goo blog サービス終了のお知らせ 

にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

2009/01/10

2009-01-10 07:53:00 | 日記
寒紅と剣と切腹-三島由紀夫と福島次郎

1 かんべに
2 福島次郎
3 仮面文学
4 剣と寒紅
5 切腹ごっこ
6 ボディビルダー三島
7 シークレットブーツの三島


(1)かんべに

 歳時記に載っている忌日。たとえば「時雨忌」といえば松尾芭蕉の忌日。芭蕉が亡くなった旧暦10月12日は時雨ふる季節であり、代表的な句のひとつに「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」(『猿蓑』発句)などがあることから、名付けられた。(新暦にすると11月28日にあたるけれど、現在実施されている各地での芭蕉関連イベントは、新暦の10月12日が時雨忌とされています)
 「桜桃忌」は太宰治、「河童忌」は芥川龍之介、「憂国忌」は三島由紀夫、など、代表的な作品名にちなむ忌日名もあるし、「実朝忌」「西鶴忌」「三鬼忌」など、名前そのものの忌日名もあります。

 2月22日は、ニャンニャンニャンと解釈して「猫の日」なのだそうです。この場合の猫と対比されるのはワンワンワンで11月1日の「犬の日」
 私にとっては、2月22日は寒紅忌。「三島さんはネコだ、と言った人」の忌日です。この場合のネコと対比されるのはタチ。
 果たして寒紅忌に、家族親族教え子などの関係者のほか、いったい何人が彼を思いだしたでしょうか。『剣と寒紅(つるぎとかんべに)』の作者福島次郎の命日、2月22日。
 
 「寒紅忌」といっても、歳時記には載っていません。私が勝手に名付けた忌日だから。2月22日という覚えやすい忌日に比べて、福島次郎というその名は、ペンネームとしてはごく平凡な響きであり、一度聞いてもすぐ忘れてしまいそうなインパクトのない名前です。彼は、あえてこの何の特徴もなさそうな名前を筆名として使い続けました。「福島次郎」は本名なのです。

 福島次郎という名を小説家のペンネームとして記憶している人は、よほどの三島由紀夫ファンかゲイ文学ファンだけだろうと思います。福島次郎は、作家としての生涯に、2度芥川賞候補になりました。1996年に『バスタオル』が第115回芥川賞の、また1999年に『蝶のかたみ』が第120回芥川賞の候補作になったものの、2度とも落選。ついに芥川賞を手にせず、2006年2月22日に亡くなりました。
 芥川賞の候補になっているのだから、「無名の作家」というわけではありません。郷里の熊本ではそれなりに名の知れた文化人として遇されています。

 私は彼の代表作『剣と寒紅』にちなんで、2月22日を勝手に「寒紅忌」と呼んでいます。「文学ファンでなくてもその名をしっているような、有名作家」にはなれなかったのに、「一生を貫いて、小説を書くことで人生を保っていた物書き」として記憶していてやりたい、という気分。三島由起夫のきらきらしい派手やかな一生とは異なる作家ではあっても、福島次郎もまた文を書くことに一生を費やした。
 心理学者が「彼を記憶していたい」という私の気持ちを分析すば、一流にはなれない自分自身へのなぐさめと癒しの転化、ということになるのでしょうか。

 今となっては誰もその命日を思い出しもしないであろう作家の、そう、二流の作家として一生を終えた老いたゲイ作家の魂に向かって、一句詠む。
 「寒紅の小指凍らせ五衰かな 春庭」
 

(2)福島次郎

 死亡記事を以下に引用します。記事は「元芥川賞候補だった小説家」としてよりも、「ひとつの作品が世間をさわがせて有名になったことのある小説家」として紹介されています。『剣と寒紅』という小説のスキャンダラスな面が福島次郎の死の報のメインでした。
============
福島次郎氏(ふくしま・じろう=作家)22日、すい臓がんで死去。76歳。告別式は24日午後2時、熊本市本荘6の2の9合掌殿島田斎場。自宅は同市萩原町7の47。喪主は妹、井村市子さん。
 1996年に「バスタオル」、99年に「蝶のかたみ」で芥川賞候補。98年に「文学界」に発表した小説「三島由紀夫――剣と寒紅」で、三島との交際を描き、話題を集めた。作中に引用した三島からの手紙が著作権侵害にあたるとして、三島の遺族が福島氏と文芸春秋などを相手に出版・販売差し止めなどを求めて提訴。2000年11月、最高裁で福島氏側の敗訴が確定した。(2006年2月22日13時50分 読売新聞)
============ 

 私の本名で検索すると、私の書いた論文名や授業科目名が出て来ますが、私はネット・ブログのなかでは「春庭」というハンドルネームを使っています。江戸時代の盲目の国学者本居春庭の名を借りているのです。
 なぜブログでは本名を使わないかというと、娘と息子に「何を書くのも自由だろうけれど、絶対に家族を巻き込むな。家族が特定されるような情報をネットに載せてはならぬ」と厳命されているのです。「娘も息子も不登校生だった」だの「夫は赤字会社経営の収入無し男」だの書いているので、本名がわかったら家族から総スカンになります。

 ネットで実名を出して書き続けるにはある覚悟がいると思います。ブログ炎上、名誉毀損の被害のみならず、家族親族にも迷惑が及ぶそうですから。逆に言うと、ものを書いていこうとする覚悟をもった人にとって、本名が出せる人というのは「ネットにさらされても実害を蒙ることはないという自信」があるとも見えます。私など失敗続きの人生で、弱みがたくさんありますから、とても本名は出せません。

 福島次郎が本名で書き続けたのは、ある覚悟があったからでしょう。戦後の日本において、長くゲイは偏見を受ける存在でした。今はその偏見が薄まったとは言っても、無くなったわけではありません。福島次郎が高校教師として働きながら「ゲイ小説」を発表するという人生を選ぶには、さまざまな制約があったと思います。
 福島次郎は1930年、熊本の生まれ。1951~52年、三島由紀夫と愛人関係になり、名目は「書生」として三島家に住み込みました。いったんは別離したのち、1961年には再び愛人関係が復活するなど、三島が結婚するまで深い縁でつながっていました。

 三島由紀夫はゲイであることを最後まで公にはしませんでした。『仮面の告白』などに描いた男色は、あくまでも創作上のことであり、「実生活はヘテロである」というポーズを貫くために画家令嬢とお見合いをし、結婚しました。三島結婚の後は、福島は「身をひいた」形になり、熊本での高校教師生活をおくりました。福島の書き残したところによれば、三島夫人瑶子は福島と三島の関係に気づいていたのですが、三島は「ヘテロを装うため」に夫人の前では自分がゲイであることは微塵も出さないよう努力した、といいます。

 しかし、福島次郎以外の恋人も芸能界演劇界などに数多くいた三島は、結婚後も男性と性的な関係を持ち続け、しかもそれを夫人の前では隠し通そうとしました。三島は夫人のために「ビクトリア王朝風の白亜の邸宅」を建て、自身は都内のマンションを仕事場にしたり、帝国ホテルを定宿にしたりして「作家の生活」と「家庭での夫、父としての生活」を分けていました。


(3)仮面文学

 夫人は娘息子を出産した後、三島の男性関係に神経をとがらせる日々が続き、三島の嗜好が表現されているような作品を嫌悪しました。たとえば、映画『憂国』の切腹シーンに激怒し、映画フィルムの回収と焼却を要求しました。(1本だけ密かに残されたネガフィルムが三島邸から発見され、2006年にDVDが制作され発売されている)

 また、三島夫人は、ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝』が「同性愛者の三島はもともと結婚を考えていなかったが、癌と診断された母倭文重を安心させるために見合いをし結婚した」という記述の他、三島をゲイとする評伝に対し、日本語版の出版を差し止め書店から回収させるという措置を断行しました。ネイスンの『三島由紀夫―ある評伝』は、瑶子夫人の死後、2000年に野口武彦の翻訳で再発行されています。

 福島次郎は高校教師として独身を貫き、ゲイ文学を追究しました。教え子の男子高校生との交情を描いた作品で芥川賞候補になるなど、福島の小説はいわゆる「薔薇族文学」ですから、一般の人が読むことは少ないし、読んで彼の文学世界に入り込めるかどうかはわかりません。芥川賞候補になった『バスタオル』は、教え子との行為の後始末をバスタオルでぬぐうという描写がある作品。受賞はしませんでした。

 芥川賞を望んで得られなかった福島次郎と、ノーベル賞を望んであらゆる自己宣伝を駆使したのに、師匠の川端康成の受賞で自分が賞をとるとしたらあと20年以上先になると絶望した三島。どちらか一冊だけ読むことを許されるという状況で、どちらの作品を読みたいかと問われれば、私は三島文学のほうを選ぶでしょう。

 でも人間的に共感できるのは、最後までゲイである自分を押し隠そうとしつつ美青年を心中の道連れにした三島より、老いたゲイとして生き、裁判では自分の本を絶版にされる判決を受けた福島のほうにシンパサイズsympathizeされます。福島次郎は、「個人に当てられて所有していた手紙の著作権」という巨大な壁に向かって、卵をなげつけた、というところでしょうか。

 三島夫人が1995年に亡くなったあと、夫人をはばかって言及されてこなかったさまざまな証言が明らかにされるようになりました。福島は1982年に高校を退職したあと本名で小説を同人誌などに書き続けてきたのですが、1999年に『剣と寒紅』を出版し、若い頃からの三島との交流を明らかにしました。

 『剣と寒紅』の中に、三島由紀夫から福島へあてた手紙が12通引用されていたため、三島の娘紀子(1959~)息子平岡威一郎(1962~)は、「手紙の所有権は福島にあるが、著作権は三島のもの」という理由で裁判を起こし、福島は敗訴。『剣と寒紅』は絶版となりました。しかし、裁判で決着がつく間に出版社は裁判そのものを「宣伝材料」に使い、「三島文学研究者が買うほか、1万部もでたら大ヒット」の作品を10万部増刷し、出版差し止めが確定するまでに売り切りました。したがって、古本マーケットにはかなりこの作品が出回っており、アマゾンで中古品は123円という値段から売られています。


(4)剣と寒紅

 『剣と寒紅』は、あくまでも小説の形で書かれた作品ですから、自己美化もあろうし、創作部分も入っているはずです。しかし、三島文学研究者なら必ず読むべき小説になったことは事実であり、なによりも挿入された三島から福島へあてた手紙が三島本人の筆であることは、裁判で証明されたのですから、三島研究の一次資料として価値が高い。

 『剣と寒紅』が「文学作品」として、三島の作品の何かを越える価値を持ったのかというと、たぶん、三島の天才にたいして、福島は天才のまわりを廻る衛星であったとしか評価できない。福島の作品が日本語言語文化として翻訳し海外にも知らせるべき作品となるかというと、私にはそのようには思えない。

 『仮面の告白』一作を見ても、三島の天才はどのような評価にも耐える言語作品としての確固とした文体を持っており、『金閣寺』や『豊穣の海』は翻訳され、海外でも読み続けられる作品となるだろうと思います。

 『剣と寒紅』の中で、三島が福島と抱擁し少女のように「ボク、しあわせ」と、声をあげたという描写がある。
  「私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスをしゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの耳元にささやいた。「ぼく、、、幸せ、、」歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった。」

 出会った最初のころ、小柄な貧弱な肉体にコンプレックスを持っていた頃の三島は、福島に対して「タチ」として行為を行いたがっていたのに、コンプレックスを解消すべくボディビルと剣道に励んで「写真に写して残しておきたい、ナルシシズムを満足させうる体」に作り替えてからは、ためらいもなく「ネコ」として肉体を差し出した、という福島のことばがある。1970年代から「三島はネコ」と思ってきた私の「ただのカン」が証言されたようで、少しうれしい。70年代にそんなことを発言したりしたら、「憂国の英雄」と三島を祭り上げていた右翼に襲撃されかねなかったから、ただごくわずかの文学好きな友達との話題にしただけだけれど。

 写真集『薔薇刑』などに現れているナルシシストとしての三島は、心理学的にも研究され尽くされている観があります。また、三島を取り巻いていた編集者や関係者の回顧譚の出版も盛んで、三島の実像がさまざまに描写されています。

 最初は祖母と母親が自分を取り合って壮絶な家庭内冷戦を繰り広げ、最後は妻と母親が
自分を取り合ってケンカするのを、おろおろと見ているしか出来なかった息子であり夫であった男。さまざまに自己演出を行い、「ノーベル文学賞」を欲しがった作家。豪放な演出の陰で実は小心で嫉妬深く嫌みな心性を持っていた男。男色のカミングアウトは最後の最後までしなかったゲイ。その死を「憂国忌」として今も顕彰されている「切腹してサムライになりたかった男」
 三島文学はこれからも一定の層のファンが読みつづけ、内外で「三島文学研究」で博士号をとる人も続くでしょう。

 その陰で、ゲイをカミングアウトしゲイ文学を書き続けたけれど、三島文学の衛星のひとつとしか評価されなかった福島次郎。
 冬の季語「寒紅(かんべに)」は、寒い時期に仕込んで作るベニ。同じ漢字を用い同じ冬の季語だけれど、「八重寒紅やえかんこう」は、梅の1種類を指します。八重寒紅が早春を彩って咲いています。

 われもまた二流の人なり八重寒紅  春庭

<おわり>
2009-02-26 04:03:37 ページのトップへ コメント削除

Re:ハラキリ・三島由紀夫
haruniwa
三島由紀夫について、留学生から質問を受けたときに語ったこと、語りきれなかったことなど。

(1)切腹ごっこ

 1970年代から80年代まで、「憂国の志士三島由紀夫が日本の未来を憂える国民へのアジテーション」という解釈が席巻していた三島切腹事件について、三島夫人平岡瑶子1995年に死去のあとタブーが無くなり、新たな証言が続いています。

 11月25日、亡き我が母の誕生日である日が、歳時記には「憂国忌」などと載るのでは、なんだかイヤだと思ってきたけれど、「右翼が三島の写真をかかげて、天皇バンザイとか言ったりする日」から「ゲイが『薔薇刑』の写真をかかげて、ラブイズビューティフルとか言ったりする日」になって、墓場の母もほっとしているのじゃないかと思っています。
 「市ヶ谷心中」の真実の姿が見えてきたこと、私は三島由起夫と森田必勝のためによかったと思っています。

 三島由起夫にまつわる回顧譚の中で、衝撃的な証言のひとつが、劇作家演出家の堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』文藝春秋(2005)です。
 この中で、堂本は1949年の夏、16歳のとき銀座のゲイバーで24歳の三島に出会って以来、1970年の三島自衛隊事件のその数日前までのつきあいを告白しています。

 堂本の語る「切腹ごっこ」。
 若い頃の堂本は三島の求めに応じて「やくざと学習院の坊っちゃん」とか「満州皇帝の王子と甘粕大尉」などの役割設定をし、三島が用意してきた擬刀で切腹シーンを繰り返した。男同士の行為のなかでも、三島は「血と刀」に高ぶる性癖を持っていたのだという。

 『仮面の告白』の中で、「最初に性的興奮を覚えたのは、体に矢を突き刺されているレーニの描いた聖セバスチャンの殉教図」だったと記されている。平岡公威少年が初めて自慰を覚えたという自伝的告白のひとつ。

 三島は師の川端康成にあてて
 「十一月末よりとりかゝる河出の書下ろしで、本当に腰を据えた仕事をしたいと思つてをります。『仮面の告白』といふ仮題で、はじめての自伝小説を書きたく、ボオドレエルの『死刑囚にして死刑執行人』といふ二重の決心で、自己解剖をいたしまして、自分が信じたと信じ、又読者の目にも私が信じてゐるとみえた美神を絞殺して、なほその上に美神がよみがへるかどうかを試めしたいと存じます。」
という書簡を送っています。

 本人が「自伝として書いた」と書いていながら、後の時代になると「あれは文学的ポーズである」として、三島自身が「自伝と見られることを嫌う」ようになるのだが。三島がセバスチャンに扮した篠山紀信撮影の写真を見ると、彼のナルシシストの一面躍如という印象を受けるし、「身体を傷つけられることの栄光と快楽」への嗜好を、三島が一生の間持ち続けたことを感じます。
http://homepage2.nifty.com/weird~/saint.htm

(2)ボディビルダー三島

 三島は映画『憂国』以外でも「切腹シーン」を演じています。矢頭保という写真家が三島をモデルにして褌姿で切腹する様子を撮影しています。
 矢頭保は、宝塚歌劇団男子研究生としては高田延昇という芸名で、宝塚男子部が廃止された後はダンサーとして活動後、1954年からは日活に映画俳優として所属し、1961年からは芸名を矢頭健男と変えた。三島由紀夫の『仮面の告白』の翻訳者であり、元米軍情報関係将校のメレディス・ウエザビーと同棲し、三島とも面識をもつようになりました。矢頭には「戦後最初のゲイ写真家」という称号(?)がつけられ、「男のための裸の男の写真」を撮り続けた写真家です。写真集のタイトルも『裸祭り』『体道~日本のボディビルダーたち』(1966年)には、三島自身もボディビルダーとして被写体となっており、序文も書いている。
 矢頭による三島の切腹写真は、下記ブログの中ほど「自演する三島」と題して掲載されています。
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html

 三島作品の劇化や映画化にあたって、堂本正樹は三島の推薦で演出を担当し成功しました。京都の能衣装老舗の娘朋子と結婚したあとも三島とは「兄貴」「まき」と呼び合う「兄弟のちぎり」を続け、ついに三島主演の『憂国』を演出することになりました。実際の映画監督としては堂本があたったけれど、三島の「原作・脚本・主演・監督」ということにしたほうが「世間受けがいい」という三島の言い分であり、制作費を出すのも三島だったから、堂本は「演出」というクレジットのみになったのが少々不満でした。

 三島渾身の映画『憂国』だったけれど、総ラッシュを見た三島夫人平岡瑶子は激怒して泣き叫び、フィルムは没収焼却処分ということになってしまった。三島の切腹シーンそして妻があとを追うという映画は、「他の女との浮気シーンを見せつけられた妻」以上の立腹を瑶子夫人に与えたのでした。

 この映画の衣装を担当した堂本夫人朋子は「三島さんと女優さん(鶴岡淑子)のからみのシーンもきれいに写されているのに、なんでそない怒らはるのか」と思ったのだという。この「夫婦最後のちぎり」シーンでは三島と鶴岡は全裸になるので、堂本朋子は三島用の前貼りパッドを手作りしたのだそう。(『本の話』文芸春秋インタビュー石田陽子)

 しかし、映画完成から4年後、『憂国』の心中シーンは現実のものとなりました。しかも心中の相手は女性ではなく、24歳の美青年。楯の会のメンバー森田必勝でした。
 ある編集者の回顧によれば、市ヶ谷で割腹した森田必勝は、三島のかっての恋人だった青年にそっくりの風貌であったそうです。

 幻の映画として評判だけが高かった『憂国』が、DVDとして出回った結果。三島監督でなく、実のところ堂本監督作品であったにせよ、映画そのものは「自主制作映画」としての作品レベルであり、文章表現としての『憂国』を越える作品にはなってはいないという評価が定着し、結局のところ三島由紀夫が切腹シーンを演じたかっただけの自主制作映画、ということに落ち着いたことについて、三島はあの世でどう感じているのだろうか。

 「ひ弱な身体にコンプレックスを持っていた頃の三島さんは、タチとして行為を行いたがったけれど、ボディビルや剣道で身体を鍛えて自分の身体に自信をもってからの三島さんはネコとしてふるまいたがった」という福島次郎の告白はおそらく創作ではなく、三島の心理的な部分を的確に突いていると思う。

(3)シークレットブーツの三島

 三島についてのさまざま証言のなかで、私が面白いと感じたひとつのエピソード。三島は幼い頃から虚弱体質であることをコンプレックスにしていて、ある時期からボディビルと剣道に励んで筋肉隆々の肉体に改造したことが自慢だった。自らの肉体を誇示して、写真集を発売したり、映画や劇に出演したり、ナルシスト全開になった。

 でも、どうしても改造できないコンプレックス、それは身長。三島は死後解剖の結果では身長163cmと発表されている。あの世代の男性の身長として平均よりは低くないとは思うのだけれど、兵役につけなかったことと身長は三島のコンプレックスの源でした。
 三島が身長劣等感を持っていたことの証言があります。
 三島由起夫が美青年を集めて結成した「楯の会」は、自衛隊などで実際に訓練を行ったことが知られています。

 きらびやかな楯の会の制服は、1968(昭和43)年の春、楯の会の前身である「祖国防衛隊」の最初の自衛隊体験入隊の後、堤清二氏の協力を得てオーダーメイドで作られた。 楯の会メンバー伊藤良雄の証言(2001/02・28大西景子インタビュー)によると
 「全員、西部デパートに行って、寸法計ってもらって、仕立ててもらった」
ところが、三島のポケットマネーでは靴の支給までできず、靴は、隊員の自前となる。「自衛隊の戦闘服の下にはく靴があるでしょう。半長靴です。本当は、楯の会の制服には、
あの靴は合わないんです。格好悪いんですけど、みんなあれを買って、はいていました。(三島)先生だけは、底上げのシークレット・シューズなんですよ。外から見ると、普通の靴なんですけど、背が高く見えるシークレット・シューズ」
http://www2.odn.ne.jp/~aax63750/hanashi.html

 制服をポケットマネーで誂えた三島が、靴は全員揃えなかったというのは、「自分だけ特別なシークレットシューズでは目立つから、靴は揃えずバラバラなものとした」というのです。シークレットシューズで10センチも身長を高くした三島が、伊藤や森田らに等々と「将来の日本」を語ってやまない。はたして、切腹したそのとき履いていた靴は、シークレットブーツだったのかどうか。

 元自衛隊陸将補であり、自衛隊調査学校(陸軍中野学校の後身スパイ養成学校)」の副校長をしていた山本舜勝(やまもときよかつ)『自衛隊「影の部隊」—三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社2001)は、三島と政治家の関わり、自衛隊との関わりについて語っています。

 山本が「墓場に持っていくつもりだった」という事実を公表する気になったのは、自衛隊調査学校の閉校を契機としています。自分の生涯をかけた作品ともいえる調査学校を「もはや今の時代には無用の長物」と否定されたと感じた老兵は、墓場へ持っていくみやげ話のひとつとして、三島と自衛隊について証言しました。彼の感じた三島は「中曽根康弘や佐藤栄作に、いいように利用されてしまった」というものだが、三島が死に場所として市ヶ谷自衛隊を選んだのは、中曽根や佐藤との関わりによってではなく、心中の相手として森田必勝を選んだときから必然となったことであったろうと思います。

 「三島の美学」がさまざまな証言や文学研究によってあきらかにされてきたことを私なりに受け止めると。
 三島の祖母、平岡夏子にとって、夏子の母・高の出自が「常陸宍戸藩藩主松平頼徳の娘(母親は側室)」であり、松平家は子爵に封ぜられたことが第一の誇りであり、病弱であることを理由に両親から引き離し手元で「お蚕ぐるみ」で育てた公威が第一の希望であった。ようなことまでは話す時間がなかったけれど。
 福島次郎著『剣と寒紅』は、著作中に三島自身の手紙が含まれていたため遺族が著作権乱用として出版差し止めになりましたが、ネット古本屋で買えます。

 三島は自分がゲイであることを最後までカミングアウトせず、いわば「自分を偽って結婚しヘテロを装い続けた」という意識によって、文学者としてひきさかれた内面を持ち、死へと向かわざるを得なかった、というのが、私の個人的見解です。

 三島はゲイであることを隠して表向きはヘテロとして結婚し、男色はあくまでも陰の快楽にしていた点で文学者として内面的な葛藤がありました。
 三島の割腹自殺について彼が早くからゲイ仲間と「切腹ごっこ」をしており、肉体の痛みと流血に対しあこがれを持っていたことは、最後の彼の死に方に影響を与えました。この世のものとも思えない最高の快楽のなかで死んでいったと私は信じたい。

 平岡公威としても三島由紀夫としても、最後に身の置き所がなくなったとき、彼は心中の相手として森田必勝を選んだ。森田もまた、選ばれてあることの光輝を感じながら死んだのだと思います。介錯人不在の作法によって切腹を行った三島。そのために三島の首は不必要に傾き、介錯するはずだった森田は三島の首を切り落とすことができないまま、自分の腹を切ることになった。森田は、介錯人がいることを想定しての作法によって薄く腹を切り、作法通りに首を介錯された。

 なぜ、三島は介錯人がいない自決の作法で腹を切ったのか。楯の会の若者が介錯を躊躇するとでも思ったのか、それとも映画『憂国』で演じたとおりに、自決作法を実践したかったのか。
 いずれにせよ、三島は森田必勝を選び、森田に介錯を命じておきながら、森田が介錯に失敗するような作法を選んで死んだ。最後まで己の美学を貫こうとしたのか、最後までナルシシストをやめたくなかったのか。多くの人に取り囲まれ賞賛されることを望んだ人なのに、最後まで孤独なナルシシストであったなあと、その一生を思います。

<おわり>

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。