にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

2009/01/10

2009-01-10 07:53:00 | 日記
寒紅と剣と切腹-三島由紀夫と福島次郎

1 かんべに
2 福島次郎
3 仮面文学
4 剣と寒紅
5 切腹ごっこ
6 ボディビルダー三島
7 シークレットブーツの三島


(1)かんべに

 歳時記に載っている忌日。たとえば「時雨忌」といえば松尾芭蕉の忌日。芭蕉が亡くなった旧暦10月12日は時雨ふる季節であり、代表的な句のひとつに「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」(『猿蓑』発句)などがあることから、名付けられた。(新暦にすると11月28日にあたるけれど、現在実施されている各地での芭蕉関連イベントは、新暦の10月12日が時雨忌とされています)
 「桜桃忌」は太宰治、「河童忌」は芥川龍之介、「憂国忌」は三島由紀夫、など、代表的な作品名にちなむ忌日名もあるし、「実朝忌」「西鶴忌」「三鬼忌」など、名前そのものの忌日名もあります。

 2月22日は、ニャンニャンニャンと解釈して「猫の日」なのだそうです。この場合の猫と対比されるのはワンワンワンで11月1日の「犬の日」
 私にとっては、2月22日は寒紅忌。「三島さんはネコだ、と言った人」の忌日です。この場合のネコと対比されるのはタチ。
 果たして寒紅忌に、家族親族教え子などの関係者のほか、いったい何人が彼を思いだしたでしょうか。『剣と寒紅(つるぎとかんべに)』の作者福島次郎の命日、2月22日。
 
 「寒紅忌」といっても、歳時記には載っていません。私が勝手に名付けた忌日だから。2月22日という覚えやすい忌日に比べて、福島次郎というその名は、ペンネームとしてはごく平凡な響きであり、一度聞いてもすぐ忘れてしまいそうなインパクトのない名前です。彼は、あえてこの何の特徴もなさそうな名前を筆名として使い続けました。「福島次郎」は本名なのです。

 福島次郎という名を小説家のペンネームとして記憶している人は、よほどの三島由紀夫ファンかゲイ文学ファンだけだろうと思います。福島次郎は、作家としての生涯に、2度芥川賞候補になりました。1996年に『バスタオル』が第115回芥川賞の、また1999年に『蝶のかたみ』が第120回芥川賞の候補作になったものの、2度とも落選。ついに芥川賞を手にせず、2006年2月22日に亡くなりました。
 芥川賞の候補になっているのだから、「無名の作家」というわけではありません。郷里の熊本ではそれなりに名の知れた文化人として遇されています。

 私は彼の代表作『剣と寒紅』にちなんで、2月22日を勝手に「寒紅忌」と呼んでいます。「文学ファンでなくてもその名をしっているような、有名作家」にはなれなかったのに、「一生を貫いて、小説を書くことで人生を保っていた物書き」として記憶していてやりたい、という気分。三島由起夫のきらきらしい派手やかな一生とは異なる作家ではあっても、福島次郎もまた文を書くことに一生を費やした。
 心理学者が「彼を記憶していたい」という私の気持ちを分析すば、一流にはなれない自分自身へのなぐさめと癒しの転化、ということになるのでしょうか。

 今となっては誰もその命日を思い出しもしないであろう作家の、そう、二流の作家として一生を終えた老いたゲイ作家の魂に向かって、一句詠む。
 「寒紅の小指凍らせ五衰かな 春庭」
 

(2)福島次郎

 死亡記事を以下に引用します。記事は「元芥川賞候補だった小説家」としてよりも、「ひとつの作品が世間をさわがせて有名になったことのある小説家」として紹介されています。『剣と寒紅』という小説のスキャンダラスな面が福島次郎の死の報のメインでした。
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福島次郎氏(ふくしま・じろう=作家)22日、すい臓がんで死去。76歳。告別式は24日午後2時、熊本市本荘6の2の9合掌殿島田斎場。自宅は同市萩原町7の47。喪主は妹、井村市子さん。
 1996年に「バスタオル」、99年に「蝶のかたみ」で芥川賞候補。98年に「文学界」に発表した小説「三島由紀夫――剣と寒紅」で、三島との交際を描き、話題を集めた。作中に引用した三島からの手紙が著作権侵害にあたるとして、三島の遺族が福島氏と文芸春秋などを相手に出版・販売差し止めなどを求めて提訴。2000年11月、最高裁で福島氏側の敗訴が確定した。(2006年2月22日13時50分 読売新聞)
============ 

 私の本名で検索すると、私の書いた論文名や授業科目名が出て来ますが、私はネット・ブログのなかでは「春庭」というハンドルネームを使っています。江戸時代の盲目の国学者本居春庭の名を借りているのです。
 なぜブログでは本名を使わないかというと、娘と息子に「何を書くのも自由だろうけれど、絶対に家族を巻き込むな。家族が特定されるような情報をネットに載せてはならぬ」と厳命されているのです。「娘も息子も不登校生だった」だの「夫は赤字会社経営の収入無し男」だの書いているので、本名がわかったら家族から総スカンになります。

 ネットで実名を出して書き続けるにはある覚悟がいると思います。ブログ炎上、名誉毀損の被害のみならず、家族親族にも迷惑が及ぶそうですから。逆に言うと、ものを書いていこうとする覚悟をもった人にとって、本名が出せる人というのは「ネットにさらされても実害を蒙ることはないという自信」があるとも見えます。私など失敗続きの人生で、弱みがたくさんありますから、とても本名は出せません。

 福島次郎が本名で書き続けたのは、ある覚悟があったからでしょう。戦後の日本において、長くゲイは偏見を受ける存在でした。今はその偏見が薄まったとは言っても、無くなったわけではありません。福島次郎が高校教師として働きながら「ゲイ小説」を発表するという人生を選ぶには、さまざまな制約があったと思います。
 福島次郎は1930年、熊本の生まれ。1951~52年、三島由紀夫と愛人関係になり、名目は「書生」として三島家に住み込みました。いったんは別離したのち、1961年には再び愛人関係が復活するなど、三島が結婚するまで深い縁でつながっていました。

 三島由紀夫はゲイであることを最後まで公にはしませんでした。『仮面の告白』などに描いた男色は、あくまでも創作上のことであり、「実生活はヘテロである」というポーズを貫くために画家令嬢とお見合いをし、結婚しました。三島結婚の後は、福島は「身をひいた」形になり、熊本での高校教師生活をおくりました。福島の書き残したところによれば、三島夫人瑶子は福島と三島の関係に気づいていたのですが、三島は「ヘテロを装うため」に夫人の前では自分がゲイであることは微塵も出さないよう努力した、といいます。

 しかし、福島次郎以外の恋人も芸能界演劇界などに数多くいた三島は、結婚後も男性と性的な関係を持ち続け、しかもそれを夫人の前では隠し通そうとしました。三島は夫人のために「ビクトリア王朝風の白亜の邸宅」を建て、自身は都内のマンションを仕事場にしたり、帝国ホテルを定宿にしたりして「作家の生活」と「家庭での夫、父としての生活」を分けていました。


(3)仮面文学

 夫人は娘息子を出産した後、三島の男性関係に神経をとがらせる日々が続き、三島の嗜好が表現されているような作品を嫌悪しました。たとえば、映画『憂国』の切腹シーンに激怒し、映画フィルムの回収と焼却を要求しました。(1本だけ密かに残されたネガフィルムが三島邸から発見され、2006年にDVDが制作され発売されている)

 また、三島夫人は、ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝』が「同性愛者の三島はもともと結婚を考えていなかったが、癌と診断された母倭文重を安心させるために見合いをし結婚した」という記述の他、三島をゲイとする評伝に対し、日本語版の出版を差し止め書店から回収させるという措置を断行しました。ネイスンの『三島由紀夫―ある評伝』は、瑶子夫人の死後、2000年に野口武彦の翻訳で再発行されています。

 福島次郎は高校教師として独身を貫き、ゲイ文学を追究しました。教え子の男子高校生との交情を描いた作品で芥川賞候補になるなど、福島の小説はいわゆる「薔薇族文学」ですから、一般の人が読むことは少ないし、読んで彼の文学世界に入り込めるかどうかはわかりません。芥川賞候補になった『バスタオル』は、教え子との行為の後始末をバスタオルでぬぐうという描写がある作品。受賞はしませんでした。

 芥川賞を望んで得られなかった福島次郎と、ノーベル賞を望んであらゆる自己宣伝を駆使したのに、師匠の川端康成の受賞で自分が賞をとるとしたらあと20年以上先になると絶望した三島。どちらか一冊だけ読むことを許されるという状況で、どちらの作品を読みたいかと問われれば、私は三島文学のほうを選ぶでしょう。

 でも人間的に共感できるのは、最後までゲイである自分を押し隠そうとしつつ美青年を心中の道連れにした三島より、老いたゲイとして生き、裁判では自分の本を絶版にされる判決を受けた福島のほうにシンパサイズsympathizeされます。福島次郎は、「個人に当てられて所有していた手紙の著作権」という巨大な壁に向かって、卵をなげつけた、というところでしょうか。

 三島夫人が1995年に亡くなったあと、夫人をはばかって言及されてこなかったさまざまな証言が明らかにされるようになりました。福島は1982年に高校を退職したあと本名で小説を同人誌などに書き続けてきたのですが、1999年に『剣と寒紅』を出版し、若い頃からの三島との交流を明らかにしました。

 『剣と寒紅』の中に、三島由紀夫から福島へあてた手紙が12通引用されていたため、三島の娘紀子(1959~)息子平岡威一郎(1962~)は、「手紙の所有権は福島にあるが、著作権は三島のもの」という理由で裁判を起こし、福島は敗訴。『剣と寒紅』は絶版となりました。しかし、裁判で決着がつく間に出版社は裁判そのものを「宣伝材料」に使い、「三島文学研究者が買うほか、1万部もでたら大ヒット」の作品を10万部増刷し、出版差し止めが確定するまでに売り切りました。したがって、古本マーケットにはかなりこの作品が出回っており、アマゾンで中古品は123円という値段から売られています。


(4)剣と寒紅

 『剣と寒紅』は、あくまでも小説の形で書かれた作品ですから、自己美化もあろうし、創作部分も入っているはずです。しかし、三島文学研究者なら必ず読むべき小説になったことは事実であり、なによりも挿入された三島から福島へあてた手紙が三島本人の筆であることは、裁判で証明されたのですから、三島研究の一次資料として価値が高い。

 『剣と寒紅』が「文学作品」として、三島の作品の何かを越える価値を持ったのかというと、たぶん、三島の天才にたいして、福島は天才のまわりを廻る衛星であったとしか評価できない。福島の作品が日本語言語文化として翻訳し海外にも知らせるべき作品となるかというと、私にはそのようには思えない。

 『仮面の告白』一作を見ても、三島の天才はどのような評価にも耐える言語作品としての確固とした文体を持っており、『金閣寺』や『豊穣の海』は翻訳され、海外でも読み続けられる作品となるだろうと思います。

 『剣と寒紅』の中で、三島が福島と抱擁し少女のように「ボク、しあわせ」と、声をあげたという描写がある。
  「私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスをしゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの耳元にささやいた。「ぼく、、、幸せ、、」歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった。」

 出会った最初のころ、小柄な貧弱な肉体にコンプレックスを持っていた頃の三島は、福島に対して「タチ」として行為を行いたがっていたのに、コンプレックスを解消すべくボディビルと剣道に励んで「写真に写して残しておきたい、ナルシシズムを満足させうる体」に作り替えてからは、ためらいもなく「ネコ」として肉体を差し出した、という福島のことばがある。1970年代から「三島はネコ」と思ってきた私の「ただのカン」が証言されたようで、少しうれしい。70年代にそんなことを発言したりしたら、「憂国の英雄」と三島を祭り上げていた右翼に襲撃されかねなかったから、ただごくわずかの文学好きな友達との話題にしただけだけれど。

 写真集『薔薇刑』などに現れているナルシシストとしての三島は、心理学的にも研究され尽くされている観があります。また、三島を取り巻いていた編集者や関係者の回顧譚の出版も盛んで、三島の実像がさまざまに描写されています。

 最初は祖母と母親が自分を取り合って壮絶な家庭内冷戦を繰り広げ、最後は妻と母親が
自分を取り合ってケンカするのを、おろおろと見ているしか出来なかった息子であり夫であった男。さまざまに自己演出を行い、「ノーベル文学賞」を欲しがった作家。豪放な演出の陰で実は小心で嫉妬深く嫌みな心性を持っていた男。男色のカミングアウトは最後の最後までしなかったゲイ。その死を「憂国忌」として今も顕彰されている「切腹してサムライになりたかった男」
 三島文学はこれからも一定の層のファンが読みつづけ、内外で「三島文学研究」で博士号をとる人も続くでしょう。

 その陰で、ゲイをカミングアウトしゲイ文学を書き続けたけれど、三島文学の衛星のひとつとしか評価されなかった福島次郎。
 冬の季語「寒紅(かんべに)」は、寒い時期に仕込んで作るベニ。同じ漢字を用い同じ冬の季語だけれど、「八重寒紅やえかんこう」は、梅の1種類を指します。八重寒紅が早春を彩って咲いています。

 われもまた二流の人なり八重寒紅  春庭

<おわり>
2009-02-26 04:03:37 ページのトップへ コメント削除

Re:ハラキリ・三島由紀夫
haruniwa
三島由紀夫について、留学生から質問を受けたときに語ったこと、語りきれなかったことなど。

(1)切腹ごっこ

 1970年代から80年代まで、「憂国の志士三島由紀夫が日本の未来を憂える国民へのアジテーション」という解釈が席巻していた三島切腹事件について、三島夫人平岡瑶子1995年に死去のあとタブーが無くなり、新たな証言が続いています。

 11月25日、亡き我が母の誕生日である日が、歳時記には「憂国忌」などと載るのでは、なんだかイヤだと思ってきたけれど、「右翼が三島の写真をかかげて、天皇バンザイとか言ったりする日」から「ゲイが『薔薇刑』の写真をかかげて、ラブイズビューティフルとか言ったりする日」になって、墓場の母もほっとしているのじゃないかと思っています。
 「市ヶ谷心中」の真実の姿が見えてきたこと、私は三島由起夫と森田必勝のためによかったと思っています。

 三島由起夫にまつわる回顧譚の中で、衝撃的な証言のひとつが、劇作家演出家の堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』文藝春秋(2005)です。
 この中で、堂本は1949年の夏、16歳のとき銀座のゲイバーで24歳の三島に出会って以来、1970年の三島自衛隊事件のその数日前までのつきあいを告白しています。

 堂本の語る「切腹ごっこ」。
 若い頃の堂本は三島の求めに応じて「やくざと学習院の坊っちゃん」とか「満州皇帝の王子と甘粕大尉」などの役割設定をし、三島が用意してきた擬刀で切腹シーンを繰り返した。男同士の行為のなかでも、三島は「血と刀」に高ぶる性癖を持っていたのだという。

 『仮面の告白』の中で、「最初に性的興奮を覚えたのは、体に矢を突き刺されているレーニの描いた聖セバスチャンの殉教図」だったと記されている。平岡公威少年が初めて自慰を覚えたという自伝的告白のひとつ。

 三島は師の川端康成にあてて
 「十一月末よりとりかゝる河出の書下ろしで、本当に腰を据えた仕事をしたいと思つてをります。『仮面の告白』といふ仮題で、はじめての自伝小説を書きたく、ボオドレエルの『死刑囚にして死刑執行人』といふ二重の決心で、自己解剖をいたしまして、自分が信じたと信じ、又読者の目にも私が信じてゐるとみえた美神を絞殺して、なほその上に美神がよみがへるかどうかを試めしたいと存じます。」
という書簡を送っています。

 本人が「自伝として書いた」と書いていながら、後の時代になると「あれは文学的ポーズである」として、三島自身が「自伝と見られることを嫌う」ようになるのだが。三島がセバスチャンに扮した篠山紀信撮影の写真を見ると、彼のナルシシストの一面躍如という印象を受けるし、「身体を傷つけられることの栄光と快楽」への嗜好を、三島が一生の間持ち続けたことを感じます。
http://homepage2.nifty.com/weird~/saint.htm

(2)ボディビルダー三島

 三島は映画『憂国』以外でも「切腹シーン」を演じています。矢頭保という写真家が三島をモデルにして褌姿で切腹する様子を撮影しています。
 矢頭保は、宝塚歌劇団男子研究生としては高田延昇という芸名で、宝塚男子部が廃止された後はダンサーとして活動後、1954年からは日活に映画俳優として所属し、1961年からは芸名を矢頭健男と変えた。三島由紀夫の『仮面の告白』の翻訳者であり、元米軍情報関係将校のメレディス・ウエザビーと同棲し、三島とも面識をもつようになりました。矢頭には「戦後最初のゲイ写真家」という称号(?)がつけられ、「男のための裸の男の写真」を撮り続けた写真家です。写真集のタイトルも『裸祭り』『体道~日本のボディビルダーたち』(1966年)には、三島自身もボディビルダーとして被写体となっており、序文も書いている。
 矢頭による三島の切腹写真は、下記ブログの中ほど「自演する三島」と題して掲載されています。
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html

 三島作品の劇化や映画化にあたって、堂本正樹は三島の推薦で演出を担当し成功しました。京都の能衣装老舗の娘朋子と結婚したあとも三島とは「兄貴」「まき」と呼び合う「兄弟のちぎり」を続け、ついに三島主演の『憂国』を演出することになりました。実際の映画監督としては堂本があたったけれど、三島の「原作・脚本・主演・監督」ということにしたほうが「世間受けがいい」という三島の言い分であり、制作費を出すのも三島だったから、堂本は「演出」というクレジットのみになったのが少々不満でした。

 三島渾身の映画『憂国』だったけれど、総ラッシュを見た三島夫人平岡瑶子は激怒して泣き叫び、フィルムは没収焼却処分ということになってしまった。三島の切腹シーンそして妻があとを追うという映画は、「他の女との浮気シーンを見せつけられた妻」以上の立腹を瑶子夫人に与えたのでした。

 この映画の衣装を担当した堂本夫人朋子は「三島さんと女優さん(鶴岡淑子)のからみのシーンもきれいに写されているのに、なんでそない怒らはるのか」と思ったのだという。この「夫婦最後のちぎり」シーンでは三島と鶴岡は全裸になるので、堂本朋子は三島用の前貼りパッドを手作りしたのだそう。(『本の話』文芸春秋インタビュー石田陽子)

 しかし、映画完成から4年後、『憂国』の心中シーンは現実のものとなりました。しかも心中の相手は女性ではなく、24歳の美青年。楯の会のメンバー森田必勝でした。
 ある編集者の回顧によれば、市ヶ谷で割腹した森田必勝は、三島のかっての恋人だった青年にそっくりの風貌であったそうです。

 幻の映画として評判だけが高かった『憂国』が、DVDとして出回った結果。三島監督でなく、実のところ堂本監督作品であったにせよ、映画そのものは「自主制作映画」としての作品レベルであり、文章表現としての『憂国』を越える作品にはなってはいないという評価が定着し、結局のところ三島由紀夫が切腹シーンを演じたかっただけの自主制作映画、ということに落ち着いたことについて、三島はあの世でどう感じているのだろうか。

 「ひ弱な身体にコンプレックスを持っていた頃の三島さんは、タチとして行為を行いたがったけれど、ボディビルや剣道で身体を鍛えて自分の身体に自信をもってからの三島さんはネコとしてふるまいたがった」という福島次郎の告白はおそらく創作ではなく、三島の心理的な部分を的確に突いていると思う。

(3)シークレットブーツの三島

 三島についてのさまざま証言のなかで、私が面白いと感じたひとつのエピソード。三島は幼い頃から虚弱体質であることをコンプレックスにしていて、ある時期からボディビルと剣道に励んで筋肉隆々の肉体に改造したことが自慢だった。自らの肉体を誇示して、写真集を発売したり、映画や劇に出演したり、ナルシスト全開になった。

 でも、どうしても改造できないコンプレックス、それは身長。三島は死後解剖の結果では身長163cmと発表されている。あの世代の男性の身長として平均よりは低くないとは思うのだけれど、兵役につけなかったことと身長は三島のコンプレックスの源でした。
 三島が身長劣等感を持っていたことの証言があります。
 三島由起夫が美青年を集めて結成した「楯の会」は、自衛隊などで実際に訓練を行ったことが知られています。

 きらびやかな楯の会の制服は、1968(昭和43)年の春、楯の会の前身である「祖国防衛隊」の最初の自衛隊体験入隊の後、堤清二氏の協力を得てオーダーメイドで作られた。 楯の会メンバー伊藤良雄の証言(2001/02・28大西景子インタビュー)によると
 「全員、西部デパートに行って、寸法計ってもらって、仕立ててもらった」
ところが、三島のポケットマネーでは靴の支給までできず、靴は、隊員の自前となる。「自衛隊の戦闘服の下にはく靴があるでしょう。半長靴です。本当は、楯の会の制服には、
あの靴は合わないんです。格好悪いんですけど、みんなあれを買って、はいていました。(三島)先生だけは、底上げのシークレット・シューズなんですよ。外から見ると、普通の靴なんですけど、背が高く見えるシークレット・シューズ」
http://www2.odn.ne.jp/~aax63750/hanashi.html

 制服をポケットマネーで誂えた三島が、靴は全員揃えなかったというのは、「自分だけ特別なシークレットシューズでは目立つから、靴は揃えずバラバラなものとした」というのです。シークレットシューズで10センチも身長を高くした三島が、伊藤や森田らに等々と「将来の日本」を語ってやまない。はたして、切腹したそのとき履いていた靴は、シークレットブーツだったのかどうか。

 元自衛隊陸将補であり、自衛隊調査学校(陸軍中野学校の後身スパイ養成学校)」の副校長をしていた山本舜勝(やまもときよかつ)『自衛隊「影の部隊」—三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社2001)は、三島と政治家の関わり、自衛隊との関わりについて語っています。

 山本が「墓場に持っていくつもりだった」という事実を公表する気になったのは、自衛隊調査学校の閉校を契機としています。自分の生涯をかけた作品ともいえる調査学校を「もはや今の時代には無用の長物」と否定されたと感じた老兵は、墓場へ持っていくみやげ話のひとつとして、三島と自衛隊について証言しました。彼の感じた三島は「中曽根康弘や佐藤栄作に、いいように利用されてしまった」というものだが、三島が死に場所として市ヶ谷自衛隊を選んだのは、中曽根や佐藤との関わりによってではなく、心中の相手として森田必勝を選んだときから必然となったことであったろうと思います。

 「三島の美学」がさまざまな証言や文学研究によってあきらかにされてきたことを私なりに受け止めると。
 三島の祖母、平岡夏子にとって、夏子の母・高の出自が「常陸宍戸藩藩主松平頼徳の娘(母親は側室)」であり、松平家は子爵に封ぜられたことが第一の誇りであり、病弱であることを理由に両親から引き離し手元で「お蚕ぐるみ」で育てた公威が第一の希望であった。ようなことまでは話す時間がなかったけれど。
 福島次郎著『剣と寒紅』は、著作中に三島自身の手紙が含まれていたため遺族が著作権乱用として出版差し止めになりましたが、ネット古本屋で買えます。

 三島は自分がゲイであることを最後までカミングアウトせず、いわば「自分を偽って結婚しヘテロを装い続けた」という意識によって、文学者としてひきさかれた内面を持ち、死へと向かわざるを得なかった、というのが、私の個人的見解です。

 三島はゲイであることを隠して表向きはヘテロとして結婚し、男色はあくまでも陰の快楽にしていた点で文学者として内面的な葛藤がありました。
 三島の割腹自殺について彼が早くからゲイ仲間と「切腹ごっこ」をしており、肉体の痛みと流血に対しあこがれを持っていたことは、最後の彼の死に方に影響を与えました。この世のものとも思えない最高の快楽のなかで死んでいったと私は信じたい。

 平岡公威としても三島由紀夫としても、最後に身の置き所がなくなったとき、彼は心中の相手として森田必勝を選んだ。森田もまた、選ばれてあることの光輝を感じながら死んだのだと思います。介錯人不在の作法によって切腹を行った三島。そのために三島の首は不必要に傾き、介錯するはずだった森田は三島の首を切り落とすことができないまま、自分の腹を切ることになった。森田は、介錯人がいることを想定しての作法によって薄く腹を切り、作法通りに首を介錯された。

 なぜ、三島は介錯人がいない自決の作法で腹を切ったのか。楯の会の若者が介錯を躊躇するとでも思ったのか、それとも映画『憂国』で演じたとおりに、自決作法を実践したかったのか。
 いずれにせよ、三島は森田必勝を選び、森田に介錯を命じておきながら、森田が介錯に失敗するような作法を選んで死んだ。最後まで己の美学を貫こうとしたのか、最後までナルシシストをやめたくなかったのか。多くの人に取り囲まれ賞賛されることを望んだ人なのに、最後まで孤独なナルシシストであったなあと、その一生を思います。

<おわり>

2009/01/09

2009-01-09 22:33:00 | 日記
1 ヘンリー・ダーガー
2 アウトサイダー・アート
3 ヴィヴィアンガールズ


2009/03/03
ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて>非現実の王国で(1)ヘンリー・ダーガー

 年ごとに狭くなる我が家。昔はかろうじてテレビの上に載せた小さな男雛女雛も、テレビが薄くなって載せるところがないから、出さなくなって久しい。それでも娘は、今年手作りのミニ内裏びなを作り上げて、ゲームソフト置きの箱の上に飾りました。私の駄本古本と娘息子のゲームソフトばかりが増えていく我が家。

 私の今年のひな飾りは、ヘンリー・ダーガーの少女像。とてもカラフルでちょっと不気味な少女達のイラストです。
 ヘンリー・ダーガー(Henry Darger  1892~1973年)の描いた挿絵のいくつかが見られるサイトURL
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4DBJP_jaJP264JP274&q=%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC&lr=&um=1&ie=UTF-8&ei=WWOeSc_MEo_akAXUlc3XCw&sa=X&oi=image_result_group&resnum=4&ct=title

 生前のヘンリーを知っていたのは、ごくわずかな人たちでした。彼のアパートの大家と少数の隣人。仕事先の病院で清掃の仕事をもくもくと続けるヘンリーに目をとめる人はあっても、声をかける人はほとんどいませんでした。声をかけても、返事が返ってくることはないから。だから、生前の彼を知っていたわずかな人々も、彼が亡くなるまで、正式な名さえ知らず、それぞれが自分流の呼び名で彼を呼んでいました。「ダージャー」「ダーガー」「ダージュア」。

 ヘンリーは、死ぬ半年前までの後半生を掃除人としてすごした、という以外には誰にも何も知られておらず、無名のままシカゴの片隅で暮らしていました。彼とじかに話ができた人は、アパートの大家夫妻、ネイサン&キヨコ・ラーナーほか何人もいませんでした。

 ヘンリーは感情障害をもっているため、人とコミュニケーションをとることが難しく、「知的発達障害者」と誤診されて障害者施設に送られたこともありました。1892年生まれのヘンリーが入れられていた20世紀前半の孤児院や障害者施設は、前時代的な過酷な場所でした。誤診されたものの知能に発達の遅れはなかったヘンリーは、17歳になると施設を脱走し、シカゴで掃除人として働いて生活しました。ほとんど他の人とことばを交わすことなく、一生を孤独にひきこもってすごしました。

 ヘンリーは80歳をすぎると老化のため掃除夫を続けられなくなり、シカゴの「貧しい老人のための施設」へ送られることになりました。
 アパート退去後の処理をまかされた大家がヘンリーの部屋に入ると、そこには驚くべきものが存在していました。足の踏み場もないアパートの狭い部屋に、膨大な彼のファンタジー小説とその挿絵が残されていたのです。ヘンリ・ダーガーが19歳から80歳まで60年間書き続けた作品です。ヘンリーは老人施設に入居して半年後に亡くなりました。1892年4月12日から 1973年4月13日までの、81歳と1日の生涯でした。

 アパートの大家ネイサン・ラーナー(1913-1997)は、自身がアーティストであったために、ヘンリー・ダーガーが残していった作品の価値を理解し、「焼却処理」されるところだった作品群を世に紹介しました。
 ヘンリー・ダーガーは、現在ではアウトサイダーアーティストとして、MoMA(ニューヨーク近代美術館The Museum of Modern Art)にも作品が収められている有名画家兼作家として知られています。

 彼の一生を紹介したドキュメンタリー映画『非現実の王国でヘンリー・ダーガーの謎』が2008年3月に日本で公開され、2008年9月のDVD発売に合わせたテレビのバラエティ番組「ベストハウス123」で11月20日にDVDの内容が紹介されて、日本でも知られるようになりました。

<つづく>


2009/03/04
ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて>非現実の王国で(2)アウトサイダーアート

 アウトサイダーアーティストとは、フランス語の「アール・ブリュット(Art Brut、「生(なま、き)の芸術」)」の英語翻訳語です。芸術大学などで正規の絵画工芸教育を受けていない人々の芸術作品を、「生の芸術」と呼びます。
 私が2008年6月に紹介したアボリジニ画家エミリー・ウングワレもそのひとりですし、日本では裸の大将こと山下清が有名。アートセラピーとして老人施設や知的発達遅滞者施設などで描かれる作品も含めてアウトサイダーアートと呼ばれています。

 彼の大家であったネイサン・ラーナーと妻のキヨコ・ラーナーは、ヘンリーの部屋を別の場所に移転して再現し、記念館として公開しています。
http://imperialpress.jp/detail.html

 ヘンリーは、親切な大家夫妻の理解のもと、誰にも知られることなく何十年間もアパートと職場の病院を往復し、教会でミサに出るほかは外出もせずにすごしました。昼はひたむきに掃除の仕事をつづけてわずかな賃金を稼ぎ、夜はひたすらファンタジー物語と挿絵をかきつづけました。大家夫妻以外の人とコミュニケーションがとれなかったヘンリーは、もし、他の場所ですごしたら、「狂人」扱いされてトラブルを引き起こし、追い出されていたかもしれません。

 ヘンリーは晩年、大家夫妻の飼っている犬に心を開き、自分も犬を飼いたいと思いました。しかし、犬の餌代が1ヶ月に5ドル500円必要だと聞いて、「そんなに払えない」とあきらめたという。1ヶ月5ドルの余裕もなかったヘンリーがアパート代を払えないことがあっても、大家夫妻は彼を追い出すようなことはしなかった。

 大家のキミコ・ラーナーは映画のなかで、ヘンリーのような人への世の人々の反応を評して「お金があれば『変わった人』扱いですむけれど、お金がなければ『狂人』扱いする」と、述べています。ヘンリーは、貧乏な掃除人であったけれど、彼がコミュニケーション障害をもっていても「狂人」として排斥されずに80歳まで生きることができたのは、大家夫妻や彼を見守っていた人々のおかげでしょう。

 ヘンリー・ダーガーは、一生のあいだ「非現実の王国で」というファンタジー物語を描きつづけ、物語の中に、自分自身を登場させています。物語のなかで、彼は世界に正義をもたらすため、少女たちと共に悪と闘います。彼の精神生活のほとんどが、自分の創り出した物語の中にあったと思われます。

 少女たちは、子供を奴隷にしようとする悪の一団と闘うなか、拷問され闘い傷ついて死んでいきます。少女達のむごたらしいシーンが続き、「ゴスロリ・グロテスクGothic & Lolita Grotesuqe」愛好家たちが「よくぞたった一人でこのようなゴスロリ・グロ垂涎のイラストを300枚も描き続けた」と評する絵が残されました。
 ヘンリーが17歳まで押し込められていた発達遅滞児施設での劣悪な生活状態や、管理者たちによる執拗な体罰の黙認される環境が、感情障害によって他者とコンタクトがとれなかったヘンリーの精神に複雑なトラウマを残したのだ、と分析する評論家もいます。

 『非現実の王国でIn The Realms of the Unreal』正式には『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』
 タイトルには「非現実」とつけられていても、ヘンリーにとっては、この王国こそが彼の真に生きている場所であり、現実の世界は彼の王国を維持するためだけに存在する仮の世界だったことでしょう。

<つづく>


2009/03/05
ぽかぽか春庭ことばの海を漂うて>非現実の王国で(3)ヴィヴィアンガールズ

 ヘンリーは正規の美術教育を受けていないので、病院の掃除の合間に拾った新聞写真や雑誌挿絵を利用して自分の絵にコラージュしていきました。幼いときに母に死なれ、妹は里子に出されたので、一生のうちに女性の身体を見たり触ったりしたこともなかっただろうと言われているのですが、ヘンリーが描き出した「悪と闘う9人の少女たち=ヴィヴィアンガールズ」は、鮮やかな色彩で描かれ、ドキュメンタリー映画ではこれらの挿絵がアニメ化されて動き出します。ヘンリーの内面では、このように挿絵の少女たちが動きだし、ともに行動していたことでしょう。

 ヘンリー・ダーガーもエミリーウングワレーもそうですが、アウトサイダーアーティストは、「自分の絵をオークションで高く売ろう」とか「有名になって美術界に名を残そう」とか、考えたこともなく、ただ、描くことを生活の一部として描き続けました。

 多くの「売れないアーティスト」は、売れた人を見て「私のほうが芸術的価値の高い作品を作っているのに、彼のほうが作品を売り込むノウハウを知っていたから売れた」とか「私の作品を理解してくれる人さえあれば売れるのに」としきりにぼやきます。

 一生、理解されなくても売れなくてもいいじゃありませんか。ヘンリー・ダーガーのように、亡くなってからその作品が発見される人もあれば、理解のない周囲の人によって焼却処分されてしまったアウトサイダーアートもたくさんあることでしょう。
 描きたいから描く、つづりたいから文章を書いていく。人の一生はそれだけですごしてよいのだ、と思います。
 
映画『非現実の王国でヘンリー・ダーガーの謎』
http://www.youtube.com/watch?v=y_cIjMLCAuU

 ヘンリーダーガーの「非現実の王国で」は、まだ翻訳が出ていません。あまりに膨大すぎて、出版のめどが立ちにくい。ハリーポッターシリーズ、全7巻でも総ページ数は7000ページ程度。しかし、ダーガーの「非現実の王国で」は、12000ページに及び、続編も入れると15000ページ、日本語に翻訳すると単行本20巻くらいになる。しかも、ハリーのような「不幸を背負ってはいるが、きわめて健全な坊や」が成長する話ではなく、少女達が拷問を受け虐殺されるグロい描写が続く暗い物語ということなので、翻訳が読めるようになるのはまだまだ先でしょう。

 「ロリータ・グロ」マニアが日本にどれだけいるかわからないけれど、「ハリー」のような売れ方はされるはずもなく、出版社は挿絵に少々の説明文をつける程度の本は出版するかもしれないけれど、全訳には二の足を踏む。

 もし翻訳が出版されるとして。英語専門家が下訳をしたあと、日本語文章としてもっともよくヘンリー・ダーガーの雰囲気を保つ文体に仕上げられるのは誰だろう。嶽本野ばらあたりがいいんでないかい、と思っていたら、野ばらもヘンリー・ダーガーに並々ならぬ関心を寄せていたことがわかりました。『きらら』(2009年3月号)」の野ばらによるヘンリー・ダーガー紹介文がとてもよかったです。
 わらべは見た~り、野中の薔薇バラ。バラバラに切り刻まれたりする少女達を野ばらさんはどう翻訳するのでしょうか。

<おわり>

2009/01/08

2009-01-08 11:47:00 | 日記
グレアム・グリーンの『力と栄光』(Graham Greene: The Power and the Glory )における神の代理人について――一仏教徒の読み

1 はじめに
1-1 『力と栄光』梗概
1-2  ウイスキー坊主の命名と、『力と栄光』の作品構造

2-1 プリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)
2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント  

3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード
3-2 グリーンのメキシコ旅行
4 『力と栄光』と『沈黙』
5 結語


1 はじめに
 1940年『力と栄光』の出版から70年近くが経っており、評論や研究書も数多くが出版されてきた。神への裏切り、神を棄てることについて、神を信じ続けることについて、神による復活を信じることについて、カトリシズムからの検証、さまざまな文学理論による批評など、多くの論が寄せられ、論じられてきた。その一遍一遍を仔細に検討する余地はない。従って、このリポートも、筆者自身の読みの「印象批評」にすぎない。
 筆者は、以下の点に論を絞って述べる。
1,キリスト教文学におけるプリンシパル・エージェント問題(principal-agent problem)
2,「神の代理人・エージェント」としてのウイスキー坊主
 筆者の試みは、経済学や政治学で普遍的な理論となっているプリンシパル・エージェント問題を、文学評論に取り入れる、ということにある。少なくとも私のこれまで読んできた文学理論の中に、このprincipal-agentという言葉を見たことはなかった。私が日頃活用している『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』(松柏社2002年第3判)は、7年前の出版であり、その後の文学理論動向について筆者の探索範囲は狭いので、だれかがprincipal-agent理論を文学に適用したかどうかは、定かではない。インターネット検索の範囲では見あたらなかったというにすぎない。

1-1 『力と栄光』梗概
 1930年代、メキシコでは共産主義革命下で、宗教弾圧が吹き荒れた。共産主義者たちは政権を握るとカトリック教会を迫害し、教会はすべて破壊され、司祭たちは言わば〝踏み絵〟を強制された。踏み絵を踏んで棄教する者もいたし多くの司祭たちは国外に逃亡した。逃亡に失敗して潜伏した者たちは探し出されて、銃殺された。
 『力と栄光』には、二人の司祭と一人の共産主義政権下の警官が登場する。ホセは棄教し、年増女を女房にしている元司祭。もう一人は潜伏して逃げ回っている司祭であるが、「ウイスキー坊主」と呼ばれている飲んだくれ。俗人となったホセには名が与えられているが、「ウイスキー坊主」は実名が最後まで出てこない。一人の人間を描写したというより、ある象徴的な人物像となっているからであろう。〝ウイスキー坊主〟と呼ばれている司祭は常に飲んだくれ、一人の女性と交わり娘を生ませている。踏み絵を踏んだホセと何ら変わりない破戒僧であるが、ホセは棄教を明らかにしたのに対して、ウイスキー坊主の自己意識はあくまでも「司祭」である。     
 舞台は、メキシコで一番辺鄙な州であるタバスコ州。山岳地帯と海に挟まれた細長い土地で、その大半が湿地と深い森林に覆われた熱帯のジャングルであり、人々は人間の暮らし以下の悲惨な日々を送っている。
 小説は、潜伏している司祭ウイスキー坊主が国外へ逃亡するため船に乗ろうとやってくるところから始まる。暑さに耐えて、司祭は船が出るのを待っていた。歯医者のテンチ氏が、船は定時に出たことなどないとウイスキー坊主に話しかけた。暑いからうちに来いと誘われるままにテンチ氏の家に行った司祭は、医者を探しに来た子供の求めを拒みきれずに、子供の村へと向かった。村への途中、船は定時に出航してしまった。司祭が安全な国外へ逃亡することができないこと、彼には過酷な運命が待っていてやがて死にいたることを、空を飛び交っているハゲワシが暗示する。
 潜伏する司祭の逃避行は、惨めで辛い。警察に追われる酔いどれ坊主がやって来たことを迷惑がる人々、彼が出て行くときは、皆ほっとした顔になる。ウイスキー坊主は、自分を否定する人々の中にあって自問自答を続ける。「私は神によって裁かれている、そうでなければ、私の生きている理由はない」。司祭は逃げ回りながら、自分がそこに存在する意義を考え続け、自分自身を疑い否定しつつも棄教することはない。
 俗人となったホセが、保身の余りにウイスキー坊主を匿うことを拒み、彼が銃殺される前に懺悔をしたいと頼んでも拒むという、どこまでも自分自身のことしか考えられない人物である。一方同じ破戒僧であっても、ウイキー坊主は、自分が破戒僧であるという苦しみと、いつ捕まるかわからないという二重の精神的な重圧にさらされ、身体的には慢性的なマラリヤ、食糧不足などの極限的な状況にありながらも、人々の懺悔を聞き、聖体拝領を授け、子供に洗礼を施すことをやめない。最後には罠であることを承知で死にかけたお尋ね者の臨終の懺悔を聞くために、無事に逃げられる道を捨てて、自ら罠の中に入っていく。常に神を意識し、己の中に神を持ち続けたということで、破戒僧でありながら、ウィスキー坊主は、誰よりも神に近い存在として描かれている。しかし、彼自身は、「自分が死んだら地獄へ行く」ことを誰よりも強く確信している。
 このウイスキー坊主を追いつめる警部は、貧しいどん底の生活を強いられてきた者であり、共産主義革命は、人々を「もっとマシな生活」にし、「宗教は人々の心を麻痺させ堕落させる」と信じている。彼は「自分が送ってきたような貧困を二度と子どもたちに味わわせはしない」という理想を高く掲げ、その信念のもとに「金権と教会」「教会と盲信」という社会悪を根絶やしにすることに命をかけている。「信念のため、正義のため」の司祭追跡、教会弾圧であるとはいえ、罪のない者たちを人質にして銃殺したり、罠を張ったりする行為は、民衆の共感を得たり尊敬を集めたりすることはない。ついに司祭を追いつめ銃殺するという目的を果たしたのちに、警部は激しい孤独に陥ることになる。
小説中において、対極に位置しながら、警部とウイスキー坊主は、ひとつの人間像の表と裏である。ウイスキー坊主と警部は、よりよい生活を求めるという理想に向かっておのれの信念を貫いて生きるという根本的なところで一致している。一人は共産主義革命の正しさを信じつつも実際に行っていることが民衆迫害になっていることを自覚し、一人は神の存在を信じながらも破壊僧となった自分を許せないでいる。二人は表裏一体の存在である。警部は、司祭を追いつめながら心の奥底でウイスキー坊主に共感をいだいている。
 小説のラストシーン、ルイス少年は、夜中、〈神父[Father]〉が戻ってきたと、感じる。少年の夢かもしれないし、幻想かもしれない。銃殺されたウイスキー坊主が復活したのかどうか、別の新しい神父が外国からやってきたのか、ルイス少年の夢にすぎないのか、作者は最終の場面を読者の受け止めるままにして小説を閉じている。

1-2 ウイスキー坊主の匿名性、人物設定、作品構造
 『力と栄光』の主人公、世俗名を与えられていないアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous 無名のアルコール依存症者)としてのウイスキー坊主は、小説に登場したときから、すでに自分自身を「堕落した、エイジェンシー・スラックの持ち主」と自己規定している。アルコールにおぼれ、女犯の罪を犯して娘を生ませている。死ねば地獄に堕ちる自分自身であることを自覚しつつも、なお、神に見放されたメキシコ民衆に対して「父」であることの勤めを果たそうとする。ときには、酔っぱらったあげく、男の子に女性名である洗礼名をつけてしまうようなていたらくでありながらも、自身の死の直前まで、「神父」として生き続けたのである。
 主人公が名を示されず、「ウイスキー坊主」というあだ名で呼ばれていることについて。 「AAアルコホーリクス・アノニマスAlcoholics Anonymous」は、1935年にアメリカ合衆国でビル・Wとボブ・Sの出会いから始まった。世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助の集まりで、略してAAという。断酒を願うアルコール依存症者が、自分一人の意志では持続不可能な禁酒を、互いに体験を話し合うことによって持続する。不特定多数無名者による団体である。会長もおらず、会則も会費もなく、ボランティアによって運営され、すでに80年近い歴史を持つ。参加者は「無名であるがゆえに、私はあなたであり、あなたは私である」という意識でグループミーティングに参加してきた。
 1937年にメキシコを旅し、1940年に『力と栄光』を発表したグレアム・グリーンは、はたして「AA」の存在を知っていたかどうか。アルコール依存症患者たちが、無名のままお互いの「断酒を続ける生活」を語り合うことによって、依存症を克服するという相互扶助団体にグリーンが興味を持っていたかどうか、文献上で確認することは現在のところできていないのだが、筆者は、グリーンの関心の中に入っていたのではないかと想像する。なぜなら、後述するように、グリーンは1937年のメキシコ旅行中、自分を被告とする裁判の闘争中であり、アメリカの世論動向に強い関心を持っていたと考えられるからだ。アルコール依存というアメリカ社会では「負・マイナス」の烙印を押されてしまった「AA」の無名者たちに、「幼女への性的関心を持つ側の人」として裁判の渦中にあるグリーンが共感を寄せていたと想像することはそれほど荒唐無稽ではない。
 実名を持たず、「無名のアルコール飲用者」として設定されているウイスキー坊主は、一個の小説中の個人ではなく、私でもありあなたでもある「普遍の存在」として、小説世界に生きている。グリーンがウイスキー坊主と彼を追う警部に名を与えなかったのは、二人がグリーン自身であり、読者自身であるというメッセージをこめているからだと、筆者は考える。
 『力と栄光』は、グリーンの内面の部分が投影されたような人物が交差する。理想社会を求めて社会主義体制の護持者たらんとする警部、警部に追われる逃亡者ウイスキー坊主、ウイスキー坊主をすげなく見捨てる世俗的棄教者ホセ元神父、そして、賞金目当てにウイスキー坊主を警察に売り渡す混血児(キリストを売ったユダになぞらえられる)などの主要人物のほか、歯医者のテンチ氏をはじめ、脇役バイスタンダーが登場する。
 小説の第2部と3部は、ウイスキー坊主の逃避行がメインストーリーであり、主としてウイスキー坊主の視点によって場面が推移する。しかし、その額縁ストーリーとなっている第1部と4部は、脇役たちの視点によってウイスキー坊主の姿が描写される。読者は、第一部で、幕が上がった舞台を見ているうちに、いつの間にか自分自身が観客としてではなく、登場人物のひとりとして舞台の中に生きていく感覚を持つ。
 この作品構造は、ウイスキー坊主のリアリティを保証するために成功していると思う。この1部と4部には、ギリシャ悲劇における「コロスによる合唱」の響きが連想される。このコロスの合唱を含めて、『力と栄光』は、ウイスキー神父のみじめな最後にもかかわらず、「キリストの復活劇」に匹敵する「祝祭性」を持つ。祝祭の場においてキリストをたたえる劇に見える。
 筆者にとっては、『力と栄光』は、グリーンによる「祝祭的キリスト賛歌」である。
 物語の全体を統括している行為者A・プリンシパルは神であり、行為者B・エージェントはウイスキー坊主である。
 ハヤカワ文庫版の翻訳者斉藤数衛は、警部とウイスキー坊主が無名であることについて「作家としてのグリーンの”さめた目”を感じる」(斉藤数衛訳『権力と栄光』2004ハヤカワ文庫p444)と書いている。筆者の考え方と正反対である。筆者は、グリーンの「熱い共感」が警部とウイスキー坊主に名前を与えず「アノニマス」の一員として描いたのだと考える。作家としての「さめた目」による小説技法としての「無名」の主人公であるとするなら、グリーンは、己をさめた高見の位置においたことになりはしないか。ウイスキー坊主はグリーン自身であるからこその「AA」だったと筆者は主張する。


2-1 プリンシパル・エージェント問題
 人間世界は、大きく分けるとふたつの事柄によって推移変化する。ひとつは「自然推移」である。宇宙の運行、たとえば地球は、自らが自転しつつ太陽のまわりを公転するということは、人間の意志によって左右されず、個人の意志は何ら反映されることはなく推移する。もう一方は、人間が自らの意志によって世界の変化をもたらす「意志行動」である。意志行動の「変化への意志を持つ者・行為主体A」を「プリンシパルprincipal」と呼ぶ。プリンシパルの意を受けて、「実際に行動する者・行為主体B」を「エージェントagent」と呼ぶ 。
 これらのプリンシパル・エージェント関係において、しばしば問題が発生する。これをエージェンシー・スラック(agency slack)と呼ぶ。エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうこと。エージェンシー問題(エージェンシーもんだい、agency problem)とは、プリンシパル=エージェント関係においてエージェンシー・スラックが生じてしまう問題のことを言う。
 キリスト教において、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として、統治する皇帝の下で国家宗教として発展した。
 筆者は仏教徒である。両親が曹洞宗の寺に葬られているというだけで、筆者自身が檀家でもなく、敬虔な仏教徒とはいえない。「社会通念上の仏教徒」というにすぎないが、一応仏教徒であり、キリスト教の教義にもカトリックについても、ほとんど何も知らない人間である 。したがって、カトリックの教義においては「教皇=神の代理人と見なされている」と考えている筆者の理解が間違っているならば、このリポートは意味がない。「ローマ教皇は地上で人間の罪を裁く権利をイエスから与えられている」いうことが、カトリックにおいて「ローマ教皇の存在意義」でないなら、「プリンシパル・エージェント問題としての『力と栄光』」というこのリポートは成立しない。
天上で処理することになっていた人間の「罪と罰」の問題が、教皇革命の結果カトリック教会圏では地上で処理できることになり、神が裁くことになっていた人間の罪を人間が裁けるようになった。この大変化を「教皇革命」と呼ぶ 。
 「教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする」ということが、筆者が理解した範囲でまとめた「神の代理人としてのカトリック教皇」である。
カトリックの教会法第375条において、司教は、「神の制定に基づき付与された聖霊によって使徒の座を継ぐ者であり、教理の教師、聖なる礼拝の司祭及び統治の奉仕者になるように教会の牧者として立てられる。」司教は司祭(神父)の任命権を持つ。教会法第1012条により、司教は助祭、司祭および司教の叙階を行う。教区に所属する司祭は、教区教会でミサをはじめとする秘跡を執り行う。司祭は「父」として、信者への「直接の神の代理人」として彼らの前に存在する。一般的な信者にとって、神父は「父」であり、神の代理人である。司祭は、神のエージェントとして、信者に向かって神のことばを代弁する。
 ここに、経済学政治学でいう「エージェンシー問題」が発生する。エージェンシー・スラック(agency slack)すなわち、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうということが、神(プリンシパル)とエージェントの関係におけるエイジェンシー・スラックである。代理人は、プリンシパルの意に反して、自分自身の利益を優先し、蓄財、飲酒や女犯の快楽におぼれる。
 プリンシパル神とエージェント司祭の関係において、「女犯」などのエージェンシー・スラックは、すでにカトリック社会のなかでも「よくある間違い」以上の広がりをみせている。カトリック神父による性犯罪の告発は、「アフリカにおける現地女性への性的虐待、西欧各地での少年への性的虐待」など、世界中でニュースにもならないほど発生している 。
 『力と栄光』において、プリンシパルは「神」である。エージェントであるウイスキー坊主は、カトリック教会法によれば、女犯や飲酒によって、すでにエージェンシー・スラックを起こしてプリンシパルの利益を損ねている。エージェントは、行為者Aの依頼の通りに行動する行為者Bなるべきであるのに、行為者Aを裏切ったエージェントとして、自分自身の利益・欲望のために行動している。
 作者グリーンはプリンシパルの依頼を裏切っているエージェント、ウイスキー坊主を最後まで悲惨の中にとどめ置いた。しかし、処刑のあと、「あの人は教会の殉教者ですよ」と、少年ルイスの母に言わせている。そして、ルイス少年は、夜更け、ドアをノックする音を聞き、Fatherが再びルイス少年の家を訪問したことを記して物語を締めくくった。
 酔いどれのウイスキー神父が心の内に「私は地獄へ落ちる身だ」と内省を繰り返すのと同じように、グリーンはメキシコ旅行の間中「少女シャーリー・テンプルは、男たちの欲望の対象」という自己の発言の意味を反芻していただろう。グリーンの欲望もまた、人に知られることはなくてもプリンシパルが求める行動には合致しないものであることを、グリーン自身は承知していた。人に知られるか知られないかにかかわらず、罪を負う人間存在のひとりとして、グリーンもエージェンシー・スラックを起こしているエージェントであった。「シャーリー・テンプルは欲望の対象である」というグリーンの評論は、グリーン自身の欲望の吐露であった、ということは、1990年代、グリーンの晩年になってから多くの証言がなされるようになったことである。
 プリンシパルの依頼を逸脱したエージェントも、救済されるし、称揚される。なぜなら、プリンシパルの大きな依頼の目的からみたら、飲酒も女犯も少女への性的嗜好も、プリンシパルのふところの中にあるからだ。
 この『力と栄光』のプリンシパルは、私には大乗仏教の救済者に通じるように思える。どのような極悪人であっても、いまわのきわに「南無阿弥陀仏。アミータ仏、あなたに帰依します」と唱えれば、すくい取ってくれる大いなるプリンシパルと同じように、『力と栄光』のプリンシパルは、グリーンを許し、ウイスキー坊主を救いあげる。
 以上のような印象読後感は、綿密な分析的読解によれば、破綻の多い論であることは承知しているが、私は、「カトリック文学」の代表作のひとつという『力と栄光』を、遠藤周作の『沈黙』と同じように、「仏教と相通ずるカトリック」のひとつの表現として読んだ。

2-2 言語におけるプリンシパルとエージェント
 西欧の言語、インドヨーロッパ語の系統では、主語-述語の文型において、能動文は主語subjectと行為主体agentは一致したものとして扱われる。“The lieutenant opened the cell door.”(p.205)という文において、文の主語は行為主体である。警部は独房のドアに対して「開ける」という行為を加え、ドアを変化させている。“He[the boy])put his feet on the ground.”(p.221)という文において、主語は行為主体であるが、行為対象は“his feet”であり、「彼は足を床におろした」は、少年自身の行為が自分自身のうちに完結しており、他者を変化させる行為ではない。“The boy sat beside the bed.”「彼はベッドのわきに座った」(p.221)と同じく、自動詞表現に準ずる。
 神の存在を信じる者にとって、己の行為に迷いはない。神が決定したことに従って行動することですべての行為が満たされる。行為者Aプリンシパル(依頼人)は、行為者B(実行者)に行動を託し、行為者B(エージェント)は、プリンシパルの意向に添い、プリンシパルの利益を損ねないように行動すればよいのだ。 
 “The boy spat through the window bars.”(p.220)では“the boy”(少年)は「つばを吐く」という行為を行っている行為者である。このとき、少年の行動と意志を決定するのは、プリンシパルである。プリンシパルは少年の行動の描写に現れないが、少年が自分をプリンシパルにゆだね、プリンシパルの存在を信じている限り、すべての行動はプリンシパルのエージェントとして行われる。
 しかし、自分自身にプリンシパルを認めない「神を棄てた」人間にとって、すべての行動すべての考えや意志は「行為主体B」のみの世界となる。“He smiled again and touched it too.”(p.220)というとき、He[The lieutenant]の行動は、彼自身が決定し彼自身が行為する。「主語=行為主体」であり、他のものは介在しない。
 一方、日本語においては、行為主体は背景化される。少年が皿を割ったとして、それが故意動作でない場合の結果を述べるなら、ふつうは「皿が割れた」と表現される。特に少年の行為であることを強調する必要があるのでなければ、皿の上に起こった変化は「事象の推移」として表現され、行為実行者(行為者B)は背景化し、プリンシパル(行為者A)による全体の推移変化として述べられる。このとき、プリンシパルとエージェントは明確な境界線を持たない、融合した存在である。「少年は床屋で髪を切った」という文で、「少年」は行為実行者ではなく、「切る」という動作行為の実行者は床屋である。しかし、日本語は他動詞を用いて少年の行為として事象の変化を表現する。主語(subject)が述語(predict)内容の「行為実行者エージェント」と一致する必要はない。主語は、事象全体の統括者であればよい。日本語にとって、プリンシパル(依頼者・統括者)とエージェント(代理人・行為実行者)を明確に区別する必要がないからだ。全体の事象推移を、結果の側から報告する日本語の表現にとって、「警部は飲んだくれの神父を処刑した」という文も、大いなる事象の中のひとつの表現であり、銃殺の引き金を引いたのが、警部自身の行為であってもよし、警部は「構え、撃て」という命令を下しただけの人であってもよい。プリンシパルは警部と重なりつつ全体の推移を統括している。
 『力と栄光』の物語は、すべてプリンシパルの統括の中に収束している。本来ならば、神を信じず、すべての行為を己の責任において実行しているはずの「ウイスキー坊主を追う警部」の行動が、ウイスキー坊主の行動と同じくすべてプリンシパルの意志の元で行われているように感じられるよう作話しているところが、グリーンの手腕であろう。ほんとうならば神とは決別しているはずの警部の行動も、すべて神の意志のなかに取り込まれているように思える。この点で、〈力と栄光〉を有するプリンシパルとは、大乗仏教の阿弥陀仏のように感じられるのだ。


3-1 グリーンのバックグラウンドとグリーン文学のキーワード 
 『力と栄光』は、1940年に発表されたグレアム・グリーン(1904年10月2日~1991年4月3日 )の代表作のひとつであり、彼はこの一作によって、作家としての地位を固めたといえる。この後の、『事件の核心』(1948)、『情事の終り』(1951)とともに、グリーン文学の中心的な作品である。
 グリーンは多くの場合「カトリック作家」として分類され、宗教的には終生カトリックの信仰を持ち続けた作家として、カトリック倫理をテーマに据えた作品を書き続けた。また、一方では思想的に終生「共産主義」への共感を持ち続けた作家でもある。カトリック信仰と共産主義への共感はグリーンの中では調和した一体のものであり、1984年にイギリスの作家、マーティン・エイミスが80歳の彼にインタビューした際、グリーンは「確信を持った共産主義者と確信を持ったカトリックの信者の間には、ある種の共感が通っている」と語っている。(エイミス2000 p16)
 『力と栄光』は、「共産主義社会の中のカトリック」というテーマを背景に持つ作品である。早川書房版の文庫翻訳『権力と栄光』(斉藤数衛訳)には、この作品の成立についてグリーン自身による「序文」に詳しく記されているが、ペンギンペーパーバック版にはジョン・アプダイクの序文がついていて、グリーンの序文は載っていない。(以下、翻訳は『権力と栄光』、原作については『力と栄光』と記す)
 『権力と栄光』序文の概要は以下の通りである。
1,グリーンは1937~1938年に、メキシコ旅行をした。メキシコの共産主義革命下における宗教迫害をリポートするためであった。
2,メキシコのタバスコ、チアパスで、最後の司祭のうわさを聞いた。ひとりは棄教者となり、ひとりは酔っぱらいだった。
3,グリーンは、「『権力と栄光』は、ある主題にそって書いた唯一の小説」と述べている。
 グリーンの思想的背景として、カトリック信仰と共産主義へのシンパシーをあげたが、あと3点、グリーンのバックグラウンドとしてあげておくべきものがある。
 ひとつは、少年時代の父との確執である。グリーンは1904年にイギリスのハートフォードシャー州バーカムステッドで生まれた。父はハートフォードシャーにあるパブリックスクール、バーカムステッド・スクールの校長であった。父が校長である学校に通う間、グラハム少年は反抗心をもてあました。厳格な教育者である父との相克と心理的な決別は、「父なるもの」「father」との関係について、グリーンの小説において大きな意味を持っていると思われる。
 第2点。パリックスクール在学中、スパイ小説家ジョン・バカンの小説を愛読した。のちにグリーンはイギリス諜報部のスパイとして勤務することになるが、「裏切り」は、スパイが出てこない彼の小説においても潜在的なテーマとなっている。
 第3点目は、グリーンは性的傾向において、ロリータ・コンプレックスの持ち主であったということである。マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)(pp.348-349) には、歓楽地のブライトンで若い少女を求めていたという小説家フランシス・キングの証言が記されている。また、雑誌『スペクテーター』には、歴史家レイモンド・カーによる「グレアム・グリーンがハイチに出かけていってはロリコン買春をしていた」という記事が掲載されているという。(この雑誌につき、筆者未読・未確認)ロリータ・コンプレックスに対しては、性心理学などからの分析は多々あるが、成人女性に対する性的要求(成熟した人間対人間として、一対一の関係を切り結ぶ)に比べて、「男性として、幼い対象を完全に支配したい」「父あるいは偉大な存在として少女に影響を与え、意のままに扱いたい」という心理的要素が強いとされる。
 グリーンによる1937年のメキシコ旅行は、彼の「少女スター、シャーリー・テンプルは、男たちの性的欲望の対象である」という評論が激しい非難にさらされ、裁判騒動になっているさなかの旅であったことを、作家は『権力と栄光』の序文で最初に述べている。裁判は結局敗訴となった。1937年に雑誌『ナイト・アンド・デイ』に子供を主な視聴者とする家族向けの映画『テンプルの軍使』について、9歳のシャーリー・テンプルに男性の観客は欲情を感じているという趣旨の批評を書いた。20世紀フォックスとの裁判で敗訴し、高額の罰金を払い『ナイト・アンド・デイ』は廃刊になった、という事件である。1990年代にグリーンの性的傾向「少女への性愛嗜好」が話題になると、グリーンは民事訴訟を忌避してメキシコへ渡っている。メキシコが「犯罪者の引き渡し条例」に属していない国であったがゆえの渡航先であったのだが、かって、1937年当時の旅の思い出の中では「あまり愉快な旅ではなかった」と書いているメキシコを「ロリコン追求から逃れるための地」として選んだことは、何かの巡り合わせであるのかもしれない。
 『力と栄光』の中に描かれる、「神の存在と棄教」と司祭を追いつめる「理想主義的共産主義者」の相克。これらの登場人物の中に、グリーンは、「官能的な7歳の少女」を登場させている。無垢で無知であるがゆえにいっそう魅力を発揮する少女を官能の対象とせずにはいられないグリーンにとって、少女愛はウイスキー坊主の破戒にも匹敵する「己の中に隠し持つ破戒」であった。
 晩年のグリーンに対して、その名声や名誉をはぎ取らんばかりに追いつめようとする「少女性愛傾向者」という烙印。不名誉から逃れようとするグリーンは、かってウイスキー牧師がさまよった荒涼としたメキシコを、みずからの彷徨の地として選んだ。
 以上のグリーンのバックグラウンドから、グリーン文学を解釈するキーワードを並べてみると、「父と子」「支配と被支配」「裏切り」「烙印を背負う彷徨」
 以上のグリーン文学キーワードは、『力と栄光』のテーマとも重なるものである。

3-2 グリーンのメキシコ旅行
 ジョン・アプダイクは『力と栄光』に序文 を寄せている。
英語力ない筆者なので、アプダイクがグリーンに対して次のように述べている言説がまったく理解できない。
 アプダイクはこのイントロダクションのなかで、次のようにグリーンのメキシコ旅行を評している。“An ascetic, reckless, life-despising streak in Greene's temperament characterized, among other precipitate ventures, his 1938 trip to Mexico.”「グリーンの気質の禁欲的で向こうみずな、生命を軽蔑している傾向は、他の無鉄砲な冒険の間で、メキシコへの彼の1938年の旅行を特徴づけている。」(私訳) 
 アプダイクがグリーンのキャラクターを「禁欲的で生命を軽蔑している」と評していることは、グリーンを大きく見誤っていると筆者には感じられる。グリーンがメキシコ旅行で得たことは、「禁欲的で生命を軽蔑している」とは、正反対に思う。「欲望をさえぎることなく荒野に解き放ち、生命謳歌を荒涼とした大地に感じ取った」ゆえの『力と栄光』の力強い文体となったのだと思うのだ。
 『力と栄光』の3人の主な登場人物。棄教し世俗人として家庭生活を選んだホセ神父。司祭として生きる生き方を棄てきれず、荒れたメキシコをさまよったあげくに、混血児の裏切りにあい警部に逮捕され処刑されるウイスキー坊主。「子供たちによりよい社会を」という理想主義のもと共産主義革命の成就を願う警部。この3人は3人ともグリーンの分身であろう。
 「自分自身がシャーリー・テンプルのような幼女に性的欲望を感じる男のひとりである」ということはカミングアウトしないままメキシコを旅していたグリーンにとって、『力と栄光』発表後、50年の歳月を経て目にしたメキシコは、どのような大地として目に映ったであろうか。

4 『力と栄光』と『沈黙』
 筆者は、100カ国の留学生に出会ってきたが、真実自分自身を「無神論者」と規定していたのは、イスラエルからの女性写真家ただひとりであった。彼女はイスラエル国籍の父とイギリス国籍を持つ母親との間に生まれイギリスで成長し、イスラエルに移住した。彼女以外、「無宗教」と答えた人に出会ったことがない。彼女のような厳しい自己規定でいえば、筆者も「無宗教」と言わなければならないのであろうが、留学生に対しては“I am a Buddhist.”と言うことにしている。1年に1度ほど両親の墓参りをしに寺詣でをするというだけの仏教徒なので少々気がひける思いもするが。特に入信の儀式もなく、教義も知らず、ただ、親が寺に葬られているので墓参りをするという程度の「仏教徒」がほとんどである日本で、「信仰告白と棄教」という問題が、いまひとつ身近で深刻な問題とは考えにくいのだ。
 遠藤周作は『力と栄光』に触発されながらも、きわめて日本的なプリンシパルとエージェントを描いた。すなわち、『沈黙』の小説主体は、棄教者ホセに対比される転びバテレン・フェレイラと、裏切り者ユダ役の混血児に比するキチジローへと視点が投影されている。内面にイエスへの憧憬を持ち続けるなら、形の上で踏み絵を踏んだところでイエスはそれを許し、信仰者として受け入れてくれる、という遠藤の解釈は、グリーンの『力と栄光』をしのいで大乗仏教的であると思う。
 カトリックは、そもそも
1,人間の魂は全てイエス・キリストからの恩恵を受けており、本性上キリスト教的な存在である。すなわち全人類は『可能的』にキリスト教徒である。
2,「可能的キリスト教徒」は、教会に所属していない者であってても、それは未だ無知なためであり、良心の声に忠実に生きる人は知らずして神に従い、またイエス・キリストの恩恵を受けることになる(含蓄的な恩恵(fides implicita))。
3,そのため、カトリック以外の教派あるいは異教徒にも『含蓄的』な信仰を抱き「見えざる教会」の一員になり得る場合がある。
4,含蓄的な信仰を抱いた人はイエス・キリストの啓示真理に接することによって、その信仰は『顕現的』なものとなって、目の前に存在する唯一の教会の一員となる。
グリーンは『力と栄光』に「人間の本性は、その堕落を経てもなおも神による普遍的な救済意志の恩恵を受ける資格を有している」というカトリシズムの根幹の思想を描き出した。
「救済を受けるためにはイエス・キリストの体に代わる存在であるローマ教皇を頂点とする教会組織に加入することによって「新しい神の民」となり、その信仰が福音の真理から逸脱しない保証を獲得する必要がある」この考え方が教理として有効なのかどうか、筆者にはわからない。
 ウイスキー神父はどれほど実生活で堕落しようと、洗礼や終油などの秘蹟を施す司祭としての役目を遂行することでキリスト教徒として存在しようとしていた。 
 一方、教会という制度の中に存在しなくても、心の中にイエスを思いさえすれば、洗礼しようとしてまいと、懺悔告解をしようとしまいと、最後の秘蹟を受けようと受けまいと、神は受け入れる、という考え方は、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと同じく「南無耶蘇神」と唱える「大乗耶蘇教」信者である、と、筆者には思える。サクラメント秘蹟を無視してカトリシズムは成立しないのであるのかどうか、カトリック教義に詳しくない筆者にはわからない。

5 結語
 グリーンは文学史上、カトリック作家として扱われる。
 筆者は、『力と栄光』のテーマを、破戒してもなおキリスト者であろうとする者への魂の救済の物語と受け止めた。これは、欧米社会では今なお「異常性愛者」という烙印を押される「少女への性的嗜好」というグリーン自身の内なる暗闇を抱えた生への救済でもある。
 人は個人の意志によって行動し、生きていくように思っていても、プリンシパル(依頼者)に命じられた通りに行動するエージェントにすぎない。時にプリンシパルの利益に反する行為をエージェントがとっているように見えても、エージェントがプリンシパルのもとに所属している限りでは、プリンシパルはエージェントを切り離すことはない。
 日本語母語話者、とくに日本的仏教徒(古代神道や道教と習合した仏教)にとって、プリンシパルとは自分をとりまく世界そのものであり、個人と世界を切り離すことはない。自己の内に感じ取る事象の変化は、自己を含むプリンシパルが世界を推移させるその内に存在し、明確なエージェントとして行動することは、特別な場合に限られる。
“The lieutenant opened the cell door.”と“The cell door opened.”“The cell door opende by the lieutenant.”とは、厳密に区別されなくてもよい同一の「事象の推移」にすぎない。プリンシパルとエージェントとオブジェクトは切り離して考える必要のない、一体のものだからである。
 『力と栄光』は、西欧文学のなかで、仏教信者にも受け入れやすい神と人の物語であるが、それは、グリーンがプリンシパルとエージェントを切り離されるべきものとして描いておらず、大乗的な「すべてを包み込むもの」が小説のすみずみまでその「power」「glory」となって満ちているからと思う。

使用テキスト
Graham Greene:The Power and the Glory, PENGUIN CLASSICS, 2003.
グレアム・グリーン著/斉藤数衛訳『権力と栄光』、ハヤカワ文庫、2004。

引用文献
マーティン・エイミス(Martin Amis)大熊栄・西垣学訳・『ナボコフ夫人を訪ねて-現代英米文化の旅』、河出書房新社、2000。
マイクル・シェリダン(山形和美訳)『グレアム・グリーン伝:内なる人間』上(早川書房・1998年)
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~miyajima/_tK8XLl1.html

参考文献
山形和美『グレアム・グリーンの文学世界-異国からの旅人-』、研究社出版、1993年
コロンビア大学『現代文学・文化批評用語辞典』、松柏社、2002。ジョセフ・チルダース、ゲーリー・ヘンツィー編。杉野健太郎・中村裕英・丸山修、訳   


1  経済学・社会学・政治学などにおいて、プリンシパル=エージェント関係(principal-agent relationship)(あるいはプリンシパル=エージェンシー関係(principal-agency relationship)とは、行為主体Aが、自らの利益のための労務の実施を、他の行為主体Bに委任するとき、行為主体Aをプリンシパル(principal、依頼人、本人)とし、行為主体Bをエージェント(agent、代理人。またはエージェンシーagency)として、その関係や利害関係を扱うことである。
 経済学で考察の対象となるプリンシパル=エージェント関係としては、株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の関係、経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)などがある。政治学で考察対象となるのは、特に合理的選択理論において分析の対象となる。政治家(プリンシパル)と官僚(エージェント)、議院内閣制における与党議員(プリンシパル)と内閣(エージェント)、首相または大統領(プリンシパル)と閣僚(エージェント)などの関係が挙げられる。

2  筆者のカトリック理解は、大学学部で1970年代に仁戸田六三郎の授業で学んだ「宗教学」、1980年代に島薗進の授業で学んだ「新興宗教学」において得た知識の範囲を出るものではない。
 宮島直機(中央大学教授)の『「東方キリスト教学会」における2006年8月31日発表」』のまとめ
 (1) 11世紀までは、皇帝がヨーロッパ全域を統べるimperatorであった。皇帝が「キリストの代理人」であり、教皇は数多くいる司教の一人に過ぎず、教皇は「ペテロの代理人」に過ぎなかった。
(2)  1046年のスートリの教会会議で、皇帝ハインリヒ三世が並立する二人の教皇シルヴェステル三世とグレゴリウス六世を廃位した。
(3) 廃位に反発した教皇側が、1059年に教皇を枢機卿会議で選ぶことにしたため、皇帝は教皇を選べなくなった。
(4) 1062年にシチリア国王が教皇に保護を求めてきた。教皇はシチリア国王の武力を借りて皇帝の影響力を排除できるようになった。
(5) 1073年にグレゴリウス七世が教皇に選ばれ、1075年に「教皇令 Dictatus Papae」を発表。
(6) 教皇により聖職者叙任権は、皇帝や国王ではなく、教皇本人が持つようになった。
(7) 聖職者叙任権を失った皇帝は「世俗の支配者の一人」に過ぎなくなり、皇帝に代わって教皇がヨーロッパ全域を統べるimperatorになった。すなわち「キリストの代理人=神の代理人」になった。
(8)人間ペテロの代理人にすぎず、皇帝より強い権力を持つことはなかった教皇が、「特定の教会に縛られず、キリストを体現したと見なされるパウロの権威」を教皇の権威として認められたことにより、教皇は「神の代理人」となることができた。教皇は「神の代理人」として地上の国で「反キリスト」から信者を守ることを使命とする。

3  大阪地検2009年2月25日21時29分(朝日新聞大阪版2009年2月25日付け報道によると)以下の記事に報道された「セクハラ神父」問題は、証拠不十分で不起訴となった。
【朝日新聞】2009.02.04  司祭、母娘にセクハラか
大阪府茨木市のカトリック大阪大司教区茨木教会の男性司祭(74)が、同教会に出入りしていた信徒の母子にセクハラ行為をした疑いがあることが同教区への取材でわかった。司祭は同教区の聞き取り調査に対し、キスをするなどの行為を認めたという。本人「申し訳ない」
大阪府警は、司祭が立場を利用してセクハラ行為に及んだ強制わいせつの疑いがあるとみて、母子から事情を聴いている。また、ほかにも複数の人がセクハラを受けていたとの証言もあることから、事実関係の確認を急いでいる。
大阪、和歌山、兵庫3府県のカトリック教会を管轄する同教区によると、司祭は茨木教会に通っていた40代の母親と小学生の女児と親しくなり、教会施設内で母親にキスしたり抱きしめたりするなどのセクハラ行為を繰り返し、昨年12月には母親の目の前で女児にもキスをしたという。母親は同教会の清掃や食事の準備などを手伝い、教会からの賃金を生活費にしていたという。
母親は今年1月、これらのセクハラ行為を同教区へ申告した。教区の聞き取りに対し、司祭は行為自体は認めた上で、「母子がふびんだった。子どもも小さいころから知っていた。海外では普通のこと」と主張する一方、母子に対し「申し訳ないことをした。謝りたい」と述べているという。母親は「(セクハラは)仕事も紹介してもらっていたので、嫌々だった」と話しているという。
同教区は「子どもが関係しているので、客観性を保った調査が必要」とし、弁護士3人で第三者委員会を立ち上げ、関係者から話を聞いている。
同教区の担当者は「教会に対する信頼を損なう行為。双方の受け止め方は違うが、うやむやにせずはっきりさせたい」としており、8日に信徒に説明するという。


4 アプダイク序文の冒頭部分を筆者の和訳で掲載しておく。筆者の英語力は非常にpoorであり、アプダイクの言いたいことがよくわかっていない、という証左として掲載するのである。
<イントロダクション ジョン・アプダイク>
  『力と栄光』は、(50年前、英語版の通常の出版どおり3500部で出版されたのだったが)グレアム・グリーンの傑作として認識され、評価に値するのみならず、高い人気を保つ本であることにみな同意している。
   グリーンはメキシコのタバスコとチアパスの南地方に2ヵ月弱滞在した。3月、5週の厳しい単独の旅行、そして1938年4月の滞在に基づいて、グリーンの小説としては、イギリス人の登場人物が最少の物語である。英国人は少数が脇役となっているだけである。
  おそらく、ローマ・カソリックについての幾分かの非英国人的なものが明白に存在する故に、この小説は成功している。マニ教のような暗闇、苦痛に満ちた文体で、彼の最も野心的なフィクションとなっている。
   エンターティメントとは対照的な三つの小説、すなわち『力と栄光』に前後する『ブライトンロック』(1939)『事件の核心』(1948)『情事の終わり』(1951)は、偉大な作品であることに疑問はない。これらの作品は、調査者の視線と同じほどに激しく不穏に見通している。
   ジョーゼフ・コンラッドとジョン・バカンの影響を受け、彼が小説家として順調なスタートをした後、グリーンのスリリングなプロットを構成する名人芸的才能と、幾分軽い病気ともいえる感受性の強さを伴う高水準の知性と情熱が、疲れを知らぬ宗教的内面の厳密な言葉によって論じられた。
   これらの3つの小説において、なお、わずかながらもローマ・カトリシズムに固着し、これらの小説には、夢のような感覚の範囲においてゆがみが存在する。

文法とは何か1

2009-01-03 07:36:00 | 日本語学
(12/02)
春庭のBC級日本語教育研究1「文法とは何かその1」

 11/30に、次のような足跡をもらいました。

2003/11/30 9:30 hawk 「象は鼻が長い」って主語は鼻って本当?
2003/11/30 13:41 haruniwa 象鼻文の「は」トピックマーカー、「が」は「長い」の主体を示す
 
 せっかくのご質問なのに、足跡では、十分な説明もできません。
 日本語教師ポカポカ春庭、12月は、まじめに日本語学概論と日本語教育概論をやります。足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。

 三上章「象鼻文」は、日本語学のなかでは、奥津敬一郎「うなぎ文」と並んで、論争が続いた「日本語の文」です。英語に直訳ができない、日本語独特の文と言われています。

 「象鼻文」は、日本語における主語論争。「うなぎ文」は、日本語のコピュラ文の問題を明らかにしました。今では、ほぼ解決した文法事項なので、春庭、ちゃんと説明ができます。でも、いち早く「象鼻文」の秘密が知りたい人は、次の本をどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.63
(み)三上章(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版.

 文法と聞くと、「活用形の丸暗記」とか、「文節と文節の関係がどうかの設問で、悩まされた国語試験の思い出」しかない人もいるでしょう。
 しかし、春庭が再三申し上げているように、ひとつには文法は「ことば、不思議発見!」のことです。

 そして、もうひとつ、文法とは、語学学習を「経済的に、最小の努力で最大の効果」で行うための「秘密の呪文」のことなのです。

 11/18「いろは歌留多」11/21「んじゃ、メナ」でも、五十音について、日本語音韻論のさわりをほんの少し齧ってみました。12月は、日本語文法学のさわりを少々。

 あ、文法と聞いて逃げないで。最後まで読むと、春庭からのステキなサービスが用意されているんです。あなたのための特別サービス。あなたっていうのは、そう、「あ・な・た」のこと。わかってるでしょう。春庭からのスペシャルコンタクト。
(以上、俺俺詐欺の逆バージョン、よくある手ですね)

 のちほど講義する本家「本居春庭」の国学研究は、文の成分関係の研究です。
 文の成分(文節)関係というのは、学校文法で教えられた方もいるでしょう。
 「修飾語が、どの語(被修飾語)を修飾しているか」「主語と述語の関係」などをやらされて、文法がすっかり嫌いになった人も多いようです。

 嫌いになっても、実はあなたは、日本語の文法すべてを全部習得済みであり、暗記しています。日本語しゃべっているんですから。

 「語と語の並べ方の規則」「語の意味」「活用規則」「語用論」など、文法全部。えっ、いつの間に、、、。たぶん、生まれてから6歳までくらいのあいだに、これらの日本語文法を、すべて習得しています。

 しかし、日本語学習者にとって、これらの「この単語の発音はどうやるか」「この単語の意味は?」「ことばとことばがどうつながって文になるか」など、一から勉強していかなければならないのです。

 単語をひとつひとつ習得することと、文法の習得は、学習者にとって重要なことがらです。ことばの習得にとって、「文法」は、なくてはならない必要事項。

 「私は学生です」という文と、「私は会社員です」という文を、ひとつひとつ丸暗記するのは、とても不経済なやり方。
 「私は~です」という「文の型」と、「学生」「先生」「会社員」「男」「女」という単語を覚えれば、「私は男です」「私は女です」と、いくらでも応用が利いて、しゃべれる文が増やせます。

 この「文型」を教えていくことが、日本語教育では大切な教授法になっています。
 ひとつひとつの文をべつべつに覚えていくのはたいへんだから、あるまとまったルールを知り、経済的に覚える方法、それが「文法」のことなのです。

 ほらね。文法って何か、わかってきたでしょ。

 12月の春庭は、とてもまじめです。まじめに日本語学概論を講義します。

 今月はシモネタギャグはなしです。ああ、つまらない、と思ったあなた、春庭から仕込んだ日本語学蘊蓄を、仕事を終えたあとの楽しみ「クラブ活動」の際に、先輩おねえさんに披露して、もててみたいと思いませんか。

 あ、おねえちゃんにモテるには、蘊蓄より、チップのほう、、、ですか。じゃあ、どっちにしろ、あなたがモテないことには変わりないから、暇つぶしに春庭サイトを読みましょう。

 多額のチップがはずめる方、パソコンの前で難しい顔をしていないで、チップを持って、ほら、、、お出かけを。

 お出かけしない真面目なあなたに、今月はとてもまじめな春庭がサービス。

 春庭、つつとあなたのおそばににじり寄り、
 「いらっしゃいませぇ!あたしぃ、このお仕事を始めてからまだ日が浅くてぇ、あまりいろいろわかってないけど、いっしょうけんめい勤めさせていただきま~す。よろしくねっっ。本気でサービスしちゃうから。
 お客さん、本番?生、いく? あ、うち、尺八生演奏禁止なの。ひちりきと笙の笛なら、演奏できるけど。
 はい、ひちりき演奏ね。かしこまりました、喜んで!
 普段は1曲だけなんだけど、お客さん、あたしのタイプだから、特別に2曲演奏するわね。サービス、さーびす」

 では、ひちりきを演奏します。1曲目は「越天楽」でぇ~す。
 ♪ヒューヒャアラ、ヒャラヒャラリコ、ヒャアラー リィコォリー~♪。

 あれ?何かべつのサービス期待した?

 春庭の日本語教室では、日本文化の紹介の際、ひちりき笙の笛で、「雅楽」演奏聞かせるんですよぉ。
 東儀秀樹の本番生演奏じゃないのが残念だけど、CDとかで。

 では、2曲めを。あ、いらないの?せっかくのスペシャルサービスなのに。
 2曲めがすごくいいんです。
 「越天楽」ほど、知られてないんですけど、「古楽乱声(こがくらんじょう)」って曲なんです。乱声、、、すごっく乱れちゃおうと思ったのにぃ。残念!

 12月の春庭は、これまでと違います。すごく真面目に、、、、文法を、、、斯うご期待!
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2003年12月03日


足跡メールにこたえて3「サルでもできる日本語の教え方
(12/03)
春庭のBC級日本語教育研究2「文法とは何かその2 うなぎ文」

 12/02スタートのBC級日本語教育研究、2回目です。

 ミステリーズさんから2003/12/02夜、届いた足跡「mysteriesうちの嫁は男です。これ何文?」

 春庭は、トランスジェンダー大賛成の人間ですから、自分のセクシャリティに正直にパートナーを選びとった息子を自慢している姑のセリフと解釈して、「芸文、ゲイ・ブン?」と足跡をかえしました。

 しかし、ミステリーズさんからの種明かし。
 2003/12/02 19:15 mysteries 孫の話なので孫文・笑

(この駄洒落が分からない人、あとでミステリーズさんから、清朝の辛亥革命と「孫文&宋慶麗夫婦」人民中国誕生と、「蒋介石&宋美麗夫婦」の講義をうけてください。または、映画『宋姉妹』を見ましょう。)

 日本語は省略を多く用います。お互いに話が通じていて、言わなくてもわかることは、いちいち言いません。

 息子夫婦のおめでたを吹聴したくてたまらないお姑さん。ご近所の最近孫が生まれた人に「オタク、お孫さん女のお子さんだったんですってね。うちの嫁は、まあ、お手柄!男の子を出産したんですよ。跡取りが生まれて、これで一安心」と、言いたくてたまりません。

 そんなとき、ゴミ出しのついでに立ち話。「おたく、お孫さん、お嬢ちゃんだったんですって。オタクのお嫁さん、やさしそうな顔してらっしたから、女の子かなあ、っておもってたんですよ。うち?うちの嫁は男です」

 「うちの嫁が生んだ孫は、男の子です」を省略した文が、「うちの嫁は男です」になるのです。この文、実は芸文でも、孫文でもなく、日本語の「うなぎ文」と構造が同じです。

 今回は「うなぎ文」とは何か、の講義。
 ことばは、直訳だけでは理解できないことがある、という例です。

 日本語では「猫がネズミを食べる」「ネズミを猫が食べる」と、語順を変えても、助詞を変えなければ、文の意味が変わりません。

 しかし、「ネズミを猫が食べた」という文の、日本語の語順の順番通りに「A rat eats cats」という文にしたら、英語の意味が変わってしまいます。

 英語を習った人が、cat rat eat の三つの単語を知っていて、複数形のS,三単現のSなんてことも教わったが、語順の理論を知らなければ、「A cat eats rats.」と「A rat eas cats.」では、まったく「逆の意味」になる、ということがわかりません。英語では、主格(主語)と対象格(目的語)の語順が大切だからです。

 「Kitty chan eats Mickey mouse..」だと、「あ、やっぱりキティちゃんって、ねずみが好物だったんだね。ピューロランドのキティちゃん、毎晩10匹はネズミ食っているらしいよ、あくまで噂だけど」という噂がたつ程度です。

 が、「Michey mouse eats Kitty chan .」という文が打電されたら、騒動がおこります。
 普通、ネズミは猫を食べませんから、オリエンタルランドがサンリオを吸収合併か、という話の譬喩かと思われて、株価が動いてしまします。

 株主特別サービス仕様のキティちゃんグッズほしさに、サンリオの株をこずかいはたいて10株買ったあなたは、大ショック!

 このように、単語と単語の並び順は、とても大切です。この並び順の研究を「シンタックス=構文論」といいます。

 英語には英語のことばの並べ方があり、日本語には日本語の「コトバの並べ方の規則」があります。習得たいへんですよね。

 あなたは、つまずいたり、ころんだりしながら英語を学んで、結局は英字新聞を読むことも、金髪ねえちゃんと会話することもできないで終わったことと思います。勝手に思ってすみませんが、まあ、春庭の英語習得と、みなさんだいたいいっしょでしょ!と推察。

 日本語学習者も、つまづいたり、まちがえたりします。いろんなまちがいをしますが、ちゃんと日本語を習得します。会話ができるようになるし、研究のための日本語文献も読めるようになります。春庭の指導よろしきを得ているからです。

 日本語の場合、助詞(particle)の働きを知ること。日本語の構造の中では、述語がもっとも大切であり、述語に係る文の成分を、「述語の働きを補助する補語」としてとらえる、ということが必要です。

 英語のような「主語ー述語」という関係の文法とは異なるので、最初は、いろんな誤解も生まれます。

 大衆食堂に入った留学生が、他の客が「ぼくは、きつねだ」「わたしは、うなぎよ」と、いっているのを聞きました。

 少し英語ができる日本人の友だちが「ぼくはきつねだ。I am a fox. わたしはうなぎよ。I am a eel.」と、翻訳して聞かせました。
 外国から来た友人のために、英語に翻訳してやれて、ちょっと得意な日本人。「それじゃ、ぼくはたぬきにしようかな。I am a racoon. 」

 ちょっとだけ出来る人ほど、得意になって知っている外国語を披露したくなるものです。私のスワヒリ語吹聴のように.


 留学生はびっくりして、日本ではレストランに入ったら、自分を動物にたとえるのが作法とおもい「I am a tiger. わたしはトラだ!」と、叫びました。

 大阪の阪神ファンが集まる食堂だったので、他の客にも、店主にもオオウケで、ライスは大盛りサービスになったとか。

 こんな楽しい誤解なら、笑ってすませられますが、自分の母語にひきつけて、外国語を直訳的に理解しようとすると、さまざまな誤解もでてきます。

 「私はきつねだ」が「I am a fox. 」になってしまったら、文の意味がことなってしまう、ということを教えていかなければなりません。このような誤解をときほぐし、ときほぐしして、日本語を教えていくのが、私の仕事です。

 「ぼくはうなぎだ」を英語で言うなら「I'd like to order my lunch. My order is a grilled eel on the rice.」くらいの表現になるでしょうか。

 「日本語のうなぎ文」
 奥津敬一郎の「うなぎ文」の解釈。「ぼくはうなぎダ」と言う表現は「ぼくはうなぎを注文する」と、同じ意味を表現していると考えました。

 「ダ」に「~ヲ 注文スル」という表現が含まれると、解釈したのです。日本語のコピュラ(繋辞)「ダ」に「述部代替機能」がある、と論じました。くわしく知りたい方は、下の一冊を。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.64
(お)奥津敬一郎『「ボクハウナギダ」の文法』くろしお出版.

 奥津と異なるもうひとつの解釈は、「ぼくはうなぎダ」という文は「僕が注文したいのはうなぎダ」という表現だ、という考え方。

「僕が注文したい食べ物は、うなぎダ」という文のうち、いわなくても分かっている「注文したい食べ物」という部分を省略した、という考え方です。ポカポカ春庭は、こちらに賛成しています。

 「うちの嫁が産んだのは、男の子です」を省略して、「うちの嫁は男です」と言ってしまっても、孫の誕生の話をしているという前提を、話し手聞き手両者が合意しているなら、誤解は生まれません。

 日本語では、言わなくてもわかることは、お互いの「語用論pragmatism=実用的実践的言語運用法」の中で解釈し合い、いちいち表現しなくてもいいのです。

 「食べた?」「うん、食べた」「じゃ、食べちゃうから待ってて」これで、すべてわかり合えます。

 いちいち主語と述語を出して、
「あなたは、お昼ご飯をもう食べましたか。それとも、まだあなたは昼ご飯を食べていないですか」

「はい、わたしはもう昼ご飯を食べました。あなたがまだ昼ご飯を食べていないのなら、どうぞ、あなたも昼ご飯を召し上がってください。」

「それでは、失礼して、お昼ご飯を食べますから、私が昼ご飯を食べ終わるまで、すみませんが少々お待ちください」

と、いちいち言わなくてもいいんです。こんなふうに会話していたら、わずらわしいですよね。

 「する?」「うん、しよう」
 これだけで、夜の会話が成立します。便利ですね。

 じゃ、今夜も、、、する?うん、しよう。じゃ、日本語の勉強をすることにしましょう。え?なにをするつもりだったの?

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2003年12月04日


足跡メールにこたえて4「サルでもできる日本語の教え方」
(12/04)
春庭のBC級日本語教育研究3「文法とは何か3 母語、第二言語、バイリンガル」

 「私も英語苦手です」「英語、苦労しました」という足跡を何通か、いただきました。よかった、英語苦手な人、春庭だけじゃないよね。

 今からでも遅くないから、初歩からきちんと学びたいとは思うものの、ついつい、目先の自転車操業に追われています。
 「ブロークンでも通じているからいいじゃないか」と、開き直って、これまで来てしまいました。

 習い始めのあの頃に、きちんと勉強しておけば、、、、。してもせんない後悔を今夜もしつつ、ブロークン。文法がなあ、ちゃんと覚えなかったから。

 中学1年生の英語を学び始めたあのころ。半年もたつと、始めて習う英語に夢中になって、どんどん勉強が進む子と、私のように、途中でひっかかって、前へ行けなくなる子の二手に分かれていきました。

 私が最初にひっかかたのは、複数のS。
 「先生、なんで英語は、本を持っています、と言うときに、いちいち、私は一冊の本を手の中に持っていますって、言うんですか。どうして一冊のっていうのをくっつけないとダメなんですか」と、質問した。教師は「そんなヘリクツ言ってないで、その間につづり字を覚えろ!」と叱りました。

 確かに、私は「Sii kamu to mai hausu.」と、書いていたんです。
そりゃ、つづりを覚えない私も悪いけど、「なぜ複数にSをつけるのか」というは、「ヘリクツ」なんでしょうか。子どもが抱いてはいけない疑問だったのでしょうか。

次は三単現のS。 I love you. はlove でいいのに、なぜshe loves me. と、Sをつけるのか?
 これも「英語じゃそういうって決まってるんだから、つべこべ言わずに覚えろ」と叱られました。
 私は I lobe yuu.と書いていましたから、それ以上つっこむことができませんでした。

 I am a girl. のとき、am は「です」と訳すのに、「I am in Tokyo.」のとき、am を「います」と、訳せという、そんなご都合主義のような、、、、。適当な、、、

 「なぜ、複数形にSが必要なのか」という疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。10年間、疑問に答える先生に会わないまま、国語教師になりました。そして挫折。

 日本語学、日本語教育、外国語教授法を学ぶことになって、やっと疑問に答えてくれる先生に出会いました。

 英語教科法の先生は「子どもに、なぜ複数にSが必要かと聞かれて、答えられないような者は、英語の教師になる資格がない」といいました。
 私は長年、英語の教師になる資格もない人たちから英語を教わっていたんですね。

 コトバには、抽象的一般的に「あるひとつのもの」、「出来事全体をあらわすこと」を表現する単語と、一回ごとの会話の中で、個別のものを指し示すものの、ふたつがあります。

 一般的に「りんご」と呼ばれるもの全体を示しているときの「りんご」と、今目の前にあって、私が食べようとしている「りんご」は、別のものです。今、目の前にあるりんごは、私が手に取り、口にいれることができる具体的な存在だからです。

 「りんごは赤い」というときの「りんご」は、目の前の一個のりんごじゃなくても、頭に思い描いただけの、りんご全体を思い浮かべて発言することができます。
 日本語は、この「一般的な表現としてのりんご」も、「目の前の、今手に持っている具体的実在としてのりんご」を、区別しないで表現する、言語です。

 日本語では「りんごは赤い」も「いま、手にりんご持ってるよ」も、ただ「りんご」でよい。
 しかし、英語は、このふたつを区別する。世界の中の一般的な「りんご」はりんご全体を表わすため、「apple」でよい。

 が、今、目の前にあり、私が食べようとするとき、具体的な存在であることを示すために「a」をつける。「I eat an apple」と、この「りんご」が、個別的存在であることをしめすためです。
 英語は、一般的な存在の「apple」と個別的存在の「an apple」または「apples」を、区別しなければならない言語だったのです。

 こんな個別表現のための「a」だった、ということを、英語を習い始めてから20年目にして、ようやく教わることができました。

 こういうことが「言語学」を学ぶ、ということです。

お察しの通り、私は「appuru」と書いていました。今では、「語尾にeがつくフォニック」も、ちゃんとわかりますが。

 私の中学校時代の英語教師は、つづり字命のようにスペリングテストを行い、テストでは、文が合っていても、つづりを間違えると×にされ、私はずっと英語の点数悪かった。 つづりも、フォニックをきちんと学んだ先生から教われば、そんなにややこしいもんじゃなかったんです。

 英語はつづりが複雑で、子どもが学ぶにはふさわしくない言語です。
 エスペラント語などのように、合理的で覚えやすい言語もあるけれど、現代では英語が世界制覇してしまいました。

 英語のつづりは、まことに不合理。前にかいたように、「Knight」ナイト=騎士のつづりのうち、Kも、ghも、発音はしない。昔の発音のなごりが残されているだけです。

 日本語も、昔は、ちょうちょうを「てふてふ」と書きました。歴史的仮名遣いです。これと同じような、歴史的つづり字法が、そのまま残っている言語が英語です。

 現代では、つづり字のまちがいなんか、たいしたことではありません。私の一太郎には、スペリングチェックという機能がついていて、まちがいつづりをチェックしてくれます。

 それより、コトバのルール、文法をきちんと知っておけばよかったんですね。
 
 英語でも、日本語でも、はじめて新しいことばを習う人にとって、「文法を学ぶ」ということは、避けて通るわけにはいきません。

 文法には、「シンタックス=構文論」「セマンティクス=意味論」のほか、「語彙論」「単語形態論、活用論」などが含まれ、さらに「語用論」「社会言語論」なども知らないと、言語運用ができません。

 すなわち、今、日本語を話して生活している人は、日本語の「構文論」「語彙論」「意味論」「単語形態論、活用論」「語用論」「社会言語論」などの全部を、すでに習得していることになります。すごいですね。

 そんなにいろいろ身につけていたなんて、春庭に言われるまで、知らなかったでしょ。これから大いに自慢してください。
 と、いっても、ほとんどの人は、自然に母語を身につけるんです。母語というのは、人が成長していく過程において、周囲で話されていたことばのことです。

 第一言語(母語)の習得は、だいたいどの言語でも、生まれてから3~6年くらいで、おおよその言語運用能力が身につくとされています。

 周囲の人が話しているのを聞いて、文を解釈し、自分でもまねて使ってみる。ただまねをするだけでなく、人は新しい文を作り出す能力を持っています。

 「パパ、買い物。ママ、会社」という二語文が話せるようになった子どもは、「ぼく」が自分自身を指し示す語、「トイレ」がおしっこをするときに行く場所だという単語の意味がわかれば、ふたつを組み合わせて、自分で「ぼく、といれ」と表現できるようになります。単語を文の型の中にあてはめて、新しい文を作り出せるのです。

 この、「語と語を組み合わせて新しい文を創出する能力」、これが「文法能力」のことなのです。

 この成長過程で、ふたつの言語を同時に聞いていると、自然習得のバイリンガルになります。自然にふたつの言語が身に付くのです。

 両親が別々の言語を話している場合、たとえば、母は日本語、父はフランス語を話していると、子どもは日本語フランス語両方を同時に覚える。
 また、両親の言語と、生活範囲(保育園、ご近所)などの言語が異なる子どもの場合、家の中では両親と子どもが中国語で話すが、子どもは学校で日本語を話し、バイリンガルになる。

 ただし、子どもによっては、どちらの言語も中途半端にしか理解できないという結果になって、どの言語でも十分な自己表現ができない、という場合もあります。安易に「うちの子、バイリンガルにしたいから、アメリカンスクールに入れてみようか」などは、要注意。

 自然に身につく第一言語(母語)と異なり、第二言語(主に外国語のこと)の習得は、大人になるほど、努力が必要になります。脳が若いほど、第二言語の受け入れがたやすいからです。

 もっとも、脳の若さ以上に、個人差というものが存在し、年をとっても驚異的な記憶力でつぎつぎに外国語を学んでいく人もいれば、若い頃から外国語苦手な春庭のようなのもいる、というしだい。

 10/08に書いた「シニア海外協力隊」への参加お勧めの一環として、効果的な外国語習得法について紹介しました。

 春庭、残念ながら、効果的に外国語を学ぶ方法を実践できなかった。
 わが恋人(そのなれの果てが、現在のワーカホリック夫)は、私以上に外国語を苦手とする「語学音痴」の男。

 夫がケニアにいって、最初に覚えた英語は、ハウマッチ。「ハウマッチって、ホントに実用的で、便利なことばだよね。買い物にすごく役にたつよ」と、新しく覚えた英語を披露して得意になっていた彼。(あのころは、それがかわいく思えたんですけど)

 外国にでるまで、ハウマッチを知らないですごしてきた人がいることに、感心してしまった、ということからおつきあいがはじまりました。間違いの元でしたね。

 このような語学音痴の恋人でなく、ペラペラの人と同居できていたら、今頃私の英語力は、、、、と泣いています。
 これまでに、英語ができなくて、ソンをした人生の分、金額になおせばハウマッチ。


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2003年12月05日


足跡メールに答えて5「サルでもできる日本語の教え方」
(12/05)
春庭のBC級日本語教育研究4「複数形」

2003/12/04 22:53 miyu312fm こんばんは、私も英語苦手発音だけは得意。
2003/12/04 22:43 tttakaaki 自然に身についた母語だけで生きています。
2003/12/04 22:15 piano212880 a にそんな意味があったなんて…勉強になります。

などなど、反響ありがとうございます。

 12/04に書いた単語の複数形について、補足トリビアを。

 世界で使用されている約3000の言語は、おおまかにインドヨーロッパ語族とか、ウラルアルタイ語族のような大きなファミリーに分類されている。日本語はウラルアルタイ語族のひとつ。

 11月27日付の英科学誌ネイチャーで発表された比較言語学の最新情報。
 DNA配列の類似度による系統分析の技術を応用した分類方法によれば、8700年前、トルコのあたりにいた農耕民族ヒッタイトの言語がインドヨーロッパ語族の先祖らしい。

 現在トルコでは、ウラルアルタイ系の言語が話されているから、ヒッタイト民族の直系子孫はトルコ近辺には残らなかったことが推測される。
 鉄器を発明したと言われているヒッタイト。鉄器を残して子孫を残さなかったらしい。

 3000もあるさまざまな言語。
 単語の単数複数の表し方は、言語によって、異なる。
 単語の複数の表し方は、

1,原則として単数も複数も同じ形。

2,原則として単数も複数も同じ形でよいが、語によっては複数を別の形であらわすこともある。

3,原則として、単数と複数を別の形であらわす。単数はひとつだけ、複数はふたつ以上の数をあらわす。(語によっては、単複同型)。

4,単数、双数、複数の三種類に分ける。単数はものがひとつだけあるとき、双数はものがふたつ存在しているとき、複数はものが3つ以上あるときに用いる。

 日本語は2番。原則、単数も複数も同じ形。「きのうりんご食べた」というときのりんごは、一個でも二個でも100個でもよい。

 そして、人々、山々、国々、など、畳語(おなじコトバを繰り返す語)による、複数の強調もある。

 大論争を巻き起こした日本語の単数複数論争。
「古池や蛙飛び込む水の音」
 この芭蕉の句を英語に翻訳するとき、a frogなのか、frogsなのか、論争が起きた。一匹だけ、ぽちゃんと、池に飛び込んだのか、何匹から続けて飛び込んだのか。

 日本語では問題にならない蛙の数が、翻訳では、どちらかに決めなければならないために起きた大論争。

 英語は、語尾にSをつけることで、複数を表すが、スワヒリ語は、語頭の文字を変える。

 ムトトは子どもひとり、ワトトは子ども複数。
 ムワリムは先生ひとり、ワリムは先生複数
 ムティは木一本、ミティは、木、複数。

「英語じゃ、ふたつ以上の数があれば、Sをくっつけるのが決まりなんだから、つべこべ言わずに覚えろ!」ではなく、「世界のことばにはいろいろあって、ものの数をあらわす言い方も、こんなにいろんな種類があるんだよ。

 たまたま英語は、ふたつ以上の数があるものを表すとき、Sをつけることになったコトバなんだ」
と、教えてくれる人がいたら、私も、この納得いかない言語と折り合いをつけることができたかもしれない。

 英語教師が言語学の基礎を少しだけ知っていれば、私も、不合理きわまると思えた英語から逃げ出さなかったかも知れない。

 日本語のばあい、家々、道々などの畳語の言い方を教えるのは中級以後。初級では登場しないことが多い。しかし、初級で学習者がひっかかるのが、助数詞。

 一番最初に教えるのは、紙やお皿の数え方。一枚二枚三枚四枚五枚六枚、、、、と、番長更屋敷のお菊さんが一枚一枚うらめしげに皿を数えるのと同じく、留学生にとって、さらさらと数えられる。
 
 ひっかかるのは、ペンや傘を数えるとき。「いっぽん」と教えると、必ず次は「にぽん」と言う。「いいえ、two pensは、にぽんではなく、にほん」と教えると次は「さんほん」というので、「さんぼん」と訂正。すると次は「よんぼん」と言う。

 数を数えるのも、たいへんなのだ。
 ムワリム春庭、羊を数えて寝ることにします。Sheep(単複同型)いっぴき、Sheepにぴき「ちがう!にひき」Sheepさんひき「ちがう!さんびき」Sheepよんびき「ちがう!よんひき」、、、なかなか寝付けません。

 「三匹の山羊のがらがらどん」読み聞かせで子どもを寝かしつけた日も遠く、ひとりでねるときにやようぉおお、膝っ小僧が寒ぅかあろぅ」と、膝を抱えて寝ることにします。じゃ。山羊が一匹山羊が二匹、、、、
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2003年12月08日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/08)
春庭のBC級ニッポン語教育研究4「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語教師はトリビア雑学博士であるべし」

 12/06、07、両日、「地学巡検」の旅に参加しました。
 2日間で、日鉱記念館、石炭化石館の見学、アンモナイト館の見学と化石掘り体験コーナー。常磐いわき周辺地層、数カ所での化石掘り。

 え?日本語教師がなんで、化石掘りに?話せば長くなり、長い話はお得意なのですが、そこは割愛。「話しことばの通い路」フリースペースちえのわ七味日記のこのページなどにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0311b7mi.htm グチグチと理由は書いてあります。

 で、今回の化石掘り旅行は、娘が成人し、「子育て卒業、子離れ実習」の第3弾です。これまでは親子3人で参加してきた「地学ハイキング」の「2003年一泊地学巡検」にひとりで参加することにしました。

 本来、春庭は「全身完全文化系」人間です。
 でも、私、高校時代は科学部に所属し、クラブ活動として共同研究した成果が「読売学生科学賞」全国大会に入賞したりしたんですよ。。

 学生科学賞といっても、クラブ活動を行った部員全員の努力の結果であり、私はちゃっかり東京のホテルで行われた授賞式に参加したのがメインの活動というお調子者。授賞式のメインゲストは朝永振一郎博士でした。

 高校時代の思い出。
 生物はなんとか理解できたけれど、化学は「水素と酸素がくっつくと水になるって、なんて不思議なことなんだろう」と、ひたすら感心したり、「硫酸銅のブルーって、なんともいえない青色だなあ」と、科学室の棚にある硫酸銅の瓶を飽きずにながめたり、という「不思議な世界へのあこがれ」だった。

 物理となると、まったくお手上げ。りんごが落ちたのを見て、どうして「すべての物は引きつけ合う」と思いつけるのか、まったくもって理解不能。

 地学も、天文分野は、ギリシャ神話の星座の話と関連させながら、星について学ぶのは好きだったが、気象や地形の話には興味が持てなかった。

 地学で星座のほかに興味が持てたことが「太古の地球」。恐竜、化石、リンボクロボク。ムカシトンボ、三葉虫、アンモナイト。
 今は絶滅してしまったたくさんの生物が、人間が誕生するよりはるか昔にいたことが、とても不思議だった。

 「遠くに行きたい」が第一テーマの私にとって、時間を遡ってはるか遠く、昔々に遡ることのできる化石の世界は、大好きな分野のひとつだった。 

私がどんなことに興味をかき立てられたかについては、11/10春庭今日の一冊、山口昌男『道化的世界』の項に書いた。同じ地面を掘るのでも、考古学の専門家になりたいと思ったことはあったが、化石の専門家になりたいとは思ったことがなかった。化石は、遠くから眺める夢の世界だったのだ。

 それが、7年前に「化石採集教室」に参加して以来、毎年、化石を掘るハイキングに参加してきた。

 ここから昨日の話。
 今回の採集地は、トキオがDASH村の「化石発掘プロジェクト」を実施した地域。トキオがこのテレビ番組の中で掘り当てた化石は「アンモナイト館」に寄贈展示されていることもわかりました。

 春庭、今回は二枚貝と巻き貝の化石を掘り出しました。ほんとはアンモナイトが欲しかったんですが、私がアンモナイトだと確信していっしょうけんめいハンマーとタガネで掘り出したのは、イノセラムスという貝の化石。
 私の隣で掘っていた人はみつけたのに、残念。でも、貝の化石もステキですよ。

 さて、冒頭に戻って、なんで、日本語教師が授業準備にあてるべき週末に化石掘りに出かける?

 私の持論は、「日本語教師は、教室では芸人であれ、トリビア雑学収集家であれ」。

 教室をなごませたり、授業に集中させるためなら、「日本語の歌」指導もやるし、踊りも見せる、土俵入りのジェスチャーも披露する。照れたり「歌は下手なのに」と躊躇したりはしない。

 歌や踊りが美味くて、才能があったのなら、私はミュージカル女優としての仕事をやめずに続けていた。人様から金をいただいて見せるほどの芸ではないとわかったから、小学校の体育館を回ってミュージカルを見せる仕事をやめたのだ。

 そして私は、他の日本語教師のように「日本語学」で博士号を持っているわけでもないし、「第二言語習得理論」を専攻した教育プロパーでもない。

 私が得意なのは、「楽しい教室」にすること。
 そして、学生の質問には、出来る限り答えること。わからないことは、あとで調べて答えるが、できるなら簡単にでもいいから、その場で答えたい。

 「日本事情」という科目では、日本の文化、歴史を教えている。「留学生のための日本史」というテキストを使っているが、テキストに書かれたことのほか、本当にさまざまな日本に関する質問が出る。

 それらの質問につぎつぎに答えていくと、「先生は歩く百科事典のようです」と、持ち上げてくれる学生もいる。

 「I'm not a walking encyclopedia. I'm an old secondhand dadderring Japanese book. 歩く百科事典ではなく、よぼよぼ歩きの古本です」と答える。一応「謙遜」の美徳は示しておかないと。

 よぼよぼ古本ではあるが、学生の質問に出来る限り答えるという姿勢、どんな質問をしても、先生はいやがらずに答えようとしてくれる、という教室の雰囲気は損なわずにいようと、思っている。

 日本文化、歴史以外の質問。当然、日本語の文法に関することが最も多い。これに答えるのは、日本語教師として当たり前のこと。

 「会社で働く」「会社に勤める」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができないのは、どうしてか、という基本中の基本の助詞問題から、国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった、という待遇表現に関することまで、日本語についての質問は、とぎれることなく出てくる。

 当然知っていると、思って解説をしなかったことについて、留学生がまったく知らなくて、質問を受けることもある。

 日本の高校卒業程度の学生なら当然知っていると思うことを、留学生の既習項目によって、まったく学んでおらず、その部分の知識が欠けている、ということも多々あるのだ。
 理科教育、芸術教育などは、国によって、カリキュラムが大きく異なる、という教育事情による。

 「私の国では、学校の授業で音楽や体育を習うことはない。音楽は町のピアノ教師にならったり、スポーツは、クラブチームで練習したりする」という国もあるし、「受験科目になかったから、地学はまったく勉強したことがない」という学生も。

 私が担当している授業科目の中に、「日本語文章表現」というのがある。

初級日本語を学んでいる学生への、「初歩の日本語作文」の指導もある。初級の学生には、ひとつの文章の中で「だ、である体」の文体と、「です、ます体」の文体を混ぜてはいけないと口をすっぱくして教えますが、本日の春庭雑文は、雑文らしく、文体もまぜまぜです。

 大学院で、日本語によって博士論文修士論文を書く予定の学生に対して「論理的な日本語表現」などの指導もある.

 中級用の作文テキストのひとつの章に「変化の過程を表現するための、論理的な説明文」を練習する課がある。

 例文として出されているのは「アンモナイトがどのようにして化石になるか」という、変化の過程について。

 「アンモナイト」を、当然知っていると思って、化石になる過程を読解していたら、途中で「先生、さっきから話にでてくるアンモナイトっていったいなんのことですか」と質問を受けたことがあった。

 テキストに挿絵があるが、イカなのか、オーム貝なのか、知らない人には区別がつかない。

 そのとき、あわてずさわがず、さらりとアンモナイトを説明するには。

 まったくアンモナイトについて興味をもったことがない教師が、流暢な英語で説明するよりも、たどたどよぼよぼした私のブロークンイングリッシュで解説したほうが、わかってもらえる、という場合が多い。

 私はアンモナイトに興味があり、アンモナイトが好きだから、説明に「愛」があるんでR。

 おまけに、アンモナイトの章を受け持つときは、「古代の海」の古生物が描かれた図版や、私の宝物のひとつアンモナイト化石の文鎮(モロッコ出土の化石)を持参する。一目瞭然。

 これなら、どんなに英語がへたでも、通じるわけだ。必要なのは愛じゃなくて、文鎮だったのね。

 というわけで、今回はアンモナイト館の体験発掘現場で、ぜひともアンモナイトを掘り当てたかったのだが。

 つまるところ、日本語教師は、何事にも興味を持ち、トリビア収集が大好きという人に向いている仕事だと思う。どんな些末な雑学でも、それがほんとうに役にたつ。
 学生から出る質問は、多種多様おもいがけない質問も多い。

 私は、テレビからも、留学生からも日本人学生からも、毎日たくさんのトリビア雑学を学べる。覚えたトリビアは、すぐにでも次の教室で話したい。

 かくて、春庭日本語教室は、今日も「へぇへぇへぇ」が連打されるのである。

 これまで、地学などに興味がわかなかった人にも、化石掘りはお勧め。

 学術的な見地から「人生において意義深いのは、掘ることより、掘られることだ」という信念をお持ちのお方もいらっしゃいましょうが、ここはひとつ、掘るほうも体験してみましょう。

 新しい経験は、必ずあなたに新しい喜びをもたらすことでしょう。
 あなたが、アンモナイトや、恐竜の骨などを掘り当てることをお祈りして、、、、。掘られるのも楽しいでしょうが、機会があったら、ぜひ掘ってみて!
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2003年12月09日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/09)
春庭のBC級ニッポン語教育研究6「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語古文もなんなくわかる伝達の極意」

 語学(第二言語)の学習は、
1,単語を覚えること。単語の発音ができ、語句の意味がわかること

2,単語と単語をどうつないで、どう並べたら、意味のある文になるか、覚えること

3,文の含意や、ことば以外の情報(顔つきや態度、服装、文化的背景、などコトバ以外のすべて)を加味しながら、文の情報を正しく受けとる訓練

 実際の会話では、文の表面上のことば以上に、「3」の情報は大切。
 しかめっ面をしながら、「係長、ご栄転おめでとうございます」と言えば、この栄転を快く思っていないことは、すぐにわかる。伝達情報は、ことばだけでは成立しない。

 沈痛な顔を作りながら、「奥さんのご冥福をお祈りします」と言っても「やったあ、これで、与党を総攻撃できる。ツッコメェー」と、内心小躍りしているようすがアリアリの人もいれば、「盗聴を社長から指示したことはございません。世間をおさわがせしたこと、まことに申し訳なく」といいながら、少しも悪いと思っていないようすが、ミエミエというのも、よくある話。

 コミュニケーション(情報伝達、交流)は、人間存在のすべてが丸出しになる行為なのです。
 1,2,3,すべてが、「ことば」の習得にとって重要、とは言っても、「3」は、語学教室で教えることがらではなく、実際の運用の中で、自分自身の経験から学び取っていくもの。
 日本語学習は、「第二言語習得理論」に基づいて、効果的な日本語習得方法の研究を工夫し、主として1と2を教えます。

 春庭がどのように日本語を教えているか、興味がある人は「話し言葉の通い路」サイトをごらんください。

 ウェブログハウス春庭『ステップバイステップ日本語教授法』には、日本語を教えるための理論が書いてあります。フリースペースちえのわ『七味日記』の中の「ニッポニア教師日誌」に、毎日の日本語授業をどのように行っているかの、簡単な紹介があります。

 外国語習得に効果的な学習方法については、笈の小文11/07「シニア海外協力隊」の項で伝授してあるので、11/07を読み返してください。
 外国語を学ぶ二番目にいい方法は、ポルノをジャンジャン読みふけることでしたね。

 春庭、サービス精神旺盛だから、もう一度繰り返して、復習サービスしましょう。
 英語については、11/07を読めばいいから、古典日本語のサービス。

 古文を始めて読まされたときは、とても日本語とは思えなかった。英語以上に、ちんぷんかんぷんでした。
 しかし、古典文学ったって、こわかない。読むべきところを読めば、そのまま意味が通じるんです。
 (万葉仮名の原文を現代かなづかい漢字仮名まじり文に変換)

 「汝が身はいかにか成れる」と、問いたまえば、「吾が身は、成り成りて、なり合わざるところ、ひとところあり」と、こたえ給いき。ここに、いざなぎの命、のりたまわく、「我が身は、成り成りて成り余れるところ、ひとところあり。かれ、この吾が身の成り余れるところをもちて、汝が身の成り合わざるところに刺しふたぎて、くにを生みなさんとおもう。生むこといかに」と、のり給えば、いざなみの命「しか、善けむ」と、こたえ給いき。

 どうですか。日本の最古の古典。初めて読んでも、ちゃんと古文の意味が通じたでしょ。

 「なりなりて、なりあまれる所」をもちて、「なりなりて成り合わざるところ」を、「刺しふたぐ」んですよ。リアルですね。
 すばらしき哉!最古の古典のリアリズム!

 ぽかぽか春庭の最初の「卒論」は「古事記」です。
 この卒論を書いて以来、清純な乙女だった春庭が、現在のような耳年増に、、、、ああ、私

いろは歌のイロハ

2009-01-01 07:35:00 | 日本語学
2006/01/27 金
色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time>いろは歌(1)あさきゆめみし

 イロハニホヘト~は、順番を表わすときにも使われ、江戸町火消しの組番号い組ろ組などから、歌舞伎座の座席番号、下足札の番号まで使われてきました。

 「いろはにほへと~」と、この順で手習いをし、生涯の一番最初に「いろは」を覚えるので、ほかの何の順より、順序として頭の中に刻み込まれていたのです。

 順番を示すのに、数字を直接つかうのが好まれなかったのは、10以上のものがある場合、若い番号を取りたがる人が多いし、四番だと「死番」を連想させ、九番だと「苦番」を連想させるので、いやだという人もいたからです。
 現代でも、病院の4階は事務棟などにあてて病室にしないところが多いですし、入院病室として、4号室や9号室をつくらない病院が多いようです。言霊、ことだま。

 漢数字の「四」「九」は、死と苦に繋がるけれど、ひらがなの「し」「く」ならOKなのは、何故か。
 ひらがなは漢字がもとになって崩し字から作られました。「し」は漢字で書けば「之」で、「く」は「久」ですから、死や苦とは関係ないとみなす、言霊ルールです。(って、ようは、気分の持ちようだと思うのですが)

 江戸町火消しでは、「へ」は屁を、「ら」は羅を、ひは「火」を連想させるからと、へ組→百組、ら組→千組 ひ組→万組、のちに付け加えられた「ん」→本組となりました。
(羅は、男性の大事なところ「魔羅」を火事の危険にさらさないために忌避されたらしい)

 今は、ABC順やアイウエオ順のほうがよく使われています。いろは順で言っても、順序がわからない人が多くなったからです。
 「か」と「ぬ」どっちが先だか、すぐピンときますか?私は、頭から全部唱えていかないとわからなくなる。
 「いろは」では、「ぬ」が先です。「いろはにほへと、ちりぬるをわか」

 いろは歌、復習しておきましょう。「いろは」、から「せす(ん)」まで。

 「日本語教育研究」を受講する日本人学生のうち、「いろは歌」を、そらで全部言えると答えた学生、40名のクラスの中で数人でした。
 「いろは」も絶滅危惧種、瀕死語、やがては死語の仲間入りでしょうか?

 「いろは歌」は、「百人一首」「源氏物語」などと並んで、日本の言語文化の中枢を担ってきた、大切な日本語文化です。死語にはしたくありません。

 唯一、「源氏物語」を漫画で表現した、大和和紀『あさききゆめみし』が、いろは歌から引用された語句の中では、今時の大学生になじみがあるものになっていました。が、漫画の光源氏すら知らない学生が増えてきた昨今であります。

色は匂へど 散りぬるを (いろはにほへと ちりぬるを)
我が世誰ぞ 常ならむ  (わかよたれそ つねならむ )
有為の奥山今日越えて  (うゐのおくやま けふこえて)
浅き夢見し酔ひもせず  (あさきゆめみし ゑひもせす)

「色は美しく匂い立っているけれど、散っていってしまう。我々の世の中で、いったい誰が変化しないでいようか。因と縁によって生じる有為の世に、今日、奥深い山を越えて、浅い眠りの中に夢をみたことよ。酔いもしないで」

 「し」に濁点がつき否定形となる「浅き夢見じ(浅い夢をみない)」か「し」を清音ととって「浅き夢見し(浅き夢をみたことよなあ)」と取るか、の論争があり、文法上では「見じ(みない)」と受け取るのが正解なのだが、ここでは清音「し」(過去回想の助動詞「き」の連体形から終止形への転用)と解釈。
<つづく>
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2006年01月28日


ぽかぽか春庭「いろは歌(2)弘法大師作じゃありません」
2006/01/28 土
色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time>いろは歌(2)弘法大師作じゃありません

 「いろは歌」は、11世紀平安後期に成立しました。47のひらがなを一度だけ用いて、諸行無常といわれる仏教思想を表わした歌だそうです。

 大変すぐれた内容なので、古来から真言宗開祖空海(弘法大師)の作として伝わってきました。
 仏教の深い哲理を含む歌なので、作者を大仏教者「空海」に擬する伝説が生まれ、一般に信じられてきたのも納得できます。

h*********さん、コメントありがとうございます。
 「  「いろは歌」残してゆきたいですね。
    弘法大師空海さんが詠んだ歌らしいですよ
    とても、ありがたい言葉なのです。

 h*********さんのコメントの通り、日本語の宝として残していきたい言語文化です。
 私も祖母から「お大師さんの教えだから、お習字するのに、一字一字心をこめて書きなさいよ」と手習いのこころえを教わりました。

 しかし、日本語学国語学の研究では平安初期に弘法大師(774年~835年)が作ったという伝説は否定されています。
 日本語史の上では、、日本語の清音の発音が47になったのは、平安中期以後のこと。

 弘法大師が「いろは歌」を作ったのなら、弘法大師が区別して発声していた48の発音をすべて文字に置き換えて書き残したはずです。
 平安初期には、「eえ」の発音と区別していた「ye」の文字をつけ加えて48の発音をひらがなにしていなくてはなりません。
 
 「あめつちの歌」は平安初期に成立した手習いの歌。「いろは歌」と同じく、ひらがな清音の文字を一度ずつ用いた歌です。
 こちらは、平安初期には「e」と「ye」が区別されていたことのなごりをとどめて、「え」の字が二度つかわれています。

 「いろは歌」と同じく、清音の音節を重複することなく網羅して、これさえ覚えれば、日本語の音節を表記できるのです。
 濁音の表記はまだありませんし、「ん」の文字も成立していません。
 「え」が2回でてくるので48字あります。

 「あめ(天)、つち(地)、ほし(星)、そら(空)、やま(山)、かは(河)、みね(峰)、たに(谷)、くも(雲)、きり(霧)、むろ(室)、こけ(苔)、ひと(人)、いぬ(犬)、うへ(上)、すゑ(末)、ゆわ(硫黄)、さる(猿)、おふせよ(生ふせよ)、えのえを(榎の枝を)、なれゐて(馴れ居て)」。

 「えのえを」と、「え」が二度出てきます。ア行のエ(e)とヤ行の(ye)が区別されていた時代を反映しています。
 平安初期以前には、ヤ行は「ya i yu ye yo」の発音が区別できており、もっと前は「ya yi yu ye yo」だったと考えられます。

 いろは歌になると、「え」は一度だけですから、平安後期には、ヤ行「ye」の発音はア行の「え」と同じになってしまったことがわかります。「やいゆえよ」になりました。

 音声学の分類からいうと、ヤ行とワ行は、母音ア行とカサタナハマヤラ行の子音の中間的な存在で、「半母音」と呼ばれています。

 では、「いろは歌」47文字の平仮名、現在はつかわれていない仮名文字「ゐ・ゑ」はどんな発音だったのでしょうか。

 「わゐうゑを」は、wa wi wu we wo という半母音であったものと思われます。「あめつち」や「いろは歌」が成立するころには、wuは「う」と同じになっていて、wuに相当する仮名文字はありませんでした。
 しかし、wi,we,woは、ア行の「i,e,o」とは別の発音、半母音が使われていたので、別の文字でした。「わゐうゑを」
 文字があったのは、発音が別だったからです。

 現代の発音では、「wi,we,wo」は「i,e,o」と同じですから、「ゐ」「ゑ」の文字は必要ありません。ただし、「を」は、発音は「お」と同じですが、助詞を表わす文字として「を」を使用しています。

 このように、日本語の発音の変化を調べると、弘法大師が生きていたころの発音と「、いろは歌」の文字数が一致していません。
 「いろは歌」は弘法大師が亡くなったずっとのち、平安中期以後に作られたことがわかりました。
「いろは歌」、文献上での初出は1079年です。

 日本語の発音の変化、「ぢ」と「じ」、「づ」と「ず」の発音が室町時代から混乱し、江戸時代には同じ発音になってしまった、という話を「四つ仮名」のところで述べました。

 日本語は、語彙、文法、発音など、常に変化しています。
 語彙の変化、「挨拶ことばの変化」「古語」や「死語」などについて話しました。
 また、文法上の変化「ら抜きことば」や「さ入れことば」などについても解説してきました。
 過去ログにありますので、日本語の変化について興味ある方、本宅HPをごらんください。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponiamokuji0502.htm

 今、お話しているのは、ひらがなの文字からわかる日本語の発音の変化についてです。

 いろは歌の成立以後、弘法大師作という伝説のほか、柿本人麻呂が作ったという伝説など、さまざまな伝説が生まれました。

 人麻呂が作ったとしたら、、「あいうえお」のほか、あと3つの母音をのひらがなで書き表わしていたはずです。
 飛鳥奈良時代には、日本語の母音は8つあったので 万葉集や古事記に使われている「万葉仮名(漢字を日本語の音に当てはめている表記法)」では、8つの母音が書き分けられているのです。

 いろは歌にまつわる伝説いろいろあります。「いろは歌の暗号」と呼ばれる「咎なくて死す」という末尾文字の読みかえもそのうちのひとつです。

 発音についての話は今回でおわり。
 次回からは、「日本の言語文化の中のいろは歌」についてお話します。 
<つづく>
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2006年01月29日


ぽかぽか春庭「いろは歌(3)仮名手本、咎なくて」
2006/01/29 日
色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time>いろは歌(3)仮名手本、咎なくて

 「いろは歌」を7文字ずつ並べると、
い ろ は に ほ へ と
ち り ぬ る を わ か
よ た れ そ つ ね な
ら む う ゐ の お く
や ま け ふ こ え て
あ さ き ゆ め み し
ゑ ひ もせ す

と、なる。

 7文字ずつ並べた「いろは歌」行の最後の文字を続けて読むと、「とかなくてしす」となります。これを「咎無くて死す」と、漢字をあてはめると、「とが(罪)がないのに、死ぬ」という意味になる。無罪なのに、罪を負って死んだ、ということです。
 柿本人麻呂が無罪の死を賜ったことを惜しんだ後世の歌人が、歌聖人麻呂を偲んで詠んだ歌だ、という説もあります。

 赤穂浪士の仇討ち物語を歌舞伎にした「仮名手本忠臣蔵」。
 「仮名手本」というのは、この「いろは歌」で手習いをするときの手本にする「手本帖」のこと。

 だれもが「いろは歌」を知っており、7文字ずつ並べたときに読みとれる「咎なくて死す」を皆が知っているから、「彼らは仇討ちをはたした義士であって、罪なくして死ぬのである」という作者のメッセージ、表だって言わなくても、見る人に伝えることができたのです。
 「仮名手本」といえば「忠臣蔵」、江戸時代も今も、歌舞伎の演目中、一番人気の外題になっています。

 いろは歌、江戸時代の寺子屋では必ず習いました。
 明治以後の小学校では、「あいうえお」の五十音表が利用されるようになったけれど、それでも、「いろは順」が、学校内で利用されてきました。

 たとえば、音階の名前。
 ドレミファソラシの音階を「唱歌」の授業に導入するにあたって、「ドレミ」では、日本の子どもが覚えられないからと、「イロハニホヘト」が採用されました。
 今でも「ハ長調」とか「ニ短調」などいうときの諧調名に、このイロハ音階が残っています。
イ=ラ ロ=シ ハ=ド ニ=レ ホ=ミ ヘ=ファ ト=ソ、でした。

 「ちょうちょう」をイロハで歌うと、♪トホホ ヘニニ ハニホヘトトト♪
 ドレミに慣れた今からみると、なんだか「とほほ」の歌になっちゃいますね。
 
 私の時代には、とっくに「ドレミ」音階になっていましたが、調の名は、イロハ。
 音楽部で暗記させられた呪文。「へろほいにとは」。もうひとつは、「とにいほろへは」。
 「へろほい~」は、五線譜に♭(フラット)がつく数。♭ひとつは、ヘ調、2つはロ調。「とにいほ~」は、♯(シャープ)ひとつがト調、2つはニ調でした。
 今はCメジャーとか、Gマイナーと言うほうが若い人には通りがいいのかもしれません。
<つづく>
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2006年01月30日


ぽかぽか春庭「いろは歌(4)竹馬やいろはにほへと」
2006/01/30 月
色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time>いろは歌(4)竹馬やいろはにほへと

 「いろは順」は、学級の名にも使われました。
 現在では1年1組とか、3年2組など、数字による学級名が多い。しかし、昔は、1年イ組、ロ組、ハ組など、いろは順で学級名を呼ぶ地域も多かったのです。
 イロハ順の学級名を聞くと、子ども時代を思い出す、というお年寄りもいます。

 久保田万太郎代表作の俳句。「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」
 この句には、本歌があります。最近A新聞でも紹介されたので、ご存知の方も多いかと思いますが。
 日国NET(小学館日本国語大辞典公式サイト)から、引用すると。

 「 この万太郎の句は、太田道灌が武蔵国小机の戦でつくった『手習ひはまづ小机が初めなりいろはにほへとちりぢりにせん』というのが本歌だろう。また明治年間に広瀬中佐がつくった軍歌「今なるぞ節」に『いろはにほへとちりぢりに打破らむは今なるぞ』という一節もある。」

 道灌の和歌も、広瀬中佐の軍歌も「散りぢりにうち砕くぞ」というときの「ちり」を引き出すための序詞(枕詞などと同じく、一つの語を導き出すための修飾語)として「いろはにほへと」が使われている。

 日国ネット「よもやま句歌栞草」田中裕氏による万太郎の句、説明。
「 竹馬は、二本の竹や木の適当なところに足掛かりをつくり、これに乗って遊ぶもので、広く世界に見られる子供の遊び。竹馬に興じていた子供たちが日が傾くとともに一人去り二人去りして、ちりぢりになってしまったというのが万太郎の句意。」

 田中氏は、万太郎の「いろはにほへと」も「ちり」を引き出すための「序詞」のように考えているようです。
 「 いろは歌は直接、句意とは関係はないのだが、まことにうまくその雰囲気を伝える。」と、一句を評しています。
 
 しかし、万太郎の句の「いろはにほへと」は、単に「序詞」や「枕詞」ではないと、私は考えます。
 「直接句意に関係ない」どころか、この句の肝心な部分が「いろはにほへと」と思うのです。
 「いろは歌は直接、句意とは関係ない」と評している田中氏とは逆の考えで、「いろはにほへと」こそ、この句の句意を集約していると思います。

 万太郎が「竹馬に乗って遊んでいた子どもたちがちりぢりになる」と描き出したのは、は、夕暮れの子どもたちの光景を表現していると同時に、学校仲間として、いっしょに「手習い」をした子どもたちがちりぢりになることも表現しています。
 なぜ、そう思うかという根拠のひとつ。「竹馬」は冬の季語だからです。独楽回し、たこ揚げなどは、新年の遊びとして新春の季語ですが、竹馬は冬の季語。

 冬の遊びとして竹馬で遊んだ仲間達も、冬が終わると卒業シーズンを迎える。昔は、12歳でほとんどの子供が学業を終えました。冬がすぎ春が近づくと、卒業と同時に、仲間達は散りぢりになっていくのです。

 この「いろはにほへと」から連想されるのは、「手習いをいっしょにした学校仲間の思い出すべて」「イ組」「ロ組」「ハ組」の仲間や、ハニホヘト音階で習った唱歌や、お習字のいろはの文字、、、、、、、
<つづく>
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2006年01月31日


ぽかぽか春庭「いろは歌(5)日本語はうれしや いろは」
2006/01/31 火
色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time>いろは歌(5)日本語はうれしや いろは

 i*****さんからのコメント。ありがとうございます。
 「 たかが、いろはにほへと・・・・・・
  でも、何だか暖かい響きです。
  亡き母親を思い出しました。不思議ですねぇ?
   投稿者:i***** (2006 1/30 12:27)

ほんとうに、ことばは不思議。
 なにげない一言で、無限の連想がひろがったり、昔耳にしたことばが突然浮かび上がってきて、温かい思いや涙のひとときも胸に広がる。
 i*****さんも「いろはにほへと、、、、」で、なぜかお母さんを思い出したのですね。
 「いろは~」の響きによって、子供時代やお母さんと過ごした日々がわき上がる、ことばというのは、ほんとうに不思議で嬉しいもの。

 「いろは48手」といえば、ことばで表せるものや技のすべてを表わしたように、「い組、ろ組、は組~」というクラス名で学んだ学校生活のすべて、子供時代にすごしたことのすべてを思い出させることばが「いろはにほへと」なのです。

 「イ組の竹ちゃんも、ロ組の松やんも、ハ組の梅子も、みんなちりぢりになって、それぞれの人生をすごしているなあ」という述懐も含みます。イ組ロ組、それぞれの教室の窓、黒板、机と椅子、学校の中がすべて連想されるのです。

 学校に小机をならべて、いっしょに「いろはにほへと」と習字をした仲間たちが、いつしか竹馬にのって遊ぶ子ども時代をすぎて、ちりぢりの人生の中へと散っていった。そんな郷愁をも含んでいるのであって、単に目の前の子どもたちが、竹馬遊びをやめてそれぞれの家に帰宅する光景を句にした以上の感慨があると思えます。

 道灌本歌の「小机」が散りぢりにされる、ということも連想されるので、「大人への成長をとげるために、並べあってきた小机が散りぢりにされる」ということばの重層的な連想があるのです。

 現在は、学級をイロハ順に呼ぶことも、最初に平仮名を教えるときに、「いろはにほへと」から始めることもなくなりました。
 「いろは歌が、さまざまな連想を引き出し、引用されている」ということも、説明を加えなければ、現代の日本人学生にも、わからなくなっています。

 俳人・阿部青鞋(あべせいあい 1914(大正3)~1989(平成元)年)の句を引用して、「いろは歌」のシメとしましょう。
 (この句、俳句データベースなどを見てもでていません。青鞋の全句集をあたるヒマがなかったので、原本で確認できないままの孫引きです。出典は先にあげた田中裕氏解説の「よもやま句歌栞草」)

「日本語はうれしや いろは にほへとち(阿部青鞋)」

 俳句や短歌は、掛詞や縁語などの修辞のためにひらがなで書かれていることが多いが、私は「日本語は 嬉しや 色葉 匂へ どち 」と、解釈したい。
 「色葉」は、「いろはの仮名文字によって表わすことのできる言葉すべて」。「どち」は、親しい仲間、同類の人、の意。

 「日本語で表現できること、日本語の言語表現を味わえること、うれしいなあ。いろは47文字で書き表される日本語よ、匂い立つようにあらわれよ。日本語を喜びとしていきましょうよ、同輩たち!」
 日本語をつかって表現することを喜びとする人々への、青鞋からの、共感の挨拶と受け取りました。

 日本語、おもしろいです。うれしいです。ことばひとつひとつが、匂うがごとく今さかりなり。
<おわり>