明日のカープ

広島東洋カープの昨日・今日・明日を見つめます

最終回『最高にうれしかった゛16年目の引退試合゛』

2013-06-04 19:03:27 | 赤い疾風伝説


トレードでカープを出た後の野球人生は、あっという間に終わった。ロッテ1年目の1990年は33歳で、92年に阪神でユニホームを脱いだのは35歳。いくら今よりも選手寿命が短い時代だったといっても、体力的には問題なかったし、実際に「一振り稼業」のようなことだったら、まだ何年か続けられたと思う。でも、そうまでして続ける気にはなれなかった。というより、そんな自分を受け入れるのが嫌だったので、未練なく引退を決断した。

致命傷となったのは守備だ。俺が在籍していた当時のカープは投手王国で、たとえエラーしても「悪い、何とか抑えて」と言えば、本当に抑えてくれた。でも、他球団ではそうもいかない。阪神時代に同じノリで投手に声をかけたら、直後に7失点…なんてこともあった。

以前にも触れた通り、俺は守備がヘタだった。練習はしたけど、それは「試合で何とか使えるレベルに」というもので、基本の反復練習のような地味で時間がかかる工程を省いていたツケが、年を追うごとに重くのしかかってきた。

若いころは良かった。投手は抑えてくれるし、「エラーなんて打って取り返せばいい」と割り切って、それを実行できていたから。でも、そうガンガン打てなくなってくると首脳陣としては使いにくくなる。自分がコーチになって痛感したことだけど、使う側の立場の人間っていうのは、打てなくて点を取れないことよりも、守備の乱れで余計な点を相手にやることを嫌がるもんなんだ。

「若いうちに基本をしっかりと学んでおけば…」という思いがないわけでもないけど、仕方のない面もあった。俺は痛めていた右膝に体重を乗せないように投げるしかなかったからね。まあ、研究が足りなかったと言ってしまえばそれまでなんだけどさ。

振り返ってみれば俺の野球人生はカープとともにあった。楽しいこともつらいことも凝縮された15年間だった。ついでに言うと、かつての広島市民球場は起工が1957年2月で開場は同年7月。ちょうど俺と゛同い年゛だったこともあって、やはり他のチームよりも思い入れはあった。

カープのユニホームを脱いでから20年以上が経過しているのに、いまだに広島のファンは温かい声援を送ってくれる。ロッテでヘッドコーチをしていた昨年も、交流戦で広島を訪れた際に多くの人々からサインを求められた。本当にうれしいことだ。

うれしいといえば、2008年にはこんなことがあった。この年限りで長い歴史に幕を閉じることになった広島市民球場で行われた「カープOBオールスター」でのことだ。それこそ20年ぶりぐらいにカープのユニホームに袖を通して、おまけに3安打、1盗塁でMVPにまで選ばれて。ファンも温かい拍手を送ってくれてね。92年に静かにバッドを置いた俺にとっては、最高の引退試合になった。

=終わり=

第33回『ロッテに移籍したら消滅した゛夜のお誘い゛』

2013-06-04 19:02:59 | 赤い疾風伝説


1989年のオフに、田淵幸一さんがダイエーの監督に就任したこともあって、法政大時代からの親友でもあるカープの山本浩二監督との間で「山本ー田淵の友情トレード」があるんじゃないかと、マスコミは騒いでいた。交換要員の具体名も挙げられていたし、水面下で交渉が行われていたことは間違いなかった。

しかし、最終的に移籍先として決まったのはロッテ。400勝投手としても知られる当時の金田正一監督が積極的だったそうで、俺と白武佳久、杉本征使の2投手と、前年に首位打者を獲得していた高沢秀昭、水上善雄による3対2の大型トレードとなった。でもね、この時もひと悶着あったんだ。

このトレードについてカープが記者さんたちを集めて発表したのが、11月13日のことだった。俺はお世話になっていた整体師の先生に体を見てもらうため名古屋にいたんだけど、球団から事前に通告を受けていて、名古屋のホテルで記者会見をするようにも言われていた。

この大型トレードのニュースはNHKの夕方のニュースでも報じられたし、俺は俺で名古屋のホテルで記者さんの質問に答えた。なのに…。夜になってロッテの球団幹部がこのトレード話を全面否定してね。当事者である高沢や水上に連絡をしていないってことが理由だったようだけど、こっちにしてみれば何がなんだか分からない。


1か月近く前からトレード要員になっていることを告げられたかと思えば、決まったら決まったで相手球団が全面否定。翌14日に広島に戻ってから、カープの球団幹部に「名古屋で会見までさせて、すまんかったのう」と謝られたけど、記者さんには追い掛け回されるし散々だった。交換トレードっていうのは、両球団の同時発表が基本だからね。

正式に両球団からトレードが発表されたのは、いわゆる「フライング発表」から4日後にあたる17日で、広島市内のホテルで改めて記者会見に臨んだ。俺もそうだけど、質問する側もバツが悪かったと思うよ。何日か前に聞いたことを繰り返し聞かなきゃいけないんだからね。ちなみに、この11月17日は仏滅だった。

会見では「野球はどこでやっても同じだから、これまで通り、全力を尽くしたい」というような話をした。確かに野球をすることに変わりはなかったけど、ロッテの注目度の低さにはビックリさせられた。本拠地の川崎球場は数えるほどしかお客さんがいないし、隣接する川崎競輪が開催中の日なんか、お客さんがグラウンドに背を向けてスタンドから競輪を観戦しているし…。

ついでに言うと、それまで当たり前のようにあった芸能人をはじめとした異業種の方からの゛夜のお誘い゛が、ロッテ移籍を機にピタッとなくなった。「カープのヨシヒコ」じゃないと価値を感じてくれないのかな…なんてことを、ふと考えたりもしたよ。



第32回『謙二郎の活躍で゛カープでの務めは終わった゛』

2013-06-04 19:01:10 | 赤い疾風伝説


1987年の開幕前に起きた例の「激励会ボイコット」ぐらいから、俺のトレードに関する記事がスポーツ紙上で頻繁に掲載されるようになっていた。そのほとんどが、いわゆる゛飛ばし゛だったわけだけど、火のないところに煙はたたない。球団内に、俺を出したいという考えがあることは感づいていた。

ご存じの通り、俺は89年のオフにロッテへ交換トレードで移籍するわけだけど、それ以前に決まりかけていたトレードもあった。

細かい経緯までは知らないけど、ある年のオフに当時は西武の管理部長をされていた根本陸夫さんから突然、電話がかかってきてね。「トレードが決まったから。年俸は7000万円だけどいいな」って。その電話で交換要員まで告げられていたけど、結果的には破談になった。後で聞いた話では、カープの方から断ったらしい。

俺のトレード話が、噂でなく現実のものとなったのが89年のオフだった。実際にシーズンが終わる前に、球団からトレード要員であることを告げられていたし、その前から「そろそろかな」という覚悟もできていた。

チームは88年のオフに「ミスター赤ヘル」を新監督に迎えて、生まれ変わろうとしていた。同時に、次代を担うリーダー候補生の野村謙二郎もドラフト1位で入団した。駒沢大出身の謙二郎は、春のキャンプから直系の先輩にあたるヘッドコーチの大下剛史さんに徹底的にシゴかれていて「このままじゃ殺されます」なんて泣き言も言っていたけど、それは期待の裏返しでもあった。俺が古葉さんに見込まれて鍛え上げられたように。

この年の謙二郎は内外野を転々としながらも88試合に出場して21盗塁をマークするなど、いきなり存在感を発揮した。レギュラーとして「1番・ショート」で使えるメドも立った。そして、俺のカープでの務めは終わった。

覚悟していたこととはいえ心境は複雑だった。チームはもちろん広島という街も好きだったし、何よりプロ野球選手にとっての幸せは、入団したチームで引退まで世話になることだとも思っていたから。そうは言っても、まだ32歳。野球に対する情熱は失ってなかったし、今ほど選手寿命が長くなかった時代とはいえ、老け込む年齢だとも思っていなかった。

そんな矢先にスポーツ紙をにぎわせたのが、大洋の監督をされていた古葉さんの解任報道だった。5年契約の3年目だったけど、これは報道通りになってしまった。俺がカープを去る時に、プロ野球での育ての親がユニホームを脱ぐ。これも巡り合わせと言えば、巡り合わせだったのかもしれない。

第31回『山本浩二さんが監督就任し変化を痛感』

2013-06-04 18:59:05 | 赤い疾風伝説


何だかんだ言っても、選手を生かすも殺すもチームを預かる監督次第だ。どんなに才能に恵まれていようとも、使ってもらわなければ始まらない。逆に才能に恵まれていなくたって、我慢して使い続けてもらっているうちに一流プレーヤーの仲間入りをすることはある。実際に俺自身がそうだった。

全ては古葉竹識監督との出会いから始まった。結果を出した選手に「お前は入団したころから人とは違っていたもんな」とか「当時から光るものがあった」と訳知り顔で言う人は少なくないけど、そう簡単に見極められるものじゃない。チャンスを与えたからといってすぐに結果が出るわけではないし、結果が出たところで長続きするとも限らない。自分が教える立場になってから痛感したけど、人を育てるのには我慢も必要だ。

教わる側にしたってそう。技術の習得っていうのには反復練習が欠かせないから時間がかかる。俺がスイッチヒッターに転向した時だって「半年後にどういう結果を出すか」というスパンで物事を考えていた。そういう意味で言うと、最近の若い選手はすぐに結果を求めたがる傾向が強い。

ちょっとヒットが出ないぐらいで不安になったり、コーチの言うことが信じられなくなる。

ロッテのコーチ時代にもいたよ。あえて名前は出さないけど、コーチの言うことが信じられないだけでなく、自分のスイングに自信が持てなくて何試合もしないうちに打撃フォームをころころ変える選手が。ダメな時に立ち返る「原点」まで見失ってしまって、手の施しようもなかった。

そういう点で言うと、俺にはやり続ける忍耐力とか体力が人よりあった。同時に、山本一義さんや山内一弘さんのように付きっきりで面倒を見てくれるコーチもいた。そしてその上で、古葉さんが見守ってくれていた。

ただ、監督が代われば目指す野球も変わるし、使う選手だって変わる。それを痛感したのは「ミスター赤ヘル」こと、山本浩二さんが監督として現場復帰した1989年のシーズンだ。

古葉さんからバトンを受け継いだ阿南準郎さんは、就任当時から自他ともに認める「山本浩二への引き続き役」で「古葉野球の継承」を掲げていた。でも、満を持して登板する浩二さんはそうじゃない。目指す野球のスタイルが大きく変わるわけじゃなかったけど、球団としても長期政権を前提としていた。そんなタイミングで将来のリーダー候補としてドラフト1位で入団してきたのが今の監督、野村謙二郎だった。


もちろん空気は察していたよ。スポーツ紙なんかでは、俺のトレードに関する記事が頻繁に出るようになっていたし…。実際、現役引退後に違った形で世話になる゛あの人゛からも、衝撃の電話をもらったりしていたから。

第30回『実績残した選手がダメになるパターンに…』

2013-06-04 18:56:32 | 赤い疾風伝説


若いころから覚悟はしていた。「これだけ好きなことやって、好きなこと言っても許されているのはプロ野球選手として結果を出しているから。結果が出なくなれば必ずシッペ返しを食らう」と。

野球に対する情熱は昔と変わらなかったし、極端に体力が落ちたわけでもない。ただ、1984年のシーズンを最後に古葉竹識監督がカープを去ってから、俺を取り巻く環境は確実に変わり始めていた。

例の「カープ激励の夕べ」への出席をボイコットした件にしてもそう。俺の普段の言動からしたら、いつ起きても不思議じゃなかったのに、このタイミングで起きた。自分では何一つ変わっていないつもりでも、取り巻く環境が変わると受け取られ方も変わってくるんだろうね。

実際に、俺のスタイルは現役時代を通じて変わることはなかった。後にトレードで移籍したロッテでもそうだ。金田正一監督は朝の散歩を重視する人で、シーズン中の真夏でも1時間ほどの散歩を義務付けられた。金田さんは「散歩っていうのは体にいいんだぞ」って言ってたけど、俺は「分かりません」と食ってかかったりしてね。

今なって考えれば、金田さんが「散歩は体にいい」と言っていた意味も分かる。早朝に散歩する習慣があれば夜も遅くまで起きていられないし、そうなれば自然と夜の過ごし方を考えるようになり、摂生もするようになる。そうやって、やるべきことを徹底してきたからこそ金田さんは前人未到の400勝を挙げる大投手にもなった。でも、33歳だった当時の俺はゆっくりと寝たいばっかりで、金田さんの本当の狙いを考えることもなく、逆らうだけだった。

次代を担う若手も順調に育っていった。俺に続く形でスイッチヒッターに転向した山崎隆造なんかは「世の中に『天才』っているんだなあ」と感心してしまうほどのセンスの持ち主だった。俺が左打ちを始めたころなんか「1日24時間じゃ足りない」って、死に物狂いで練習したもんだけど、隆造はいとも簡単に芯で捉えていたしね。

85年からメンバーに加わった正田耕三にしても驚くほどのスピードで成長していった。俺が例の騒動で開幕から出られなかった87年には入団3年目にして首位打者に輝いているし、翌88年もタイトルをキープした。機動力野球の中核を担う1、2番コンビは、その正田と隆造になっていった。

役割が変わると、心の持ち方も変わってくるんだ。そのいい例が俺の場合はバントだった。古葉さんの時代は自分の判断でセーフティーバントをして、それなりの成功率を誇っていたけど、これがサインで指示されるようになると違ってくる。もともとバントはヘタだったから。「決めてやるぞ」って臨むのと「決めなきゃいけない」と思ってやるのも全然違う。だから、失敗すれば「取り返してやろう」ではなく「次は失敗できない」と追い込まれる。それなりに実績を残した選手がダメになっていくのは、だいたいこのパターンだ。


確かにパリーグの方が強いが

2013-06-04 10:12:22 | 2013年
6月3日(月) ほっともっとフィールド神戸
広島 1 - 5 オリックス
●中村恭(1勝3敗)、久本、梅津、ミコライオ

 交流戦の成績、パリーグが50数勝に対して、セリーグが30数勝。パリーグが圧倒的に投打に勝っているのは確か。しかし、カープの連敗の原因はこれだけではないだろう。

 日替わり打線や左右病…。指揮官は「打順をまた考えないと」と試合が終わる度にコメントを発しているが、そんなことが原因でないことに何故気づかない?3年間同じことの繰り返し。打順の組み替えだけで勝てるほど甘い世界ではないはず。
 エルが2軍戦に復帰しているが、怪我が完治するとどう戦っていくのか?ニックとエルを同時にスタメンということになれば当然守備面は不安になる。


 それはさておき、試合はというと…。
 数試合前のピッチングでなんとか先発ローテに食い込んだ中村恭だが、ここ何試合かは自滅パターン。ある意味背水登板だったが、期待に応えれず、毎回のように四球を連発。四球を出しても結果0に抑えれれば、中村の持ち味とも言えるが、粘れたのは3イニングだけ。4回に四球から3点を奪われる。

 先制される=打線に反撃力なし。あとは淡々と試合は進み。いつもパターンで試合の後半で1点返すのがやっと。

 これだけ負けが込んでもまだ4位にいることが信じられない。裏を返せばセリーグが軒並み揃って負けているので順位に変動がないということか。


22勝31敗1分