明日のカープ

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第21回『「球界のかっぱえびせん」に救われた』

2013-05-28 10:17:00 | 赤い疾風伝説


1975年に入団した同時に「俺は1年でクビになるかもしれない」と思っていたことを考えれば、その後のプロ生活は順風満帆と言えるものだった。右膝痛との戦いとか細かいことを挙げればキリがないけど、79年と80年には2年連続の日本一にも貢献したし、盗塁王のタイトルを獲得したり、ベストナインにも選ばれた。

打率も3年連続で3割をキープ。年俸だって順調に上がって、80年には2000万円を超えた。契約更改の席で球団幹部から開口一番に「ヨシヒコ、金がない」と言われた時にはビックリしたけど、主砲で全国区のスーパースターだった山本浩二さんさえ年俸5000万円ぐらいの時代のことだから。年俸の相場が今の10分の1ぐらいだったことを考えれば゛2億円プレーヤー゛ぐらいの評価はしてもらっていたということになるのかな。

もちろん努力は怠らなかったし、野球に対する取り組み方が変わることもなかった。ただ、開幕直前に右膝痛が悪化して2週間ばかり入院した81年は盗塁も55個→38個と14個激減して打率は2割8分9厘止まり。テーピングなしでプレーできるまでに右膝が回復した82年は盗塁こそ43個を記録してプロ2度目の全試合出場も達成したけど、打率は2割6分9厘まで落ち込んだ。

手は抜いていないのに結果が出ない。相手に研究されているのか、自分の技術に限界があるのか。レギュラーになってから初めてとも言える壁にぶち当たった。このままではいけない、何かを変えないと…。そう思っていた矢先に出会ったのが、83年のキャンプで臨時コーチを務めたカープのOBでもある山内一弘さんだった。

教えだしたら「やめられない、止まらない」。球界では「かっぱえびせん」の異名を取る山内さんに教えを請うたのは、それまでのコツコツと当てるダウンスイングとは異なるレベルスイング。鋭い打球で野手の頭を越すためのフォーム改造だった。

フォームを変えるのには勇気がいる。ただ、当時の俺は成績も落ちていたし「思い切って話を聞こう」という覚悟もあった。そして、実際に山内道場の門を叩いてみたら゛目からうろこ゛の連続だった。

結果から先に言うと、それまで78年の7本が最高だった本塁打数が、3倍強の24本に増えた。それどころか、4年連続で20本塁打以上をマークした。単純に飛距離が伸びただけでなく、83年と84年は2年連続で打率3割をマーク。盗塁だって83年には自己最多の70個を記録して、2年後には73盗塁で5年ぶりとなるタイトルを獲得した。

中には「あのまま当てるバッティングを続けてたら、ヨシヒコは2000安打をクリアしていただろうに」という人もいたけど、それは違う。盗塁が劇的に増えたのも、精神的なゆとりを持って打席に入れるようになったからなんだ。



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