壱岐の島【月讀神社】
壱岐島といえば【月讀神社】
月読の命は、黄泉の国から戻ったイザナギが禊をした時最後に生まれた神々
天照大神とスサノオの命の兄弟で「三貴子」と称される三柱の一人。
天照大神は高天原を
須佐之男命が海原を、
月夜見尊は夜の国を治めることとなった。
「月読神社」ではなく伊勢神宮と同じ
「月讀」神社として祭られている。
しかし、「三貴子」とはいえ月読様は
他の兄弟に比べてとても影が薄く、
伊勢神宮や神明社に祭られてる天照大神や
氷川神社や八坂神社に祭られるスサノオに比べると、
祭られている神社が圧倒的に少く存在感がない。
ここ壱岐の島の月読命さまは、ひっそりと鎮座しつつも確かな存在を感じる。
全国月読神社の元宮であり元は海里宮とも。
月讀命
月夜見尊
月弓尊
壱岐の島の月讀神社は三柱の呼び名で、それぞれ別々に祀られている貴重な神社。
三柱の神様が祀られているのは、意味があると思う。
新月・半月・満月などと考えることもできるが、
それぞれ月に関係する別格の神様だったものが習合され、
『月読命』として呼ばれていたのかもしれない。
諸説あるとは思いますが、月読様について考えてみました。
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【月読尊の謎】古代ミステリー
Wikipedia には載らないようなアナザーストーリー、、ここから先は
マニアック好きミステリー好きでない方は読まないで下さい🙏長文です…
ブログ中😳最長、、
壱岐の島といえば『月読命』、
『月読命』はイザナギが黄泉の国から帰り禊をしている時に最後に生まれた神々で、天照大神とスサノオの兄弟。
三兄弟は『三貴子』とも称されるが月読命は他の兄弟と比べてとても影が薄い。
ギリシャ神話の三神、
ゼウス(天界)、ハデス(冥界)、ポセイドン(海界)になぞる為に造られた
「架空の神様」では??、、という説も出るほど。
存在感がない。
存在感がないのではなく、むしろ隠されているのかもしれません。
実は、男性神なのか女性神なのかさえよく分かってない、
この謎の深い『月読様』の存在について考えてみます。
伊勢神宮・神明社で祭られてる天照大神、
氷川神社・八坂神社に祭られる須佐之男命、
合わせて数万社とも言われるが、月読命を祭る神社は全国で80数社しかないなという。
これは、古事記や日本書紀に一切登場しない『瀬織津姫』を祀る神社よりも少なく、隠れキリシタン寺のレベルです。
(兄弟神というよりもはや隠し子的存在😅)
なぜこんなにも少ないのか?
これでは『三貴子』と称されながらも【封印】されてる存在のよう。
古事記や日本書紀に出てくる神話のエピソードもほとんどなく
「食ノ神を斬り殺した」、
「海原を納めることとなった」、
この二つのエピソードだけだ。
しかしこのエピソードは須佐之男命のエピソードとしても書かれていて、
その場合、月読命は海原でなく「夜の世界を治めることになった」とされる。
月読命が治めたのは、夜か?海原か??どちらが本当なのか分からない。
しかし、ここ『壱岐の島』にあっては、夜の月と海原の神に祈ることは、同じと考えてもよいと思う。
古代より船乗りたちは夜になると、北極星(北斗七星)を頼りに航海をしていた。
対馬海峡は温暖で雨が降りやすく、梅雨・秋雨前線が停滞しやすい為、夜空が雲で覆われて星を見つけることができないこともあり、そんな時はかすかに漏れ光る🌖月の明かりを頼りに方角を知るしかない。
月を読む、、🌘🌗🌖
潮汐のみならず月の運行と暦を知ることは、対馬海峡を渡る船乗りたちにとって命がかかる事であり、
皆、
🌗夜の月と🌊海原の神に航海の安全と無事を祈っていたのだろう。
壱岐島の【月讀神社】は
⛩️月讀尊
⛩️月夜見尊
⛩️月弓尊
3柱の神様が祀られているが、わざわざ分けて祭るには意味があると思う。
それぞれ別格の神様だったものが習合され祭られていた。
その様な角度からそれぞれの神格と『月』にこめられた意味について深掘りし、月読命さまが他の兄弟神と比べ控えめな理由を考えてみます、、
🤔(ヒマだな)
一支国(壱岐の島)の王都が栄えた2000年くらい前まで遡り、、
①⛩️🌖『月夜見尊』
元々、月読神社は航海の大族であった壱岐氏が祭っていた航海の神だった。
こちらがその月読様で、夜の月と、海原を治めた航海の安全を守る神様だったのではないだろうか、、
『月夜海』と書くこともあるし。
対馬で日の神を祀り
壱岐島で月の神を祀り対をなし、
海峡を渡る船乗り達にとっての守り神のような存在だった『月夜見の尊』
最も古い月読様かもしれません。
⛩️ちなみに対馬で祭る日ノ神は
太陽神ですが、『天照大神』とは別の
『天照御魂神』という男神で、諸説あります。
対馬から奈良県橿原市の『目原坐高御魂神社』等に分祠されてますが、愛知県一宮に祭られているニギハヤヒの妃の父・天照国照火明命(ホアカリノミコト)も同じ神様かもしれません。
天照大神と兄弟神でありながらも、
天照大神とは別の太陽神🌟
天照御魂神と相神として海峡に祭られていたとすれば、
それも月読様が控えめになってる理由かもしれません、、。
②⛩️🌘『月讀尊』は、、
月氏国に関係しているのではないか。
その【月氏について】、、😌から書きはじめます。
『月氏国』は紀元前2世紀頃から紀元1〜2世紀頃まで栄えたアジアの大国。
他の遊牧民族の侵攻によって東西に逃げ、大月氏と小月氏に分裂した。
大月氏はインド北西バクトリア地方にいたが、一部はビルマ方面に逃げ紀元1世紀頃〜南海ルートを北上し、南西諸島を抜けて九州にまで逃げてきたと言う。
(1世紀、丘氏によって月氏の諸侯が滅ぼされた)
当時、壱岐の島は一支国といい「原の辻」という都が置かれ、日本列島や朝鮮半島を目指してやってくる部族達が立ち寄り交易で賑わっていた。
壱岐の島は、平地が少なく耕筰による食料の自給が出来ない為、海上交易でなりたっていた島だ。
まさに海のオアシス国家で、
王都の「原の辻」という文字通り「海原の辻」(分岐点)の役割を果たしていて、南海から北上してきた『月氏』もここに立ち寄った。
九州には漢の皇帝より「漢委奴国」という【金印】を拝受していた奴国(福岡)という強国があった。
東アジアで金印を拝受した国は他にはなく、漢が朝鮮半島を支配するために置いていた「帯方郡」と「楽浪郡」などは【銀印】だったことからも
奴国が東アジア諸侯よりも如何に強力な存在だったかが伺える。
※奴国=委奴国(いとこく)福岡県糸島半島にあった国
月氏は強国である奴国との接触を避け、
「一支国」(壱岐の島)から
そのまま朝鮮半島に渡って
「月支国」を作った。
(後に百済の一部となる)
一部の月氏は対馬海流に乗って日本海から裏日本に上陸したと言う。
しかし、大部分の月氏は一支国から朝鮮半島へ向かったので、立ち寄っただけでは日本列島側にその足跡が少ないのは然るべきだろう。
月讀尊の「讀」とは、
一時留まる・立ち止まるという意味もあるらしく
月氏が立ち寄ったという意味の『月讀尊』であり、
月氏、又は月氏の神が月讀神社で祀られたのかもしれない。
一支国と月支国、
壱岐と月氏が繋がった『月讀の尊』
※交易市場での様子😌
声を出して売ること=言売=読
声に立ち止まり士が買う=言士買=讀
🙄ホントかな
※【漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした後、漢の支配が最盛となり朝鮮半島南端にまで及んでいた紀元前後の様子】
百済、新羅、和国などの大国は4世紀頃まで建国されず、この頃は幾つかの小部族が連合した小国ばかりだった。まだ百済は前身の小国伯斉国でしかなく、月支国は馬韓地方の中心勢力となった。
漢は半島から列島にかけて支配を伸ばしその後、対馬海峡を渡り、強国の奴国を取り込んだ。真番郡や臨屯郡などは無くなったが、漢より金印を授けられた奴国(福岡)の勢力は対馬まで及んでいたと思われる。
一支国(壱岐の島)もその傘下に入ることで繁栄していた可能性もあるが、海を渡ってくる渡来部族らとは必要以上にいちいち事を構えることはせずにひっそりと送りだしていたかもしれず、そのあたりにも月読様がひっそりとしている理由があるかもしれません、、
③⛩️🌗月弓尊
月弓とは半月のこと。しかし、
私はこの月弓尊が『弓月君』に思えてならない。
月読、月夜見、月夜海、月詠、月讀、
どれもツキヨミなのに何故に突然😳
月『弓』ユミ? と、そこに引っ掛り
(もしかすると女神だった様な気もするし、、🤔)
女月神、姫月神、、?
弓月君とは弓月国の融通王のことなので、弓月ユヅキは
融通ユヅ➰の当字かもしれないが?(ユヅが多くてややこしい🙏😅)
壱岐島の石田郡には、
優通ユウヅーの駅が置かれていた事もあり融通ユヅ王にも一脈通じる。
何れにしろ、
【弓月国】の王をさす。
(漢字文化が入ってきたのはスズリが発見された二千年ほど前と思われますが、現代の様に日本語の発音と訓読みの紐付けが熟成されてなく、最初は当字から試行錯誤がありましたとさ🤔)
また弓は丘・休と発音が同じキュウなので、月氏の諸侯である「丘氏」「休氏」のことかもしれない。が、隠したり封印したりするほどの理由が分からないので、月氏は関係があると思いますが休みしし置いておき、
ともかく
⛩️月弓の尊=「弓月の君」から考えてみました。
弓月国はかつて月氏がいた場所に起こった『景教徒』(キリスト教)の国だ。
弓月君は中国側からの圧力に耐えかねて、4世紀に『弓月君』が民を率いて和国の応神天皇の元へ逃げてきた。
弓月国には、ナラ、ヤマトゥ(神の民)という地名があり奈良・大和の語源ではないかと云われている。
百済辺りまで来たが新羅に阻まれて日本列島に上陸することができなくなっていた為、和国の天皇
『応神天皇』は日本列島側から精鋭兵を出兵させ、朝鮮半島の任那に布陣し新羅側を牽制して無事に弓月君の亡命を受け入れた。
弓月君はユダヤ系渡来部族『秦一族』一万数千戸を率いてやってきた。
総勢10万に及んだ、
古代アジアの民族の大移動だった。
もしかすると率いたというよりは、ユダヤ系渡来氏族である秦一族と、百済にいた『月支国』の末裔たちが弓月君を奉戴して守ってきたのかもしれない。
航海の大族であった壱岐氏は、この時『秦一族』の渡来の為に船を出し渡航に協力した。
ここで秦一族と壱岐氏、
壱岐氏が祭る⛩️「月夜見尊」と、
秦一族が奉る⛩️「弓月の君」とが繋がる。『月弓尊』
弓月君は渡来後、入京したがその後々のことはそれほど知られてない。
秦氏と同様に歴史の表舞台にはあまり登場せず、京都に拠点を置きひっそりと存在していた様だ。
そのあたりも月読神社が少ない理由だろうか。
と、、以上
壱岐の島【月読神社】では、敢えて分けて祭られていた三柱の月読様の存在について考えてみました。
△◆△◆△◆△◆△◆△◆△
更にここからは「古代ミステリーロマン」的に書いてます、
弓月君と秦氏についての長文です🙏😔
今までも結構長々書きましたが、、😅
興味のある方はご覧下さい。
【弓月とユダヤ系渡来部族・秦氏の謎】
弓月国は『景教』(キリスト教ネストリウス派)の国で、ネストリウス派とは神性としてのイエスキリストだけではなく、
『人間』としてのイエスキリストを認めていた為、
キリスト教では異端とされて東へ東へと教義を守り逃げていった。
もしかすると教義だけではなく、実際にマクダラのマリアと人間イエスキリストの間に生まれた子・その子孫である姫を大切に守り続け逃れていたのかもしれない。
(姫=ユダヤ系はレビラト婚と言って女系軸を大切に守る習慣があります🧕)
弓月君と共に渡来した秦一族は、日本に帰化すると大分県の宇佐・国東半島に【秦王国】を構えた。
後に秦氏一族が崇敬する宇佐神宮(八幡宮)がここに創建される。
ユダヤ系渡来部族の『秦氏』も、また謎が深いです、、🤔
空海や平清盛のように
「渡来系ユダヤ支族の秦氏である!」などと言われてしまうような有名人もいるが、秦氏はあまり表には出ず裏から朝廷と結びついてきた一族だ。
渡来した後、朝廷ではずっと大蔵省を務めて日本の経済と流通の発展に尽力し富を築いてきた。
(古代版ロス・チャイルド家?😂)
中国の先進的な機織や養蚕を持ち込み
干拓事業や鍛冶を日本全土に広げ
また全国に秦一族の氏神である稲荷社を置き、
稲荷社で殖産を祈り、
鍛冶を担い養蚕や機織りを民衆に伝えて、日本各地の経済を発展させてきたのが秦氏である。
秦氏といえば秦。
漫画『キングダム』で有名になった
紀元前に中国を統一した『秦』という国は、もともと中国の西部にあり【月氏国】など異民族と接していて、秦の始皇帝は祖母方がユダヤ系だったらしい。
漫画の世界ではイケメンに描かれてて濃ゆさが全くないので想像しにくいですが、実は秦の始皇帝は中国人には見えないワシ鼻でごっつい顔してたらしいです、、😳
(基本的に中国で中国人が建国した王朝は『漢』だけで、周・秦・十六国・北魏・隋・唐・十国・金・宋・元・明・清…等四千年の歴代王朝は全て異民族の打ち立てた征服王朝だったそうです)
この頃の月氏国は大国で勢いがあったが、秦はその後顧を憂うことなく、始皇帝が東へ攻め続け中国を統一することができたので、月氏との関係は密だった。むしろ月氏の後押しを受けてかもしれない。
『秦氏』は、この秦の始皇帝の子孫を名乗っている。
古代最大の渡来氏族の秦氏は広がりが大きく、実態がつかみにくいが
秦始皇帝の14世孫の功満王が和国へ亡命し、その9世孫が秦河勝である。
秦河勝は、上宮法王(聖徳太子)と共に日本の興隆の為に働いた。日本の伝統芸能『猿楽』の祖でもある。
(✳羽田元総理大臣は、その秦河勝の子孫にあたる。)
中国を統一した秦が滅び約600年後、
『五胡十六国』と呼ばれる王朝乱立の時代になり、再び『秦』という国が興った。
『秦』は中国の華北を統一し南の「普」に決戦を挑んだが大敗してしまい、394年に滅んだ。
秦氏が弓月君と共に和国へ渡来してきたのがその頃なので、始皇帝の「秦」の子孫というより4世紀頃に再び建国され滅んだこの秦国からの亡命者が【秦氏】だというが(符氏)、
いずれにしろ「秦」に深く関わる大陸からの亡命者が
『秦氏』である。
和国に渡来する前は、朝鮮半島の百済にいたが渡来者が全員百済人というわけではない。
一部は百済にいた月支国の末裔達かもしれないが、
彼らは和国に渡来し帰化すると、
宇佐・国東半島で秦王国を創り、中国の先進技術を和国に伝え、実際に中国語を話し、
後に遣隋使の時代になると、通訳として活躍し、遣隋使らは秦王国に立ちよったりしていたので、
中国系・百済系を合わせた『月の民』が
秦氏一族と共に移民としてやって来たのだろう。
どちらにしても、その前は中央アジア、西アジアからのユダヤ系をルーツとしている様だ。
キリスト教は西アジアのユダヤ教の中から生まれた。
キリストはもともと青い目をした西洋人ではなく私たちと同じアジア人。
西洋化してしまった【キリスト教】とは全く違い、原始キリスト教はアジア的な異質な宗教であり、ローマが国教とした西洋型キリスト教からは異端とされ排除されてきた。
(輪廻転世とゆー考え方もローマ皇帝は異端として4世紀頃〜キリスト教から排除した😳)
キリスト教からこうしたアジア的要素をすべて排除してきたのが、今の
西洋キリスト教で、元々の
原始キリスト教とは、
しばしばユダヤ教と日本神道の類似が指摘される様に、もっと東洋っぽい信仰に近い。
神とゆーより人間的な尊ミコトを愛したり、蛇を崇めたり、転世を信じたり😅☝️ホンマのキリスト教ってこんなん
(西洋型キリスト教の様にローマ中心に一神化された宗教でなく、
日本神道に
創造主 天御中主
最高神 天照大神
そして八百万の神々がいる様に、キリスト教にも
創造主 ヤハウェ(エホバ)
最高神 イエスキリスト
そして日本に負けず劣らずの八百万の天使達が大勢いて、どちらかというと東洋の多神的な信仰の方が近かった様だ。
(八百万の天使達=天使ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル、ダニエル、チャミエル、ヨフィエル、ラジエル、ザドギエル、メタトロン、サンダルフォン、メルキセデク、セラフィム、聖フランシスコ、聖テレーズetc
※「八百万の天使や聖人は敬ってるだけで、崇拝してないので多神教ではない」と、言いはってるらしいですが、、😌
もはや一崇拝多神教といってもいいのでは?😅☝️)
遡り深掘りすれば、一つのルーツに繋がるかもしれないですが、話しを戻して、
【月読】壱岐の島
【秦氏】弓月の君
【八幡宮】祭神 神功皇后・応神天皇。
この三つは関係がある。
(ここから先はおそらく「ウズ」というキーワードに繋がりますが追いかけると本一冊くらいになりそうなので又の機会に…😌)
【秦氏と月読神社の関係】
壱岐の島の『月読神社』は時代を超えて、秦氏の協力により壱岐島から山城国葛野(京都)に分祀されていった。
渡航を助けてくれた壱岐氏に対して、今度は秦氏が壱岐氏の中央進出を助けたのか、或いは秦氏の新たな拠点「山城国」にわざわざ月読様を迎え坐して貰ったのかもしれない。
4世紀、神功皇后が壱岐の島にやってきた三韓征伐の頃、一支国の王都『原の辻』が滅んだ。
5世紀、
阿閉事代が任那に向かう途中、壱岐の島で「月読命」を山城国(京都)に勧請する様にご神託を受け顕宗天皇に奏上したところ、
山城国葛野に神領を賜り、壱岐島の『月読神社』の神を分祀して壱岐県主・押見宿禰に
『葛野坐月読神社』を祭らせた。
6世紀、
欽明天皇の時代、欽明天皇は「秦氏を味方につければ天下を治められる」という夢を見て秦氏を呼び出し味方につけた。
月読命の御神託があり天皇の勅命によって「壱岐島」から、神功皇后の月延石(安産石)が山城国葛野の『葛野坐月読神社』に奉納され祭祀は秦氏であった。
宇佐には応神天皇が示現し祭られた。
7世紀、
聖徳太子の時代、聖徳太子は
「月氏の国は聖人の国である」といい月読命を崇敬していた。
秦一族は聖徳太子を支持し、秦河勝が聖徳太子の側近となって活躍する。
政治的発展を聖徳太子が、経済的発展を秦河勝が担い二人の両輪によって、藁葺き屋根と巨大古墳しかなかった和国は飛躍的な進化を遂げた。
更に秦氏は京都の山城国に土地を拝領して開拓し、
山城国葛野の松尾社の近く、有名な【三柱の鳥居】に近い京都の太秦に
『太秦寺』(広隆寺)を創った。
(中国の大秦寺と字も似ていてこちらも景教の寺院だそうだが「大秦」とはローマ帝国のことらしい、、😮)
秦河勝は聖徳太子の死後も開拓事業を続け、『大避神社』に大避大神として祭られた。こちらでは秦氏の祖である秦の始皇帝も祭られている。
(大避神社の【大避】(大酒)とは、
簡略化される前の元々の漢字は避→闢で【大闢】は中国語で=ダビテのことらしい、、😮ダビテ神社)
『秦河勝=ダビテの神』
(聖徳太子=厩戸王子もイエス・キリストが馬小屋で生まれたエピソードになぞられたとされる)
大宝元年(701 年)には文武天皇の勅命で山城国に『松尾大社』の社殿が秦氏によって造営された。
宇佐にも秦氏が崇敬する『宇佐神宮』(宇佐八幡宮)の社殿が造られ、神功皇后・応神天皇・姫神らが祀られる八幡宮が創建された。
8世紀、
桓武天皇の時代、当時の平城京は仏教の都だったが、
「日本のエルサレム」と云われる京都の平安京に遷都した。
この時にも活躍したのは秦氏で、全財産を投げ打って都市計画から建設までを担った。
794年平安京遷都の頃、征夷大将軍となり東北へ向かった坂上田村麻呂は宇佐神宮から岩手県奥州に鎮守府八幡宮を勧請した。
9世紀、
宇佐神宮(宇佐八幡)の御神託により石清水八幡宮が勧請され、
更に、、
桓武平氏・清和源氏、武士の時代になると八幡宮のご祭神・応神天皇が弓矢の名人だったことから『弓矢八幡』とうたわれて、武士からの崇敬を集め全国各地に広がっていった。
秦氏は既に拠点を宇佐から京都太秦に移していたが、宇佐神宮(宇佐八幡宮)は伊勢神宮に次ぐ天皇家第二の祖廟と言われ栄え続けた。
しかし、天智系の天皇と天武系の天皇が交錯した奈良時代では、伊勢神宮をしのぐほど繁栄していたという。
宇佐神宮の主祭神は応神天皇だが、中央に祭られているのは『姫神』であり宇佐神宮の謎と言われている。
一般的には姫神様とは宗像三女神や、豊玉姫・玉依姫など海の女神のこととされるが、宇佐・国東半島には卑弥呼説もあり「トヨ姫」「ヨド姫」或いはもっと別の神聖な姫の存在であったかもしれない。
宇佐神宮は全国44000社といわれる八幡宮の総社であり、
八幡の語源は神功皇后の三韓征伐の折に八本の旗を建てたというのが語源らしい。
他に、応神天皇が降臨した時に八旗の旗がはためいた、
八幡ヤハタ=ヤハウエ=ユダヤ教の創造主など諸説ある。
秦氏の氏神でもある稲荷社も合わせると全国で6万社以上があり、秦氏ゆかりの神社は全国一の神社数を誇る。
日本の神社の半数は、秦氏ゆかりの神社なのだ。
(私は鎌倉の鶴岡八幡宮と逗子の亀ヶ岡八幡宮の間で育ったので神社とは八幡様の事だとずっと思っていた)😅
これほどまで全国に影響力のある秦氏が、天照大神や須佐之男命の兄弟で、関わりのある月読命をなぜ広布しなかったかが不思議だ。
むしろ、他の古来からの日本の神々は秦氏系の神社にとってかえられ封印されてしまった観はあるが、わざわざ秦氏の本拠地の山城国に月読神社を祭るほどなので、月読神社を排除している訳ではない。
全国80数社という少なさは、三貴神と称されることを考えれば、
逆にひた隠しに隠していたとしか思えない。
隠れキリシタン寺・神社の数よりも少ないのだ。
「食ノ神を斬り殺した」「海原を治める」という同じエピソードを持つ須佐之男命と比べても祭られてる神社数は天地ほどの違いがある。
『月読神社』は神功皇后・応神天皇以前は八幡宮と同様に、航海の安全を祈る海の神様であり、それだけでは存在を隠す理由は見つからない。
綿津見三神、住吉三神、須佐之男命、恵比寿様、宗像三女神、、海の神々はあまたに鎮座している。
やはり、航海の神としての⛩️🌖月夜見尊ではなく、
月氏、秦氏、弓月の君との関係に
「隠さた理由」があるのでないかと思う。
三貴子とまで称される神でありながらも何故か隠されている神。
逆に古代では隠される存在であることが今よりも知られていて、あえて三貴神として登場させ古事記・日本書紀にそのことを記したのではないだろうか、、
古事記・日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇で、完成したのは4代先の元正天皇の時代、7世紀後半から8世紀にかけて成立した。
古事記・日本書記は、それ以前の国記が焼かれてしまった為、現在は正史とされながらもその時代の権力者の都合上、操作性の強い史書として知られている。
古事記・日本書紀の読み方として、
二重エピソード・三重エピソードや矛盾があり
「どれが本当なのか分からない?」
という項目は【封印】箇所として研究されている。
月読命は、たった二つしかないエピソードが、二つとも須佐之男命との二重エピソードであり【封印箇所】であることをわざわざ示すために記されたとしか思えない。😂☝️
天武系の時代、大っぴらに当時は書けなかった事は編纂者の努力によって、読む人が「?」矛盾を感じる封印項目として折込み、未来に託されたであろうことがしのばれる。😔
『弓月の君』に話しを戻して、
弓月の君は渡来後、入京した。
秦氏は、壱岐島や宇佐から山城国(京都)に拠点を移していった様なので『弓月の君』の子孫も代々その方面にいたであろう。
百済の民が従い、
新羅が足止めし、
和国が出兵した程の貴種
弓月の君とはどういう存在なのか?
応神天皇に強い関わりがあることは確かだ。
弓月君『融通王』の父『功満王』は、
応神天皇の父、仲哀天皇の元へ逃げていたので親子二代に渡って弓月国からの亡命を助けている。
仲哀天皇と功満王が関わりを持ったとすれば、血は繋がってなくとも応神天皇と融通王は親戚なのかもしれない。
弓月君だけでなく同行している秦氏の技術力も和国にとって魅力的だったと思われるが、秦氏が共にあること自体、貴種であることが伺える。
弓月君は弓月国とは関係ないという説もある。
弓月国の王は『功満王』と
その息子『融通王』だが、
あえて弓月君という呼び方をするのは融通王とは実は別に
【弓月の君】と呼ぶほどの貴重な存在がいたのかもしれない。
『月』は満ち欠けすることによって死と再生の象徴ともされてるが、
ゴルゴダの丘で磔にされ3日後に復活したことも連想させる。
その子孫である姫を大切に守っているユダヤ系の一族や景教徒(原始キリスト教)の人々もいたかもしれない。
『弓月の君』こそが、その『月の姫』だった可能性はある。
そのことは隠されていた為、
一部の権力者だけしか知らず、
「月氏の国は聖人の国」といい月読神社を崇敬した聖徳太子はそのことを知っていた。
8世紀初頭、藤原氏がそのことを知って『月の姫』を探し出して藤原不比等の養女にした。
藤原宮子という。(文武天皇夫人)
「かぐや姫伝説」という物語でありながら実在の人物が登場する不思議な話のモデルになったと言われている人物で、日本で初めて生前正一位となり皇太后になった。その藤原宮子も
『月の姫』だったのかもしれない、、
日本以外にも数多くある『月への旅立ち神話』の中にはイエスキリスト自身が出てくるものもあるらしい、、
(戯曲マグダラのマリア)
聖なるものはひっそりと闇に守られている。しかし、未だに
「聖徳太子は実在しなかった」
「神功皇后は架空の存在」
「八幡様は新羅の神様」
など、トンデモ説的なキャッチで、まだまだ封印ブームは続いていますが😂
何れは、嘘や隠しごとの出来ない時代に明らかになっていくのでしょう。
🐬🌊🌊🌊🌊🌏
日本列島は海洋国。四方を海に囲まれてますが絶海の孤島ではありません。
ですので弥生人を始めとして
①南の南西諸島つたい
②朝鮮半島から対馬海峡を渡り
③北は沿海州から裏日本へ
旧石器時代〜縄文時代のプロパー日本人以外は、
弥生時代〜古墳時代の間に海を渡ってやってきました。
古代アジア世界では、国を滅ぼされてしまった王族や民族は大国や強国の少ない東アジアに逃げることが常でした。
特に王族達はその血統を絶やさぬ為にも、アジア世界の果てにあるという、大陸の最果てから更に、東海を渡った遙か彼方の島(日本列島)を目指して逃げてきました。
アジア世界の様な大国の文明がなく、日本列島は小国ばかりなので比較的安全というだけで、抗争は絶えることはなかったですが、、新しい文化や技術を携えて逃げて来た部族は職能団体として帰化することが多かった。
古代アジア世界の流民ルートには、
北アジアに広がる草原地帯(ステップロード)を抜けて、アジア北東にある高句麗より朝鮮半島・日本列島至る北ルートと、
南アジアから、季節風・黒潮に乗って南西諸島を通過して直接日本列島に至る南ルートがありました。
北ルートは勇猛な遊牧民族が支配するエリアですが、遊牧民は土地に縛られることなく常に移動していた為、強力な城壁や城塞が築かれていたということもなく、距離を除けば比較的移動は困難ではなかった。
誇り高き狼の子孫達は、王宮暮らしは貪らず常に野にあった。
貢物を捧げ逃がして貰った移民・逃亡者達は高句麗まで辿り着けば、なんとか朝鮮半島や日本列島にまで逃がして貰えました。
古代東アジアで約700年も続いた高句麗という国は、逃げてきた部族達といちいち戦うことはせず、味方となり自国を通過させ朝鮮半島や日本列島まで送りだしました。
これにより次々と新しい部族が流入してくる日本列島や朝鮮半島は、一枚岩に固まるということがなく安定しませんでしたので、高句麗は『夷を以て夷を制す』のごとく後顧の憂いを取り除いてきました。
日本列島が統一されてなかった時代、
和国が消滅し、日本列島に『日本』という強力な国が成立するまでは、海上に強い国境線を引くことは出来きませんでした。
日本の伝統と云われる京都祇園祭や浅草三社祭などの文化も元々はインド・朝鮮半島起源の渡来文化です。
日本の伝統の良いところは、渡来文化を破壊せずに伝統的に受け入れて後世にまで伝統として残してきたことです。
百余国大乱の時代と云われた紀元3世紀頃の日本の国々は、一国が築ける国境線はせいぜい500 km 程度。亡命者に対しては100ヶ国100様の対応がありました。小国なだけに、渡来部族・在来部族に関わらず「どの部族と結ぶのか?」を見誤ると存亡に関わります。それぞれ自分達の存亡だけに必死であり、わざわざ他国と同盟して渡来部族を排除することはなく、逆に在来部族と戦う為に関係のある渡来部族を味方に引き入れることもありました。
そしてまだ東には入植者達が定住可能な未開発な土地があり、
紀元7世紀頃までの日本列島は、その様にアジア世界の王族や貴種の亡命先・移民の入植地の役割を担ってました。
中国の史書にもあるように古くは紀元前5世紀の『呉王』に始まり、
漢王、高句麗王、秦王、突厥王、百済王等、7世紀以前のアジア世界の王族や貴種の血統は日本列島に保存されています。
7世紀に逃亡してきた高句麗の若光王が大和朝廷より「高麗王」を賜り関東の高麗群主となったのを最後に、こうした事は日本の歴史から無くなります。
この時の大和朝廷は既に滅亡した百済の残存勢力を吸収して、中央の3人に1人が百済人という状態でしたが、更に高句麗人の入植者達を関東に集めて開発にあたらせる等して、遂に強い日本国が誕生しました。
アジア世界の亡命先であった和国は消滅し『日本国』の国号で遣唐使を送って時の皇帝『則天武后』に、
「もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。日本国と呼ぶ様に。」と言わしめます。
海上にもしっかりと国境線を引いた強い日本国が誕生した事により、日本列島は、アジア世界の貴種や王族の亡命先としての、長い長い役割を終えました。
もしかすると、、
私達が思いもよらない様な古代の聖なる存在の血統も、日本人の中に流れているのかもしれないですね。
失われた古代アジア世界の王族等の血統や文化を大切に保存している、唯一の国、、日本。
諸説ありますが全ての『説』は根拠のないことを根拠にしてますので何れにしろ、信じるか信じないかは、、的なお話しです。否定論の方が強いのもその為です。
私の考えたこのお話しも、数ある巷説の中のほんの一つです。
話しが飛びまくりましたが、
長文最後まで読んでいただいてありがとうございました🙏✨
聖なる国✨古代日本。