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49年前の東京五輪の陰に2人の日系人の尽力があったこと知ってましたか?

2013-11-03 | 雑記
1964年・・・私は高校1年・・・だったと思います・・・


テレビからは三波春夫さんの「東京五輪音頭」の歌が流れ、

日本中がオリンピックムードに酔いしれていたと想います・・・


今ふと想い出しましたが・・・五輪の前やったか・・・五輪が終わった後やったか想い出せませんが、

東京からは、かなり遠い田舎・・・私の郷里の市営陸上競技場にも外国の選手が来ていましたね・・・

私も何故か浮かれていたように思います。

それが、7年後に日本で開かれるのを再び体感出来るんですよね・・・私が元気でいられたらの話ですが\(~o~)/・・・


今朝の新聞を見て、当時の東京五輪がどのような経緯により開催までこぎ着けられたのか初めて知りました。

私達が戦後日本が歩んできた道を振り返る時、この事実は知っておかなくてはいけない事やと思います。

だから、今朝はこの事実を紹介した記事を転載してみようと思います。

~以下、11月3日読売新聞朝刊より抜粋~

ワールドビューのロゴ
 1964年の東京五輪の陰には、2人の日系人の尽力があった。ハワイの米谷克巳さんと、ロサンゼルスのフレッド・和田勇さん。いずれも他界している。

 ハワイの米谷さんは戦後間もない40年代末、資金不足の日本政府が国際オリンピック委員会ローマ総会への委員派遣を断念すると聞き、資金集めに立ち上がった。集めた資金で49年に委員1人の訪欧が実現。この委員がハワイに寄った際、みすぼらしい服を着ていたため新調したという。
日系人と東京五輪の絆

ロサンゼルス支局
   水野 哲也
 その後、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官と面会。「日米の友好にはスポーツが一番」と訴えた。48年ロンドン大会で参加が認められなかった日本は、戦前に米五輪委員長を務めたマッカーサーの後押しもあり、52年ヘルシンキ大会で夏季五輪に復帰。東京招致に弾みを付けた。

 招致レースが大詰めの59年、ロスで青果商を営んでいた和田さんは、自費で中南米10カ国を訪ね、要人に日本支持を訴えた。東京の開催決定は、中南米票が決め手になったとも言われる。

 2人はなぜ、五輪復帰と招致に奔走したのだろう。

 戦中、日系人は米国で激しい差別に遭った。辛苦の末に築いた農地を離れ、米西海岸の12万人が強制収容所に送られた。和田さんは内陸のユタ州へと移住。米谷さんは、日系人の地位を守るため2世達が志願した日系人部隊の一員として、欧州戦線で戦った。

 戦後、日系人も苦しい道を歩み、西海岸では差別が続いた。そんな時、2人が見たのは、戦後の国際社会で孤立する日本だった。米谷さんの長男、フランクリンさん(76)は「父は米国人だが、日本人の血が流れていることを誇りに思い、日本のために何でもしようとしていた」と語る。五輪は誇りを取り戻す舞台だった。

 日系人の貢献は、五輪だけではなかった。

 終戦直後の日本人を救おうと、サンフランシスコ在住の日系人が作った救済組織「ララ」。収容所から出たばかりの日系人たちが命懸けで集めた物資は80億円にも上った。高度成長期、日系人は日本企業の米国進出も支援した。戦後復興の陰に、そんな支えがあったことを忘れてはならない。

 米国の日系人は4世や5世となった。かつて各地にあった日本人街は、ロサンゼルスなどわずかとなった。ロスでは、看板は日本食でも経営は韓国系という店が増えた。日本人街「リトル東京」では、街の歴史が風化する前に後世に残そうと、日系人有志が昔の写真を集めてカレンダーを作るなどして懸命に活動している。

 2020年夏季五輪・パラリンピックが東京で開かれる日まで、日本人は64年の東京五輪を思い起こし、戦後から高度成長に至る歩みを振り返るだろう。その時、日系人との絆にも目を向けてほしい。
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