明日のカープ

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第30回『実績残した選手がダメになるパターンに…』

2013-06-04 18:56:32 | 赤い疾風伝説


若いころから覚悟はしていた。「これだけ好きなことやって、好きなこと言っても許されているのはプロ野球選手として結果を出しているから。結果が出なくなれば必ずシッペ返しを食らう」と。

野球に対する情熱は昔と変わらなかったし、極端に体力が落ちたわけでもない。ただ、1984年のシーズンを最後に古葉竹識監督がカープを去ってから、俺を取り巻く環境は確実に変わり始めていた。

例の「カープ激励の夕べ」への出席をボイコットした件にしてもそう。俺の普段の言動からしたら、いつ起きても不思議じゃなかったのに、このタイミングで起きた。自分では何一つ変わっていないつもりでも、取り巻く環境が変わると受け取られ方も変わってくるんだろうね。

実際に、俺のスタイルは現役時代を通じて変わることはなかった。後にトレードで移籍したロッテでもそうだ。金田正一監督は朝の散歩を重視する人で、シーズン中の真夏でも1時間ほどの散歩を義務付けられた。金田さんは「散歩っていうのは体にいいんだぞ」って言ってたけど、俺は「分かりません」と食ってかかったりしてね。

今なって考えれば、金田さんが「散歩は体にいい」と言っていた意味も分かる。早朝に散歩する習慣があれば夜も遅くまで起きていられないし、そうなれば自然と夜の過ごし方を考えるようになり、摂生もするようになる。そうやって、やるべきことを徹底してきたからこそ金田さんは前人未到の400勝を挙げる大投手にもなった。でも、33歳だった当時の俺はゆっくりと寝たいばっかりで、金田さんの本当の狙いを考えることもなく、逆らうだけだった。

次代を担う若手も順調に育っていった。俺に続く形でスイッチヒッターに転向した山崎隆造なんかは「世の中に『天才』っているんだなあ」と感心してしまうほどのセンスの持ち主だった。俺が左打ちを始めたころなんか「1日24時間じゃ足りない」って、死に物狂いで練習したもんだけど、隆造はいとも簡単に芯で捉えていたしね。

85年からメンバーに加わった正田耕三にしても驚くほどのスピードで成長していった。俺が例の騒動で開幕から出られなかった87年には入団3年目にして首位打者に輝いているし、翌88年もタイトルをキープした。機動力野球の中核を担う1、2番コンビは、その正田と隆造になっていった。

役割が変わると、心の持ち方も変わってくるんだ。そのいい例が俺の場合はバントだった。古葉さんの時代は自分の判断でセーフティーバントをして、それなりの成功率を誇っていたけど、これがサインで指示されるようになると違ってくる。もともとバントはヘタだったから。「決めてやるぞ」って臨むのと「決めなきゃいけない」と思ってやるのも全然違う。だから、失敗すれば「取り返してやろう」ではなく「次は失敗できない」と追い込まれる。それなりに実績を残した選手がダメになっていくのは、だいたいこのパターンだ。


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