のりまき家のHAPPY LIFE DIARY

どこまで続く?子育て時々自己主張!!

福笑いと岩沼ムービー

2011年09月16日 23時59分58秒 | Weblog
秋田出身のシンガーソングライター 高橋優にだいぶ前からハマっています。
特に「福笑い」という曲。
「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」というサビの歌詞はグッと心をつかむものがあります。
震災の痛手から立ち上がろうとしている人たちとそれを寄り添って支えようとする人たちがたくさんいるこの場所で、ものすごく意味深く響くのです。
ぜひたくさんの人に聞いて欲しい名曲です。


話は変わって宮城県岩沼市。
震災で岩沼市も大きな被害を受け、仲間であるKさんが復興に向けて奮闘しています。
岩沼市災害ボランティアセンターはずっと「スマイル」をキーワードにしてさまざまな復興支援を続けていました。

個人的には、岩沼のセンターへは時折顔を出す程度。
それと7月に一度だけ、スタッフとしてではなくボランティアとして活動したこともありました。
で、頑張っているKさんを見て、もっと自分にできることはないかなと思い、高橋優のCDを贈ったわけです。
岩沼の災害ボラセンの取り組みと曲のメッセージがピッタリですよと。


そしたらなんと、岩沼市災害ボランティアセンターの活動をまとめたムービーの挿入曲に使われてました!


◆岩沼市災害ボランティアセンター活動ムービー(you tube)はコチラ

◆岩沼市復興支援センタースマイルのサイトはコチラ

◆ムービーが完成したときの日記はコチラ


正直これは超うれしい!!
お役に立てて本当によかった。

ちょっとさぶいこと言うようだけど、
“笑う門に訪れる何かを愚直に信じて”みんなで生きていこうと思う今日この頃です。(のり)


ちなみに「現実という名の怪物と戦う者たち」という曲も超オススメ。
こっちの方が気持ち的にはこの半年間にジャストフィットかつどストライクです。





あの日のこと(主婦目線で・・・)

2011年09月08日 00時15分56秒 | Weblog
ダンナの「あの日シリーズ」

私もシリーズ化して欲しいと思っていたのですが、ダンナにはこの度思わぬところから試練が訪れまして・・・たぶんしばらくPCに向かう暇はないかと思われます。
これについてはそのうちUPするだろうと思いますが。
精神的に試練なだけ(たぶん)で、けして深刻なものではありません(笑)
のでご心配なく!(っていうか乞うご期待!!)

で、本題ですけども・・・私としてもやっぱり「あの日」についてはちゃんと覚えてるうちに記録しておかなくちゃいけないなぁと感じてました。うっかりすると細かなことを忘れちゃうんじゃないかというくらい、信じられないけれど、もうあの日以前の日常を取り戻しつつあります。だからこそ今。

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あの日、14時30分頃にコウセイが幼稚園バスを降り、自宅ではカンナが30分前から昼寝をしていて爆睡中、私はコウセイと一緒にカンナが横になってるこたつのところで前日ダンナが出張土産に買ってきた新幹線はやぶさ特集の雑誌を読んでいました。

地震がおきたとき、とっさに二人を抱え込むようにして大型テレビの反対側に移動し、なかなか収まらない揺れに「このあと窓ガラスが割れたら・・・」と怖くなり、必死に二人をこたつ布団の中に押し込もうとしたのを覚えています。

揺れが収まってからは頻繁にくる余震の合間をぬって家の中の確認作業。
電気・・・停電。携帯・・・不通(うちの地域はウィルコムはすぐダメでした)。倒れた家具などは幸い無し。水も出ていた!!トイレ使用可能!!でも台所・・・侵入禁止!食器が複数割れて飛び散り危険。棚の物が全て落ちて足の踏み場無し。

現状確認のあと、身内やご近所・友人の安否が心配になり、余震が続くなか子供たちを連れて車で出ることを決意。非常用持ち出し袋は数年前から準備していたので、それに子供が落ち着くようにいつも買ってあるお菓子を少し追加、こういうときに絶対重宝するからとダンナから聞かされていたガムテープと油性ペンをコートのポケットに入れ、荷物は手があくようにリュックに詰めてとりあえず近所にあるダンナの実家へ急ぎました。
ダンナの母は予定があれば長時間外出する人。ドアに鍵がかかっていたし大きな声で呼んだりドアを叩いても返事がないし、「どうか外出してて。まさか倒れたものの下敷きになんかなってないよね・・・。」と祈りつつ、ガムテープに「うちは大丈夫、これから○○ちゃん(近所の友人)の家に行きます」と書いて玄関のドアノブに貼りました。

ここまでだいたい地震後30分くらい。今思うとなかなか冷静。自分をかなり褒めてあげたい!!

このあと○○ちゃんちに行き(もちろん自宅にはガムテープメモ貼付)、無事を確認後、もう一組ご近所の△△ちゃん親子とも合流。○○ちゃんちのリビングで△△ちゃんママが持ってきたラジオを聴きながらこの後どうするかを相談。ドコモを使ってる○○ちゃんママの携帯を借りてダンナにメールをして無事が確認でき、ダンナはこのとき唯一被災地の外(東京)にいる姉にメールして我が家4人の無事を伝えた。もちろん被災地の中ではすぐに携帯が使えなくなることを想定して外にいる人にあえて連絡したようです。このメールを見て姉は両親と弟の携帯にメールを入れてくれていたので、各自が安心して帰路についていたとのこと。このときはそんなことも知らず、ただラジオからの津波の情報に心が震えていました。一緒にすごした△△ちゃんママの実家は石巻でした。彼女は津波でお母さんを失くしました。

家がなんともなく、このあと強い余震がきても耐えられるはず!と判断したママたちは、真っ暗になる前に自宅で必要なものをしまっている場所から出して今夜の寝床を確保しなくては・・・と家に戻ることにしました。帰宅して、ラジオ、ありったけの懐中電灯、電池、すぐ食べられるもの(飴やお菓子・パンなど)をテーブルに広げ、トイレまでの通路と玄関までの逃げ道を作り(物が散乱して通路すらなかった)、リビングのできるだけ真ん中のものが落ちてこない場所に布団を敷いて、親子3人くっついて横になりました。暗いし静かすぎて怖くて、電池がもったいないのに一晩中懐中電灯とラジオをつけっぱなしで寝ました。ラジオがこんなにありがたいなんて知りませんでした。横になるともうずっと船の上で暮らしてるみたいにず~っと体が揺れていて、大きな余震のたびに寝ぼけながら怯える子供たちを「だいじょうぶだからね」と励ましながら、どうかこの家が倒壊しませんようにと、ただただ天井を見上げていました。怖いほど美しい星空に気づくことさえありませんでした。

(まき)


あの日の夜空

2011年09月05日 23時46分04秒 | Weblog
あの日のことを少しずつでも書き留めていこうと今更ながら思っています。


3月11日、忘れられないのは夜空でした。
夕方から吹雪と晴れが交互に訪れる天候で、とにかくものすごく寒かった。
地震直後からライフラインが全て寸断されたので職場のある福祉センターは電気と暖房が消えてしまいました。
暗闇の中500人以上の地域住民が避難してきてその対応に追われました。

停電なので、とにかく明るい光がないわけです。
発電機で灯りを点けたものの限定的。車のライトを広い避難部屋に向けて照射したりしてなんとか凌ぎました。
暗闇ってだけで不安な気持ちになるので、少しでも灯りが取れて皆さん安心したみたいでした。

で、その日の夜空。
たまに吹雪が止むと雲間から星空が見えます。
暗闇に目が慣れていた上に光害がないってことで、あれ?星ってこんなに光るんだっけ?って軽い恐怖を感じるほど星の光がものすごく強い。
時間と方角はちょっとあやふやなんでだいたいですが、8時頃には、南の空に冬の大六角がはっきりと見えました。
深夜になると西の空の地平線あたりにオリオンが横たわっていて、それがまた何か不吉なことのように思えてちょっと不気味。
東の空には北斗七星~うしかい座のアークトゥルス~おとめ座のスピカの春の大曲線がくっきり見えてそれも何だか不思議な感じでした。

その頃ちょうど天体観測がマイブームだったので見知った星座をたくさん見ることができたんだけど、あまりの星の光の強さになんとなく不安にかられた記憶が残っています。(のり)





超リフレッシュ!!

2011年09月02日 23時58分32秒 | お出かけ
岩手のカズゥ氏から旅行のお誘い。
8月28日から1泊で大学時代の仲間、男3人で奥日光に出かけました。

途中、こんな感じに中禅寺湖は美しく、


こんな感じに竜頭の滝でマイナスイオンを浴びまくり、


こんな感じに奥日光高原ホテルは行くたびに綺麗になってました。


途中食べた餃子はパリッ&ジュワーとして美味しかったし、
露天風呂は湯量が豊富でものすごく気持ちよかったし、
ホテルで働いている友人二人を交えた5人で囲んだ夕食は近年ないほどの楽しさだったし、
満天の夜空の星はキラキラときれいだったし、
ホテルで働くSくんの退職宣言が飛び出すサプライズもあったものの、
たくさんしゃべって、たくさん爆笑しました。
そりゃあもう超リフレッシュ!!もう一泊したいくらいでしたよ。


思うに、たぶんカズゥ氏はオレを気分転換に連れ出してくれたんじゃないかなと。
その気持ちがありがたい。この場を借りて感謝です。

ただ、往復600キロのドライバーをオレがしたってのに負担額が一番多いという計算間違いはいただけませんな~。(のり)