1987年の開幕前に起きた例の「激励会ボイコット」ぐらいから、俺のトレードに関する記事がスポーツ紙上で頻繁に掲載されるようになっていた。そのほとんどが、いわゆる゛飛ばし゛だったわけだけど、火のないところに煙はたたない。球団内に、俺を出したいという考えがあることは感づいていた。
ご存じの通り、俺は89年のオフにロッテへ交換トレードで移籍するわけだけど、それ以前に決まりかけていたトレードもあった。
細かい経緯までは知らないけど、ある年のオフに当時は西武の管理部長をされていた根本陸夫さんから突然、電話がかかってきてね。「トレードが決まったから。年俸は7000万円だけどいいな」って。その電話で交換要員まで告げられていたけど、結果的には破談になった。後で聞いた話では、カープの方から断ったらしい。
俺のトレード話が、噂でなく現実のものとなったのが89年のオフだった。実際にシーズンが終わる前に、球団からトレード要員であることを告げられていたし、その前から「そろそろかな」という覚悟もできていた。
チームは88年のオフに「ミスター赤ヘル」を新監督に迎えて、生まれ変わろうとしていた。同時に、次代を担うリーダー候補生の野村謙二郎もドラフト1位で入団した。駒沢大出身の謙二郎は、春のキャンプから直系の先輩にあたるヘッドコーチの大下剛史さんに徹底的にシゴかれていて「このままじゃ殺されます」なんて泣き言も言っていたけど、それは期待の裏返しでもあった。俺が古葉さんに見込まれて鍛え上げられたように。
この年の謙二郎は内外野を転々としながらも88試合に出場して21盗塁をマークするなど、いきなり存在感を発揮した。レギュラーとして「1番・ショート」で使えるメドも立った。そして、俺のカープでの務めは終わった。
覚悟していたこととはいえ心境は複雑だった。チームはもちろん広島という街も好きだったし、何よりプロ野球選手にとっての幸せは、入団したチームで引退まで世話になることだとも思っていたから。そうは言っても、まだ32歳。野球に対する情熱は失ってなかったし、今ほど選手寿命が長くなかった時代とはいえ、老け込む年齢だとも思っていなかった。
そんな矢先にスポーツ紙をにぎわせたのが、大洋の監督をされていた古葉さんの解任報道だった。5年契約の3年目だったけど、これは報道通りになってしまった。俺がカープを去る時に、プロ野球での育ての親がユニホームを脱ぐ。これも巡り合わせと言えば、巡り合わせだったのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます