明日のカープ

広島東洋カープの昨日・今日・明日を見つめます

第10回『古葉監督以外、全首脳陣が反対したショート起用』

2013-05-15 12:58:55 | 赤い疾風伝説


1977年のシーズン終盤にスイッチヒッターとして新たな野球人生を歩み出した俺は、9月10日のデビュー以降もコンスタントにチャンスをもらった。この年は開幕前に優勝候補と期待されながら、カープは最下位に低迷。75年の初優勝からメンバーは大きく変わっていなかっただけに、古葉竹識監督としても若くて足が使える俺を起用することで何とか突破口を開きたいという思いもあったんだろう。

実際、俺は残り24試合全てで使ってもらった。最初のうちはスタメンでもライトだったり、時には代打や代走での起用もあったけど、ショートで14試合にスタメン出場。相手の先発が大洋の平松政次さんや巨人の小林繁さん、ヤクルトの鈴木康二郎さんといったエース級の右腕でも、2番や8番などの打順で経験を積ませてもらった。9月10日以降に限って言えば、74打数25安打で打率は3割3分8厘。未知の世界への船出としては、まずまずだった。

そんないいシーズンを持ってシーズンを終えた俺は、翌78年に背番号も「40」から「2」に変更してショートでレギュラーをつかむことになるんだけど、首脳陣の間では俺のショートでの起用には反対意見が多かったらしい。っていうか、古葉さん以外は全員反対だったそうだ。77年はショートで42試合に出場して7失策。守備率も9割5分2厘と褒められたものではなかったからね。

それでも古葉さんは、俺のショートでの起用を押し切った。外野には山本浩二さん、ライトル、ギャレットと長距離砲が揃っていて外すことはできない。一塁には水谷実雄さんがいて三塁は衣笠祥雄さんががいる。俺の足を生かすには、守備に目をつぶってでもショートで使うしかないというのが本当のところだったんじゃないかな。

それだけに古葉さんからのプレッシャーも相当なものだったよ。実際に「お前が出てくるか、俺がクビになるかだ」とも言われたから。そして俺は、徹底的に古葉野球を叩き込まれていった。

今みたいにミーティングとかするわけじゃなくて、シーズン中だとベンチがレクチャーの場だった。古葉さんは怖い人だったけど、打席での結果や守備でのエラー、盗塁死などの失敗に関しては寛大だった。ただ、配慮や思慮が足りないばかりに相手走者を次の塁に進めてしまったり、投手が試合展開を考えずに打者と勝負してしまった時などは、問答無用でキレのいいローキックが飛んできた。パシッとね。

余談になるけど、当時の広島市民球場の一塁ベンチは古葉さんの定位置から一番離れた外野寄りの奥に給水用のタンクが置いてあって、監督に怒られる恐れのあるピッチャーは危険回避のため、マウンドからスススーッとそこに直行するんだ。でも、古葉さんは自分も水を飲みに行くそぶりをしてパシッと蹴りを入れる。当時はそうやって、体で野球を覚えていったもんだよ。



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (花)
2018-08-14 12:47:10
はじめまして。
膝にローキックですか。 凄い。
古葉さんは一見おとなしそうで激しいと思うばかりです。
ところでもし古葉さんがホークスの監督をしてたら優勝してたと思いますかそれともベイ時代みたいにうまくいかなかったと思いますか?私は後者だと思います。なぜなら王さんじゃなくて古葉さんなら秋山とか工藤がホークスにいてくれたかと思うと少し疑問符が残るからです。多分秋山はFAで巨人に移籍するだろうし工藤も西武のままではないでしょうか?その代わり川口とか谷繁がトレードで来た可能性があっただろうからそれはそれで違う意味で楽しめたかもしれませんね。
長々と失礼しました。

コメントを投稿