トレードでカープを出た後の野球人生は、あっという間に終わった。ロッテ1年目の1990年は33歳で、92年に阪神でユニホームを脱いだのは35歳。いくら今よりも選手寿命が短い時代だったといっても、体力的には問題なかったし、実際に「一振り稼業」のようなことだったら、まだ何年か続けられたと思う。でも、そうまでして続ける気にはなれなかった。というより、そんな自分を受け入れるのが嫌だったので、未練なく引退を決断した。
致命傷となったのは守備だ。俺が在籍していた当時のカープは投手王国で、たとえエラーしても「悪い、何とか抑えて」と言えば、本当に抑えてくれた。でも、他球団ではそうもいかない。阪神時代に同じノリで投手に声をかけたら、直後に7失点…なんてこともあった。
以前にも触れた通り、俺は守備がヘタだった。練習はしたけど、それは「試合で何とか使えるレベルに」というもので、基本の反復練習のような地味で時間がかかる工程を省いていたツケが、年を追うごとに重くのしかかってきた。
若いころは良かった。投手は抑えてくれるし、「エラーなんて打って取り返せばいい」と割り切って、それを実行できていたから。でも、そうガンガン打てなくなってくると首脳陣としては使いにくくなる。自分がコーチになって痛感したことだけど、使う側の立場の人間っていうのは、打てなくて点を取れないことよりも、守備の乱れで余計な点を相手にやることを嫌がるもんなんだ。
「若いうちに基本をしっかりと学んでおけば…」という思いがないわけでもないけど、仕方のない面もあった。俺は痛めていた右膝に体重を乗せないように投げるしかなかったからね。まあ、研究が足りなかったと言ってしまえばそれまでなんだけどさ。
振り返ってみれば俺の野球人生はカープとともにあった。楽しいこともつらいことも凝縮された15年間だった。ついでに言うと、かつての広島市民球場は起工が1957年2月で開場は同年7月。ちょうど俺と゛同い年゛だったこともあって、やはり他のチームよりも思い入れはあった。
カープのユニホームを脱いでから20年以上が経過しているのに、いまだに広島のファンは温かい声援を送ってくれる。ロッテでヘッドコーチをしていた昨年も、交流戦で広島を訪れた際に多くの人々からサインを求められた。本当にうれしいことだ。
うれしいといえば、2008年にはこんなことがあった。この年限りで長い歴史に幕を閉じることになった広島市民球場で行われた「カープOBオールスター」でのことだ。それこそ20年ぶりぐらいにカープのユニホームに袖を通して、おまけに3安打、1盗塁でMVPにまで選ばれて。ファンも温かい拍手を送ってくれてね。92年に静かにバッドを置いた俺にとっては、最高の引退試合になった。
=終わり=