陸奥のパワースポット

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十和田湖・・・国立公園指定のころ・・・

2022-07-31 10:33:24 | 旅行

今から86年前、昭和11年(1936年)に十和田湖が国立公園の指定をうけた。

 日本の国立公園指定は、国立公園法に基づいて昭和9年3月に瀬戸内海、雲仙、霧島が、同12月に阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇が、そして昭和11年2月に十和田、富士箱根、吉野熊野、大山と12カ所が指定されたことに始まる。

内務省が大正9年に国立公園にふさわしい候補地を16選び、その後昭和3年まで調査して、法規の制定、調査会・委員会による箇所選定、区域設定、地元との調整、関係各省協議、委員会への指定諮問などをたどって昭和9年の公園誕生に至ったものとされる。

 候補地の現地調査に当たったのは、内務省嘱託の田村剛と中越延豊とされる。

 

 

十和田湖

 

 

十和田湖が候補になる以前にも色々な動きがあった。

 

★明治38年 小坂鉱山寮吏員和井内貞行がヒメマス養魚に成功。

★明治42年 地質学者の原田豊吉、湖沼学の田中阿歌麿が調査。

★明治41年 鳥谷部春汀が大町桂月を十和田湖に案内。桂月が『太陽』に「奥州一周記」を寄せ十和田湖が全国に知られるようになった。

★明治45年 武田千代三郎が「十和田保勝論」を発表し、「十和田保勝会」を設立。会が宿泊施設や遊覧船も経営。秋田県に「秋田顕勝会」が設立。

★明治35年 小笠原耕一が法奥沢村長就任。凶作を機に救済事業の一環で奥入瀬渓流沿いの林道開削を大林区署に働きかけ休屋までの工事が完工。

★大正11年 十和田鉄道が開通。古間木口と毛馬内口整備。

★大正14年 十和田国立公園期成会結成。

★昭和2年 東京日日・大阪毎日新聞が日本新八景選定。十和田湖は読者投票で3位、湖沼部門で1位。

★昭和3年 十和田湖と奥入瀬渓流が国指定の名勝・天然記念物に指定。

★昭和6年 法奥沢村は十和田村となり村あげて国立公園運動に。

★昭和9年 省営自動車が青森から和井内まで、翌年毛馬内まで開通。

★昭和11年 国立公園の指定を受ける。

★昭和31年 八幡平地域を加え「十和田・八幡平国立公園」となる。

 

中湖

 

 

奥入瀬渓流

 

 

馬門岩

 

 

近年は、「ジオパーク」「世界自然遺産」「緑の回廊」「森林生物遺伝資源保存林」などの国レベル地球レベルの自然公園が各地に指定される時代となったが、これら全ての要素を兼ね備えている《十和田》には、常に原点を見つめつつ対峙していかなければならない・・・・・・

 

 

 

【参考資料①】

国立公園候補地調査概要―十和田国立公園候補地―

内務省衛生局 1930年(昭和5年)

国立国会図書館デジタルコレクション、永続的識別子

【今日風記述 (文責kosamu) 】

 

1 調査区域   十和田湖を中心とし、北は八甲田、南は大湯に至り、奥入瀬川、蔦温泉等を含む地域とし青森県上北郡・南津軽郡および秋田県鹿角郡にまたがる。

 

2 公園区域   上記の十和田湖、奥入瀬川、蔦温泉、八甲田連峰および櫛ヶ峰、横岳等を含む約48.000町歩の地域が適当で、ほとんど全部が国有林に属する。

 

3 国立公園としての素質   十和田湖は海抜400m、最大幅10km、周囲60km、面積約710町歩で水深が330mに達し、地学上はカルデラ類が成因で、湖の周囲には標高800mを上下する峰(みね)巒(みね)を繞(めぐ)らし、最高の御子(おんこ)岳(だけ)は1.054mに達する。中湖(なかのうみ)は陥没後新たに噴出した中湖火山の火口であり、御倉(おぐら)半島および中山半島はその東西の火口壁を代表しており、十和田湖の傑出した風景は実にこの両半島によるものである。中山半島はその背稜に小峰が起伏し、西岸すなわち西湖(にしのうみ)に面する側は出入りが多く、岩礁(がんしょう)、島嶼(とうしょ)、樹林の風致(ふうち)は精妙(せいみょう)で、その東岸及び御倉(おぐら)半島の西側を含む中湖の湖岸は断崖で、御倉(おぐら)半島の側は千丈幕の偉観となり、またその尖端は断崖に囲まれた御倉山の溶岩丘が屹立し、景趣豪宕(ごうとう)にして、中山半島の西側との優れた対照を現わしている。これに濃密な原始的森林と神秘的な碧潭(へきたん)とを併せ、殊に秋色に顕われる独特な火山湖水景は本邦に比べるものがないばかりか、優に世界的風景として誇示することが出来る。

 しかも十和田湖より流出する奥入瀬川は十和田風景の名声を倍加するものとの定評あり、湖尻子ノ口より下流焼山橋に至る間は奇勝3里に及び、西岸絶壁をなし、急湍(きゅうたん)・はやせ、激流、深潭(ふかふち)、瀑布等交錯し、大小無数の島石を泛(うか)べ所々に支流を併せ、また飛瀑を懸け、蓊(とう)鬱(うっ)たる森林と羊歯その他の草本は本渓流を一段と趣致を深かめ、その水位に変化がないことが本渓流にこの特徴を賦与する重要な素因となっている。実に奥入瀬川は本邦唯一の渓流風景型であり、繊細幽邃(ゆうすい)な景致(けいち)をなすものである。

 蔦温泉は、林間静寂な窪地にあり、湯量が豊富でかつ高温である。付近には月沼、鏡沼、重(菅)沼、長沼、赤沼等幾多の神秘的な小山湖を有し、赤倉山麓より黄瀬川にわたる緩斜面には、濶葉樹林が良好な生育を遂げ、所々に瀑布を見、一帯の風光はまた一景勝たるに恥じない。

 さらに蔦温泉より八甲田山、櫛ヶ峰等にかけてはブナ、アオモリトドマツ等の森林が広く展開し、その付近はすでに海抜900mを超え、八甲田山の八峰、赤倉山、乗鞍岳、櫛ヶ峰、駒ケ岳等が裾野を接して併聳(へいしょう)し、雄大な景趣をなし、登山幕営(キャンプ)等に適し、谷地、猿倉等の温泉はその好個の “足掛り地”となっている。

 八甲田の頂き(ピーク)は、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、前岳、酸ヶ湯岳、小岳、高田大岳、《石倉岳》等の円錐火山より成り、十分に登山者の興味をひき、殊に高山植物に富んでいる。酸ヶ湯(大)岳の西麓にある酸ヶ湯は湯量が多く八甲田山登山の “足掛かり地”となっている。また八甲田山の北方にも田代元湯・新湯等がある。

 十和田湖の夏季の平均気温は18.5℃で7月中の最高が24℃、最低は12℃である。冬季の平均気温は零下3.1℃で、湖面は休屋・宇樽部の沖合および沿岸の浅所で氷結し氷(ひょう)殻(かく)の厚さは1~2尺を普通とする。降水量は年2.300㎜で8月は比較的降雨は少なく、4、8、10月は晴天が多い。初雪は10月初旬、終雪は4月下旬である。すなわち避暑地として優れ、新緑・紅葉の時季における遊覧のほか冬季のスキーイング・スケーチングにも利用できるかもしれない。

 十和田湖・八甲田山一帯の地勢は概して平緩で、四方に出入口を有し、域内およびそれらの出入口の沿道には多数の温泉地がある。青森、秋田、弘前、盛岡等の都市に近く、恐山、岩木山、八郎潟、男鹿半島、田沢湖等の著名な風景地もまた遠くはない。

 要するに、この区域は湖水、渓流、森林等を併せた我が国の代表的風景にして国立公園として極めて適当なもののひとつである。

 

 然るに農林省には三本木において新たに水田約3.000町歩を開墾する計画があり。その灌漑用水として十和田湖を利用し、子ノ口に水門を設け、灌漑時は奥入瀬川に800個(1立方尺/秒)ないし900個の水量を流下させるものだという。これのために十和田湖水位は現増水位より5尺5寸低下させることとなるようである。

 十和田湖は現在増水位と渇水位との差は1尺6寸ないし2尺で、奥入瀬川は平時170個ないし500個の流量があるという。すなわち上の計画によれば灌漑時には現在の平時における2倍ないし3倍の水量となり、登山者が最も多い盛夏にあってはかえって涸渇(こかつ)を見るであろう。奥入瀬川は年中流量に著しい増減がないことによって特徴ある水景を顕わしていることは既述したところであるが上計画によれば流量の大増減を来たし、増水の場合は河中における無数の島石は川水を阻み(はば)、川岸、島石等は浸水の結果、特殊の風趣を添えている地被、蘚苔、草本、下木類の流失があるであろうし、減水時には名瀑「銚子の瀑」および同渓水を涸渇させ、徒(いたずら)に残骸をあらわすのみとなり、また十和田湖岸は現渇水位より3尺5寸低下させられることにより、その部分が裸出して湖岸の風趣を減殺するに至るにちがいない。要するに上計画は奥入瀬川および十和田湖の風景に重大な影響を及ぼすおそれがある。

 

4 施設並びに利用の現況  十和田湖の利用者は年間約15.000人で、5月より10月に至る間が利用季節であり7、8月の利用者が最も多数である。

 十和田に至るには下記の数路がある。

  • 三本木口(三本木~子ノ口9里半、自動車を通ず、途中奥入瀬の絶景あり)
  • 八甲田越(青森~子ノ口16里半、酸ヶ湯、谷地、猿倉、蔦の湯を経、焼山にて三本木口道に合す)
  • 三戸口(三戸~宇樽部9里半、自動車を通ず)
  • 黒石口(黒石~滝ノ沢10里、黒石~諸温泉7里半、自動車を通ず、沿道、温湯、板留、二庄内、沖浦、温川の諸温泉あり)
  • 大鰐口(大鰐~大川岱8里、切明温泉、白地山を経る)
  • 小坂口(小坂~鉛山5里、鉛山峠を経る)
  • 毛馬内口(毛馬内~生出6里半、自動車を通ず、大湯温泉を経る)

湖畔には子ノ口より宇樽部、休屋、発荷、生出、鉛山、大川岱を経て滝ノ沢に至る道路があり、このうち休屋~生出1里半は自動車を通じ、また上記各地間に汽船の便がある。

 十和田湖畔において宿舎があるのは、子ノ口、休屋、宇樽部、発荷、生出、滝ノ沢でこれらを併せて4~5百名を収容し得る。

域内の温泉場の中で浴客が最も多いのは酸ヶ湯で、浴客は年1万人にのぼり、客舎が数棟ある。しかし質素な湯治場であって、その他の下の湯、谷地、猿倉には各1~2の客舎があるがさらに簡素な自炊湯治場である。

域外では毛馬内口における大湯は湯量が極めて豊富で旅館が13戸、200名を収容し得る。黒石口における温湯、板留にはそれぞれ旅館のほか客舎10数棟あるが、その他の二庄内、沖浦等は田代元湯、谷地と同様に簡素な温泉場である。

5 国立公園としての計画  目下遊覧路として利用されつつあるのは、三本木口、毛馬内口の二路で、また十和田湖および大湯における設備はもっぱらこれら遊覧客を相手とするもので、八甲田山および酸ヶ湯付近の地獄等では、主として酸ヶ湯の浴客によって利用される現状であるが、今後さらに黒石、滝ノ沢、発荷、子ノ口間および青森、酸ヶ湯、蔦、焼山間を自動車道とし、なお二庄内、要目❔、酸ヶ湯間も将来自動車道とするべく、子ノ口、休屋、生出、滝ノ沢等は旅館合宿所を設ける箇所とし、発荷付近には特に外人向けホテルを設け、宇樽部・大川岱は貸別荘地とし、発荷、ムツシ❔等は幕営(キャンプ)地とするのが良い。湖上は釣魚(ちょうぎょ)、舟遊の便を与え、蔦、酸ヶ湯、田代元湯等は旅館ホテル等を完備させ、谷地、猿倉等は簡素でも快適な設備を有する足掛かり地とする。赤倉山、石倉岳東方、同南方田代萢(平)付近等は幕営地・山小屋を設け、御倉、中山両半島の逍遥道、御子岳登山道、子ノ口~滝ノ沢間湖畔回遊道、赤沼、月沼等の回遊道・逍道、また御花部山~松見滝~蔦湯間、御花部山~乗鞍岳~酸ヶ湯間の歩道を開鑿(かいさく)する等全域風景の利用に遺憾なきを期さなければならない。

農林省は重要な区域3カ所すなわち十和田(7.418町歩)蔦(877町歩)および八甲田(827町歩)に保護林を設定し、十和田保護林の区域は名勝および天然記念物に指定し、営林当局は十和田風景の保護ならびに利用上の施設計画を立て、漸次(ぜんじ)これの実現を図りつつあり大公園計画と背馳しない。また十和田保勝会および秋田顕勝会は夙(つと)に十和田風景の開発に努め、すでに旅館遊船等の設備にその実現を見たもの二・三に止まらず、これらは大公園計画に寄与する所少なくない。

 

 

馬門岩

 

 

【参考資料②】

 

偶然目にした資料

十和田湖遊記  矢尾太華 記

 

《序に》

『この行は、大正十年春、予青森客遊中、十和田湖保勝会長知事春藤嘉平同じく副会長内務部長鯉沼巌両氏より、今夏秩父高松両王子殿下が十和田湖へ行啓せられるので、この機会に国立公園の指定を得る運動の議があり、その景勝紹介宣伝の目的として東都知名の詩人、画家および三、四の新聞社を招きたいのでその斡旋を頼みたいと言うので引き受けることにした。

 早速帰京して遊戯三昧会々同人を主軸とするか考えで、幹部の今泉也軒(雄作)、瀬川独活、黒木欽堂、榊原鉄硯、生出大壁等の諸老に諮り人選して左記18氏の快諾を得たのでその旨鯉沼内務部長に報告しそれぞれ招待状が送られた。

 前記のほか、結城蓄堂、田口米舫、森半渓、磯野霊山、佐藤華岳、福田浩湖、服部春陽、中村長案、予を加えほかに新聞社の方は日々の原田信造、報知の金井紫雲、国民の近藤宅治、都の石川宰三郎諸氏と出迎えのため上京の石田  主事とである。はじめ田辺碧堂、松林桂月両氏も参加に決定しておったが、碧堂は支那行旅程繰り上げのためと、桂月氏は胃腸病のため入院したので参加出来なかったのはまことに残念であった。』

 

 

《中略》

・・・・・・・

この焼山は文豪大町桂月が隠棲しその終焉の地である蔦温泉の分岐路である。一行は始めの旅程を変更したので蔦行きは果たせなんだのが恂(まこと)に残念であった。凡そ(およそ)十和田湖に入る路は、秋田県方面からと、青森県黒石(か)方面と奥入瀬口とである。奥入瀬渓谷は難路であったので、遊覧者の多くは皆秋田口より入ることが便利であった。

この度両王子の行啓(ぎょうけい)で道路の改修をしたので奥入瀬渓の奇勝が世間に知られるとともに、この路よりする遊覧者が激増したのである。

奥入瀬渓の関門である馬門岩で車を降りた。馬門岩は渓谷中の最も奇勝であって、数丈の巉岩(ぜんがん)障壁でありまた渓流中に凸巨岩が嶠(きょう)立(りつ)して恰(あたか)も自然の岩門をなしておる。その下に板橋が架かって、ここからは馬背によることも困難で、徒歩による外は無いのである。約弐

里の道程であり、老人連には少し無理かと気遣ったが、この地の出身である (県議)小笠原八十美氏の好意で数人の青年団の援けにより元気に進行することが出来た。

前行の蓄堂が予を顧みて行々吟するものの如くなるも水声のためよく聞き取れぬ。後に予に示したこの時の即吟は「馬門橋頭不度馬  馬門岩下馬空囘  今日昭朝遠通路  群馬容易過渓来」この馬門橋を過ぎると小径崎嶇(く)として右に巡り左に曲がり千古不抜の老樹鬱蒼として枝を垂れ、枯木路に横たわり落葉堆(うずたか)く湿苔滑らかにして、山ヒルと言う吸血虫もあり歩行を阻むこと甚だしい。あるいは丸木橋を渡ることにも下には激流急湍(たん)岩をも砕き、あるいは渦をなす飛沫脚底を洗う。水勢凶々(きょうきょう)囂々(ごうごう)として竦(しょう)然(ぜん)たる思いで進む。勝景の処に至る毎に華岳、浩湖、春陽等ブックを出しては写生をするので、前列の老人連に遅れること二三丁。路傍数茎の山百合の花赤く咲き香(かお)るのを見るのはまことに風情がある。

行くこと十数丁にして巍(ぎ)我(が)たる対岸千仭(せんじん)の峭(しょう)壁(へき)に一道の瀑布淙々(そうそう)として懸りておる。これが白雲滝である。この渓谷中に三、四も瀑布があるが、その中で最も美観優れておる。なお数丁にして大瀑がある。源を十和田湖に発しておる奥入瀬河流がここに至って直に落下するのである。その水勢の激しさ鞺々(とうとう)として岩壁を震わせ水煙岸樹を覆(おお)う。壮観比類なしと言える。子ノ口の滝と言うのであるが

記者某が小ナイヤガラが良いと言う。

元来十和田湖の宏濶(こうかつ)、幽邃(ゆうすい)、温雅(おんが)な天衣無縫とも言うべき神(しん)仙境(せんきょう)として天下の名勝をほこる所以(ゆえん)のものは、この奥入瀬渓谷の奇勝と相俟(あいま)ってはじめて大を為すと言うべきであろうか。

一行は険路をあえぎ進んで、湖口の子ノ口に達した。老人組はなかなか元気で、なんら疲れの色もなく、却って若手の方がやれやれといった顔つきである。

子ノ口に至って景観は一変しておる。丁度暗室から外へ出て茫洋(ぼうよう)たる水面を見る感じである。将に天空開濶(かいかつ)水天一碧である。

遠く奥羽諸峰透迤(とうい)として連なり、八甲山の雄姿を雲表に望み、近くは御倉半島淡煙の中に横たわり、長汀曲浦あたかも輪を描けるようである。ゆえに輪湖とも言うのであろう。

ここは遊覧船の発着場である。人家も三、四戸あり茶店休憩所もある。また奥入瀬川の川口で川幅は数十間ほどの広さで急流ではあるが水深はさほどではないようである。

一行に鯉沼部長ほか二十余人二艘の気艇に分乗して、御倉岬を廻り中山半島付近の蓬莱(ほうらい)、甲冑(かぶと)、大黒の島嶼を過ぎて、その一角の休屋の小波止場に着いた。午後5時頃である。

この浜は文字通りの白砂青松の長汀である。少し歩くと秩父高松両殿下行啓所と新しい木標が建ててある。さらに丁余の所、老樹の間に宏壮な屋宇が見える。この度新築された休屋講演場で、両王子の御駐泊所となり、また一行の宿舎に当てられ実に幽邃(ゆうすい)な境である。

この休屋は遊覧その他の中心地であり、付近の秋田県寄りには有名な姫(ひめ)鱒(ます)の養殖場もあり交通も頻繁で相当の村落をなしておる。

この木の香も新しい大広間で、浴後記念撮影をして夕饗の宴となる。姫鱒の美味を始め湖山の珍 に酒杯おおいに侑(すす)む。

欽堂まず詩あり。蓄堂相次ぎ、予もまた就(つく)る。(後出)さすがに老人組も疲れが出たようで十時頃分室し寝につく。霊気肌に徹し秋よりも涼しい。

翌(八月)八日も快晴である。この日は各自の希望に任せて、水陸二隊に分かれて、湖上に船を浮かべて景勝を巡覧する者、またこの中山半島の一角休屋付近を探勝する者とにした。予は後者として今泉、瀬川、黒木外二、三の行に加わることとした。

十和田湖の勝景はその多くは青森県側に属して、秋田県の方には少ないのである。またこれを部分的に挙げれば御倉半島とこの中山半島に集中されておるように思われる。蓬莱、甲冑、大黒、蛭等の大小の島嶼はこの半島付近に散在し、自籠(じごもり)岩、奇勝蝋燭岩等の奇勝も熊野神社(十和田神社)もここに在る。

また千丈幕、石筍峰、新赤壁、日暮の里、萬代浦等は対岸の御倉半島側にある(その名称その他所在地に多少の誤りがあると思うから予め記しておくことにする)。

そして十和田湖景勝の特色ともいうべきものは、言うまでもなく紺碧の湖水 岩の重嶂奇峰峙壁等々であろうが、また至る所に鬱乎たる千古不抜とも言うべき老樹林に掩(おお)われて自然に幽邃(ゆうすい)の感じを与えるまことに仙境と言うべきであろう。

講演場から東一丁余りにして老樹の密林に神さびた古祠(こじ)がある。これ熊野神社(十和田神社)で郷社である。

ここにも一つの伝説がある。昔大蟒(おおおろち)(うわばみ)が棲んでおって人畜を害し喰うので土人は皆他村に遁れて遂に人跡を断つと言うようになった。その頃修験者で南蔵と言う僧がその事を聞き来たって、この大蟒(おろち)を法力によって退治して土人の危難を救おうと発願(ほつがん)を立てて自籠岩上に加(か)跊(ふ)坐(ざ)し、一念佛の秘法を修し七日の間大蟒(おろち)と戦ったので遂に佛力に敵し難く湖中に投じて亡びた。

当時その腥(しょう)血(けつ)で岩を染めたので今なお巉岩(さんがん)峭壁が赤色を帯び

ておると言うことである。のちまた南蔵も自ら永く湖を護らんと身を湖に投じた。これすなわち十和田神社の本尊である。

およそ名勝と称する処には伝説はつきものであるが、その多くは荒唐無稽のことであるが、ここの伝説は多少信ずべき根拠があると思うのである。この神社の背後側は巉岩(さんがん)峭壁であって、その間に窄路の曲折した急坂を攀(よ)じ登った処に聳え立っておる巨岩が自籠岩である。その下に南蔵加(か)跊(ふ)坐(ざ)の跡と称する石坹(いしあな)がある。ここから見れば湖の景観は一(いち)眸(ぼう)のうちにほぼ収めることが出来る。この岩の湖に面した方は千仭(せんじん)の峭岩絶壁であって岩を削り 岩竅(あな)により危椶(きしゅ)に鉄鎖が懸っておる。これをつとうて降りれば湖畔に小洞窟がある。ここが南蔵身を投じた処で紺波嶄(ざん)崖(がい)を浸し蛟(こう)龍(りゅう)の窟(いわや)かと竦(しょう)然(ぜん)たらざるをえないとのことである。それでも行者等の信仰は来(らい)賽(さい)する者も少なくないそうである。

対岸に峻嶺の蜿蜒(えんえん)と横たわるは御倉半島であり、層岳重嶂の屏(へい)立(りつ)

してその岩壁丹(あか)を流すがごときは千丈幕、あるいは嶁崒(ろうすい)として寒翠松蘿(つた)を纏(まと)うは石筍峰である。また萬松の根を岩際に托し枝を水に蕩(とろか)し、あるいは水禽の点々と波上に浮沈するさまの風趣極まりなきものは万代の瀕(ひん)である。

日暮れて空雲飛び散じ漁船棹(さお)を廻(めぐ)らして帰る日誧の浦、もしそれ一葉の扁舟を泛(うか)べ清風自ずから来たり名月東山の辺より出づることを思わばその快適坡(は)翁(おう)の清遊にも勝るべき新赤壁。あるいは一度眼望を東北方に転ずれば、この半島の岬端水峽(すいきょう)を隔てて千年の老樹鬱々蒼々として岩壁を覆い帆影漁笛の朝暮去来しいまだ嘗て人跡を留めず眞に神仙の宅する処かと疑うがごとき蓬莱島あり。また甲冑(よろい)、ゑびす、大黒等の大小の松嶼の点在するあり。これ等の景勝は、この山中の 尺大空に玉鏡を磨くがごとき十和田湖の環連した壮観であり将に天下の名区神秘境とも言えるであろう。ああ。  終

 

 

 



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