聖なる国 日本

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平安時代Ⅰ.「妙見信仰のルーツに隠された祈り」

2023-08-26 | 古代ミステリー

『妙見信仰』の起源

前回の妙見総本宮⛩️千葉神社で紹介した『妙見さま』について深掘り

歴史ミステリーの投稿。少し長めですが🙏興味のある方は御覧下さい。

✨✨✨ ✨ ✨✨✨

妙見信仰は中国の道教の信仰の一つで、天の中心にある北極星を崇める。

神道や仏教と習合しながらも、風水や五行といった古代中国独特の世界観を祭り

群馬・妙見寺、千葉・千葉神社、大阪・星田妙見宮、九州・足立山妙見宮など全国で「妙見さん」と言われ親しまれている。

 

【道教】

数千年の歴史がある中国の道教は、森羅万象、この世の理から人の生死や日常まで、理論学説と実践術が幅広く存在している。

道(タオ)、天帝、尊神、神仙思想にはじまり、延命長寿・不老不死、道徳教、天文学、陰陽五行、易術、風水、気学、薬学、仙術、符術、太極拳、気功術まで、

中国独特の歴史的な世界観や文化を包括しているパラダイム(常識値)であり、宗教だけには収まらない。

なので中国人は太極拳をやっているからと言って「道教徒」とは言わない。

道教の一部は二千年程前から宗教化が進んできたが、「宗教」と一言で言いきってしまうには未だ疑問もあり、西洋的な神を求める崇拝型宗教とは同じではない様だ。

 

元々東洋は、西洋の様に神そのものを求める宗教と違い、(神も含めて)森羅万象・宇宙の理を求めていた自然科学的なものだった。

その後の政策や宗教環境の変化により神々の存在が強く求められていくが、道教だけでなく、仏教も自然科学的な面があり(俱舎論)

宇宙の姿を克明に伝えている。

 

ブラックホールは黒龍

銀河は蓮、

バルジは須弥山、

イベントホライズンは金輪際、

ボイドは虚空など、

当時の人々の言葉で宇宙の姿を理解しようとしていた事は確かだ。(観測でなく想像だけだと思うが😅何故か似ている)聖徳太子がこの世のことは全て「虚仮である」と語ったことも、理論物理学の「ホログラム宇宙論」を一言で現した様な言葉と言えなくもない。

 

【太極(太元)陰陽を生じ、四像八卦を生じる】

道教が言う「太元」とは万物の始まりの事で、「道」タオの本質であるという哲学だった。後に、宗教環境の変化に合わせ、哲学上の太元を ⇒ 太元尊神と呼び人格化して崇拝の対象となる様に創造主(万物主)という宗教的な存在にした。

道教は宗教環境の変化に合わせてこの様に、崇拝対象とする神々が生み出されていった。

妙見信仰も、元々は神ではなく北極星そのものが信仰対象だった。

中国では北極星を北辰と言い、

インド仏教の北斗七星の神である

妙見菩薩』が中国に伝わると、

道教の『北辰』北極星の信仰と合わせて『北辰妙見』となった。

妙見さまは、仏教と道教の混合神だ。

 

千葉の千葉神社は妙見信仰の総本宮だが、妙見信仰はもともと西からはじまった説もあり東西の起源が分かれる。

(千葉神社)

 

大阪の星田妙見宮は、9世紀頃(800年~)空海の修法によって七曜の星(北斗七星)が降臨し祭られたという由緒で、

千葉の千葉神社は、一条天皇の眼病平癒の由緒があり西暦1000年に開山した。

平安時代初期(800年頃)と、

平安時代中期(1000年頃)、平安文化の特徴的な信仰の一つだ。

世界の宗教は太陽神ラー、アポロン、天照大神、ヴィシュヌなど、太陽を人格化して神話を作るが、

道教は人格化した神も作りつつ方位や天体そのものを祀っているのが面白い。

天体の中心で唯一動かない星、北極星=「北辰」、を『星の王』として祀り、天の中心である北辰は、日(太陽)・月・星を掌握し、人の死も司ると考えられていた。

 

【妙見信仰の始まり】

ウィキペディアでは、妙見信仰は飛鳥時代に百済・高句麗の渡来人によって日本にもたらされたと考えられている様だ。

これが、妙見信仰の始まりだろうか?

飛鳥時代と言えば、中国に百済・高句麗が滅ぼされた時代で、日本に多くの百済・高句麗人が渡来して来た。

しかし自国が滅ぼされた直後に、憎き敵国の信仰をわざわざ伝えたりしたのだろうか🤔

 

三蔵法師がインドから仏典を持ち帰ったばかりで、まだインド仏教と道教の神が習合していたとも思えず、

ようやく密教経典が編纂され始めた頃でもあり、早くも信仰対象として日本に伝わっていたとは考えにくい。

(※インドの密教よりも、何故か役行者の修験道の方が早く日本に広がり役行者が齎した可能性は考えられる🤔)

そして飛鳥時代の遣唐使など僧が伝えたていたのは、中国道教との混合仏教などではなく、三蔵法師がインドから持ち帰り伝えられた直伝の『法相宗』だった。

 

もっと以前の【北辰】とは、まだ妙見信仰ではなく天の中心であることから【天帝】を指して言う場合もあり政治用語の比喩として使われていた様だ。

信仰というより道教思想の知識として日本に伝わっていた様で、飛鳥時代の天武天皇は、道教の知識に通じていて

「真人」(仙人となった最高位の人のこと🧿)などの道教の呼称も政治的に用いていたので、高句麗系の天武天皇が、道教の知識としての「北辰」も日本に持ちこんだのかもしれない。

 

天武天皇は、陰陽寮という中務省の道教専門部署を初めて設置したが、「天文を讀み占星術を行い暦を作る」など国家の秘儀を扱う機密機関だった。

奈良時代になり、高句麗系の渡来人が東国に追いやられてしまった後、中央から目の届きにくい環境の中で、

政府直属レベルの道教の知識があった高句麗系の王族や博士、子孫の人々によって、もっと実用的な必要から妙見信仰は始まったのではないだろうか。

中国の神々は、時代が下った後に仏教勢力や貴族勢力に対抗する為に、武士勢力が積極的に用いた信仰である。

そうした意味では、中国の道教は仏教でも神道でもない第三勢力的な立ち位置であり、「妙見さま」は日本で最初に東国の武人が広めた中国系の信仰なのだろう。

 

【平将門】

平安時代は「武士」という存在はなく、まだ「つわもの(兵)」と呼ばれていた。

桓武天皇の子孫の高望王は「平氏」という姓を賜り臣籍降下し、清和天皇の子孫は源氏となり、地方で兵(つわもの)を動かす役割を担っていた。

その中の一氏族である千葉氏が妙見さまを氏神としたのも、戦さの度に祈願し、勝利をおさめたからという由緒があり、勝利の神としての信仰から広められたのだ。

苦戦時には「妙見菩薩により、七星剣を授けられた」と謳い軍を鼓舞して起死回生を図った。

(妙見信仰は、西日本の七夕、東日本の七星剣と、特徴が別れるのはその為なのだろうか🤔)

 

平安中期は「この世をば、我が世とぞ思う…」と詠んだ藤原道長の時代で、藤原貴族が中央を独占支配し、地方の任官・腐敗にも軋轢が生じる様になり、争乱が多発する様になった時代でもある。

兵(つわもの)を動かす機会が多くなるが、権勢の影響は更なる軋轢を生みだし天皇側も藤原朝廷を抑えよう様と心を砕いていた。

一条天皇が、わざわざ東国の香取神社の摂社でしかない千葉氏の「妙見さま」に病気平癒を祈り、「北斗山金剛授寺』と言う寺号を贈り開山させたのも千葉氏を支援する口実だったのかもしれない。

藤原氏が中央の要職を占めていた為に、他の貴族(天皇の降下貴族など)は差別され地方の兵になるしかなかった様な時代だ。


『つわもの』と言う呼び方も、本来は強者ではなく、

『兵は不詳の器(うつわ)=

武器を使うのは立派な人間のする事ではない』と言う意味の

「うつわ者」が語源らしく、謂わば蔑称だ。

一条天皇はその地方の天皇の子孫(つわもの)である千葉氏を何故、支援したのか。何故、千葉氏だったのか?

西日本の七夕と結びつけて考えられている妙見信仰と違い、

東日本の「妙見さま」は、千葉氏が勝利を祈願し、平将門と結びつけて考えたものでやや趣きが違う。

地方では人々は国司の横領の為、重税に苦しみ盗賊が横行していた。

しかし、中央は治安悪化を野放しにしたままであり、国司の利権争いも激化していった。

遂に平将門の乱や藤原純友の乱が起き、平将門は東国の人々の為に立ち上がったが、鎮圧に派兵された藤原秀郷や他の平氏に敗れてしまった

平将門の兵の多くは圧政に苦しめられていた農民であった為、繁農期になり人々が農作業に戻って少数になったところを急襲された。

(平将門)

千葉氏の始祖である下総の平良文は、平将門の同族であり密かに平将門を助け、表向き朝廷側に立ちつつも将門の討伐には直接参加はしなかった様だ。

やがてその子孫の平忠常も圧政に対し反乱を起こした。

政情にもよるが、地方の人々の味方は、中央の敵である。中央は地方の利権争いを制御できず、平将門は闘争の渦に巻込まれていったが、中央からはたとえ反乱者の様に扱われていても、

戦で亡くなった東国の人々の御魂を安んじる為に、

生き残った人々が祈りを捧げたいという願いは当然あったのだろう。

 

平将門の家紋は妙見菩薩から授かったとされていた。

 

千葉氏も堂々と「平将門」を祀ることは出来なかった為、

表向きは「妙見さま」にして平将門を影祀りして、各地に広げていったのかもしれない。

 

川崎⛩️馬絹神社 

(平将門の側近だった興世王が討たれた時、里人たちがその馬の衣を拾って馬絹神社に収め、表向きは興世王ではなく熊野の神として祭った)

 

妙見さまは天の中心であることから「天御中主」という神道の神とも習合されて祭られているが、

天御中主は日本神話では創造主なのでどちらかと言えば、中国の「太元」=物事の始まりである根源的存在=太元「太元尊神」の方が近いと思う。が、

東国では「天御中主」も、アラハバキや国常立神など古い神さまの影祀りの御神名なっていることも多い。

 

平安中期は、つわもの(兵)の地方への土着の始まりと、中央からの任官の争乱の時期だったが、

その後、平安後期には

中央の権勢から離れ地方への土着が進み、つわもの(兵)から武士の時代へと変化していった。

 

中央を藤原氏に実効支配されてしまったこの時代。天皇側も、表向きは道教の神に祈りつつ

藤原朝廷を切り崩そうと

千葉氏が祭った

『妙見さま』(平将門)に願をかけたのかもしれない。

 

 

長い話しを

お読み頂きありがとうございました🙏

✨✨✨ ✨ ✨✨✨

 


中国妙見信仰の総本宮⛩️『千葉神社』

2023-08-20 | パワースポット

千葉神社は、全国の妙見様の総本宮⛩️

千葉駅から徒歩10分。2階にも拝殿があるという日本初の重層社殿がある。

 

妙見様は千葉氏が氏神として、全国に妙見信仰を広めた。
千葉氏は日蓮への出資者(ドネーション)であった為、日蓮でも妙見菩薩を祀る。

妙見信仰は中国の道教の信仰で、天の中心にある北極星を崇める信仰だ。

 

(中国の道教の尊神たち)

中国では北極星を「北辰」と言う。

インド仏教の北斗七星「妙見菩薩」が中国に伝わると、その北斗七星の神と
中国で言う北極星=「北辰」と習合され

【北辰妙見】となった。


道教と仏教の混合神だ。

妙見様と呼ばれ全国で親しまれている。

 

 

 

 

【八方除け・厄除開運】

こちらも神社建築には例の無い『分霊社』・『尊星殿』


星王である妙見さまが掌握する
日・月・星の御力などがそれぞれ個別に頂けるようになっている。

心を込めて柱に触れることで、
氣を頂く。

 

 

十二支十干による方位ではなく、易の八卦による方位神が祭られている。

 

神道や仏教にはない方位の神さま。


巽(南東)、震(東)、艮(北東)、

 

震宮=東宮、艮宮=北東宮と言う様に、

神様と言うより方位そのものを祭っている。

🧭こちらにお参りする前に
自分の吉方位を調べてから来た方が良かったかもしれない🤔

開運と方位除けになる。

 

方位どり(祐気取り)をする時の、お水とり用の霊水。

風水ではその年の自分の吉方位に行きお水とりをする。


自分も稀に方位取りをするが、大概はその方位にある神社などの霊水を頂くが、なければ温泉に入ったりしてくる。

しかし
千葉神社の様に『お水とり』の用の霊水がある寺社は日本唯一かもしれない。

 

 

千葉神社は、千葉氏・三代目平忠常が千葉の⛩️香取神社の境内に『妙見様』を祭ったのが始まり。

一条天皇が香取神社の妙見様で眼病祈願をしたところ快癒し、

『北斗山金剛授寺』と言う寺号を贈られた。

その後、西暦1000年に伽藍が建立され開山される。

 

(?香取神社どこいった🙄)

 

 

元々、神社と道教のミックスが
道教と仏教のミックスになり

明治の神仏分離では、果たして寺なのか?神社なのか?


物議をかもしたが、お神輿の例祭があることから⛩️『千葉神社』
となった。

結局🙄香取神社は無くなった様だが、

(庇を貸して母屋を取られるの例えか🫠)

現在は香取神社ご祭神の経津主命が、妙見様の相神として祭られている。

 

橋を渡ると神道の神々が祭られている。

『摂社』

 

 

 

【千葉天神】

天神様=学問の神様「菅原道真公」も祭られご利益があるそうだ。

 

 

 

「北辰」=北斗七星は天の中心にある為、方位を司る神様であり

千葉神社では道教の中でも方位神が祭られていた。

神道では方位信仰は無いが、創造神である「天御中主」を同じ神様としている様だ。

 

他に類例が無い、不思議なミクスチャー系の空間でした😳

次回、妙見信仰について加筆したいと思います😌

 

お読み頂きありがとう御座いました。

✨✨✨✨✨✨✨🙏

 

✨✨✨✨✨✨


Ⅲ.奈良時代・最終章『あおによし』異聞

2023-08-05 | 古代ミステリー

奈良時代3回シリーズの最終回

古代ミステリー・奈良時代の興亡の歴史です。

前回「何故、中央構造線に神社が祭られたのか」では、弥生時代まで遡ってしまいましたが、奈良時代に伊勢と大和の境界にあったという「水屋神社」に話しを戻して進めます。

 

✨✨✨✨✨✨✨

「あお丹よし」は奈良時代をさして言う枕言葉らしく、丹(赤)の対比色に見事に彩られた都を表現した言葉らしい。

 

丹とは赤い顔料のことで、辰砂という赤い鉱石や、ベンガラという赤鉄鉱のことを言う。

辰砂は、と呼ばれ水銀を含む鉱石で水銀が抽出され、寺社の朱塗りだけでなく「大仏」や仏像など奈良仏教を彩る金メッキの材料としても使われていた。(水銀は金メッキだけでなく金の精製にも使われ『朱』は人類史上最も古くから使われた鉱物でした🙃)

 

大和と伊勢の境界を決めたのが何故、伊勢神宮と春日大社の神だったのか??

「水屋神社付近で、天照大神と春日大明神二人の神が出合い境界を決めた」という伝承に違和感を感じた事から、今回のシリーズは始まった。

大和の平城京には天皇が坐し、伊勢は天皇家の祭祀を行う伊勢神宮の社領である。

天皇を頂点とした日本国の王都エリアと祭祀エリアの境界を、

何故?春日大社の神と対峙して決めなければならなかったのか?

これは大和の実権が、平城宮の天皇から春日大社にとって替わられてしまったという事だろうか🤔

 

春日大社は藤原氏(中臣氏)の祖神「天児屋根命」(アメノコヤネ命)を祭っている神社で、春日大明神と言えば天児屋根命のことだが、

日本神話では、

天児屋根は、天照大神に仕え、天照大神の命令でニニギの天孫降臨に同伴してきた神だ。

以後、その子孫の中臣氏が宮廷の祭祀を行ってきた。

 

天孫降臨の際、天照大神は御魂として祭る様に八咫鏡を曾孫のニニギ尊に託し、

アメノコヤネ、フトダマ命、アメノウズメ命、イシコリドメ命らが、天照大神に命じられニニギ尊の天孫降臨に同行した。

前回の投稿「何故、神社は中央構造線に祭られるのか」に登場する神々たちだ。

 

天児屋根命は、伴臣の1人でしかなく天照大神に祭祀をもって使える神が、天照大神に対して「国境を決める」などと唐突に対外的なふるまいをする事は有り得ない。

天孫族のヤマト朝廷に何か大きな変化が起きてしまった為に、この様なエピソードが残されているのだろう…🤔

 

【奈良の大仏と辰砂】

仏教建築は、仏教の専門的知識がなければできないので仏教勢力の独占だったが、一方で

大仏の金メッキには大量の水銀が必要だった為、水銀の多くは伊勢で産出される水銀に頼っていた。

知識の大和と、原料の伊勢、どちらが欠けても大仏建立は不可能であり、やはりこれが伊勢と大和が拮抗していた一因だったのだろうか?

大和と伊勢の国境というより水銀鉱山のある伊勢神宮内宮の社領地と、

大和の春日大社の行在所である水屋神社の境界という感じもする。

 

大和の仏教勢力は、伊勢の水銀鉱山を直接手に入れる事はできず、

水屋神社で辰砂(朱水銀)が運ばれてくるのを待つしかなかったのだろう。「赤桶」とは赤い辰砂を入れた桶のことだ。

 

水屋神社に残る地名が丹生でなく赤桶というのは、産地ではなく赤い辰砂を運ぶ拠点=ターミナルであったからで、伊勢で採れた赤い水銀が桶に入れられ運び込まれてたのかもしれない。

奈良の都は水銀だらけだったといわれ

「水屋神社」をターミナルとして夥しい量の水銀が

大仏建立のために奈良へ運びこまれていった。

(現在は水銀でなく水を運ぶ神事が残されている)

 

【仏教勢力はゼネコンだったか?】

ゼネコンとは、設計、施工、そして研究まで、総合的に行う請負業者のことだと言う。

奈良の仏教建築を担った仏教勢力は、ゼネコンだったのだろうか?

只の建築物と違い、仏教の聖典と修法に適う専門的知識がなければ、仏教建築はできない。その研究は必要であり、そのための新たな知識を齎したのは遣唐使や渡来人だった。

 

飛鳥時代に、朝鮮半島にあった高句麗と百済が中国の唐の進攻により滅亡し、高句麗人や百済人が大勢日本へ亡命してきた。

一時は日本政府の3人に1人が百済人という状態にまでなり、朝廷は冠位を大幅に増やした。

そして、

飛鳥時代~奈良時代にかけての国土開発は彼らの知識や技術によって推進した。

 

しかし、いくら朝廷に冠位でもって仕えようとも、日本の公地公民制の中では、彼らには依るべき領地がない。

率いてきた部族民も私有民とは認められず、日本国民になった。

奴婢だけは例外とされたが、私有民か国民かは厳しく判別された。

 

部族民を率いてきた亡命百済人にとってこれは面白くはなかった。

百済は和国に比べ「部族連合国」の部族主権が強い国だったので、彼らの特権意識では耐えがたかっただろう。

この意識は、百済滅亡の一因でもあった。

百済は国軍より部族連合軍が主力であり、部族長たちは国よりも部族の利益を考えて戦い

武士の時代の様な主従関係ではないので形勢により、領地と部族民を安堵して貰えれば敵方に寝返ることもあった。

新羅や和国の様に部族連合国からいち早く脱却した国だけが、国軍を持ち挙国一致した戦闘が可能だったのだ。

 

日本は大化の改新より、公地公民を推進し、天皇を頂点としたヤマト朝廷の中央集権と律令化を半世紀以上を費やし行ってきた。

各部族長たちは、冠位や国司の地位と引きかえに、率いていた私有民(部族民)と領地を差し出し、独立性のある「部族」ではなく朝廷に帰属する官僚になっていった。

中大兄皇子も自ら率先して、自分の領地と領民を国に差し出した。

 

孝徳天皇の頃に、それら国民の戸籍が整理され、国民はヤマト朝廷の為に役務につき税を払う様になり、かつての部族長が支配していた時代からようやく中央集権が育ち始めた。

 

この大化の改新の法の執行人に、小角という者が登場した。

 

国民を役務に就かせる為、役の小角と呼ばれ、山岳仏教(後に修験道となる)の開祖でもあり、修法をもって人々を従わせたので役の行者とも呼ばれた。

日本列島の各地の山を開山し、王都や仏教建築、国土開発のために人々を使役した。新たな宗教の布教と共に行われた事業は、小角に行き過ぎはあったにせよ、まだ国家事業の域をでることはなかった。

使役から開発まで全て請け負う側のゼネコンの立場だった。

 

寺社は建立すれば終わりという事ではなく、維持費を賄う為の田畑や耕作人が付与される。

寺領・社領と、神人・出家者、という寺社に属する民となる。

 

建立と共に「三千人を出家させた」とか、「千人を出家させた」とか、規模にもよるが、出家すると寺の私有民になる訳で、税も払わず役務に就くこともない、寺社の為に専属で働く人々になる。

この人々は国王の側から、仏教者に与えられた民だ。国(天皇側)は、仏教の研究から、設計・施工、民衆の使役までを任せ仏教建築物を建立し、維持のために出家者まで与え国威のために仏教を保護していた。

 

建築後は仏教者が運営し免税とした上に維持費まで賄っていたが、どれほど資金をかけたところで国が回収できるものは無い😔

肥え太るのは請け負った仏教者で、数を増やすほどに比例して国力は失われていった。

(日本に古くからある免税用語「坊主丸儲け」はこの時代から生まれた言葉だろうか、、🤔)

部族民が全て国民にかわった大化の改新以降、国民が役務につく様になってからも、

この出家者という名の「仏教の民」たちは、維持のために引き続き例外として免税地に残っていた。

白村江の戦いから壬申の乱を経て、造船、築城、軍用道路、兵役、遷都、輸送、開墾と、国民の労役は間断なく続いた時代だ。

 

亡命百済人らがこの例外に飛びつき、勢力を成したのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 

役の行者や、亡命高句麗人らは関東に追いやられ、

奈良時代になると中央では、百済人らが野合し技術者、医者、政治家、職人、宗教者、建築者、学者らによる強力なコングロマリット(複合産業集団)が形成され、ヤマト朝廷を脅かすほどの一大勢力となった。

彼らは、仏教者を矢面に立て『免税地』と私有民の確保に乗り出した。

医療・薬学から、開墾・治水事業まで、かつてなかった新しい技術で、国が施すべきであろう様々な事を民衆にもたらす彼らは、何処に行っても喝采で迎えられ全国各地を周った。

おまけに仏教に入信すれば役務や兵役も税金も免除されると聞き、民衆は彼らを大歓迎した。

 

国土開発は、亡命百済人たちの技術や知識で進められてきたが、

国の請け負い事業のはずだったものが、やがて彼らの独走に変わっていた。

 

私的に資金を募り、民衆の為に開墾を行い、橋を架け、施術を行い、同時に布教をしながら、千を越すとも言われる寺院を各地に建立して、民衆を出家させて、国の役務と税から解放して寺院に帰属する私有民に変えていった。

百済系の僧侶(行基)や、百済系の王(長屋王)も登場し、遣唐使らも巻き込みながら、天武天皇系、藤原氏、天智天皇系、百済系、仏教勢力が蠢くカオスな状態へと奈良時代は突入した。

 

 

【神仏習合の始まり】

百済系の移民たちは新興の仏教勢力と野合し、天皇や朝廷を脅かすほどの大勢力となり、

藤原氏の中枢である藤原四家(北家、南家、東家、西家)の主だった権力者たちが天然痘で一斉に亡くなり、藤原氏は力を失った。

 

藤原北家の残党だけが新興の奈良仏教の勢力下でかろうじて生き伸びているという状態になった。

藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は乗っ取られ、関東を押さえていた「鹿島神宮」「香取神宮」の神々は奈良に遷され「春日大社」に祭られ、興福寺の配下となった。

これが、日本の神仏習合時代の始まりだ。

 

仏教勢力は、かつて天皇側だった藤原氏の勢力を切り崩すと、そのまま国境の水屋神社まで勢力を広げていた。

気がつけば、役の行者を関東に追放し、高句麗の移民や王族らも関東に移し、遣唐使・吉備真備は九州に左遷させられ、藤原氏も四家のうち三家が失われ仏教勢力の配下となってしまい、いつの間にか平城京で天皇だけが孤立している様な状態になっていた。とうとう、

天皇は「仏教勢力の下僕である」ことを宣言させられ、

もはや国王の地位は風前の灯になった。

 

奈良仏教の首魁である法王・僧道鏡が登場してくると、

仏教勢力の実質的な支配だけでなく、遂に天皇の位を譲れと迫ってきた。

調度この頃に、興福寺の配下で春日大社の行在宮(天皇の滞在する仮宮)として水屋神社が置かれたのだ。

これは明らかに平城宮の天皇の行在宮としてではなく、

法王の行在宮として置かれたのではないだろうか。

あえて天皇しか使わない「行在宮」としてしまうことからも、法王の王権が当時どれほど強かったのかが推察される。

歴史上では、法王は天皇の上の位とされていた。後世の上皇の様な存在だったのかもしれない。

院政や摂関政治、幕藩政治の様に、天皇に実権を持たせない体制が日本で初めて(束の間だったが)奈良で誕生しつつあった。しかし、

法王・道鏡の企ては失敗に終わり、道鏡の失脚後は墾田永年私財法も差し止められた。

これにより、仏教勢力が新たな免税地を手に入れる為には、既存の免税地=神社が持つ社田や神領を手に入れるしか方法が無くなってしまった。

仏教勢力は、この頃より「神道の神とは、仏教神の化身である」と言う方便を唱えて、神社を仏教の勢力下に置いていく神仏習合の時代が本格的に始まった。

 

「神仏の対立から仲良く神仏習合。お寺は国立大学の様な存在だった。」と、私達が知る様な歴史とは些か違う気がするが、奈良時代のリアルへ少しは近づいたと思う。🤔

 

道鏡と道連れの様に天武天皇系の皇統は滅びてしまい、皇統が一世紀ぶりに天智天皇系に移ると、天皇側は奈良仏教との袂を別ち奈良からの脱出を試みる様になった。

他に藤原氏や帰化人勢力など、奈良仏教に野合していた人々も天皇側につき、奈良の仏教勢力だけが取り残された様子が覗える。

 

桓武天皇は、京都の長岡京に遷都すると共に平城京の第二の都であった流通拠点「難波京」を閉鎖し、奈良仏教は半ば経済封鎖されつつあった様だ。その後、天皇側には藤原氏の暗殺に始まり、伊勢神宮の放火や桓武天皇の周囲での変事や、長岡京の度重なる災害が立て続けに起きた。桓武天皇は長岡京を放棄し、

平安京への遷都を行い、遂に新たな時代を切り開いた。

 

奈良の仏教勢力はその後も残り、平安仏教と対比して「南都・北嶺」と呼ばれる様になったが、貴族の時代となった平安京で再び権力の座を手に入れることはなかった。

 

「あおによし」という青と丹(赤)の対比色が、まるで法王天皇を対比を伝えているかの様に、今も奈良をさして言う枕詞に綺羅として残されている。

 

長い話しを読んで下さりありがとう御座いました。🙏✨

✨✨✨✨✨✨✨✨

 

古代ミステリー・シリーズ「あとがき」

前回は、室町時代、今回は奈良時代で、このまま書き続けていくと日本の

「宗教政策通史」が出来上がるかもしれない…🤔

📿仏教伝来後の日本では、

武力を用いて恐れさせ、強引に従わせると言うことよりも、

宗教を用いて祟りや呪い、仏罰を恐れさせ従わせると言う方法が定着しつつあった。

律令と武力だけでなく、宗教という見えない鎧がなければ国は治められない事を為政者たちは知っていたのだ。

元々、日本人には呪いや罰といった恐れの信仰が無かった為に、これはかなり効果的なマインドコントロール方法だった様だ。

やがて、次の時代には中世独特の👹呪術的信仰の時代が開花する。

呪い調伏、祟り封じ、かつての日本人には無かった恐れの信仰が支配した時代だ。

国宝級の地獄絵図 などを見ても
時代が下るごとに猟奇的で、怪奇なものになっている。

次は、平安時代にもスポットを当てて

この特異な時代を深掘りしてみたい😌


Ⅱ.奈良時代以前【神社は何故、中央構造線に祭られたのか】

2023-08-02 | 古代ミステリー
  1. 前回の続き、古代ミステリーの投稿です。✨

 

中央構造線とは、関東から九州まで日本列島を東西に横切っている大断層のこと。

香取神宮・鹿島神宮、諏訪大社、伊勢神宮、石神神宮、宇佐神宮、幣立神宮など、⛩️名だたる神社がこの線上に祭られている。

奈良時代の投稿だが一度離れ、これらの神社が祭られた古代まで遡ってみる。

何故、神社は中央構造線上に祭られているのか?

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中央構造線上に、主要な神社が多く祭られている事はよく知られていて、

「ゼロ磁場の影響があるパワースポットだから」

「地震の影響が多いスポットだったから」など、祭られている根拠は様々な憶測があって、古代ミステリーファンの好奇心を掻き立てられている。

 

それとも理由はなく、たまたま偶然並んでいるだけなのだろうか?

 

中央構造線は、鹿島神宮辺りからフォッサマグナ東端に沿ってやや北上し、フォッサマグナ西端にある静岡・糸井川構造線と交わる辺りで、南に折れ曲がる。

この交差する地点は、諏訪市と茅野市の境界辺りで、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界でもあり、ここに諏訪大社が祭られている。

主要な神社と言ってもこうしてみると神社ではなく、諏訪大社以外は「神宮」が多い。神宮は明治神宮や伊勢神宮など天皇家と関わりのある特別な神社だけが「神宮」と呼ばれる。

 

一方、「レイライン」と呼ばれる北緯35度付近のラインにも神社が祭られていて、こちらは光の道(レイライン)という文字通り太陽の日照時間が最も長いラインであり、太陽の恵みを最も受けられるスポットだ。

 

西端は島根県「出雲大社」、東端は千葉県「玉前神社」で、出雲は櫛稲田姫、そして玉前神社に祭られる玉依姫も稲作を伝えた神であり、農耕民族にとっては雨の恵みと太陽の恵みは無くてはならなかったので、サンロードとも呼ばれるこの太陽の恵みライン上に田畑を拓き、社を祭り豊穣の祭祀を行っていたのかもしれない。

 

天の恵みパワースポットのレイラインと比べ、

地のパワースポットの中央構造線上で祭られている神宮や神社、特に皇祖と関わりのある神々たちは、大地の裂け目からどの様な恩恵を受けていたのだろうか?

 

【大地の恵みと神宮】

中央構造線は、約1億年前の白亜紀の頃に誕生した大きな断層で、大地の横ずれが日本列島を東西に横切っている。中央構造線の北側はマグマの噴出があり南側はないという、特殊な地質ラインの様だ。

この中央構造線上の大地からは、「丹生」と呼ばれる鉱物資源が古くから産出されることが知られていて、縄文時代早期から採集が行われていた。

丹生とは赤い鉱物のことで、赤鉄鉱から採れるベンガラや、辰砂(朱水銀)などを「丹生」と言い、赤い着色顔料として使用された。

縄文土器の着色から、神社の朱色まで日本文化の彩に一万年近く使われてきた伝統的な赤色顔料だ。

 

 

 

(※朱とは=水銀のこと。朱色の鉱石で無機水銀なので害は比較的少ないらしい。かつて消毒に使用された所謂赤チンの材料。仏教伝来と共に鉛を焼いて赤色化させる方法も使われる様になりこれも「丹」と言う)

 

しかし、丹生は顔料だけにとどまらず、

製鉄が渡来した弥生時代頃からは、赤鉄鉱のベンガラは製鉄の為に使われ、

秦氏が渡来した古墳時代からは、辰砂から水銀が採取される様になり、金の精製や金メッキに使われる一層重要な鉱物となった。

なので、中央構造線に限らず「丹生」が産出され製鉄が行われていたエリアでは、丹生都姫神社や丹生神社が祭られている。ちなみに中央構造線上には高野山もあるが、丹生都姫は、空海を高野山に導いた神としても知られている。

 

辰砂(朱=水銀)

 

 

 

前回の投稿から挙げている中央構造線上にある『水屋神社』の東は、伊勢神宮社領内(多気)に丹生水銀鉱山があり、西の大和方面(奈良県宇陀市)に抜けるとやはり水銀鉱山がある。

 

そのまま、中央構造線を西に沿って、丹生川上神社中社、上社、下社と続き、奈良盆地には鏡作坐天照国照神社があり「石凝姥命」という鍛冶の神や、物部氏の始祖ニギハヤヒも祭られている。

太玉命(フトゥダマ)祖神とする末裔で、天孫族の製鉄部族を率いていた。

 

十種の祓詞という祝詞に「皇神たちの鋳あらわし給う十種の宝」とあるが、王家の象徴である神具や鉄器は無二の神宝で、王には必ず鋳物を扱う専属の鍛冶職人がいた。日本神話では

忌部氏の天目一筒神(天津麻羅)が天孫族の神具の金工を担っていたとされる。

 

物部氏は神具でなく武具を扱った。「物」とは刃物のことで、刃物を扱う部族なので物部という。香取神宮の御神名の布津御魂の剣や、石神神宮の七支剣など物部系の神剣がある。

 

石凝姥命は、天皇家の三種の神器の一つである「八咫鏡」を作った神様で、日本神話では天岩戸隠れのときにオモイカネに命じられ八咫鏡を作り、鏡の光で岩戸から出てきた天照大神に鏡に映った御姿を見せたという。神具、武具、神器と、それぞれに鍛冶の神がいる。

 

更に中央構造線を西にいくと、

 

和歌山市には八咫鏡に先立って作られた日像鏡をご神体とする『日前神宮』と、日矛鏡をご神体とする『國懸神宮』が祭られている。

 

枚挙に暇がないが、中央構造線上の神社は鍛冶や製鉄に関係する神々が祭られ、そして「神宮」と呼ばれる天孫族系の主要な神社が多く、日本の神宮の1/3が中央構造線上に祭られている。

日本列島を統べた天孫族が、地下資源の得られるエリアを次々と拠点にしていったのだろうか?

 

【伊勢神宮と水銀を伝えた秦氏】

⛩️宇佐神宮は、九州の中央構造線の近くにあり、秦氏が渡来してきた時の拠点である。

 

日本に製鉄と辰砂から水銀を採取する方法や、養蚕や機織りなど殖産の多くをもたらした。

水銀採取法は秦氏が初めて日本に伝えたとされ、秦氏が拠点として造った秦王国は「辰王」とも言うので水銀の原料が「辰砂」と呼ばれている事とも関係があるのだろうか🤔

(中国の辰州で採れるからです😅☝️)

辰砂から採れる水銀は、大仏や仏具の金メッキの為に使用され、奈良の大仏建立時には、夥しい量の水銀が奈良へ運びこまれてきた。

仏教にはなくてはならない資源で、当時は水銀が金や銀よりも価値があった事もあり、どこの寺社でも水銀を備蓄していた。

しかしなんといっても伊勢が水銀の有数の産出地であり、奈良平城京の仏閣建築の殆どを賄っていたが、それだけに留まらず、中国にまで輸出されていたほどの最大の産出地だった。

(水銀の産出国は、日本・中国・スペインと限りがあり古代では大変貴重なものでした🙄産出国にまで輸出するのは相当な需要と伊勢の供給量があった様で、伊勢は日本と言うより世界有数の産出地だった様です🤔)

 

伊勢神宮の社領から採れる水銀資源と、

仏教勢力の仏教建築の専門性と、双方が合わさり奈良の仏教建築は可能となっていたので、双方の立場が拮抗していたのはそうした理由もあったのかもしれない、🤔

 

「製鉄を制する者が国を制する。」

「水銀を制する者が国を制する。」と言われた事もあり、

 

石器から鉄器に替わった時代、

弥生時代~古墳時代(4世紀頃)に渡来した王族たちは、中央構造線上の鉱物資源が多く採れるエリアに「宮」を置き拠点としていた。

 

古代は祭政一致であり、古墳時代までは祭政はそれほど分離してなかった為、

 

「宮」=王宮のことであり同時に

「宮」=神の坐す場所でもあり、

当に神宮と呼ぶのに相応しい王都だったのではないだろうか。

 

ちなみに四国の中央構造線上には古代の鉱山はないので、神宮もない。

中央構造線上では鉱物由来の拠点はヤマト王朝のあった紀伊半島(ヤマト水銀鉱床)に集中していて、他は必ずしもそうではないのだ。

 

関東・九州の中央構造線に至っては地中深くに埋もれていて実際は何処にあるかは確認できておらず、やはり四国と同様に大地の恵みへ手がとどかないエリアだ。

 

例外的に、宇佐神宮のある九州東端の大分には別府金山・臼杵丹生郷などの鉱山(香久山)があり、四国東端には安房水銀鉱床があり、天照大神の葬儀を行ったという伝承がある八倉姫神社がある。

関東西端の武蔵野国一の宮の氷川神社がある埼玉県は、「地球の窓」と言われる程の地下資源が豊富で、奈良時代の和同開珎~昨年閉山した秩父鉱山まで、日本有数の鉱山が多いエリアであり、丹生の採集も古くから行われていた様だ。

 

しかし、関東の香取神宮、次いで鹿島神宮などは「王の宮」ではなく⚔️東征した物部氏や🧿平定した中臣氏の拠点だった様で、

中央構造線上に建立というよりも、東日本平定の為に最東端の岬から上陸し、拠点を構えたと言うだけなのかもしれない。

 

(たまたま突き出た最東端と構造線エリアが重なったのは、フォッサマグナでへし折られた時の影響も関係あるのかも?しれないが…)

 

弥生時代の初期に渡来してきた

農耕民族は、天の恵み「レイライン」上に宮を置き

弥生~古墳時代に渡来してきた

製鉄民族は、地の恵み「中央構造線」上に宮を構え栄えた。

と、言った感じではないだろうか。🤔

 

諏訪大社のある信州エリアについては書くと長くなりそうなので割愛する。単に製鉄や農耕、中央構造線と言った視点だけでは覗い知る事のできない、日本の中でも稀な伝統とヤマト族とも違う民俗性が残る特殊なエリアだ。

 

最後に、幣立神宮がある熊本は謎としておいていきたい。😌

 

次回、奈良時代の最終章へ続く…

 

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長い話を、最後まで読んで頂いてありがとうござました。🙏

(古墳時代の須恵器「はそう」)

水銀を丹生からエア・リダクションで抽出する為の蒸留器。小型のものは祭祀用で全国から出土している。