にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

2010-02-10 06:01:00 | 日本語言語文化

第1章
はじめに
1 B.L.Whorfの用語「標準平均的ヨーロッパ語(SAEL Standard Average European languages)」 
第1節
2 クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らが出会う場において、自然に作り上げられた混淆言語(ピジン言語)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語を指す
3 伊藤真紀子(2008)「シンガポールの英語」『東京外語会会報2008//02/01発行』
4 ポール・ロワイヤル文法は、ポール・ロワイヤル修道院に所属していたアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスロによって成立した。
5 主語肯定論のうち、橋本進吉、鈴木重幸、竹林一志を上げておきたい。
橋本進吉の主語
 橋本進吉の文法論を基本とする、いわゆる学校文法は、主題の「ハ」も含めて主語としている。
 3年生教科書(光村図書出版『国語下』)では
  主語・・・文の中で、「何が(は)」「だれが(は)」に当たる言葉。
  述語・・・文の中で、「どんなだ。」「何だ。」「どうする。」に当たる言葉。
  修飾語・・文の中で、「何を」「いつ」「どこで」や「どんな」「どのように」などに当たる言葉。
 広く「国語教科書」に採用されている主語に関する記述は、口語文法教科書にみられる以下のようなものである。
日本語では、「が」「は」などの助詞を伴った文節が主語である。主語が省略されることも多い。
 しかし、実は橋本自身、主語観として、以下のように述べている。橋本(1948)は
「鐘が鳴る」の「鐘が」も、「鳴る」では何が鳴るか漠然としてゐるのを委(くわ)しく定めるもので、やはり、修飾語ではないかといふ論が出るかも知れません。これは誠に道理であります。実をいへば、私も、主語と客語、補語との間に、下の語に係る関係に於(おい)て根本的の相違があるとは考へないのであります。
 三上章が<主語>という用語を廃し、動詞にかかる<主格補語>の考え方を提出しているのと同様の「主語と補語は下の語に係る関係において根本的の相違があるとは考えない」と橋本も述べているのである。

鈴木重幸の主語
主語肯定論のうち鈴木重幸(1992)は以下のように<主語>を規定する。
主語とは、おおまかにいって、文の表す出来事(ひろい意味での)の中心的な実態(特徴のもち主)をあらわす部分で、述語によってそれの特徴(動作、状態、特製、質、関係など)が述べられる対象となるものである。(鈴木1992 p106)
竹林一志の主部
 竹林(2004)『現代日本語における主部の本質と諸相』は、<主語>という用語ではなく、<主部>をとりあげている。すべての文の機能を「或る対象について或る事柄の実現性の在り方を語る」とした上で、文の機能を構成する基本的根本的2項(前項、後項)を立てる。前項を「主部」と呼び、「主部とは文(sentence)或いは節(clause)において、それについて或る事柄の在り方が語られる対象」と規定している。(48)
 竹林(2004)は、「このケーキおいしいね」では主部が言語形式化されており、「おいしいね」という文では、「主部が何であるかが当該コンテクストからあきらかである、(と発話者によって判断されている)ために言語形式化されない」と述べている。そして、主部を主題主部と非主題主部に分別する(49)。
竹林(2004)に定義されている<主部>という呼び方についてだが、現在の日本語教育の場で<主部>という言い方を用いた場合、橋本文法などにいう「修飾語+主語」を主部と呼んでいることとの区別がむずかしいことを考慮して、現段階では使用しない。また、日本語教育の現場においてpredicate という用語を使うのにsubjectという語を避けているのは、英文法などでSVO、SVC などと言う場合の「S」との同一視を学習者から遠ざけるためである。また、竹林(2004)は<主格>という用語を扱わない、としている。文機能構成上では、竹林(2004)の述べるとおり、「日本語は<主部>、<述部>の2項構成」の説明で必要十分であろう。では、<主格>という概念はどうか。竹林2004は、動詞文の主部には存在する<主格>が、形容詞文では「わぁー、天気がいい」の「天気が」を主格と言われることが少ない、という理由で、動詞文にのみ<主格>をたてる必要はない、としている(51)。しかし、日本語教育においては、助詞の説明に格成分の解説は重要であり、「ガ格」「ヲ格」「ニ格」など、日本語の助詞と名詞の結びつきを取り出してそれぞれの格の意味成文を例示することによって、学習者に文の意味を理解させる必要がある。
 統語上の<主格>を連用修飾成分のひとつとして扱うか、待遇表現などで<主格>が他の格成分とは異なる動詞との特権的な結びつきをする場合があるゆえ他の斜格とは別扱いにするか、という問題は議論が続く問題であり、<主格>の扱いはさまざまな議論を含む。しかし、日本語教育の面では、日本語学習者に用言述語文を教える際に、格成分の提示は必要不可欠である。日本語教育では<主格>ではなく<ガ格>として学習者に提示している。「水が飲みたい」の「ガ格」は、発話者の要求が向かう対象を示し、「花が咲いた」の「ガ格」は、「咲いた」が実現するところを示す、という説明で混乱はない。日本語教科書Sinctional Fanctional Japanese(SFJ)は、対象の「ガ」も動作主の「ガ」もSubject particleとして提出している。
 「東京で働く」の「デ」は場所を示し、「ナイフで切る」の「デ」は道具を示す、という説明と同じように、名詞+助詞の機能が複数あることが理解できれば、「ガ格」に複数の意味があることもわかる。<主格>という名称を用いるかどうかは教育者によって異なるだろうが、談話機能上の<主題><解説>という構造、統語上の<主部><述部>という構造とならんで、動詞述語文を扱うときには必要である。「水!」という一語文は「水を欲している」という希求文、「キャッ。ゴキブリ!」は「ゴキブリがいる」という認識を表す存在文であるとすると、名詞によるコピュラ文、主題解説文・措定文の以外の現象文は、述語に対して名詞の役柄を示す必要が生じ、日本語教育では助詞提示に際し名詞役柄(意味役割semantic role)日本語の<主格>(名詞の意味役割)を教えている。
6 岡部隆志1973「繞(めぐ)る歌掛け--中国雲南省白族の2時間47分に渡る歌掛け事例報告(共立女子短期大学文科紀要17号」田主誠1977「中国雲南省少数民族の歌と踊り 国立民族学博物館.・民博通信1号」など。
7 小柳昇(2009)は、稲村1995を引用し、稲村の分析が妥当であることを認めつつ、稲村が「再帰的他動詞文」とした文を「所有者主語の他動詞文」と言い換えている。主語と客語が所有者所属関係にある構文を稲村(1995)は再帰構文との関連から「再帰的他動詞」と呼んだのだが、小柳は稲村の分析のうち主語客語が所有関係所属関係にあることを重視し、「所有者主語他動詞文」と呼ぶ。小柳の説と先行する稲村の論の間に矛盾はないが、「再帰」という一般にはなじみのない用語より、「所有者主語他動詞文」のほうが、通りはよいように思う。


第2節
8 <名詞+格>の意味と階層
 以下の助詞表示はすべてを網羅するものではなく、主要なものの提示である。また、順序は、表れる名詞階層の高い順を基準にしている。)
 ・動作主(Agent)「が」「φゼロ」
 ・経験者(Experiencer)「が」「に」
・使役者(Causer)「が」
 ・被作用者(Affected)、受益者(Benefactive)、受害者(Malefactive)「が」「に」「を」
 ・相手(Partner)「に」「と」
 ・対象(Patient/Theme)「を」「が」
 ・位置(Location)「で」「に」、
 ・着点(Goal)「に」
 ・起点(Source)「から」
 ・道具(Instrument)「で」「によって」

 これらの動詞にかかる名詞の階層性は
 1)人称代名詞、親族名詞、個人名詞
 2)普通人間名詞
 3)動物名詞
 4)無生名詞 
 日本語のような対格型言語(自動詞主語と他動詞主語が同じ格で表示される言語)は、本来(4)の無生名詞が主格の位置に表れる文は、擬人法以外の表現には表れにくい。英語でThe key open the door. は「鍵が戸を開けた」は翻訳調直訳調と感じられ、「鍵で戸を開けた。鍵で戸が開いた」、という表現となり、英語の主語the keyは、日本語では具格「で」で表示される。The wind open the door. は、「風が戸を開けた」より「風で戸が開いた」のほうが自然な表現である。

第3節
9 『夢の裂け目』は、東京裁判検察側の証人として出廷した紙芝居屋の親方が主人公である。軍部や軍人に責任があるだけでなく、それを支持した庶民にも責任があるのではないかという問題点をあげ、また東京裁判は、東条英機らA 級戦犯を断罪することにより「天皇免責」を当然のこととして周知させるための裁判だったのではないか、ということが、テーマとなっている。『夢の泪』はA 級戦犯松岡洋右の補佐弁護人に選定される予定だった弁護士夫婦や検察側将校の秘書などが登場して裁判についての物語が展開する。東京裁判は、極東委員会が「日本をうまく管理するには天皇の存在が不可欠である。ゆえに天皇に戦争責任なし」と決め、日本国民の中から天皇の戦争責任を問う声が上がらないようにするための裁判であった、ということがテーマになっている。
10 「東京裁判三部作」は2010 年4~6 月に3 ヶ月にわたって再演された。
11 新国立劇場『夢の痂』作品解説
12 レーマとは、文の中の伝達の内容を表し、新情報や未知の情報をもつ部分のことをさす。(ドイツ語を中心とした文法用語ではThema/Rhema、英語ではtheme/rheme)
13 「主語がないゆえ主体性がない」という言説は、現在も変わりなく生産されている。内田樹(2009年08月20日)は、「自民党マニフェスト」についての感想をブログに述べている。この論の中で、内田は日本語文の「主語の欠落」を「行動責任の存在を見えなくするため」という従来の日本語論日本人論を採用している。内田は、「主語の欠落」は、「すべての失態を他責的な言葉で説明するため」に使われているということのあらわれと解釈しており、従来の「日本語主語なし文」の通説に沿った言説を行っている。内田は自民党マニフェストの主語無し文のほか、東京裁判における小磯国昭元首相の答弁をあげ、行動の主体が明示されない、ということの例証としてあげている。「日本語は主語を表現しないから行為主体の責任を明らかにしない」という内田の論は、西欧的な「行為主体=主語」という解釈で物事を判断する見方が広く浸透していることのひとつの例といえよう。



第2章
第1節
1 主語の一般的性質を表現するのに用いる。能動受動態、中間態、中動態などの用語も用いられる。

第2節
2 岩佐茂1990「主体性論争の批判的検討」一橋大学研究年報. 人文科学研究, 28: 177-227)
3 法政大学大原社研1955/2002日本労働年間第28集:268

第3節
4 本節では、1975「筑摩現代文学大系59太宰治集」筑摩書房に所収の「富岳百景」を用いた。
5 亀井勝一郎1959「『富嶽百景』作品鑑賞」、竹内清己1978「『富嶽百景』論作品の様態と生の位相」