す
それと、☆たらこチーズトーストサンド♪おねがいします。
むっちゃんさんもいかがですか♪
家でもマヨネーズかけて焼くんですけれど、今ちょっと
たらこチーズトーストにはまってます^^;;
腹が減っては戦は出来ぬ。
ナンでしたら今夜の夜食のお供に、我が家のポトフ、お裾分けさせていただいてよろしいでしょうか?
ありあわせ野菜(ブロッコリーの芯というか軸というのかも、厚めに皮をむいて一緒に煮込んじゃいます)の、いかにも家庭料理なポトフですけど、我が家では好評です。
たらこチーズトーストのお供に、よろしければどうぞ ☺。
おふくろの味ですね。遠慮なく頂きます^^
スープ、やっぱり美味しいです。
このお野菜の素朴な甘味がなんともいえません♪
それにポトフほど、お野菜の芯をシンプルに美味しく頂ける
お料理って他にないですよね。
キャベツも丸ごとヘタを切り、
4つ割りに切って芯ごとポトフにするのも、
芯が美味しくて、もちろん葉も美味しいですけれど、
ブロッコリーの芯も柔和なお味♪
むっちゃんさんの優しいおふくろの味に癒されました。
お腹いっぱい胸いっぱい、感動をご馳走さまです☆
のしてんてんマスターにもお裾分けさせていただきたいです。
マスター、この美味しい味覚を想像(創造)して
味わっていただけますと幸いです。
どこか禅問答のようですけれど
想像は創造と連動、想像出来ることは創造出来ること
表現方法は様々です♪
むっちゃんさん!有り難うございます☆
感謝∞8∞八方拝です。
むっちゃんポトフ大歓迎です。焼いたチーズに湯がいた軸を輪切りにして、たらこをほぐして振り掛け、トーストでサンドしました。口に合うでしょうか?
ところでむっちゃん、ちょっと聞き捨てならぬことを口走りましたな?
「でもずうっと向き合い続けてると、消耗して死にたくなります」ですと??
それはむっちゃん、あなたが欲と戦おうとしているからですよ。
きっと正しいのは、自分でも言っているように、
「向き合い方がやや、歪んでいるのでしょうけどね。ウォーキングをしていて死にたくなったことはないですから」
ということでしょう。
なりきるを、おのれの欲をむき出しにすることととらえたら、それは間違いです。
なりきりとは、まさにその欲が自然に落ちていくのを待つことです。
その欲が落ちたとき、まかこさんがいわれるように、宇宙そのものになる。それがあなたの正体。なりきるのはそこなのです。
なりきるのは確かに恐ろしい。
でもその恐ろしさは、欲の炎に身を焦がす恐ろしさではなく、ただ未知なる世界に身を託す恐ろしさです。
変化する自分に抵抗しなかたら、すべてを受け入れる覚悟さえ持ったら、むっちゃんのウオーキングは、深い至福の禅となるでしょう。
ねぇ、まかこさん。
なりきりは、ただ自然に帰ること。
そして自然には、死にたいという感情はないと思いますよ。
オタマジャクシの尻尾のように、まれにカエルになるために自ら壊れる細胞はあるでしょうが、それもみないのちを生かすためもの。
だから、むき出しの自分に怖がることはありません^よ^
おのれの自然に気付いたら、不要の欲は秋の木の葉のように落ちていくのです。
さあ、当店自慢のエスプレッソです。
コクのある濃いコーヒーで、おめめパッチリです^よ^。
禅の御利益を頂こうではありませんか
善は急げです