明日のカープ

広島東洋カープの昨日・今日・明日を見つめます

第2回『木下富雄さんにもらった"球聖バット"に手応え』

2013-05-09 14:18:18 | 赤い疾風伝説


入団1年目の春季キャンプでプロとのレベルの違いを痛感させられた俺は「1年でクビになるかもしれない」と本気で思った。でも、振り返ってみると、早い段階で危機意識を持てたことは大きな収穫だったね。だってそうでしょ?ヘタはうまくなるしかないんだから。

そのころは打撃マシンの球でさえ、バットの芯で捉えられるのは10回に1回とか2回だった。でも、毎日のように練習していると、その確率が上がってくるわけよ。夏場ぐらいには10回に5回ぐらいは芯に当たるようになってね。それでようやく二軍選手の「並」のレベルなんだけど、成長しているという実感があるから、つらさより喜びの方が大きい。だから次の日も頑張れるんだ。

そんな俺を支えてくれる人もいた。大きかったのは学生で言うと2つ上の内野手、木山英求さんの存在だ。ティー打撃をする時なんかにコンビを組んでくれて、俺が「もうダメだ」と音を上げると「まだまだ」と尻を叩いてくれて。逆に木山さんが疲れた顔を見せた時には、俺が「もうひとカゴ打ちましょう」って、けしかけたりしてさ。

当時住んでいた広島市西区にある三篠寮の寮母さんにも協力してもらった。携帯電話なんてない時代で、寮生は順番で夜に電話番をしなければならなくてね。俺は併設された練習場で夕食後にマシン打撃をしたいから電話番なんてしていられない。そんな時に寮母さんが「ヨシヒコちゃん、電話番は任せておきんさい」って快く送り出してくれたんだ。

他に夜間練習する選手がいなかったのもラッキーだった。マシンの数は限られているから、寮の先輩が同じことをしていたら順番待ちしなきゃいけない。寮のルールでマシンは午後9時までしか使えなかったんだけど、おかげで夕食後に2時間半はマシンを独占できた。そして9時以降は素振りに没頭した。

皮肉なもので、安い給料だったことも追い風になった。年俸は120万円だったけど、税金だなんだでいろいろと引かれて手取りは2万円ぐらいしかなくてね。しかも今みたいに用具が支給されるわけじゃないから、バットもグラブも手袋も自腹で…。遊びに行くカネもないから、もう練習するしかないんだ。

ヘタだからバットを折ることも多かったんだけど、1本5000円ぐらいだったから安月給の俺には死活問題だった。それこそ練習用のバットなんて、クギでつなぎ合わせてテープをぐるぐる巻きにしたものを使ってたぐらいだ。

新しいバットなんて買えないから、試合では先輩からもらったお古を使ったりしてた。

でも、そのおかげなんだよね。タイ・カップ式バットと出合えたのは。えり好みできない中でいろんなバットを使っているうちに「これだ」っていう手応えを感じられたんだ。

ちなみに、俺にタイ・カップ式のバットをくれたのは「パンチョ」の愛称で知られる木下富雄さんだった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿