真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~八十七、堯舜(ぎょ・しゅん)相伝の心法

2022-09-18 20:16:51 | 性理題釋

八十七、堯舜(ぎょ・しゅん)相伝の心法

堯舜(ぎょ・しゅん)相伝された心法は『人心惟危(じんしんこれあやうし)、道心惟微(どうしんこれび)、惟精惟一(これせいこれいつ)、允執厥中(いんしゅうけつちゅう)』であります。

人心惟危(じんしんこれあやうし)とはー:人は三才の一つであるので、理性が俱備(ぐび)され、万物の霊長と申すのであります。

心は万物の中心であり、万事の主宰者であります。

言い換えますと、人心とは、識(しき)であり、情であり、汚染した妄心(もうしん)であって、いわゆる後天(好転)の気質の性であり、善と不善の入り混じった識神(しきしん)であります。

識神を事に用いれば、情慾が叢(むらが)り起こります。

人心は半陰半陽(はんいんはんよう)であり、善であり、悪であって、どちらかにかたよってしまうもので、陽に偏れば則ち散乱し、陰にかたよれば則ち昏沈(こんちん)しますが、散乱・昏沈共に危うく安らかではありません。

故に『人心は惟危うし』と申されました。

道心惟微(どうしんこれび)とはー:道は天地の始めであり、万物を包羅(ほうら)して、衆生の祖となります。

道心とは智であり、性であり、清静妙明(せいせいみょうめい)の真心であります。

いわゆる先天本然(先天本然)の理性で、善も不善もなく、蓋し(けだ)智体の円明(えんめい)にして、性は本より虚静(きょせい)で、不生不滅(ふしょうふめつ)・不増不減(ふぞうふげん)であり、微妙にして測り知ることが出来ません。

故に『道心は惟微なり』と申されました。

惟精惟一とはー:精はこれを明らかにしたもので、一はこれを誠にしたものであります。

故に惟精(これせい)を以て昏沈(こんちん)を治(じ)し、惟一を以て散乱を治します。

精これを明らかにし、一これを誠にすれば、静寂(せいじゃく)となり、定慧(ていえ)相助けて、情を攝(と)り性に帰って、知識は真智慧(しんちえ)となり、危うき者も自ら安らかになり、又微なる者も自ら著(あら)われるようになりますので、いわゆる明は即ち誠となり、誠は又明となるのであります。

簡単に言えば、即ち妄(いつわ)りを変えて真に帰えし、善を明らかにして復(かえ)らす効用(修行)を『惟精惟一(これせいこれいつ)』と申したのであります。

允執蕨中(いんしゅうけっちゅう)とはー:允(いん)は信(しん)を篤(あつ)くし順に随うを申し、執(しゅう)は遵守(じゅんしゅ)し帰依(きえ)することであります。

中は真空妙有(しんくうみょうゆう)でありますが、真空とは大きいこと外になく、小さいこと内にない理であり、妙有とは前に始めがなく、後に終わりがない境地で、縦には三界を窮(きわ)め、横には十方にゆきわたる。これは三界の正道であり、宇宙の真理であります。

これを簡単に申せば、允執蕨中(いんしゅうけつちゅう)とは即ちその正道に随順(ずいじゅん)し、その真理に帰依(きえ)することであります。

これが即ち堯(ぎょ)・舜(しゅん)・禹(う)・湯(とう)・文(ぶん)・武(ぶ)・周公(しゅうこう)・孔子の真伝であり、先聖(せんせい)は後聖に心々相印(しんしんそういん)したものであります。

三教は共にこれに遵う(したが)う所のものであり、万世に不易(ふえき)する所のものであります。

すべて心々相印(しんしんそういん)は不可思議(不可思議)な道統(どうとう)の真伝であるので、本(もと)より無(む)一字であります。

これはすべて、金剛経(こんごうきょう)に須菩提(すぼだい)仏に申して曰く『善男子、善女子に菩提心(ぼだいしん)が発すれば如何にして常に住して退かず、妄念起これば如何にしてその心を降伏(こうふく)すべし』とありますが、菩提心とは道心であり、妄念とは人心であって、是(書く)の如くとは『允(まこと)に厥(そ)の中を執(と)る』(允執厥中:いんしゅうけっちゅう)ということになります。

続く


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