にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

2009/09/13

2009-09-13 07:12:00 | 日記

第3章 日本語教育の実際と<主体性>

9 明示されない主体
 「ううっ寒い!」という表現に、「寒い」と感じている認識の主体とそれを発話する表現主体が存在することは明白なことである。西洋語の主語とは異なる、ということを意識させた上で、日本語文に日本語文としての<主体>が表現されていることを、日本語学習者に示すことは、必要なことである。その主体を<主語>と呼ぶかどうかについては、注意を要する面を含むが、英語圏などの主語を常に必要とする日本語学習者には、初級段階から、日本語の表現に注意させていかなければならない。
 語彙コントロールされ文型を体系的に学びながら進められてきた中級の日本語学習を終え、上級に進むと「生教材」と呼ばれる日本社会で実際に流通している新聞雑誌、単行本を取り入れた読解が増えていく。いわゆる「<主語>なし文」を読む機会も増える。日本語教師が学習者に「誰が言った言葉ですか」「誰が誰に何をしていますか」などの問いかけを繰り返して、いわゆる<主語>を明らかにしながら読ませるのは、中級から上級への移行期には、<主語>を一文ごとに明示してやらないと、誤解したまま読み進めて者も少なからずいるからである。
 英語など西洋語母語話者に、「日本語文は西洋語とは異なる統語法によって成り立っており、主語が明示されていなくても日本語の文構造談話構造を理解していれば、文の意味は明らかになる」ことを教え、明示されていなくてとも文の意味が納得できるよう指導するのはもちろんであるが、最初は「明示されていない主体」を見つける方法を知らせてやる必要もある。

9.1 <主語>の見つけ方
 述語の主体が明示されていないとき、<主語>を探し出す方法がある。野田2004「見えない主語のとらえかた」(月刊言語2月号vol33-2)は、「日本語文の中に明示されていない主語」は、手掛かりによって推察できるために、明示される必要がなくなる、と述べている。日本語学習者は、日本語母語話者がどのようにして明示されていなくても不自由せずに文の主体を判断しているのか、その方法を学べば、書かれていない<主語>を見つけ出せる。
 野田2004は、文の<主語>は、
(1)文末のモダリティ、(2)句の中の動作参与者の関係、(3)複文・連分の中での主語との関係、によって、明示しなくてもわかる、と述べている。
 また、久野1978は、『談話の文法』で主題の「は」の非明示について述べている。以下、野田2004、久野1978などををもとに学習者に示す「主語」の見つけ方。

(1)モダリティによって<主語>がわかる文
①命令文などの働きかけ文 命令「座りなさい」、「座る」の主語は聞き手。勧誘「いっしょに遊ぼう」。「遊ぶ」の主語は話し手と聞き手。質問「行くのか」の主語は聞き手
②内面表現文。意志・感情・感覚・思考・希望という人の内面を表現した文の主語は話し手。「痛い」「行きたい」の主語は話し手。質問文では「痛いの?」「行きたいか」では①の原則によって聞き手。
③外面表現文。推量・推定・推論・様態・伝聞の主語は基本的に話し手以外。「*私はもう手配しているはずだ」「*私はこのあたりに住んでいるようだ」などは非文。
(2)句の中の動作参与者によって主語がわかる文
④尊敬表現の主語は原則として話し手以外「もう、召し上がりました」の「主語は話し手または話し手側の人」ではない。
⑤謙譲表現の主語は原則として話し手か話し手に近い側の人 「明日伺います」の主語は、話し手または話し手側の人。
⑥受益表現のうち「くれる」の主語は「話し手か話し手側の人」以外。
⑦実際の移動を伴わないの動作の方向表現「~てくる」の主語は、話し手以外。「答えようのない質問をしてきた」は、動作が話し手に向かっていることをしめし、主語は話し手以外。
(3)複文・連文の主文からわかる主語
⑧主文と節で成り立つ複文の節の主語は主文と同じ。「小学生のとき、私は札幌に住んでいた」同時動作をあらわす「~ながら」、継起動作を表す「~て」の節の主語は主文と同じ「歩きながらたばこを吸った」「新鮮な空気を吸って気分がよくなった」
⑨連続する連文の文の場合、前文のあと、「それから、そして、そのあと、しかも」、などの接続詞が続くとき、後文の主語は同じ。「田中がドアから入ってきた。それから窓を開けた。」前後の文の<主語>は同一となる。「すると、ところが」などの接続詞では、前文後文の主語が異なると解釈される。「田中が後方のドアから入ってきた。すると窓を開けた」の後文の主語は田中ではないので、第二文の主語は明示する必要がある。

 主題の「は」は、文章全体を統一する働きを持つが、一文ごとに明示する必要はない。久野1978 pp104-124は、主題「ハ」の省略について記述している。
①反復主題は明示する必要はない(三上章はこれを「ハ」のピリオド越えと名付けた)
 第一文と第二文が同一主題であるとき、第二文の主題は省略できる。
②第一文の主語と同一の主語が第二文の主題となるとき、明示する必要はない。 
③同一視点で続けて述べる文の前文と同じ主題は明示する必要はない。

 以上、一見複雑に見えるルールであるが、文章読解指導を行う教師側が承知していれば、文の構造がわからなくなっている日本語学習者に「このように考えれば、述語の主体が誰
/何であるかわかる」と教えることができる。

9.2 非日本語母語話者の読解における問題点
 非日本語母語話者が「主語がわからない」ととまどう日本語文の典型例としてよく引用される幸田文の『流れる』を例にとる。
 イタリア系アルゼンチン人であるドメニコ・ラガナが、日本文学を学び始めた頃のエピソードとして、日本語学関連の論述に何度も引用されるエピソードがある。ラガナ1975『日本語とわたし』に出てくる幸田文『流れる』を読んだ際に、冒頭部分を誤読した、という逸話である。たとえば、池上2007は、多田道太郎『日本語の作法』からの引用であるとして、ラガナの誤読をドイツの大学で紹介したことを述べている。「能とベケット」という博士論文を準備中の日本語がよくできるドイツ人学生にも、ラガナと同様、幸田の文章が理解できなかった、という説明がある。ラガナの誤読を森田良行も紹介している。
 
 『流れる』冒頭。
  ①このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。②往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急いた気がするし、しようがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひっこんでいる玄関へ立った。③すぐそこが部屋らしい。④云いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張ったいろんな声が筒抜けてくる。⑤待ってもとめどがなかった。⑥いきなり中を見ない用心のために身を斜によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。⑦と、うちじゅうがぴたっとみごとに鎮まった。⑧どぶのみじんこ、と聯想が来た。⑨もっとも自分もいっしょにみじんこにされてすくんでいると、「どちら?」と、案外奥のほうからあどけなく舌ったるく云いかけられた。

 D.ラガナは、冒頭の①を次のように解釈した。
  ある場所に家が一軒(あるいは数軒)在る。その家は現在では何か別のもの、おそらく別の家と相違していない(あるいは、昔と変わっていない)。だれかがだれかに向かってこう質問する。だれかが(あるいは、だれが)、あるいは何かが(あるいは、何が)、どこから入ったらよいか、と。(飛躍)。この家には勝手口がなかった。

 赤川次郎1998は、『本は楽しい』の中で、ラガナが誤読した上記の幸田文の文①を、次のような日本語文に置き換える提案をしている。
  私が探してきたのはこの家に違いないけれども、勝手口がないので、どこから入っていいのか、わからなかった。
 赤川の言い換え(一文)をさらに短く分け中間言語にして英語訳をしてみる。
  この家は、私が探していた家にちがいない。けれども、私はどこから入ったらいいのか、見いだせなかった。この家には勝手口(台所の出入り口)がなかったからだ。
 中間言語からの英語訳は以下の通り。
 This house is surely the house which I am looking for. But I was not able to find where I should have entered at. The reason is because this house did not have the doorway of the kitchen.  英文を日本語に再翻訳すると
  この家は、きっと、私が探している家です。しかし、私は私がどこから入らなければならなかったかについて突き止めることができませんでした。理由は、この家が台所の戸口を持たなかったからです。

 中間言語化によって、情景を読者によりわかりやすく伝えることはできる。しかし、幸田文の文体が持つ簡潔なリズムの味わいは消えてしまう。できるなら、日本語学習者に、「日本語文章は日本語のまま理解できる」というところまで、日本語文に通暁してほしいものであるが、そこに至るまでの過程の一段階として、中間言語化はある部分やむをえないものとなる。生教材読解の最初は、「視点」の理解と「主体」の理解を中心に教授していくべきであろう、

1) 文章の視点人物は誰か。(日本語文は、「視点人物の経験」として述べられる)
 『流れる』の主人公は芸者置屋の40代の女中梨花。梨花が初めて置屋を訪れ、女中奉公にきたことを玄関先で自己紹介する冒頭シーン。①「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。」という冒頭の文について、読者は、視点人物の目を通して、視点人物と一体になって物語を読み進める。
 『雪国』冒頭の、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」を読めば、読者の意識は「雪国だった」ということを認識している<認識主体>と一体のものとなって理解できる。同じように、「勝手口がなかった」と認識している<認識主体>と読者の意識は一体となって冒頭の一文は読まれる。しかし、日本語を学び始めたばかりのドメニコ・ラガナ氏は、この一文の解釈に悩んだ末、冒頭の文の中心部分を「このうちには、勝手口がなかった」と考え、「どこから入っていいか」の主語は「誰か」あるいは「何か」であると考えた。そして、誰が入ろうとしているのか、文の中から読み取ることができなかった。
 「視点人物の目を通して認識されたことが表現される」という基本を知っていれば、「この家に相違ない」という認識している者が視点人物であり、「勝手口がなかった」と認識している人物と同じであることが理解できる。
2) 視点人物の自称「自分」が出てくる⑨の文に至れば、「自分」と自称している人物の視点で述べられている文であることははっきりするが、日本語母語話者にとって、視点の中心は常に自分自身であり、小説の主人公が三人称で描かれているとしても、「視点人物」の意識に沿って読むことが第一番に要求される。②の文の「気がする」「玄関へ立った」⑥「格子を引いた」などの動詞は誰の行為であるかというと、視点人物の動作・行為である。


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