「体力が衰えたりして息が短くなってきたら、
もうお客さまにそういう醜態を見せるのは嫌ですからね。
『あの人、まだやってはるわ』とは云われたくないのでね。」
昨晩、ETV特集「鬼の散りぎわ」を拝見した時、高遠弘美著「七世竹本住大夫 限りなき藝の道」に著者とのインタビューで
2012年2月に住大夫さんが語られていた想いが浮かんだ。
そして、住大夫さんの引退後の寂しさや悔しさを思うとなんとも切なくて私も泣いた。
紛いものや軽薄なものが氾濫し、それを謳歌しているご時世で、恐ろしいほどい潔い「鬼の散りぎわ」である。
文楽ファンのほとんどは、多少全盛時代より衰えられていても、
劇場で住大夫さんのお姿をいつまでも拝見したかったと思っているはずであるが、
黄金時代の名人たちの残した藝の真髄をもとめて日夜戦ってこられた住大夫さんのプライドがそれを許さなかったのであろう。
この高遠弘美著「七世竹本住大夫 限りなき藝の道」に『山城少掾聞書』から抜粋の山城少掾の「音」についての説明がある。
音と申しますと、顎の音、歯の音、鼻音、舌音、唇音、咽音、などと申しますが、
いちいち例はあげられませんが、やってるとそれぞれみなあります。
そのうち咽の音に鼻音、これは説明を要しませんが、声を鼻に抜くと咽喉がらくになります。
唇の音は「寺子屋」の玄蕃の「うぬらが餓鬼のことまで身共が知ったことかい」、
あれですね、あれ咽でいったんぢや、あの口捌きができません。・・・・
顎を左右に廻はして節をこなすわけで、それで声を痛めずに語れるのです。
大きな声を出す時に、たゞ咽喉ばかり気張るから声をやられるので、
その場合はまづ肩を柔くして、下腹に力を入れて声を出す、
ということが第一条件です。腹帯を締めますのもそのためですからね。
浄瑠璃は俗に一ち声二節と申しますが、
これは一ち音二節といふべきで、
音遣ひが出来なければ東風も西風もあつたもんぢやあちません。・・・
一生が修行、ひたすらに、ただひとすじに、謙虚さを忘れず藝の道を追求してこられたお姿は
安直に生きている今の時代の私たちに喝を入れ、襟を正せと仰っておられるように思えた。