(十薬 ドクダミが咲きはじめました)
信じるということは、そこに知性が働いているということですね。
知性は物事を己の頭脳で理解しようとします。
当然理解を超えるものごとにであったり、先の見えない事柄に対して、プラス思考が働くとそこに信じるという行為が生まれるわけです。
逆にマイナス思考が動けば、不安や恐れが先立ち、自己否定や逃避が心を支配します。
信じるという行為は、崇高な人格をつくりあげる条件になるかもしれませんが、それはけっして人間の終着駅ではないのです。
知性の安定した姿と言えますが、けっして知性を超えるものではありません。
学生時代、夏休みを利用して友人と二人で南アルプスに登った事があります。山ふところが深いだけに、苦労して山頂に立つのは格別の気分です。
ところがその日天候が最悪で、雨のテントを出て、赤石岳を目指そうと歩きはじめましたが、まさに山頂を目前にして、風が強くなり、雨が霧になって、私たちは前に進めなくなりました。
尾根に立っていられず、しゃがみこんで木の根にしがみつかなければ飛ばされてしまいます。
友人はしばらく立ちすくみ見えない山頂を睨み据えていましたが、
「ヤブさん帰るぞ」そう言って道を反転したのです。
その一言が、私たちを救ってくれました。その日台風が南アルプを直撃しました。それを知ったのは自力で下山てからでした。ふもとの小屋から、山頂付近を飛ぶヘリコプターが見えましたし、山道の橋がすべて流されたという話も耳に飛び込んできました。何人かが滑落したというニュースも聞きました。
あの時の友人の姿を今も忘れません。
あと数百メートルからの撤退でしたが。彼の判断はその時、完全に知性を超えていたのです。彼は「勇気ある撤退だ」と言いましたが、全身を打つ雨と風。そして視界を奪うガスの中に立ち尽くして、感じたのだと思います。知性を超えて、山を感じ、空気を意識していたに違いありません。そして自然に生まれてくる思考に従った。それは私にも同じでした。
あの時成功を信じて進んでいたら、その一瞬の遅れが、下山ルートを奪われ、滑落するかヘリコプターのお世話になっていたでしょう。
知性はこんな場合、迷うしかないのです。行けば成功するかもしれない。その思いはどこまで行っても消えません。金鉱堀りが、あと数センチ掘れば金脈に行き当たるかもしれないと思うのと同じことです。
そればかりか、知性は、今までの苦労を引きあいに出してきます。ここで引き返したら今までの苦労はどうなる。弱虫と笑われるぞ。出てくるマイナス思考を力ずくで抑え込もうとします。
友人の立ち尽くす姿は、その迷いであり、「ヤブさん帰るぞ」は、まさにその知性の悪循環を断ち切った瞬間の、確信の声だったわけですね。
知性を超えて、今体験している心を受け入れる。それはどんなものにも共通する人間の心のあり方だと思うのです。
人間が神とともにある思考といえばいいかもしれません。
知性は一つの輪をつくって人間を囲い込んでいると想像すればわかりやすいでしょうか。
自分という限られた存在をつくりだしている知性の輪に、風穴をあける。するとそこから宇宙の真理が流れ込んで来る。誰もがその能力と権利を持っているのです。
呼吸が阿弥陀さま…となると、頭がグルグルするようです(笑)。
頭がグルグルする分、知性が働いているのですね。