真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第八章 天道の修道法(三)外功の修法ーその1

2024-04-21 19:36:42 | 天道の淵源

(三)外功の修法  その1

外功とは外的に道務を推進して正法を普伝し、衆生を済度し、劫難を消滅し、人々の煩悩・不安・恐怖を除去する聖事に携(たずさ)わる行です。

三期にあたり恩師弓長祖は、老〇様の大命を拝して三曹の神人鬼を救い、万教を帰一し、白陽万八百年の道盤を掌(つかさど)ることになりました。

斯(かか)る大業に徒弟の一人として助力させて頂けることは幸運なことで、この時とこの場所に生まれ合わせた恵みを喜ばなければなりません。

この仕事を成就させるために諸天の神聖、満天の仙仏とともに下界し、あらゆる方法を講じて挽回を手助けしておられます。

弥勒祖師と恩師が天盤・道盤を相助けて統掌される事実を、もっと声を高くして世人に知らせる義務と責任があります。

老〇様は、この度の大収円事に、過去の青陽・紅陽に救済された四億の真人を挙(こぞ)って降世させた程で、老〇真書に「爾等群仙(なんじらぐんせん)等しく世に下り、荒(あれ:荒れ地)を開き草を打(な)ぎ、他(みろく)を幇助(たす)くべし。西方に一仏子も留めず、天宮(りてん)に一菩薩も留(のこ)さず。」とあります。

老〇様の御心情を察し、いかに世の悪化を嘆き悲しんでおられるかを理解できます。

親の御意志を承(う)け、それに副(そ)うことを成し遂げる行が孝ですから、この前代未聞の大神事に全身全霊を賭けて赤心を捧げ尽くすのが、大聖賢の器たる人の行ではないでしょうか。

今、天は我々に何を望んでおられるか、「天に順(したが)えば存(のこ)り、天に逆らえば亡ぶ」の理(ことわり)どおり、天の意を知り、天の命を聴き、天事に参画して永遠の世に留まることを願うべきです。

天界からの使命を受けて一大事を補佐するためにこの世に降ろされたことを考えて、我々は六万余年間、輪廻に彷徨(さまよ)ってやっと人身を得ました。

せっかくの機会を逸(いつ)せず、積極的に普伝に走り、万霊帰根のために献身するのを惜しむべきではありません。

孔子様は、「志士仁人(ししじんじん)は、生を求めて以て仁を害することなく、身を殺(さつ)して以て仁を成すこと有り。」と言われました。

志士とか仁人とか言われる人は自分の身を生かさんがために仁道を害(そこな)うことなく、むしろ反対に、自分の身を犠牲にしても仁道をなし遂げて行くべきで、キリスト様のように人々の罪を贖(あがな)うためには十字架に釘打たれても本望でありました。

論語の中に、孔子様は、子貢(しこう)様の「仁者とは何か」との質問に、「夫(そ)れ仁者は己立(おのれた)たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。

能(よ)く近く譬(たと)えを取るを、仁の方(みち)と謂う可(べ)きのみ。」と答えられました。

つまり、仁者は自分がその立場に立ちたいと思う場合には、まず以て人を立ててやり、自分が事に通達したいと思う場合には、まず以て人を事に通達させてやることで、かくのごとく万事につき、ごく手近かに我が身の上にたとえを取って自分の心に考え、それを推して人に及ぼして行く、これが仁に到達する方法であるという意味です。

目下の天下が最も混沌としている時に、天道が唯一の救いの法として、人々を光明の彼岸へ導こうとしています。

老子様は、「大道廃(すた)れて仁義あり」といわれました。

世に大道が廃れたために仁義の大道が唱導され、霊を根本から救おうとされています。

こうして外的に人に接して正法を授け伝える行が外功の修法であります。

外功は天道を得た人であれば、誰でも篤(あつ)く行うべきです。

普伝には時期がありますから、短期間に緊急になさなければなりません。

天道の単伝時代には、内功を充実して明師の開悟を受けてから、外功を行じて衆生を済度していました。

菩薩行とは、仏たることを目的として修める自利(自己のために修行)と利他(他人の利益を目的とする行為)の円満なる大行で、つまり内功をして菩提・真理・妙理を求めつつ、衆愚(しゅうぐ)・衆迷(しゅうまい)を醒(さ)まし救う行のことです。

目的は人々を救うのですが、そこに到達するのに己が明瞭に悟境に至らねばなりません。

そのための修行が内功でしたが、今は先に悟りの法を与えて頂いた我々にとっては、天運に呼応して外功を建てる事を主題にし、外功によって影響する力と徳をもってさらに内功を容易に充実成らしめればよいのです。

むしろ外功のない所に内功はあり得ません。内功は磨くことで己の霊光を輝かす行ですが、外功は徳を積むことで器を大きくし霊気を増やし、徳力を広く修める行です。

宝石に例を取って言えば、内功は細工し、煉磨して仕上げる行で、外功は量を増やし、目方を重くし、質を充すよう計る行です。

小さな宝石を百年磨いても限られた分量以上にはなりません。

可能ならやはり量質ともに大きくして更に煉磨することが望ましいのですが、この徳を立てることは時と運と福の具わった人でないと作得(なしえ)られるものではありません。

『真実の徳、永遠の朽ちない徳を建立するには、一体どのような行をすればよいのか』が中心課題になります。

通常の善事・善徳は、人のため、社会のために利益になることに己を虚(むな)しくして尽くすことを指します。

慈善事業や公益事業、難事・難題の解決救済に我と我が身を忘れる人、私財を投じて災害・困苦の人々に施し与える人等、種々その人合った善事を行っています。

この様な善事が与える相手・環境に及ぼす時間と範囲との長短・大小・深浅によって徳の厚薄・高低に繋がって来ます。

その結果が良い後世となり、未来の幸福、善い果報となって現れてきます。

善事を行う人が意識するや否にかかわらず、その良善の報いはその善行が尽きるまで享けることができます。

しかし、これらの善行は有限な範囲にしか及ばされていない為に、大小があっても限りあるもので、徳の究極・絶対の徳ではありません。

及ぼす際限に至り、影響力を失うと、その徳も失われる訳で徳の根本ではありません。

これより一歩進んで心の不良化を正し、不足不満を充たし、不安と恐怖を除き、精神の安定を計るのが心の救いであります。

この法は聖人の経典・聖書を誦(よ)ませ、祈りと礼拝を教えて人の行為・生活全体が善良になるように計る導き方です。

これは大きな陰徳となって受けた人の生きている限り、尊敬と崇拝が受けられます。

しかし、これは身体という形が存在している間の心を救ったのであって、たとえ修めて来生の霊気に輝きがあったところで、霊自体を完全に生死の輪廻から解脱させることはできませんから、次の生においてまた迷昧してしまえば、その人の与えた徳も尽きて、これまた究極の徳、絶対の徳とはなりません。

究極・絶対の善事は霊魂を根源から救って理天へ帰らせる行をすることです。

六万年間の因果の縛りにある諸々の霊を親元に帰らせることほど、功徳のある行はありません。

再びと転生させなくともよい法を与えることは今後、何回も転生して受ける苦を助けてあげるより大事な救いとなります。

永遠に極楽・天国へ生命を救い得た功徳は世におけるいかなる利益・所得より大きいのです。

いつの時代でも誰もができることではなく、今の我々だけにこのような聖事を果たす機会が与えられたのです。

これが第一の奇功(きこう:珍しく優れた功績)です。

老〇様に代わって原人を済度すれば、倍速的に霊気が充実し、霊光が輝いて来ます。

人の本性を救い、原霊を回復させた数量が多ければ、その分だけ反応して功徳が重なります。失われた原子霊を回収させる業に多く貢献した人は、それに比例して自己霊も高く大きくなるわけで、大衆に接する度合いの多い人は元神の円通を容易ならしめます。

救う人と救われる人の霊気は一方的に流通せず、交互に利益を及ぼして、ますます明敏に高められて行きます。

そのためにはもっと心願を重くし、誠心を深くし、労苦を辞せず、時々刻々衆苦を哀れむことを念頭に存するべきです。

外功を行う最適な場所が仏堂ですから、開壇に尽力することが最大の貢献になります。

この世は五濁(ごじょく)の苦海であり、これを救うための仏堂は法船にあたる役目で、法船に依ってこそすべての霊を載せて理天へ帰らせることができるのであります。

いかなる人であっても、仏道に前において得道し法を授けて頂かなくてはなりません。

仏堂は家庭の一間に安設され、近隣知人に法を伝える便を計っています。

簡単な設壇ですが、天命ある天灯(てんのともしび)をひと度、点じますと百歩周辺に護法の神仏が擁護して亡霊・鬼邪等神格のない霊が入ることを禁止しています。

つまり仏道は理天に帰る神聖な中継地・聖地です。

一か所の仏堂を設置した功績は莫大なもので、いかに巨大な寺院・教会であっても正法を授け、神仏の直(じ)かの御降臨を得られませんから、一か所の仏堂設立に尽力した功績は何百・何千の寺社堂塔を建立するより大きい訳で、白陽万八百年の青史(せいし)に長く留められます。

奇功とは不可能時事を可能にする奇(く)しきことで、人の複雑な因果を解き開いて天の故園(固円)へ帰らせるのは最も困難なことです。

一人一人の因果は違いますから、一々解きほぐして自在身にさせるのですから、これ以上の大徳はありません。

三期の世の人は糖衣錠(とういじょう)の薬のように表面は善美という甘い皮で邪悪という苦い成分を含み、形の面では善悪を判別できなくなりました。

更に歴世の罪業を背負ってきていますので、真理・神仏に対する猜疑心(さいぎしん)で固まっているのを説き伏せるのに難儀します。

物象に神の顕化(けんげ)を見出そうとしたり、神霊を科学して理解しようとする人に真実の義を悟らせるのにも相当心身を費やします。

天を罵詈(ばり)し、神仏を冒涜(ぼうとく)し、行者に悪口雑言を浴びせたり、道脈・祖師を誹謗(ひぼう)した利する人達ばかりで充満しています。。

堕落の環境の中に破廉恥(はれんち)的行為や流行に血眼(ちなまこ)になっている人に清らかな天言を聞かせ、厳粛な本性に立ち返らせようとするのは、難中の難と言わねばなりません。

その困難を推して正しい心法を得べく説き聞かせるべきです。

そのために受けるいかなる誹謗や屈辱でも耐え忍び、大いなる慈悲を懐(いだ)いて倦(う)まず厭(いと)わず、互いの永性を願うべきです。

続く


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