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第3節 太宰治「富嶽百景」の叙述分析

2010-03-18 09:20:00 | 日本語言語文化

第3節 太宰治「富嶽百景」の叙述分析

3.1 「富嶽百景」の表出する<主体性>
 日本語文において<主体性>はどのように表現されているだろうか。
 本論では、<主体性><主観性>両義を、どちらもsubjectivityの意味として扱うが、本節においては、太宰が表現主体として生みだした文にどのように主観が表れているのかを中心に、叙述のテンスやヴォイスを見ていくことにする。
 本節では日本語学・言語学の<主体性>定義をふまえ、「<主体性>とは、表現主体が、自分自身の表現意志を持ち、述語内容を<主体>の上に実現させること」と規定し、「表現主体の主観によって選択された叙述形式に<主体性>が表れる」として、「富嶽百景」の文を分析する。
出来事の叙述に重点が置かれる日本語において、<主体>が背景化されていたとしても、述語中に<主体>は在り、<主体性>も存在している。表現された発話や語りの受容者(聞き手・読み手)は、語り手の語り方、表現主体の主観を通して物語世界を見る。語りの叙述に表れた表現主体の<主体性・主観性>は、語り手の視点となって、テンスや待遇表現にも表れる。作者の視点の分析として、作品中の述語から「タ形・ル形」、ダイクシスの表現、また授受動詞文、待遇表現などについて考察する。表現主体がその主観によってどのような視点をとり、それをどのような文法形式で表現しているか、という点を観察することは、日本語文における<主体性>の在り方を示すひとつの方法となる。テンス、授受表現、待遇表現などにおける表現主体の主観の表現が、現実世界を見る主体の存在を示しているのである。
 本節では、太宰治の「富嶽百景」を一文ずつ分析してみることによって、語り手=主人公「私」の<主体性・主観性>が、どのように表現されているのか、その現れ方を確認する。文を句点ごとに区切り、述語の書き表し方を文法的な分析により、文末のテンス、ヴォイス(授受表現を含む)、待遇表現などの叙述から、表現主体が「自己物語世界」を構築するためにどのように述語表現を重ねているかを観察し、語り手の自己表出がどのように表現されているかを見ていこうとするものである。
 一文の述語が<意志性><支配制御性>を含む述語であるかどうか、作品中の動詞述語を確認した結果は、「意志動詞文の数/文の数」に数字で表したが、<意志性><支配制御性>を有する動詞述語文の割合は少ないことが判明している。<主体性>という語を辞書的語意的に「自分独自の意志・主義を堅持して行動する態度」「主体となって働くこと。対象に対して働きを及ぼすこと。自発的能動性。実践的である」と受け取ると、小説中に主人公が能動的自主的に行動したことの描写は少ない、という結果になる。しかし、読者の素朴な読後感は、「精神的なダメージをもって富士山麓に滞在していた主人公が、富士山を眺め周囲の人々と交流する半年の間に、仕事や人生に対する主体的な精神力を回復して下山していく」というものである。作者はどのようにしてそのような読者の読後感を生みだしているのだろうか。
表現主体の<主体性>が、叙述の選び方に表現されているという立場からの文体観察である。


3.2 「富嶽百景」概要
太宰治「富嶽百景」は、1939(昭和14)年2月に発表された。1中期=安定期の佳作として評価されている。この作品が発表される前月に、師、井伏鱒二の家で、石原美知子と結婚式をあげ、生活の上でも文学の上でも、転機をはかった時期であった。パビナール中毒の治療のために精神病院に入院させられ、妻の不貞に打ちのめされて4度目の自殺に至った「自己を見失っている人間」としての太宰が、「自分とは何か?」という問いを重ねて、「自分はどのような物語を生きているのか?」という認識を、他者との関わりの中に見いだしていく過程を描いた「自己物語」が「富嶽百景」である。
ストーリーは、富士山をめぐる短いエピソードを連ねて構成されており、作中では語り手である主人公の「私」は、登場人物から「太宰さん」と呼ばれている。「一人称小説」「自己物語世界的」小説である。
本節は、この小説を「語られ方」の面から検討する。「富嶽百景」は、「私」を主人公とし、「私」自身が語る小説である。すべての文が主人公の視点によって認識され、主人公を主体とする文が中心になる。主人公「私」の<主体性・主観性>は、どのように表現されているのか、言語的な諸手段を観察し、表現された文体の中に「富嶽百景」の「私」の<主体性>を確認する。

3.3 「富嶽百景」文体分析
 「富嶽百景」は全文数で450文ほどの短編である。場面も限られており、全て、富士山麓の天下茶屋周辺での出来事である。出来事の推移に従って、場面を分けると、「富嶽百景」というタイトルではあるが、亀井勝一郎は二十景とし、竹内清己は最終の一文を独立させて二十一景としている。2 以下に示す「景」は、本論のために便宜的に場面を分けたものであって、亀井や竹内の分割を踏襲したものではない。
意志動詞文の数/文の数。
数字は意志動詞文と文の数を示す。例えば、1景には文の数が26ある。そのうち、主人公「私」が意志動詞述語によって自分の行動を描写している文は2文である。以下同じ。
1景:2/26 富士の形 
2景:4/6 便所の富士(峠に来る前の鬱屈した状態)
3景:5/20 御坂峠の富士(井伏氏の誘いにより峠へ) 
4景:6/16 三つ峠の富士(井伏氏との登山) 
5景:8/17(石原家の)富士噴火口の写真(見合い)
6景:2/29 富士見西行(宿を訪ねてきた友人と、僧形の男が犬の前で狼狽するのを見て、俗性に幻滅する) 
7景:8/34 新田青年の訪問(読者から先生と呼ばれることを受け入れる)
8景:2/52 吉田の富士(読者青年たちとの語らい、清姫の行動力賞賛) 
9景:8/38 眠れぬ夜の富士(吉田の夜、無意識的な散歩で見た富士。「富士に化かされた」) 
10景:6/22 冠雪の富士(通俗の富士から冠雪した富士へ) 
11景:2/26 月見草と富士(通俗の富士を否定し月見草を見入る母に似た人への共感) 
12景:2/16 夕焼けの富士(夕焼けの中の富士を見ずに紅葉に見入り、宿のおかみさんに人恋しい気持ちを見透かされる) 
13景:2/10 月光の富士(文学の方向が定まらぬことへの煩悶) 
14景:7/16 遊女たちの富士(みすぼらしい遊女たちを見て、富士に祈る) 
15景:4/40 甲府から見える富士(実家からの援助のないことの告白。結婚の承諾を得る)
16景:4/15 声援(15歳になる宿の娘が執筆を応援してくれることに感謝する) 
17景:3/10 晩秋(宿の娘に気をつかいながら秋の深まる峠に滞在する)
18景:1/19 花嫁と富士(富士に向かって大あくびをする花嫁を見て、宿の娘と非難する。「私」の結婚は順調に進展する。
19景:2/7 炬燵と富士(寒くなり、宿は炬燵を新調してくれたが、下山を決意する)
20景:2/16 真白い富士(都会から来た娘にシャッターを頼まれた「私」はわざと富士だけを写す)
21景:1/3 酸漿のような富士(下山するときに見た朝焼けの富士は、ふっくら丸く温かい形に見えた)

単純な数の比較でいうと、全文の数に対して、主人公「私」を主語とする動詞文、ことに意志動詞の数は、最初に予想した以上に少なかった。「富嶽百景」の動詞文からは、「主人公の主体性ある行動は、意志動詞によって叙述される」ということはできない。<主体性>を、一般的な辞書の語義である「自分独自の意志。主義を堅持して行動する態度」「主体となって働くこと。対照に対して働きを及ぼすこと。自発的能動性。実践的であること」という意味にのみ捉えれば、意志動詞述語文が少ないことは、意志的な行動をとる<主体性>が感じられないということになってしまう。表現主体の<主体性>は、行為の中にではなく、<主体が認識した主観性を発揮すること>と捉えるべきであろう。表現された認識の中に作家の<主体性>が表れているのである。「富嶽百景」の最後の文は、「富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿(ほおづき)に似てゐた。」と書かれている。「酸漿に似ていた」と主観的に認識し、その記述がなされたということが、作家の主観の表現であり、主体性の発現である。
近代文学の中で、太宰治は最も数多くの評論や研究がなされてきた作家のひとりである。その中で、北原保雄 (2005) は「主観的な文章―「富嶽百景」の場合」で、富士の描写において、表現主体の主観的叙述が中心になっていることを述べている。富士が客体として主体と対峙しているのでなく、主体の心情の反映として登場していることをあげ、「計算の上に計算を重ねて、文章を展開している」と評している。(177) 日本語表現において、主体は客体と対峙するものとして表れると同時に、主体と客体が重なり合うものとして表現されていることのひとつの例が、「富嶽百景」にもある。たとえば、14景、遊女の一団体が御坂峠にやってきたとき、見た富士は「そのときの富士はまるでどてら姿にふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである」という描写がある。御坂峠の茶屋で振り仰いで見た富士の姿である。北原は、御坂峠に滞在中の太宰が宿の提供しているどてらを着てすごしたことと合わせて、富士に対する親近感・好感のあらわれと見ている。小説冒頭の自己否定的な気分から、自己肯定への転換へと向かう心理的な主体的変化が、客体である富士の描写に表れた、と捉えてよいだろう。
北原は富士の描写を中心に分析している。本稿では、富士のほかの描写はどのように表現されているのか、文法的な表現の選択がどのように主人公「私」の心理や主体的な意識(=主観)の反映であるのか、という点について、文末表現を中心に見ていくものである。
まず、動詞述語の「タ形」と「ル」形が文末に表れる様相を中心に述語の分析を行う。
 日本語のテンスは、コト=言表事態(事実)と、キモチ=言表態度(陳述)のどちらにも関連する叙述形式である。本論では、テンスの選択も表現主体による主体的な判断のあらわれと考える。
 日本語の動詞述語のうち動作行為の動詞は、未完了未完成のことがらを「ル形(非過去形)」、完了・過去のことがらを「タ形」で表現するのが基本である。日常会話では発話者の発話している時点が基準時となるので、聞き手も発話者の基準時に基づいて判断する。存在を表す動詞(存在詞)は、「いる」「ある」「である」が現在のことがらを表す点で他の動詞とは異なる性質を有する。
 小説においては、過去の出来事として語り手が述べることが多く、語り手の視点に合わせて、基準時は動く。小説では、大部分の出来事は過去の出来事として述べられるので、文末のテンスは「タ形」になるのがもっとも無色な表現の仕方になる。小説中に「ル形」が使われている場合、以下のような理由が考えられる。
(1)現在の出来事として想定されている、いわゆる歴史的現在。
(2)時間的に生起するできごとではなく、状態・属性の表現。
(3)ストーリー形成に関わる背景的な状況・事態の説明。
(4)文体上、修辞上のル形。
 小説中の現在を基準時として選ぶのか、語り手が語っているときを基準時として選ぶのか、テンスの選択は表現主体が主体性を持って選択している表現のひとつであると言える。
 では、『富嶽百景』の中の「タ形」「ル形」を抜き出してみよう。
1景:「私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた」
 「私」の行動を「タ形」によって、通常の出来事の描写として述べている。
2景:「途方に暮れた」「ひとりで、がぶがぶ酒のんだ」「富士が見えた」
 「タ形」で継起した出来事が述べられている。しかし、当時の気持ちについては「あの富士を忘れない」「私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない」と、「ル形」「ナイ形」により、述べられている。
3景:「昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た」
 「タ形」で「私」の行動を説明した後、当時の時間の中に意識が置かれ、「私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく」と、「ル形」が使われている。過去を回想するというより、過去の時間の流れの中に意識を戻しているため、非過去形にしている。自分のこと以外でも「井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる」と、発話時(執筆した時)を小説内現在時に重ねている。
4景:「私たちは三ツ峠へのぼつた」は、「タ形」であるが、次は「急坂を這ふやうにしてよぢ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する」
 「ル形」で頂上に到着したことを述べている。登山行為のその中にいるような臨場感が出ている。
7、8景: 文学ファンの青年たちとの会話は、発話時現在。
9景:「下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く」「そつと、振りむくと、富士がある」「青く燃えて空に浮んでゐる」
 「私」の意識が、小説内の描写時現在の時点から描写されている。
13景:「私は溜息をつく」「ああ、富士が見える」「眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる」
「ル形」によって、当時の時間の中にいる感覚を出している。
14景:「トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた」
「私たちが傍を通つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる」
同じ遊女の行為を、最初はタ形で、次はル形で描写している。眼前の遊女は「私」を見ることもしないのに、「私」のほうは遊女に心を寄せ心理的に近づいた印象を与えるのが「熱心に草花をつんでいる」というル形による文末である。
 小説後半で、主人公の行為動詞が非過去になっているのは、遊女たちを見て、遊女の身の上を富士に祈願する場面での「富士にたのまう」と、「私」の信条が直接描写された分ひとつだけである。前半は、読者の意識を「私」が御坂峠にいた小説時間の同じ時間に運ぶことを意図していたのが、後半になると「タ形」による「客観的な過去」としての叙述が中心になっていることがわかる。
次に、指示語に表れた視点から、主体の表れ方をみる。
 「私」が主人公である一人称小説の場合、語りの視点は「私」にあり、ダイクシスの「空間指示こそあど」「人称」なども、「私」の側からの視点で統一されている。発話主体=私=主人公によってとらえられたダイクシスがそのまま表現されている。
 表現主体が語りの視点を選択することは、もっとも基本的な主体の存在の表明となる。ある一夜を自分自身がその場に身をおく立場から「この夜」と表現するのと、現時点からは離れた時間の表現として「その夜」と表現するのでは、発話時点での主体の時間意識空間意識が異なるのである。表現主体がどのようにダイクシスをとらえるかという面から、主体のあらわれを見ることができる。
2景:「三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ」
「その夜」は、「この夜」としても指し示すものの内容は変わらない。意外の事実とは、小説には直接書かれていないが、前妻小山初代との心中未遂とその原因となった「或る人」と初代の関係のことである。心中未遂は、太宰の読者なら事実を知っていることであった。もし「がぶがぶ酒のんだ」の夜が「私」側から言及されているのであれば、「この夜」と表現してもよいところである。しかし「その夜」と、なっている。「途方に暮れた」夜は、小説執筆時点で、「身のうち側」でなく、客観的に描写できる過去のことがらになっていたことがうかがえる。
3景:「ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る」
「この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階にこもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た」
太宰が『富嶽百景』を執筆したのは、すでに御坂峠から下り、甲府に新妻との新居を構えてから以後の執筆であるにもかかわらず、御坂峠を「この峠」「ここ」で表している。語り手「私」にとって、御坂峠に滞在していたときのことを書くにあたって、自分の意識をそっくり御坂峠の中において書いていることがわかる。井伏鱒二が滞在していた天下茶屋を示すのに、「天下茶屋といふ、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころからそこの二階にこもって仕事をして居られる」と表現しても、ストーリーの進展に破綻は出ないと思われるのに、「ここの二階に」と書くのは、「私」自身が天下茶屋に滞在していたその時間から見て「ここ」と表現されているのである。
井伏氏側からの視点を交えると、「井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合つてゐなければならなくなつた」と、同じ場所を「そこ」で表している。
5景:「あの富士はありがたかった」
5景に登場する富士は、実際の富士ではない。地質学者を当主とする石原家の写真の富士である。長押に掲げられている富士の火口俯瞰写真を「まつしろい睡蓮の花に似てゐた」と感じ、写真を見るために身体をひねったときに見合い相手を見て、好印象をもつ。富士火口写真は石原家の象徴であり、「あの」と、他者に対峙した気分から指示詞が選ばれている。 
待遇表現にも、主体の意識が表れる。敬語は、古代天皇の自尊敬語などを除いて、話し手から聞き手へのまた発話内に言及されている第3者への敬意のあらわれなので、話し手の意識が見える表現である。「富嶽百景」の待遇表現使用は、主人公「私」から師匠の井伏氏への敬語、他の登場人物から「私」への敬語がある。敬語の使用から「私」の意識を探ってみる。
2景:「井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる」 「井伏氏は、仕事をして居られた」
井伏鱒二は「私」の師匠であり、天下茶屋へ来る前、作家が内妻と心中未遂を起こしたり精神的なダメージを受けたりしたときに世話をし、精神病院への入院手続きなどをおこなった人である。井伏氏は、「私」にとって恩人でありかつ自分を精神病院に押し込めるようなことをした複雑な感情を向けている相手である。井伏氏にはきちんと敬語を用いる。しかし、井伏氏と眺める富士は「俗な富士」と感じられ、有名な眺めであっても「あまりに、おあつらひむきの富士である」「これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた」と感じら
れる富士なのである。ほとんどを語り手のまわりに起きた事実のままに書いているようであっても、私小説は小説であり、作家の目のフィルターを通して描かれる。井伏鱒二は太宰のこの小説の中に実名で登場する自分の姿について「ひとつだけ訂正しておきたい。私は太宰といっしょに三つ峠に登ったとき放屁などしておらぬ」と、太宰に申し入れをした。それを伝え聞いた太宰はすまして「いえ、先生は放屁なさいました」と答えた。
三つ峠での描写。「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた」は、師匠太宰に敬語を用い、師のありさまを悠然、大人然としつつユーモラスな姿に描いている。語り手から見て、「こうあって欲しい」と念ずる「おおらかでこだわらず、愉快な先達」というイメージが託されている。
5景:「井伏氏に連れられて甲府のまちはづれの、その娘さんのお家へお伺ひした」
「私」が見合い相手の石原家へ敬意を持って対していたことが、謙譲語で表されている。
15景:「娘さんは、うつむいて、くすくす笑つて、「だつて、御坂峠にいらつしやるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思つて」
見合い相手のことばとして「私」に対しては尊敬語「いらっしゃる」謙譲語「お聞きする」が用いられ、「私」に対して敬意が払われていることを、太宰がそのまま書いているということから、見合い相手の娘さんの態度を快く受け入れていることがわかる。
16景:「たくさんお書きになつて居れば、うれしい」天下茶屋の宿の15歳の娘が、「私」に対して敬語を使っているのは、宿の客だから当然といえば当然なのだが、作家の目を通して描かれていることを考えると、娘から自分への敬語を受け入れているということである。
 待遇表現から見えてくるのは、太宰の師や見合い相手の一家への敬意だけでなく、宿の人々や文学青年から自分に向けられた敬意をそのまま描写することによる自尊の意識である。妻の不貞や精神病院入院によって傷ついた自尊心が、富士周辺の人々との関わりのなかで、自尊心もしだいに癒されていることが自分へ向けられた待遇表現の受容からうかがえる。
 授受動詞には、発話主体からみての行為の方向が「あげる」「もらう」「くれる」などの補助動詞によって明示される。語り手の意識の方向がやりもらいによって明らかになる表現である。久野(1978)をはじめ、授受表現における表現主体の<主観性>についての研究が提出されてきた。表現主体が自己側から客体を含む世界を捉えようとする意識が、表現主体の主観性のあらわれとして「やる」「もらう」「くれる」などの表現を選択する。表現主体が受益対象と一体的に主観的評価として表現するのが「もらう」であり、受益対象への主体的な行為の贈与が「やる」によって表現される。「受益対象への主体的な行為の贈与が「やる」「もらう」「くれる」によって表現されている部分に、表現主体の客体への<主観性>の表れが確認できる。表現主体の客体への主観性の表れを、授受表現によって観察してみよう。
4景:「井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒さうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないはうがいい、と小声で呟いて私をいたはつてくれたのを、私は忘れない」
 さえない服装をしている「私」に「気にするな」と言う井伏氏に対して、「私」を受益者として表示している部分である。が、「私をいたわってくれた」と、わざわざ行為の恩恵受益者を「私」で明示し「私は忘れない」と強調しているのは、強調しておかなければならない意識があったということだ。通常「くれる」は、わたし又はわたし側の身内に用いる授受表現である。「私を」「私に」という受益者の明示は必要ない。それをわざわざ書いたのは、井伏氏から自分のみすぼらしい状態へ与えられたいたわりのことばを、少々の強調をもって書き残すことが、前妻との自殺未遂から精神病院入院までの一連の負の感情からの立ち直りのためには必要だったのだろうと感じる。太宰にとって、自分のさえないどてら姿は、「男は身なりなんか気にしないほうがいい」と取り立てて言及されずに放っておかれたほうがむしろ気が楽であったろう。井伏氏が気にしているからこそ「気にするな」と述べたのだということを「私」自身が気づいているから「私をいたわってくれた」を特記するのである。
8景:「いちど吉田に連れていつてもらつた」
井伏氏の読者や「私」の読者たちとの交流について述べている部分で、青年たちの主導によって吉田へ出かけたことが「もらう」という動作をうける表現によって示されている。
15景:「かへりに、娘さんは、バスの発着所まで送つて来て呉れた」
見合い相手の石原美智子が「私」を見送りに来てくれたことに対しては、通常の授受文表現で感謝の意識を素直に書いていることからも、井伏氏との恩恵の授受には、通常以上の感情の起伏があったと推測される。
1  9景:「私の結婚の話も、だんだん好転していつて、或る先輩に、すべてお世話になつてしまつた。結婚式も、ほんの身内の二、三のひとにだけ立ち会つてもらつて、まづしくとも厳粛に、その先輩の宅で、していただけるやうになつて、私は人の情に、少年の如く感奮してゐた」
 「私」の実家は再婚にあたって何の援助もしないことを告げてきて、結婚話はしばらくの間停頓していたのだが、「或る先輩」が世話をして結婚式の手はずも整った。「私は人の情けに、少年のごとく感奮していた」と、「私」は感激のおももちなのであるが、ここには見逃せない語り手の「小説的仮面」がある。語り手=太宰治の結婚式は、井伏鱒二の家で行われた。見合いの話を持ってきたのも、甲府での見合いの席に立ち会ったのも井伏鱒二であり、語り手は実名でそれを記している。なぜ、この結婚話がまとまったという所だけ「或る先輩」などという持って回った匿名で書いたのか。
 「身内の二、三のひとにだけ立ち会ってもらって」という部分に結婚式が挙行できることの受益者としての自分の姿が反映しているのはいいとして、「その先輩の宅でしていただける」と、受益+敬語によって事態を説明していながら、意識的に井伏鱒二の名を伏せているのは、前半の見合いの場面では実名を上げているのに、不自然である。本来なら親代わりの兄がその位置に立つべきである「結婚式をまとめる人」の場所、自分の人生の公的な出来事である結婚式という晴れの場に立ち会う人が、師とはいえ他人である井伏であったことに対して、幾分のわだかまりを残していたのではないかとも推測できる匿名化である。
11景:「私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた」
バスの客が見入っている富士ではなく、月見草に目をとめた老婆への共感を「やる」という授動詞で表している。「私」の行為が老婆へ向かっていることを強調し、老婆への共感を強調している。
16景:「夕食後、おかみさんと、娘さんと、交る交る、私の肩をたたいてくれる」
 この場合も受益者は「私」なので、改めて「私の肩」と書く必要はないのだが、「私の肩」と断るところに、おかみさんと娘さんへの他人行儀がうかがえる。
 太宰が周囲の人々と主体的に関わっていく意識が授受表現の中に表現されている。特に井伏への感情の軋轢が結婚式周辺の出来事の授受表現に表されていることが注目される。授受動詞の使用によって受益関係を表現するのは、太宰の自我の表現が「もらう」「いただく」という恩恵の授受に世間との軋轢や師井伏鱒二への二律背反的な愛憎が見え隠れする。表現主体としての太宰の<主体性>は、これらの意識的な授受表現にも表されている。
受身文(受動文)もどの視点からの叙述とするか、という点で、表現主体の意識がよく表れる部分である。
 受身文は、自動詞表現と並んで、日本語が行為主体を背景化し、行為の受け手を主語として表現する叙述方法のひとつである。「私」を主語とする直接受身文は、「私」に意志決定権がなく、受動の立場で存在するしかない場合に用いられている。受動文を選択したという表現意識が表現主体の主観の表れ
である。
5景:「娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた」「写真が、額縁にいれられて、かけられてゐた」
情景描写に受身形が使われている。「写真がかけてあった」と「写真がかけられていた」との違いは、行為者の存在を背景化するか、動詞述語の実行者として行為者を暗示するか、という違いである。「私」にとって、薔薇を植えたこと、富士の写真をかけてあったことが「見合い相手の娘さんの家」の行為の結果として強く印象に残ったことがわかる。「写真がかかっていた」ではなく、「写真がかけられていた」という行為者を意識した受身文叙述を選んだということが、表現主体太宰の「主観」の表現なのである。
「私」が動作をうける被作用者となっている直接受身文もある。
2景:「私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた」
妻の不貞を知る場面。被作用者としての被害感情が受身形によって暗示されている。
15景:「このうへは、縁談ことわられても仕方が無い、と覚悟をきめ、」
 縁談に関しては意志決定は先方にあると覚悟をしている主人公の心理が、受身形で示されている。
9景:「月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。「富士に、化かされたのである」「私は、あの夜、阿呆(あはう)であつた。完全に、無意志であつた」
作者が書いている夜のできごとが「化かされた」という受身形によって不可思議な夜の散歩の無意識を描かれている。
動作主体からの感情表出・評価をとりあげる。動作主体の認識を表す心理的な語は動作の実現に対する動作主体の認識を表し、動作主体の視点から見た外界への描写に読者を引き入れる語となる。また、動作主体の知覚や目撃した外的な出来事の描写や評価の言葉は、主人公からとらえられた外界として、読者を物語世界に引き入れるものとなる。感情表現、評価表現は、表現主体の心理を直接表現された部分として、主観性の強い表れである。
1景:名詞述語文「~は ~である」の文型で富士山の説明が続く。富士の見かけについて「低い」「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい」など、形容詞述語非過去形で述べ、富士の形状に対して主人公が感じた「気持ち」が直接出ている。形容詞述語文でも、「私」が実際に見て経験したことについては「十国峠から見た富士だけは、高かつた」「あれは、よかつた」と、「タ形」が使われている。この「タ形」によって、主人公の実感した内容が内省を経て経験として述べられているように読者は読める。
2景:「じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない」
3景:「ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた」「どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた」
 主人公「私」は、最初のうち師匠の井伏氏の勧めで滞在した富士の「通俗的美」の風景を嫌っていた。芝居の書き割りのような富士の姿を「軽蔑してさえした」と述べる。
4景:「私の姿は、決して見よいものではなかつた」
という高揚しがたい気分から、「私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思はなかつた」と、しだいに見えない富士の前に師匠とふたりでいることの心地よさへと気分が変わる描写も、具体的な心理描写ではなく、富士山を眺め富士の姿の評価から読者に伝わる。
6景:「その有様は、いやになるほど、みつともなかつた」「私は、がつかりした」
身なりだけは西行のように決まっている法師が、案外だらしなく俗臭を発揮することへの評価なのだが、身なりや人からの見栄えを気にして生きてきた「私」を外から見て評価する気分が出されている。
7景:「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。私のひとすぢの自負である」
「けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる」
文学青年たちに「先生」と呼ばれて会談するうち、「私」はそれまでの低い自己評価から反転する。
8景:「安珍を追ひかけて、日高川を泳いだ。泳ぎまくつた。あいつは、すごい」
14歳の清姫が、恋人に会うためには川を泳いで渡ることさえいとわないことを評価する言説を述べ、行動する事への評価が表現されている。
「そこで飲んで、その夜の富士がよかつた」と、これまで通俗的な姿だとけなしてきた富士が好評価に変わる。
11景:「けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた」
富士を眺めるという皆が同じ行動をとる中で、老婆と「私」だけが富士ではなく月見草を眺める。通俗に対する抵抗を他者と共有する気持ちが「あの月見草は、よかつた」という評価になるのである。
14景:「私は、ただ、見てゐなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。 さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた」
富士見物に来た遊女たちの暗い姿を見ていたたまれない気持ちの表出。貧しい者に心を寄せ、地主の身分に罪悪感を感じて共産主義に惹かれたものの、それをも裏切る結果となった「私」にとって、このあとの「富士にたのまう。突然それを思ひついた」という気持ちの転換が、いきなりの信仰体験のように唐突に提出される。「頼もう」という意志形での表出は、全文の中でこの一文だけである。他者への共感と、他者の不幸をただ見ているしかない自分の立場を、富士への祈りとして転換していく主人公の意識が意志形になって表れている。弱く何事もなしえない自分自身を認識するという主体性の表現が、『富嶽百景』の文章中、もっとも強く押し出されているのが、この遊女とのエピソードに出されている。


3.4 「富嶽百景」の叙述と<主体性>
以上「富嶽百景」の文章を、文末述語表現を中心に分析した。「富嶽百景は、表現主体(語り手)太宰治がすべての文を「私」の視点から統一して描写している。発話者は現象や行動を描写する際、発話者自身の断定や推量、疑問などの発話者の主観を付け加えて表現するのであるから、<主体性・主観性>の表れていない文は文として成立しない。<主体性>の表現されていない文はない、ということになる。しかし、言語文化全体を見渡しての<主体性>の表れということになると、subjectivityの両義のもう一方の「主体性=個人独立性・自立性」という意味がクローズアップされる。ここで、この両義については2節での引用「広義の<主体性>の両義である主観性と独立性は無関係にあるのではなく、対規範的な主体性(独立性)が主観性を前提としてこそ主張できるものである」(紅林 1989)を再確認したい。「富嶽百景」における表現主体の<主体性・主観性>の叙述における明示が、小説全体の「個人の意志「独立性・自立性」を支えるものとして存在し、主人公「私」が、自殺未遂からの回復と小説を書くという意志の確認、再婚後の希望へと至る心情の描出に関わっている。
短い文を重ねていき、作者の認識を直接提出し、判断を表す語、主観を表す語を組み合わせて、小説冒頭の「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい」から、終盤の「どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見える富士」に至るまでの心理の変化が、景観の描写であっても、それが表現主体の心理を示すように効果を上げている。小説の終盤、主体的に生きようという気持ちになるまでが描き出され、読者に主人公の心境を伝えている。
文末述語を分析した観点からいうと、太宰は主観的な観察による富士の描写や周囲の人々との交流の描写を通じて、自身の心理的な立ち直り、主体的な生き方の変化を浮き上がらせており、作家の「生き方における主体性の回復」を描写することに成功していると言える。
 「待遇表現の使用」を見ても、太宰の意識の表れが見て取れる。井伏が精神病院入院の手続きを進めたことをあとで知った太宰は「裏切られた、自分は師から狂人と見られていたのか」と落胆し、師への不信の念すら抱いた。師への甘えと信頼、その反面の反発が、井伏鱒二の姿の描写に表されている。師から「精神病院行き」を仕掛けられた屈辱と、それでもなお最も慕わしい人であることの思いは、太宰の師からの自立心と師への甘えの二重の心理が文章中唯一敬語によって行動を描写する、という選択によって表現されているのである。特に、見合いに関わる井伏を実名で登場させておきながら、結婚式に関わる井伏を匿名扱いにしたという太宰の意識は、太宰の主観が積極的に出ているものである。
 太宰治の「富嶽百景」においては、表現主体の主観が叙述の一文一文に明確に表現されている。表現主体の主体性が、叙述形式(テンス、ヴォイス、授受、待遇表現、感情表現など)の選択に表れたとき、読者は表現主体の自立性、独立性も感じ取るのである。


第2章まとめ
 <主体性>という語の持つ意味に「主観性」と「自立性・独立性」の両義があることを第1節第2節で述べた。分野によって一方の意味に偏って用いられることもある。しかし、<主体>という本来の語に立ち戻って文の成立、文章の成り立ちを考えれば、表現主体の<主体>としての存在が表れるのは、主観によるのであり、主観が主体の<主体性>を支えていることが言える。
日本語の文章における<主体性>という問題において、表現主体が自分自身の視点を確立して表現した文は、情景描写においても心理描写においても、強く表現主体者(発話者)の<主体性>を保持するということが言える。日本語の述語とは、第一に表現主体の<主体性>を映し出す性質を持っているからである。
 「主語が意志的行為を行う」という西洋語的な<主体性>表現から見ると、無意志動詞による<主体>を背景化した自動詞文や、授受動詞文や待遇表現によって<主体>と客体の「関係」を文に積極的に反映させようとする他動詞を中心とした日本語文は、「意志を表明することが少ない」「自立性に乏しい」という「非意志的な行為」の文が多いように思われるかも知れない。「富嶽百景」においても、意志動詞文の数は全体の中で少ないことを確認している。しかし、読者が「富嶽百景」に感じるのは、「私」の自立意志、個人の確立である。日本語文が「主語・意志他動詞」という文の形によらず、さまざまな<主観性・主体性>の表現方法によって成立し、それが文章の<主体性>を支えていることを、一文ごとの観察によって確認できたと思う。

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