4月はじめにオープンしたと報じられた「二ッ森貝塚館」を見学したく
ナビを頼りに出かけた
「二ッ森貝塚館」 廃校となった校舎を改装したもの
校庭からは八甲田・八幡岳連峰が一望
10年ほど前に「国史跡 二ッ森貝塚」を
たづねた時は 発掘調査の結果をどこで
見ることが出来るのか
わからなかった
10年前に訪れた史跡公園
その時の史跡公園の案内板
今回の 貝塚館内の展示は
見たかったものがビッシリ
貝層の断面展示 (どのようにして作ったのだろ?)
同上
二ッ森貝塚 の発掘調査史 130年ほど前から
これら食べ物に関する 遺物や それらをとるための道具類が沢山展示されている
縄文土器
多様な形、模様のものが ガラスなどの仕切り無しで ごく間近に見ることが
出来る 触れることはダメだが フラッシュ無しのカメラはOK
二ッ森のカオとなっている 人面つき土器
同上
多様な模様やかたちには
興味が尽きない
工程を全部一人てやったのか作業分担したものか?
どのくらい時間をかけたものか?
模様やかたちごとの意味合いがあるものか?
祈りだとすればどのような祈りか?
ポンペイ遺跡
は火砕流・火山灰の中から掘り出されたが
そうでもないのに 土から掘り出されるのは
どのような経過によるものなのか?
縄文海進の後の海退は関わるのか?
【参考資料1】
青森県のホームページ
に掲載されている「国史跡二ッ森貝塚」の解説
縄文時代前期~中期の貝塚及び集落遺跡。明治20年(1887)旧会津藩士の廣澤安任が学界にはじめて紹介し、明治24年(1891)には地元出身の佐藤重紀による学会誌への発表。昭和8年(1922)の喜田貞吉・角田文衛による調査等が行われている。同50年(1975)以降の天間林村教育委員会によって継続した発掘調査及び整備の事業が行われ、その成果は学会誌等に発表され、約3万5千m2が国史跡に指定されている。なお、貝塚形成時代の住居跡は貝層下又はその近辺に遺存され、以後の住居跡は貝塚内部の広大な窪地に残されいる。
縄文時代前期~中期の円筒土器並びに中期後半期の大木系土器、石器・石製品・土製品、骨角器類(県重宝の鯨骨製青龍刀形骨製品等)のほか、海水性・汽水性の貝層、魚類・鳥類・哨乳類骨、人骨などが発見されている。
東北地方における最大規模の貝塚で、貝層の堆積する形状は馬蹄形ないしは環状を呈する。なお貝層及びその上下層から出土する土器により、縄文時代前期は海水性の貝塚、同中期は汽水性の貝塚が形成され、地球規模で起こった海進海退の現象を如実に示している。
【参考資料2】
佐藤重紀が 二ツ森の近隣と言える砂土路(サドロ)川流域の遺跡で調査報告した記事の断片(明治22年)
土器は祈り以外に 食べ物の煮炊きにも使われたにちがいない
貝層の貝は焼いたろうか煮たろうか?
小川原湖のヤマトシジミ シジミ汁