明日のカープ

広島東洋カープの昨日・今日・明日を見つめます

第29回『二軍直訴問題で謹慎し開幕戦をテレビ観戦』

2013-05-31 11:09:48 | 赤い疾風伝説


開幕前の恒例行事だった「カープ激励の夕べ」を欠席しただけでなく、阿南準朗監督に二軍行きを直訴した俺への対応をめぐって、球団は大騒ぎとなった。

自宅まで来た球団職員に今後の対応などを協議したいという旨を伝えられ、俺も広島市内のホテルまで足を運んだ。同席した阿南さんからは「こんなことで汚点を残して野球人生を棒に振るな。ユニホームを着たヨシヒコが本当の姿なんだ」と言われて、球団への謝罪と翌日に控えた開幕戦からの出場を促された。それはありがたかったし、阿南さんにも迷惑をかけたという思いもあった。ただ、俺も思いつきで行動を起こしたわけではないし「はい、そうですか」と言える精神状態ではなかったので「すぐには気持ちを切り替えられません。時間をいただきたい」と、阿南さんの申し出を断った。そして球団から下された処分が「謹慎2週間」と「現役選手登録抹消」だった。念のために付け加えておくけど、別に引退させられたわけじゃない。今で言う「出場選手登録」のことを、当時は「現役選手登録」と言っていたんだ。まあ、それはいいとして、阿南さんの説得に応じなかったことを「戦う意思がない」と取られ「職場放棄」を理由に謹慎処分を言い渡された。

阿南さんも大変だったと思う。明日から開幕という時に、俺の問題に振り回されて選手たちの練習を見ることさえできなかったんだから。でも、引き下がる気持ちにはなれなかった。確かに謹慎処分は「汚点」かもしれないけど、俺にしてみては「気持ちの整理もつけずに出場することの方がチームメートやファンに迷惑をかけることになるし、その方が汚点」と考えていたからだ。開幕当日は、球団から「謹慎期間中は球団施設の使用を一切認めない」と言われていたので、広島市内のホテルにあったスポーツジムで1時間半ほど汗を流した。でも、そんなことぐらいでモヤモヤが晴れるはずもなかった。出かけるわけにもいかないので開幕戦は自宅でテレビ観戦した。いるはずの場所に自分がいないのは不思議な気がしたし、むなしさもあった。

このままでは事態も好転しない。自分自身もつらかったし、これ以上、チームに迷惑をかけるわけにもいかなかったので、騒動から3日たった4月11日に球団幹部を訪ねて一連の騒動を謝罪した。そして翌12日の昼に謹慎処分が解除され、13日には一軍の移動前練習に参加した。

現役選手登録の関係から、一軍復帰は25日まで待つことになった。この年はオープン戦でも打率1割7分6厘で42位、6失策とサッパリだったけど、4試合ほど出場した二軍戦では10打数6安打と絶好調。一軍復帰戦となった26日のヤクルト戦では、先発の荒木大輔から2打席連続ヒットを放って存在感をアピールした。

チームメートは明るく迎えてくれたし、ファンの声援も温かかった。でも何かが違う。歯車が狂い始めたというか、あらがうことのできない時代の流れのようなものを、俺はヒシヒシと感じていた。

第28回『86年「2年ぶりV」の翌年開幕直前に大騒動』

2013-05-31 11:07:22 | 赤い疾風伝説


阿南準朗監督の1年目にあたる1986年、カープは巨人とのシ烈なV争いを制して、2年ぶり5度目のリーグ優勝を達成した。西武との日本シリーズは初戦引き分けからカープが3連勝したのに、4連敗で逆転負け。シリーズ終了後には「ミスター赤ヘル」こと山本浩二さんが引退した。それまで阿南さんに「ニューリーダー」と呼ばれていた俺は「リーダー」としての働きを期待されるようになっていた。

そんな矢先だった。87年の開幕直前のことだ。既にオープン戦は全日程を終了していて、カープは本拠地の広島市民球場で全体練習。その時に、かねて懸案事項となっていたことを練習終わりのベンチ前で野崎泰一球団代表と上土井勝利球団部長に問い詰めた。恒例行事となっていた地元テレビ局主催の「カープ激励の夕べ」の開催時期についてだ。

俺の言い分は「開幕前の最も大事な時期に、なぜこのような行事を入れるのか」というもの。イベント自体を反対していたのではなく「いくらなんでも開幕2日前というのは」と訴えたのだ。もちろん俺一人の意見じゃない。それ依然にも、選手会長を務めていた北別府学が申し入れていた案件だった。

プロ野球選手というのは、ファンの方が思っている以上にナーバスな生き物だ。特に俺には神経質というか余計なことを考えすぎてしまうところがあって、キャンプ中なんかに「ひょっとしたら今年は1本もヒットを打てないんじゃないか」と一人で頭を抱え込むことが必ずあった。

それをよく古葉竹識監督に「ほ~ら、またヨシヒコのノイローゼが始まった」ってからかわれたりもしたけど、そういう不安と戦っている選手は少なくないんだ。

野崎さんや上土井さんに対する口調は、かなり強いものだったと思う。選手というのは会長の座こそ北別府に譲っていたけど、こういう汚れ役を務めるのもリーダーの役目だと考えていたから。自分ではまっとうなことを言ったつもりだし、それなりの覚悟もしていた。だから後悔のようなものはなかったんだけど、騒ぎはそのまま球団トップのうかがい知るところになり「前から決まっていることじゃないか。それほど言うなら出てこなくていい!」となった。俺も俺で「だったら出ません」って。売り言葉に買い言葉じゃないけど、こっちもカリカリしてね。

どうにも収まりがつかなくなって、俺は阿南監督に「ファームに行かせてください」って直訴したばかりか、選手ロッカーにあったユニホームやらスパイクやら野球道具の一切をクルマに詰め込んで、おまけにロッカーの名札まで剥がして出て行っちゃったんだ。

第27回『゛するべき仕事゛が変わった3番への転向』

2013-05-31 11:05:04 | 赤い疾風伝説


阪神の21年ぶり優勝に日本中が沸いた1985年、俺は自己最多の73盗塁で5年ぶり3度目のタイトルを獲得した。打率こそ2割7分6厘と冴えなかったけど、ホームランは自己最多タイの24本。それなりに充実したシーズンを送った。

ただ、その一方で一抹の不安も感じていた。なぜなら、この年のシーズンをもって古葉竹識監督が退団したからだ。俺の入団が74年オフで、古葉さんがジョー・ルーツ監督の後を引き継いで指揮官となったのが75年の5月。すでに触れている通り、1年でクビになってもおかしくなかった俺を我慢して使い続けてくれたのも古葉さんだし、野球というものを叩き込んでくれたのも古葉さんだった。言うなれば一心同体のようなものだった。

古葉さんからバトンを引き継いだのは阿南準郎さん。選手とコーチという関係で長いこと付き合ってきたし、目指していたのは「古葉野球の継承」。そのせいか、戸惑いのようなものはなかったけど、このころから期待される役回りが変わっていったのも事実だ。

阿南さんは監督就任後から、俺のことを「ニューリーダー」と呼んだ。若い人には分からないかもしれないから説明しておくと、政治の世界で当時の中曽根康弘首相の後継者として名前が挙がっていた安倍晋太郎さんや竹下登さん、宮沢喜一さんのことを「ニューリーダー」と呼んでいて、一種の流行語になっていたんだ。まだ山本浩二さんも衣笠祥雄さんも現役だったけど、これからは若い者がチームを引っ張っていくべき、との考えもあったんだろう。

選手のメンバー構成が大幅に変わったわけでもなければ、やっている野球もそれまで同じ。ただ、時代の流れのようなものはヒシヒシと感じていた。84年のドラフト2位で入団した正田耕三が俺、山崎隆造に続くスイッチヒッターとして頭角を現し始めていて、阿南さんもしばしば「ヨシヒコを3番に」という構想を口にしていた。

3番への転向は、前の年まで3年連続で20本以上のホームランを打っていたことも無関係ではないだろう。ただ、1番打者としてホームランを打つことと、3番打者としてホームランを求められることは大きく違う。いつだったかの試合で正田、隆造、俺の3人が3者連続ホームランを打ったこともあるけど、打順が変われば゛するべき仕事゛も変わる。

チームとしてやっている野球は同じでも、何かが違う。着ているユニホームや守備でのポジション、打席から見える景色は同じなのに…。89年のシーズンになると6番や7番を打つこともあってね。カープにいながらトレードで新天地に来たような不思議な感覚があったな。



第26回『たけしさんやトップアイドルとも知り合いに』

2013-05-31 11:00:07 | 赤い疾風伝説


このところ女性関係の話が続いていたけど、仲良くさせてもらっていたのは女性ばかりじゃない。俳優さんやトップアイドルとも知り合う機会はあった。そういう付き合いができたのは、プロ野球選手だったからというだけじゃなく、強かったころのカープでレギュラーを張っていたからという面が多分にあると思う。

当時は「人気のセ、実力のパ」なんて言われていたほどで、プロ野球界は人気球団の巨人が中心にいて、その巨人がいるセ・リーグばかりが注目されていた。それこそ巨人戦は全試合、地上波で中継されていたし、視聴率だって当たり前のように20%を超えていた。

やはり選手っていうのは注目されれば張り切るし、やりがいも感じる。そして結果が出れば称賛もされる。俺はカープに15年在籍して、4度のリーグ優勝と3度の日本一にレギュラーとして貢献した。だからこそ、違う世界のトップといわれる人にも注目されたし、食事の場や人の紹介などでそういう人たちと知り合う機会にも恵まれた。

名前を挙げればキリがないので分かりやすいところで言うと、少年隊の東山紀之は彼が19歳のころから付き合いがあった。何かキッカケだったか思い出せないけど、俺が遠征で東京へ行った時や彼が仕事で広島へ来た時など、都合をつけて食事をしたりした。

それこそ、いつだったかの年末に俳優の真田広之と中井貴一、俺、東山の4人で忘年会をしたこともあったな。場所は確か東京・赤坂のホテルニューオータニ。男ばかり4人でね。「なんでこの4人が揃っているってのに、女性が一人もいないんだよ」って言いながらも楽しい酒を飲んだっけ。

野球がキッカケで仲良くさせてもらった人もいた。それも草野球でね。東スポとも縁が深いビートたけしさんや、ロックミュージシャンの浜田省吾さんもそう。浜田さんは広島出身で、もともとが大のカープファンだったってこともあるけど、記憶違いじゃなければ一緒に草野球をしたのが始まりだった。俺と大野豊さんが入ったチームで、たけし軍団と対戦したこともあった。当時のたけし軍団は神宮外苑の軟式野球場で頻繁に試合をしていて強くてね。

あとは記憶に残っているところだと、ボクシングのWBA世界ライトフライ級王者で13度の防衛に成功した具志堅用高さんやWBC世界ライト級のチャンピオン、ガッツ石松さんとも親しくさせてもらった。特に印象的だったのが、ガッツさんの「ボクサーってのは、決められた日までに減量できなかったら、死刑宣告されるようなもんだよ」という言葉だな。

単純に「すげえ世界だな」と思ったし、いろいろとお話をさせてもらって「ガッツさんは頭のいい人なんだな」という印象を持った。テレビのバラエティー番組なんかでは、おバカキャラで通っているけど、個人的にはあれはガッツさん自身が綿密に計算した上で作り上げたキャラクターだと思っている。


懲りない左右病

2013-05-30 00:47:01 | 2013年
5月28日(火) マツダ 
広島 - 日本ハム(中止)


5月29日(水) マツダ
広島 1 - 8 日本ハム
●大竹(5勝2敗)、今井、久本
本:廣瀬(2号)

 ここ数試合良くも悪くも試合をきっちり作ってきた大竹だったが今日は持ち前の粘りのピッチングが影を潜める。初回、ピンチを招くと中田翔にレフトスタンドへ運ばれ先制を許す。

 その裏すぐさま廣瀬のHRで反撃の狼煙をあげるがここまで。日ハム先発吉川にうまくかわされる。ファーストストライクを簡単に見逃しては2ストライク目のボールに手を出し追い込まれ、カウントを悪くしては三振、凡打の繰り返し。
 アホの1つ覚えでズラリと8人の右打者を並べた打順は全く機能せずに吉川の前に10の三振を奪われる。ヒットは3本だけ。
 吉川に関しては右打者よりも左打者の方がよく打たれているのにこのあたりのデータはチームとして把握していないのだろうか?素人の我々でもインターネットで調べることができるのに…疑問である。

 初回、3点を奪われた時点で意気消沈。あとはダラダラと見せ場もないゲーム。いつもいつも0点に抑えれるわけではないので大竹を責めるのは酷だ。

 
21勝26敗1分

第25回『超極秘交際の人気女優宅。マネジャーが突然現れて…』

2013-05-29 10:12:19 | 赤い疾風伝説


相手に迷惑がかかるので、名前は伏せさせてもらいます。ある女優さんと交際していた時の話です。ご存じの方は「あの人のことだな」とニヤニヤしてください。

1979年の日本シリーズでMVPになった俺は、賞金100万円と副賞としてマツダのルーチェというクルマを贈られた。オフに慌てて運転免許を取得して、しばらくは真っ赤なルーチェに乗っていたんだけど、ちょっと自分の理想とは違っててね。翌80年のシーズン中には、真っ赤なポルシェ911SCに乗り換えた。

広島市民球場での試合後に、交際中だった女優と会うために真っ赤なポルシェをぶっ飛ばして東京まで行った…。いまだに人から「そんな噂を耳にしたことがあるんですけど、本当ですか?」と尋ねられる。ウソに決まってるだろっつーの。真っ赤なポルシェを駆って、東京に住むカノジョに会いに行ったのは本当だ。それは認める。だけど「シーズン中」というのは真っ赤なウソだ。

東京ー広島間は、おおよそ900キロ。仮に法定速度の倍以上のスピードで走ったとしても、5時間近くはかかる。朝までにたどり着くのは可能でも、そのまま翌日のナイターに出場するのは不可能だ。冷静に考えれば分かりそうなもんだけど、噂っていうのは怖いね。

ハデな世界の人と付き合っていたせいか、世間様からは「夜も盗塁王」なんてやゆされたこともあった。自分では、いつでもマジメな恋愛をしていたと思っているんだけど…。ただ、貪欲な面はあったかもね。

あるCMで一躍人気になった別の女優さんとの交際がそうだった。もう、好きで好きでたまらなくてね。カノジョとは何の接点もなかったんだけど、ツテをたどってたどって何とか自宅の電話番号をゲットして、電話攻勢で口説き落としたんだ。その時も、かなり10円玉を使ったと思う。公衆電話からの連絡がメーンだったから。

その女性との交際は超極秘でね。カノジョのマネジャーさんにもナイショだった。だから、予期せぬタイミングでマネジャーさんが来た時には焦った。カノジョに「いいから黙って隠れて」って言われて、言われるがままに声を押し殺してクローゼットに潜んでいたこともあったっけ。

まあ、いろいろあったし、遊んでいたことは事実だ。でも、遊びほうけることはなかった。自分の人気は「プロ野球選手だから」という自覚があったから。この軸がブレてしまったら、ただの遊び人になってしまう。職業意識とでもいうのか、その辺が分からずに恵まれた才能を持ちながら消えていってしまった選手は掃いて捨てるほどいる。

志半ばで引退に追い込まれた選手が、決まって口にするセリフが「若い時にもう少しやっておけば良かった」。もちろん俺だって「ああしておけば…」という思いがないわけじゃない。でも後悔はないし、実際にやれるだけのことはやった。そう思えるだけでも、プロ野球選手として幸せな人生だったと言えるんじゃないかな。

第24回『この際だから、女性関係のことも話そう』

2013-05-29 10:09:54 | 赤い疾風伝説


この連載の編集担当者が「高橋慶彦を語る上で女性関係の話を避けて通るのは不自然」とうるさいので、そっちの方も少し触れておこうと思う。あんまり気乗りはしないんだけど…。

俺はレギュラーになっても練習では手を抜かなかったし、全てのことを野球中心に考えていた。とはいっても、健全な男の子だったから女性にだって興味はある。最初に夢中になったのは、入団2年目とか3年目だったかなあ。夜中に寮を抜け出して、付き合っていた女の子の家に入り浸るようになってね。

もちろん、すぐにバレた。表沙汰にはならなかったけど、球団は「ヨシヒコが寮から脱走した」と大騒ぎしてね。実績も何もなかったし、それを理由にクビになっても不思議じゃなかった。二軍監督だった野崎泰一さんや寺岡孝さんが「お願いですから、ヨシヒコから野球を取り上げないでください」と頼み込んでくれたおかげで最悪の事態は避けられた。何らかのペナルティーを受けたんだろうけど、どんな大目玉を食らったかは思い出せない。

グラウンドでの活躍に比例して、女性にもモテるようになったのは間違いない。今になって考えると「よくやったよ」と恥ずかしくなるばかりなんだけど、レコードを出せば売れたし、サイン会をやれば長蛇の列ができた。主催者の仕切りが悪くて、延々と800枚もサインを書かされたことまであった。

女性関係では、いろいろと言われたり書かれたりもした。特に1981年にフォーカス、84年にフライデーと立て続けに写真週刊誌が発刊されて以降は、随分と追い掛け回されたし、実際にネタも提供した。そりゃあ、何人もでひとつのチームを組んで追い掛け回してくるんだからボロも出るよ。っていうか、普通にサラリーマンをしている人だって、同じことをされたら尻尾の一つや二つはつかまれるんじゃないかな。

いまだに当時の噂話がインターネット上に出回っているらしいけど、ウソだったり、必要以上に尾ヒレや背ヒレの付いたものが多い。ただ、いつでも10円玉を大量に持ち歩いていたという話は本当だ。

当時は携帯電話どころか、今では使われることも少なくなったテレホンガードさえなく、84年のオフに寮を出るまで、誰かと連絡を取る場合には公衆電話を使うしかなかった。だからいつでも、ポケットの中は10円玉でいっぱいだった。「10円玉の入れすぎで、ヨシヒコのポケットはしょっちゅう穴が開いていた」という噂は完全に尾ヒレの付いた話だけど、チームメートからは「電話魔」とまで言われていたし、100%のウソというわけではなかった。

そういえば、ある女優さんと交際していた時にも、ありえない噂話を広められたんだよなあ。

第23回『調子を落とし敵将の山内さんに指導を要求』

2013-05-29 10:07:24 | 赤い疾風伝説


1983年のキャンプに臨時コーチとしてやってきた山内一弘さんと取り組んだ打撃改造は、予想以上の成果を生んだ。飛距離が伸びたことでホームラン数が3倍近くに増えたことは既に触れた通り。新たな自信を得たことは打席内での精神的なゆとりにもつながった。

それを顕著に表していたのが四球の数だね。82年までは77、78年のシーズン32個が自己ベストだったんだけど、それが一気に54個まで増えたんだ。要因として挙げられるのは、初球からガツガツと振りにいかなくなったことだろうね。

「いつでも打てる」という自信があったから、無理には打ちにいかない。悠然としているから相手投手も警戒する。そして投げる方は余計な力が入るから、思わぬコントロールミスをしてしまう。逃げてくれれば四球になるし、甘く入ってくればガツンといく。全てがいい方に作用してくれた。

バッティングというのは恋愛と似たところがあるんだ。いくら「好きだ」とか「付き合いたい」という気持ちが強くたって、それがそのまま相手に伝わるとは限らない。むしろ「何とかしたい」という気持ちが強ければ強いほど、追いかければ追いかけるほど、相手は逃げていく。そういう面ってあるでしょ?野球も一緒で、追えば追うほどボールというのは逃げていく。追うのではなく「これだ!」という球が来るまで待つ。これは大事なことなんだ。

話を元に戻そう。四球が増えたことで当然のことながら出塁率も上がった。82年が3割1分4厘だったのに対して83年は3割7分9厘。それまで悩まされていた右膝の状態が良くなってきたということもあるけど、出塁が増えたことで盗塁数も43個から70個に増えた。もちろん山内さんに盗塁の仕方を教わったわけじゃない。でも、自信を持つっていうことは、そういった波及効果も生んでくれるんだ。

その山内さんは、84年に中日の監督に就任された。その年はカープと中日がシ烈な優勝争いを展開して、シーズン大詰めを迎えた9月29、30日の直接対決を前にした両チームのゲーム差は0.5。残り試合が中日より5試合多かったカープにマジック6が点灯していたけど、決戦を前に3連敗を喫していたし、ズルズルと負けが込めばひっくり返されても不思議ではない状況だった。

そんな大事な試合の前に、調子を落としていた俺は「バッティングを見てください」と山内さんに訪ねた。さすがに立場があるので渋っていたけど「教えた責任もあるでしょ」って言ったら、ちゃんと見てくれた。打撃の師にチェックしてもらった俺は、天王山の第1戦で先頭打者アーチを含むホームラン2本を放って勝利に貢献。翌日の試合でも勝ち越しタイムリーを打って、カープは優勝マジックを一気に4つ減らした。

山内さんは、めちゃくちゃ叩かれた。「大事な決戦を前に敵に塩を送るとは何事だ」と。さすがに俺も「悪いことをした」という意識はあった。でも、そういう山内さんだからこそ、信じて付いていくことができたんだよね。


第22回『ボールの内、外、上、下、真ん中を゛打ち分けた゛』

2013-05-28 10:25:05 | 赤い疾風伝説


打撃理論を始めたら、「やめられない、止まらない」で「かっぱえびせん」の異名まで取った山内一弘さんの指導には、賛否両論ある。それは、門下生として結果を出したのが俺ぐらいしかいないからだ。失敗例といったら失礼かもしれないけど、1995年に山内さんが阪神のコーチを務めた際には、劇的な飛躍を期待された新庄剛志や亀山努も、かえって成績が悪くなった。

確かに山内さんの言うことは難しいんだ。最初に「おいヨシヒコ、ボールには打つ場所が何か所あると思う?」と聞かれたときには面食らった。俺はそんなことを考えたこともなかったから「1点ですか?」って自信なさげに答えると、山内さんはこう言った。「ボールの内側、外側、上、下、真ん中の5か所だ」。しかも、その5か所を打ち分けられるようになれって言うんだから驚いた。

もちろん最初から、そんなことをできるわけじゃない。イメージとしては理解できていたけど、満足に打球を前に飛ばすことさえできなかった。それでも山内さんは「それでいい。打撃ゲージから出なくてもいい」って言うんだ。

今になって思うと、ここが運命の分かれ道だった。「何をさせたいのかさっぱりわからん」と諦めていたら、そこで終わっていた。でも、俺は諦めなかった。山内さんの言うことを信じて、来る日もボールの内、外、上、下、真ん中を意識して打撃練習を続けた。すると不思議なもんで、ボールの5か所を打ち分ける感覚っていうのが体に染み込んできたんだ。

これは「俺だからできた」わけじゃない。続けたからこそ、できるようになったんだ。たとえて言うならはしと一緒なんだよね。日本人は当たり前のように使っているけど、誰もが最初から使いこなせるわけじゃない。

朝、昼、晩と3度の食事で使っているうちに、こぼさず食べられるようになったり、米粒のような小さなものでも挟めるようになるわけでしょ。大事なのは、繰り返し続けることなんだ。

俺の取りえなんて足が速いことぐらいで、才能らしいものは一つもなかった。唯一、人より優れていたのは練習を続けても「飽きない」こと。謙遜でもなんでもなく、俺がプロ18年間も選手として食っていけたのは、そのおかげだったんだ。

山内さんの指導で、飛距離を伸ばすための筋力アップを細部に及んだ。手首だったり、腕のインナーマッスルだったり、必要なパーツを全て鍛えて、その結果として飛距離を出すという手法を取った。

オープン戦でもすぐに結果は出なくて、初本塁打を打ったのは3月20日に下関で行われた大洋戦の第1打席。でも、山内道場に入門してから2か月足らずで゛つかんだ゛んだから早い方だったのかな。もちろん練習量もハンパじゃなかったよ。スイッチヒッターに転向した時と一緒で、短時間のうちに新たな技術を体に染み込ませようとしたんだから。



第21回『「球界のかっぱえびせん」に救われた』

2013-05-28 10:17:00 | 赤い疾風伝説


1975年に入団した同時に「俺は1年でクビになるかもしれない」と思っていたことを考えれば、その後のプロ生活は順風満帆と言えるものだった。右膝痛との戦いとか細かいことを挙げればキリがないけど、79年と80年には2年連続の日本一にも貢献したし、盗塁王のタイトルを獲得したり、ベストナインにも選ばれた。

打率も3年連続で3割をキープ。年俸だって順調に上がって、80年には2000万円を超えた。契約更改の席で球団幹部から開口一番に「ヨシヒコ、金がない」と言われた時にはビックリしたけど、主砲で全国区のスーパースターだった山本浩二さんさえ年俸5000万円ぐらいの時代のことだから。年俸の相場が今の10分の1ぐらいだったことを考えれば゛2億円プレーヤー゛ぐらいの評価はしてもらっていたということになるのかな。

もちろん努力は怠らなかったし、野球に対する取り組み方が変わることもなかった。ただ、開幕直前に右膝痛が悪化して2週間ばかり入院した81年は盗塁も55個→38個と14個激減して打率は2割8分9厘止まり。テーピングなしでプレーできるまでに右膝が回復した82年は盗塁こそ43個を記録してプロ2度目の全試合出場も達成したけど、打率は2割6分9厘まで落ち込んだ。

手は抜いていないのに結果が出ない。相手に研究されているのか、自分の技術に限界があるのか。レギュラーになってから初めてとも言える壁にぶち当たった。このままではいけない、何かを変えないと…。そう思っていた矢先に出会ったのが、83年のキャンプで臨時コーチを務めたカープのOBでもある山内一弘さんだった。

教えだしたら「やめられない、止まらない」。球界では「かっぱえびせん」の異名を取る山内さんに教えを請うたのは、それまでのコツコツと当てるダウンスイングとは異なるレベルスイング。鋭い打球で野手の頭を越すためのフォーム改造だった。

フォームを変えるのには勇気がいる。ただ、当時の俺は成績も落ちていたし「思い切って話を聞こう」という覚悟もあった。そして、実際に山内道場の門を叩いてみたら゛目からうろこ゛の連続だった。

結果から先に言うと、それまで78年の7本が最高だった本塁打数が、3倍強の24本に増えた。それどころか、4年連続で20本塁打以上をマークした。単純に飛距離が伸びただけでなく、83年と84年は2年連続で打率3割をマーク。盗塁だって83年には自己最多の70個を記録して、2年後には73盗塁で5年ぶりとなるタイトルを獲得した。

中には「あのまま当てるバッティングを続けてたら、ヨシヒコは2000安打をクリアしていただろうに」という人もいたけど、それは違う。盗塁が劇的に増えたのも、精神的なゆとりを持って打席に入れるようになったからなんだ。



今さら?

2013-05-27 10:43:24 | 2013年
5月26日(日) マツダ
広島 6 - 4 楽天
○前田(5勝2敗)、H今村(2敗1セーブ11ホールド)、Sミコライオ(1勝2敗9セーブ3ホールド)
本:松山(3号)、丸(4号)

 
 昨年の開幕2戦目以来、スタメンから堂林の名前が消える。指揮官曰く、「調子の良い人から使っていく。打つ感じがしない選手は外した」らしい。もう言葉もでません。
 ここまで堂林に関しては散々足を引っ張ってこられても意地でも外さなかったのになぜこの時期に?もっと言えば昨年終盤堂林にこだわりすぎて、結果3位を逃したにもかかわらず。外すなら外しても良いが対外的なコメントはもう少し慎重に行ってほしいもの。


 さて、試合はマエケンが不調ながらも7回を3失点。先制を許したが打線は松山の技ありの3ランで逆転。丸にもレフトスタンドへのHRが飛び出て前日のお返しとばかりのHR攻勢で勝利。



21勝25敗1分

助っ人の格の違い

2013-05-27 10:28:57 | 2013年
5月25日(土) マツダ
広島 1 - 2 楽天
バリントン、●ミコライオ(1勝2敗8セーブ3ホールド)


 先発バリントンは好投報われず。立ち上がりから好調で楽天打線を抑えるが、7回表、唯一の失投をパリーグ首位打者のマギーにとらえられ、HRで先制を許す。

 カープは8回裏、またしても遅い反撃で同点とし、なお1死2塁の逆転のチャンスで代打ニックがセカンドフライ、安部も倒れて同点どまり。
 
 すると9回表に登板のミコがジョーンズに一発を浴び、これが決勝点。
 チャンスで凡打のニック、とうとう2軍に落ちたルイスに比べて、効果的な一発で試合を決めた楽天の外国人に格の違いを見せつけられた試合となった。

20勝25敗1分

逆転で西武に連勝

2013-05-23 21:43:17 | 2013年
5月23日(木) 西武ドーム
広島 6 - 2 西武
○野村(2勝2敗)、H今村(2敗1セーブ10ホールド)、ミコライオ
本:丸(3号)、ニック(1号)

 先制されるとめっぽう弱いカープだが、今日は2点のビハインドをはね返し逆転勝利。
 特に2-2の同点の7回、ランナーを1人置いて丸が涌井からバックスクリーンへ勝ち越し弾。続く8回にはニックにも2ランが飛び出しダメ押し。カープらしからぬ一発攻勢。

 1つ気がかりなのは昨日意味もなく先発を外された廣瀬。今日は5打席で四球以外は凡退。廣瀬らしからぬ3球三振、しかも見逃しといった打席も。たまたまと願いたいところだが…。首脳陣の選手に対するケアははたしてどのくらい行われているのだろうか?
 

20勝24敗1分

なぜこの打順?

2013-05-22 21:44:22 | 2013年
5月22日(水) 西武ドーム

広島 1 - 0 西武
○大竹(5勝1敗)、H今村(2敗1セーブ9ホールド)、Sミコライオ(1勝1敗8セーブ3ホールド)

 前日も書いた通りこれまで打線を牽引しているのは廣瀬であることは疑う余地もない。なのに、スタメンに廣瀬の名前がない。「また、やったか…」と怪我を一番に心配したが、なんてことはない「相手が右下手投げ」の牧田で廣瀬は相性が悪いからという理由らしい。

 この指揮官はバカかっ!

 打順はルイス、中東、丸、岩本、松山と上位から5人の左を並べる。打率2割のルイスより、いくら相性が悪いとしても3割8分の廣瀬の方が期待できることは小学生でもわかりそう。もう呆れて物も言えない。
 ちなみにルイスは2四球は選ぶものの3三振と奮わず。この成績よりも廣瀬の方が劣っているという予測だろうか?これでは廣瀬のモチベーションも上がってくるはずもない。


 初回には岩本のピッチャー返しの打球が牧田の右足を直撃し、牧田は1イニングで交代。対牧田用の打線は1イニングで崩壊。(牧田が投げ続けていたとしても機能はしないと思うが)2番手以降をとらえることもできず試合は展開。

 指揮官の計算外(?)の展開を救ったのはまたしても大竹。決して本調子ではなく、フルカウントにしては抑える、といったような内容だったが肝心のところで締めて西武打線に得点を与えず。

 大竹の好投に打線が応えたのは7回。2死1、2塁から中東がライト前へタイムリーヒット。この場面1死から四球で出た石原に代わって赤松を代走に起用。この起用が功を奏して奪った点だが、この指揮官のコメントは自分の采配が的中したことを大喜びしている内容。もはや溜息しか出ない…。

 指揮官のくされ采配を見事にカバーした選手に拍手を送りたい。
 
 

19勝24敗1分

第20回『歓楽街で遊んでいても素振りは欠かさない』

2013-05-22 10:21:46 | 赤い疾風伝説


自分で言うのもなんだけど、2年連続で日本一になって盗塁王も2年連続で獲得した1979、80年ごろの俺は本当に生意気だった。言うこともやることも好き勝手だったし、年俸も副業で稼ぐ小遣いも増える一方。そりゃあ、勘違いもするよ。

ただ、一つだけ自分に言い聞かせていたことがあった。「高い給料をもらって、女の子にモテたりして好き放題にできるのは、野球で結果を残しているからだぞ」って。ワガママに振る舞えるのも野球があればこそ。その意識だけは、どれだけチヤホヤされても失うことはなかった。むしろ「これで成績が落ちるようなら、必ずシッペ返しを食らう」という恐怖心のようなものさえあった。

だから、飲みに行こうがカノジョの家に泊まりに行こうが、練習はかかさない。それこそカノジョの家にもバットを置いといて、いつでも素振りできるようにしていた。広島の歓楽街、流川なんかで飲む時だってそう。自分から知り合いを食事に誘っといて「ちょっとばかりバットを振ってきま~す」って、2時間ほど席を外したりしてね。

別に格好をつけているわけじゃなくて、習慣みたいなもんなんだ。やらないと気持ち悪いっていうか。チームメートだった達川光男さんには「ワシにはそれだけの練習はできん。イヤミか」とも言われたけど、それが俺のスタイルだったんだ。実を言うと一度だけ「しんどいから、今日は寝ちゃおう」って練習をサボった日があった。でもダメだった。夜中にうなされたんだ。起きてバットを振った後は、熟睡できた。

全ては野球のため…というスタンスだったから、体調面にも細心の注意を払ってた。調子が悪い時なんかは流川とかでファンから「なんやヨシヒコ、試合でヒット打てなくても飲みよるんか」なんてヤジられたりもしたけど、実際には飲んでいなかった。「一滴も」とは言わない。でも、ほとんどオーダーしていたのは「野菜ジュース」。キレイな女性がいたり、酒を飲む゛場の雰囲気゛が好きなだけで、酒を飲むことが好きだったわけじゃないから。

食事にも気を使っていた。体重が増えてちょっとでも動きが悪くなったら命取りだから。何も大げさなことを言ってるんじゃなくて、実際にそうなんだ。いくら足が速いからといって、簡単に盗塁ができるわけじゃない。相手だってけん制球やクイック投法なんかを駆使して、なんとか阻止しようとする。アウトとセーフを分けるのは、10分の1秒とか100分の1秒の差。スパイクを徹底的に改良してもらったりしていたのもそのためで、野球に関する努力は怠らなかった。

好きなことを言って、やりたいことをやりるためにも、本業では手を抜かない。アマチュアなら努力などの過程も評価してもらえるんだろうけど、プロはあくまで結果。俺はそれでいいと思う