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日本語・日本語言語文化・日本語教育

カタカナひらがなハングル

2011-03-28 22:10:00 | 日本語言語文化
2009/12/23
ぽかぽか春庭
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感今年の百円本から(3)ひらがなとハングル

 百円だとついつい買い込んでしまう本、好きな作家ですと本棚にあるのを承知で買ってしまいます。たとえば須賀敦子の本などだいたい2冊ずつあるのです。これは、かっての音楽ファンがレコードの劣化を案じて2枚ずつ購入したというような心理とも重なる部分があるのですが、一冊はきれいなままとっておきたい、一冊は資料用に書き込みやページの耳の部分を折り曲げたりする用の本。

 森田良行『日本人の発想日本語の表現』という新書、3冊並んでいます。整理整頓がまったくできない部屋の中でこの本がどこかに潜り込んで行方不明になったあと、引用する必要があって、もう一度買ったのです。引用するためには、書籍の何ページに書かれていたかを明記するのが論文ルールなので、何ページだったかを確認する、というだけのためですが、論文締め切りが迫っていたのでアマゾンで購入。論文を提出したあと、古本屋の百円本で見つけ、「なんだ、百円で売っているなら、こちらを買えばよかった」と思って、百円だからともう一冊買いました。そのあと、行方不明の本が本の山の中から出てきて、3冊並ぶことになりました。狭い部屋に本が積み上がっているので、こんなこともおこります。
 日本語関連の本は、学生用の閲覧資料としても使うので、何冊あってもムダにはならないけれど。

 日本人学生のための日本語学や日本語教育学の授業で、今年も「ハングルで自分の名前を書こう」というワークショップをやりました。前期は「タイ文字で自分の名前を書こう」後期はハングルで行い、自分の名前の発音がこれらの文字では見つからない、ということを確認させるためです。何人かは文字一覧表の中から自分の名前の仮名にあたる文字ですんなり名前を書くことができますが、何人かは、「先生、ハングルに渡辺のワがありません」などと、言う学生が出てくる。日本語と外国語との発音の違いを意識させるためのワークショップです。
 逆に、「では、Smithという名をカタカナで書いてみましょう」と言うと、学生たちためらわずに「スミス」と書く。え~、それでいいの?thという音は「ス」ですか?「Su」は「ス」と書いていいけれど、「S」を「ス」と書いてもいいの?
 こんなところから日本語の音節の表記法と発音の関わりを、自分の頭で確認させるのです。

 ひらがなカタカナは、日本語の音節構造にあっているたいへんすぐれた表記法です。世界にこのような音節文字は数少ない。日本語は、発音のほとんどが「子音+母音」という単純な構造でできているから、「子音+母音」をまとめてひとつの文字で書き表す方法がちょうどうまくいくのです。

 しかし、世界の多くの言語は「子音+母音」という単純な構造ではありません。英語ではdog,やcatなどは「子音+母音+子音」ですし、strikeは「子音+子音+子音+母音+子音」という構造です。これをカナであらわそうとすると「ストライク」という表記になってしまい、「[子音+母音]+[子音+母音]+[子音+母音]+[子音+母音]+[子音+母音]」という音で表記するしかありません。
 つまり、カナは子音が重なった発音を表記することができないのです。

 質問をいただきました。
投稿者:myth21hide 2009-12-23 02:37
 インドネシアの少数民族が表音文字のハングルを共通文字として採用したというニュースがありましたので、表音文字では仮名のほうが優れているのではと思ったのですが、間違っていますでしょうか。
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 ご質問は、「表音文字では仮名のほうが優れているのではと思ったのですが、間違っていますでしょうか」というものですが、春庭のお答え「はい、ちがっています」
 日本語を書き表すための表音文字として仮名はたいへんすぐれていますが、他の言語を書き表すためには、不便な表音なのです。
  次回、回答をのべます。

<つづく>
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2009年12月24日


ぽかぽか春庭「インドネシアのハングル」
2009/12/24
ぽかぽか春庭
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感今年の百円本から(4)インドネシアのハングル

 インドネシアスのスラウェシ州(地図でいうと赤道の近くにある「k」の形にみえる島です)のニュースとしてこの夏に発表された記事があります。スラウェシ州のチアチア族というこれまで文字を持たなかった少数民族が、自分たちの言語の表記文字として、ハングルを採用した、というニュースです。韓国や中国では報道されネットでも話題になりましたが、発表された8月には日本の大手の新聞は報道しませんでした。朝日新聞が12月23日の朝刊でスラウェシ州バウバウ市の市長がソウルを訪れた、というニュースをソウル特派員報道として伝えました。
以下はソウル特派員からの配信記事。
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【ソウル=箱田哲也】独自の言語がありながら、表記する文字を持っていなかったインドネシアの少数民族チアチア族が7月から、朝鮮半島のハングルを公式の文字として導入。チアチア族の代表が韓国を初訪問し、22日、呉世勲(オ・セフン)ソウル市長と歓談した。
 ソウル市によるとチアチア族は6万人余りで、歴史などは口述で伝えてきた。韓国の訓民正音(ハングル)学会関係者がこれを知り、現地を訪ねて「表音文字のハングルなら音だけで表記できる」と説明。チアチア族は7月から公式文字として、教育機関で子どもたちに教えている。
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 春庭は仮名文字の成立について何度かコラムに書きましたが、その際申し上げたことは、音節が「子音+母音」という単純な構造である日本語の発音にとって、カナはたいへんすぐれた表記法である、ということです。仮名の形47と発音を覚えれば、ほとんどの単語を発音通りに書いていけば文がつづれる、わかりやすい表記法です。

 英語を母語として育つ子供が自分の髪は縮れていなくてまっすぐなんだ、と気づいてそのことを作文に書いて先生に提出しようとしたとき、ストレートヘアということばを文字を書きたいと思います。しかし、「straight」というつづり方(スペリング)をすでに習っていない限り書くことはできません。[gh]という発音しない文字が昔の発音の痕跡として残っているなんて、子供には想像もつかないことですから。ヘアも「hea」なのか、「heia」なのか、わかりません。「Hair」というスペリングを習っていなければ書き表せないのです。
 その点、日本語を母語とする子供は、自分の髪が黒いことに気づけば「わたしのかみはくろい」と発音通りに書けばよいのです。「くろい」ということばの書き表し方を一度も習ったことがなくても書けます。ただし、助詞の「wa」は特別に「は」と表記することは習っていないと書けないので「わたしのかみわくろいです」と書くかもしれない。でも、読んで意味がわかります。

 スラウェシ島バウバウ市を中心に住むチアチア族のことばの発音は、おそらく「子音+母音」という単純な構造ではないのだと思います。
 その点、ハングルは「母音のみ」「子音+母音」「子音+母音+子音」など、さまざまな音節に対応できる文字です。
 したがって、チアチア族の言語の発音が、閉音節(子音で終わる発音)であるなら、ハングル文字で表記することはたやすい。

 日本語は「子音+母音」という音節にのみ対応していますから、開音節(母音で終わる発音)でないと、書き表すことができません。strikeという1音節の単語を外来語として日本語語彙に採用するときは「ストライク」と5音節の語として導入することになります。

 ハングルは「偉大な文字」という意味で、14世紀の世宗大王の時代に、学者に命じて作成された人工的な文字です。コロンビア大学名誉教授であるガリ・レッドヤード(Gari Ledyard)は朝鮮の歴史やハングルの研究論文のなかに、ハングルにはパスパ文字の字体の似ていると論じています。パスパ文字とは、中国の元朝で採用されたチベット文字をもとに作られた文字です。ハングルにはパスパ文字と似た字体がある、という説をレットヤードが述べていますが、日本語の仮名が漢字草書体から発展したように、ハングルもいくつかの既存文字を参照して作られたのだろうと思います。

 さて、授業は22日で終わったのですが、イブの24日、出講先に行って仕事です。疲れたけれど、がんばります。みなさまにおかれましては、楽しいクリスマス、楽しい冬至祭りを!

<つづく>
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2009年12月25日


ぽかぽか春庭「片仮名でメリークリスマス」
2009/12/25
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感今年の百円本から(5)片仮名でメリークリスマス

 平仮名片仮名は、すぐれた表音文字であり、日本語を書き表す場合たいへん便利です。しかし、日本語のように「子音+母音」という単純な構成の開音節単語だけでない言語もあります。平仮名片仮名という音節文字は、閉音節を含む言語の表記には適さない。ハングルは閉音節を表記するためには、とてもよいシステムの文字です。つまり、ハングルと平仮名の優劣を比べることはできません。韓国語やチアチア語を表記するためにハングルはよい文字であり、日本語の表記にとって、仮名はよい表記文字である、ということはできますが、仮名がハングルよりよいとか、ハングルのほうが優れているという比較はできません。

 現在の世界では、フェニキアに始源を持つアルファベットが多くの言語の表記に用いられています。アジア諸国の言語は、独自の文字を持つものが多い。カンボジアのクメール語はクメール文字を使用しているし、タイ語はタイ文字、モンゴル語はモンゴル文字。しかし、モンゴル語は社会主義国となったとき、モンゴル語でなくロシアキリル文字を採用したし、ベトナムも従来の漢字表記をやめて、かっての宗主国フランスの影響下、アルファベット表記を採用しました。英語表記では「Ho Chi Minh City」書く旧サイゴン市。漢字表記するなら「胡志明市」です。しかし現在はアルファベット表記なので、「Thành phố Hồ Chí Minh」

 少数民族チアチア族の子供達が誇りを持って自分たちの母語の読み書きを習っていけるなら、どの表記であれ、いちばん母語の表現に適した文字を採用すればよいのです。ただし、チアチア族の子供にとって、母語教育のほかインドネシア語の習得も必要であるならば、インドネシア語はアルファベット表記を採用しているので、二重に文字を習わなければならず、負担が増えます。
 もっとも、日本の子供達は、小学校1年生で平仮名片仮名、3~4年生でローマ字、1年生から中学校卒業までに2000字の漢字を習得するのですから、ハングルとアルファベット両方の習得もできない話ではありません。

 少数民族のなかにあって滅亡が懸念されている、文字を持たない少数言語を保護するために、有効な表記によって記録することは焦眉の急を要すること。チアチア語がこれから先もチアチア族の子供達にとって、「母語」として生き生きと話されることが望まれます。

 日本ではアイヌ語を母語として生活する子供は、おそらく現在のところ国内にはいません。残念なことです。12月22日、春庭の社会言語学最後の授業でも「みなさんは、卒業したあと、アイヌ語の朗唱や歌を聞く機会はほとんどないでしょうから、最後にもう一度アイヌ語の歌を聞いてください」と、萱野茂(かやのしげる元参議院議員)のカムイ朗唱やフチ(おばあさん)たちの歌う仕事歌を聞かせました。

 アイヌ語には閉音節も含む語が多く、本来なら平仮名表記には適さないのですが、閉音節の部分の仮名を小文字で表記するという工夫によって仮名表記もローマ字表記と併用されています。
 アコロ イタク のように、最後の文字が小さいカナになっており、たとえば、yukarという閉音節の語は「ユーカラ」と表記し、最後の「ラ」は[ra]ではなく[r]であることを示しています。 
 これは、アイヌ語を習う人の多くが平仮名表記に慣れているための工夫であって、閉音節を表記するためにはローマ字表記のほうが便利です。

 多くの少数言語が地上から消えていく状況にある中、チアチア語はハングルを採用したことにより、韓国政府からチアチア語保存のために多くの援助が期待できそうです。一つの言語の生き残り策として有効であったかもしれません。アルファベット表記も可能だったでしょうが、アルファベット表記にしたからといって、インドネシア政府はチアチア語の保存に特に力を入れることはないでしょう。他にも独自言語を持つ少数民族はたくさんあるので。世界中の少数派の言語も文化も宗教も、それぞれの人々にとって大切なものであり、滅亡してよい言語もなくなってよい文化もありません。

 12月25日前後は、世界中の多くの国で「太陽の復活=冬至」の日として祝われてきました。それをキリスト教では「神が人間として産まれてきた」日である、という意味づけをして取り入れ、2~3世紀頃から、神の子イエスの誕生日として、ヨーロッパ農耕民への布教に役立てました。農耕民の春祭りは「キリスト復活祭」として取り入れ、農耕民達がキリスト教になじむ工夫をしました。

 現在の状況ではキリスト教と対立しているように見えるイスラム教では、予言者のひとりイーサ(イエス)の誕生日として祝うのです。イスラム教は、キリスト教と同じく、ユダヤ教から分派した宗教ですから。
 逆にキリスト教新興宗教のひとつ「エホバの証人」のグループは「聖書にイエスの誕生日と書いてないから」という理由で、クリスマスを祝いません。新訳聖書原理主義ですから。

 日本語を母語とし、仏教徒である私にとっても、冬至の日に衰えが最大になった太陽が復活していくのを祝いたいです。
 日本仏教は、道教も神道も習合してきた歴史がありますから、お寺でクリスマスを祝ったって寛大な阿弥陀様お釈迦様は「よしよし」と言ってくださると思いますけれど。
 24日は、娘が作った苺ショートケーキをおいしくいただきました。私はお日様に祈りをこめましたから、必ずこれから日脚は延びていくと思います。

<つづく>
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2009年12月26日


ぽかぽか春庭「言語の脳科学」
2009/12/26
ぽかぽか春庭くねんぼ日記>年末雑感・今年の百円本から(5)言語の脳科学

 私は現在、老境自覚中。心身衰え、白髪は増えるし皺は深くなって、わびしく背を丸めて病院通いしている境遇です。12月5日のMRI(核磁気共鳴画像法magnetic resonance imaging)の結果では、「今すぐ、どうこうしなければならない症状はない」という診断で、頭痛が続くのも我慢して過ごすしかないとわかりました。なにしろ頭痛のタネは山ほどあるので、、、、。
 MRIという検査、初めて受けてみて、自分の脳がネガフィルムなっているのをしげしげと見つめました。へぇ、私の脳はこんなふうなのかと、おもしろかった。

 100円で買った本で、おもしろかった本その他。
 酒井邦嘉『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか』(中公新書)という本を興味深く読みました。
 日本語学や日本語教育学を学ぶ日本人学生にも、言語と脳の話をするときに、酒井先生作成の脳の図をネットからパワーポイントに取り入れて、「このへんが文法を理解する脳、ここらは音声を受け取る部分」など、この秋学期の授業に使わせてもらっていました。来期は脳の説明のとき、自分の脳の写真を見せて説明してみようかとおもったのだけれど、脳のネガフィルムは患者が持っていてはいけないのだって。

 医師法かなんかで、このような画像は病院管理にすることが決まっているそうで、4枚で8000円かかった脳写真、個人にはもらえませんでした。これまで高い国民健康保険を払い続けても歯医者で歯石除去するくらいしかかかったことなかったのに、今年はけっこう医者に通ったなあ。3割負担だから、脳写真撮影は、健康保険がなければ2万4千円かかったことになる。長年自分では医療費使わないまま保険料だけ払い込んできたけれど、MRI検査料が2万4千円かかると知ったら、検査する気も失せたろう。石油も買えない家計なのに。健康保険のないアメリカでは、医療はすべて自己負担が原則。医療を受けられない貧乏人は、自己責任で死んでいくしかないというから、まあ、これでなんとか日本の健康保険料の恩恵を受けたことになるか。

 言語を理解する脳の部分は、一箇所ではなく、脳のあちらこちらに偏在していることが、失語症や失読症になった人の脳の検査などから、わかってきました。かって右脳左脳などの脳の分野が話題になりましたが、たとえば、「リーンリーンという虫の音を聞く」ということひとつをとっても、脳のたくさんの分野が連合して働いており、右脳左脳などという単純なくくりで脳の働きはとらえられないこともわかってきています。

 酒井先生は、チョムスキアン(生成文法の創始者チョムスキーの言語学を信奉し、人間には生まれつき言語を習得する脳の働きがあるという生得説の論者)なので、言語に関しては私とは異なる考え方の部分もありますが、脳について実験の結果重視の実証的解説はとてもおもしろかったです。

 夏目漱石やアインシュタインの脳は保存されており、アインシュタインの脳は一般人より見た目が小さいけれど、脳の皺(ヒダ?)が普通の人より深く刻まれているというようなことが言われています。
 視覚障害を持つ人の脳では、聴覚分野や触覚などの他の感覚分野が大きくなることがわかっており、天才的な発明発見をした人の中には、脳の一部の損傷によって社会的な能力や人との交流などに不都合が多い場合もあった、ということもわかってきました。

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が、ブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載しました。市長はブログの問題部分を削除しましたが、あくまで「謝罪する気はない」と強気です。「医学の無駄遣いで昔なら死産だった障害を持つ子が生き残り、社会のお荷物になっている」というのです。かって石原慎太郎都知事も重度障害者の施設を見学して「こういう子に生きている意味があるのか」と発言したことがありましたが、すべての命に等しい価値があるという人間存在の基本を理解していない人がトップだと、いずれ「年寄りや障害者は社会のお荷物だから、死んでお国の役にたて」ということになっていくのだろうと背筋がぞっとします。私も介護が必要になって働けない身体になったら、竹山市長や石原都知事またその賛同者によって排除されてしまうのかと、思います。

 竹山市長、またまた「腐った枝は切り落とすべし」という論をぶちあげた。社会全体を木に、枝を障害をもつ人にたとえたつもりなのでしょうけれど、人と社会の関係は、枝と木の関係とは異なります。一本の木は枝も根もひとつに存在である一個の有機体ですが、人は人それぞれが一個の有機体であり、社会は人が関係を築きあげ作っていくべきものです。足が何らかの病で壊死したら切らないと身体全体を保てない場合があるというならわかります。人の身体全体が統一ある有機体ですから。でも社会には切り捨てなければならない部分などないのです。

 今のところ私の脳のネガフィルムでは、まだまだ萎縮も起きて居らず、梗塞もなく、認知症もまだ出ていない、可もなく不可もない脳だということがわかりましたし、言語をあやつって飯のタネにする生活、もうちょっと続けて行けそうです。でも、もし私が働けないようになったら、竹山市長は「あんたは腐った枝だから、切り落とす」と言うのでしょうね。暮れのすきま風がいっそう身にしみます。どうにも景気の悪い話で締めて申し訳ない。来年はいい年でありますように。

<おわり>
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