さくらんひめ東文章

指折って駄句をひねって夜が明けて

名残の歌舞伎座 -11-

2010年03月22日 | 名残の歌舞伎座
傾奇から歌舞伎へ

歌舞伎座の扉が開くと、そこには世界遺産でもある壮麗な芸術の世界がある。

そもそも歌舞伎の原点は「出雲の阿国」であることは誰でも知っているが、
その阿国の出現がやがて「遊女歌舞伎」→「若衆歌舞伎」→「野郎歌舞伎」へと
変遷していくことは、歌舞伎検定や京都検定のテキストにもある。

林屋辰三郎著の「歌舞伎以前」によると、
世の中もまだ定まらず、民衆の心も刹那的な欲求を求める時代

「1603年春、京都に現れた阿国は
『異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣裳以下殊異相』であったという
女性の男装という性の倒錯の上に、異相を伴うものであるから
それはたしかに妖気にみちたものである。」とある。

その阿国が評判をとると模倣がたちまち現れ、遊女の一座が四条河原で興行を始める。
舞台は脇もつれも地うたいもみんな遊女だそうだから、傾城町の延長である。
そこで、「女歌舞伎」に禁令が出て「若衆歌舞伎」になるのだが、
これもまた同じことだった。

このところ読んでいた後水尾院関係の本にもこのころの風紀の乱れについての
多くの記述があり、これらが原因をなし「猪熊事件」なども起こったようだ。

そして成人男性に演じさせる野郎歌舞伎の時代がくるのであるが、
そうなると男性が女性を演ずる上で、技術的な工夫や研鑽が必要となってくる。
今まで主に「容色」を愛でていたのが「技術」を愛でる方向に替わっていった。

こう考えてみると、よくぞ当時禁令を発してくれましたということになる(笑)
単に「容色」を売り物の芸能では、ある時点できっと廃れていただろうし、
長い歴史の中で数々の名優を輩出することもなかったであろう。