明日のカープ

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第27回『゛するべき仕事゛が変わった3番への転向』

2013-05-31 11:05:04 | 赤い疾風伝説


阪神の21年ぶり優勝に日本中が沸いた1985年、俺は自己最多の73盗塁で5年ぶり3度目のタイトルを獲得した。打率こそ2割7分6厘と冴えなかったけど、ホームランは自己最多タイの24本。それなりに充実したシーズンを送った。

ただ、その一方で一抹の不安も感じていた。なぜなら、この年のシーズンをもって古葉竹識監督が退団したからだ。俺の入団が74年オフで、古葉さんがジョー・ルーツ監督の後を引き継いで指揮官となったのが75年の5月。すでに触れている通り、1年でクビになってもおかしくなかった俺を我慢して使い続けてくれたのも古葉さんだし、野球というものを叩き込んでくれたのも古葉さんだった。言うなれば一心同体のようなものだった。

古葉さんからバトンを引き継いだのは阿南準郎さん。選手とコーチという関係で長いこと付き合ってきたし、目指していたのは「古葉野球の継承」。そのせいか、戸惑いのようなものはなかったけど、このころから期待される役回りが変わっていったのも事実だ。

阿南さんは監督就任後から、俺のことを「ニューリーダー」と呼んだ。若い人には分からないかもしれないから説明しておくと、政治の世界で当時の中曽根康弘首相の後継者として名前が挙がっていた安倍晋太郎さんや竹下登さん、宮沢喜一さんのことを「ニューリーダー」と呼んでいて、一種の流行語になっていたんだ。まだ山本浩二さんも衣笠祥雄さんも現役だったけど、これからは若い者がチームを引っ張っていくべき、との考えもあったんだろう。

選手のメンバー構成が大幅に変わったわけでもなければ、やっている野球もそれまで同じ。ただ、時代の流れのようなものはヒシヒシと感じていた。84年のドラフト2位で入団した正田耕三が俺、山崎隆造に続くスイッチヒッターとして頭角を現し始めていて、阿南さんもしばしば「ヨシヒコを3番に」という構想を口にしていた。

3番への転向は、前の年まで3年連続で20本以上のホームランを打っていたことも無関係ではないだろう。ただ、1番打者としてホームランを打つことと、3番打者としてホームランを求められることは大きく違う。いつだったかの試合で正田、隆造、俺の3人が3者連続ホームランを打ったこともあるけど、打順が変われば゛するべき仕事゛も変わる。

チームとしてやっている野球は同じでも、何かが違う。着ているユニホームや守備でのポジション、打席から見える景色は同じなのに…。89年のシーズンになると6番や7番を打つこともあってね。カープにいながらトレードで新天地に来たような不思議な感覚があったな。



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