聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

愛知県【尾張大國魂神社】国府宮⛩️尾張総本社

2022-06-29 | パワースポット

尾張総社【尾張大國魂神社】愛知県稲沢市国府宮1-1-1

 

 

愛知県津島市の津島神社から岐阜県のスサノオ様巡りに向かう途中、

立ち寄らせて頂いた。

はだか祭りで有名な神社

 

 

『国府宮』と呼ばれ親しまれ、

とても雰囲気のいい神社でしたので投稿します。ゆる〜い感じで

 

 

一の鳥居から、長い長い参道が続く。

ここを歩くだけでも浄化されそう。

リトリートロード✨😌

 

 

尾張国一之宮の真清田神社(愛知県一宮市)と、

天王社総本社の津島神社(愛知県津島市)の間にある

稲沢市の尾張ノ国総本社。

 

かつて国府が置かれ国府宮との名称が残る。

国司と宮司が同じだった時代、尾張の国中の神社から神々を勧請しお祭りした総社だ。

創建 1300年以上前

別宮で、田心姫命、大歳神の御子を祭り

境内東南に

猿田彦さま、白山社の菊理姫さま、宗像三女神、稲荷社、天照大神、

そして、居森社のスサノオ様が鎮座されている。😌🙏

 

 

尾張三奇祭や尾張五社など様々なくくりはあるが、

真清田神社・津島神社と三社で「尾張三大神社」と言ってしまってもいいのではないかと…😌☝️

 

 

お隣の【尾張国一之宮 真清田神社】は、尾張氏の始祖「天火明命」を祭っているのでうっかり、

「尾張大國魂も天火明命さまですか?」と訊いてしまった。😅🙏

 

「天火明命が来るよりもっと昔からの国の神様ですよ」と社務所の方が由緒書きを出しながら笑顔で対応してくれた。

 

そう、武蔵大國魂神社も対馬の島大國魂神社も、「大國魂」と呼ばれる御魂は天孫が来られるずっと以前から坐したその国の古くからの神様でした。😑💦

 

 

地元の高校野球のご父兄さん達が必勝祈願をしていたり、

名鉄のスタッフが境内で神社巡りをしてくる方々への景品を並べて待っていたり、

氏子さんや地域の方々と神社の関係がとても良さそうな感じがする。✨😮

 

 

東京メトロの御朱印巡りとか、西鉄の竈門神社ツアーとかあるけど、

なんか名鉄スタッフさんの寄り添い方にも温かみを感じました。❣️

 

 

参拝客の方々の様子からも雰囲気の良さ感じとれます。

 

気分がいいので、たまには自撮りしてみた。😂(ブログだし)

 

 

 

突然、岐阜市に飛びますが、 

その名も「金神社」😳☝️綺麗な鳥居✨✨✨

 

 

なんか最近、スサノオさんに取りつかれた男?🤔

みたいな感じになってましたが、

今回の投稿ではお休み。😆

 

まだまだスサノオ様の旅は続きます😌サマーツアー✨スサノオジャパン


スサノオⅦ.長崎県対馬【島大国魂神社】ジェネシス

2022-06-28 | スサノオ

長崎県対馬  スサノオ様【六社巡り】

1.島大國魂神社 (最北)
2.八幡神社【宇努刀神社】(中南部)
3.曽根崎神社(北部)
4.乙宮神社 (中南部)
5.岩楯神社 (北)
6.木根神社 (南)

その他、

⛩️島大國魂御子神社  ⛩️那須加美ノ金子神社

スサノオ様由縁の神社を周る。入り組んだ道が南北に延々と続く島・・・

 

【島大國魂神社】長崎県津島市上対馬豊409


  
前回投稿した『天王祭』で知られる愛知県の津島神社は、対馬からスサノオ様の来臨という由緒があると知り、長崎県対馬に来てみた。

江戸時代、長崎県【対馬】は、【津島】だったらしい。

 

ご祭神 須佐之男命 狭手依姫

狭手依姫は、イザナキ・イザナミの国生みで生まれた『津島』(対馬)の神。

上古では、対馬の最初の国司。

 

 

須佐之男さまは、出雲族の姫でご妻神の櫛稲田姫と共に祭られていることが多いですが、

対馬では須佐之男の御子・五十猛、大己貴、親子で祀られている。

(若宮神社 ご祭神 五十猛命)

 

スサノオと五十猛命・大己貴命が、韓国のソシモリに渡る為の拠点『行宮』の跡地に祭られている神社。

かつては神籬、磐境で、禁足地(立入り禁止)とされ、こちらがスサノオさまを祭った最初の祠だったとのこと。

 

 

【宇努刀神社】対馬市厳原町中村645-1

宇努刀神社(=うとな神社)と読む。(読めない😂
対馬國一之宮【八幡神社】の拝殿の並びにある。

向かって右の社殿が八幡神社

中央が宇努刀神社スサノオ様を祭り

向かって左の社殿が天神社で小西マリア(小西行長の姫)を合祀している。

神功皇后が新羅征伐の後、『島大国魂神社』のスサノオ様を分詞して、

自らこちらに祭ったという。

 

宇努刀神社 拝殿

隣にある八幡神社は、対馬ノ国一宮(一宮=そのエリアで一番の社格の神社)であり、かつては『八幡神社下社』といわれ、北に50 kmほど 行った『海神神社』が八幡神社上社であり、現在も両社ともに対馬ノ国一宮となっている。

 

駐車場のヤマネコならぬ、

シマネコのさくらちゃん。

対馬ヤマネコには滅多に出会えないので「シマネコ」と呼んで親しんでるらしい、、

 

参拝者の方は駐車場無料✨⛩️

 

 

【曽根崎神社】
ご祭神 須佐之男命

一見すると何処にでもある、島神社・海神社のようだが、こちらは海に続く鳥居の先に石塔が祭られている。

 

地域の方々が総出で一帯の草刈をしていた。

横浜からお参りにきたと話すと、海側の鳥居を出て右に行くと『石塔』があるよと親切に教えてくれた。

4つの塔、

スサノオ様とご妻神様、御子の五十猛命と大己貴命に見えてくる。

 

茂木浜ビーチ

 

 

【乙宮神社】対馬市厳原南室209

島の最北端のスサノオ様『島大国魂神社』からの分社。

 

『乙宮神社』は空港から一番近いスサノオ様⛩️✨


ご祭神 姫神さま(玉依姫)を祭る。

拝殿の脇の摂社にひっそりと島大國魂神社があり、小さな社に

分祀されたスサノオ様が祭られている。

かわいい、

 

 

【岩楯神社】
ご祭神 須佐之男命
五十猛命、蛭子(事代主)


創建 不明。スサノオが韓国から戻った際の寄港地だったのが由縁。

弥生時代後期の古墳に祭られてる神社。

 

朝鮮半島との繋がりを示す出土品と共に、スサノオの韓国からの寄港地という由来が、韓国に一番近い島である対馬らしい。

近くにある韓国展望台からは、空が済んだ日には韓国の夜景が見えるとのこと。

韓国の夜景🌌

『韓国展望台』

対馬から韓国まで49.5㌔ 博多港まで130㌔。😮

全長80㌔の島ですが、リアス式海岸の細かく入りくんだ海岸線は915㌔もあり、

まさに津(=入江・湾)の島だ。道路での移動は南北200Kmくらい?

全て一般道😅

 

 

【木根神社】対馬市厳原町安神545

更に南へいった所。小さな海水浴場の脇にある。カーナビだとトンネルに誘導されてしまうが、トンネルを出てクリーンセンターへ折り曲がらないと行けない😅海に向かう道、けっこう探してしまった、、

 

 

スサノオ様が韓国へ渡る時、御子・五十猛命、大己貴命とこちらへ立寄ったのが起源という。スサノオが船着き場に使ったプライベートビーチといった感じだ⛵🛶

 

 

 

もともとは『磐境』『神籬』で(神の依代となる岩や木)社殿の無い古代祭祀の神社。

スサノオ様の古社と云われ、上古の風を感じる。

 

 

和歌山県熊野のスサノオ様が「紀ノ国」=「木の国」で、木の植樹の由来がある様に

こちら長崎県対馬のスサノオ様にも木の植樹に関わる伝承が残る。

 

 

【那須加美ノ金子神社】


『ご祭神』 大屋彦(五十猛)、大己貴命


スサノオが韓国(からくに)のソシモリの所に、五十猛と共に八十種の種を持っていったが、植樹はせず、全てこちらに持ち帰ってきたという伝承があり、立ち寄らせて頂いた。


対馬の須佐之男様は、韓国との往来を由緒とする神社ばかりで、

海神スサノオ様らしいエピソードに触れられる。


全て漁港に祭られていて津(=港湾)の形を見るに上古より船着き場であったことが伺えた。

 

 

 

【島大國魂御子神社】対馬市上県町佐須奈乙170


若宮神社(邪祖師神社)でスサノオの御子・五十猛命を祭り、

こちらの島大國魂『御子神社』でスサノオの御子・大己貴命を祭る。

 

対馬では、素戔嗚でなく「須佐之男」の表記が多いが、須や佐がつく地名も多い。

すると

遂にサスナオ(佐須奈乙)という地名が登場。😂☝️

(単なる偶然ですが…😅スサノオ寄せている)

 

対馬のスサノオ様は、
御子・五十猛命大己貴命と祭られている神社ばかりで、

津島神社や八坂神社など本州の神社にみられる様な『牛頭天王』は祭られていない。😑

創建は、全て仏教伝来以前の古い神社で、まだ拝殿や本殿など『社』が築かれるより前の時代、

古代神道の、
磐境(岩くら)
神籬(ひもろ木)
神奈備山(ピラミッド型の三角山)など

木・岩・山を神の依り代として祭っていた露天祭祀の時代からの由緒がある古い神社が多い。

しかし『牛頭天王』さまはいないが、神仏習合の名残は残り、愛知県や岐阜県の神社にありがちな

お寺でなく神社なのに、寺院の様にロウソクを灯す燭台が本堂(本殿)の前に置かれている。🕯️😅

これだけ仏教色が強いのに仏教の神『牛頭天王』がいないのが不思議だった。🤔

 

そして、スサノオさまは全て漁港の近くに祭られていて、

それぞれスサノオが韓国との往来したことを証す由来があるのが興味深い。

 

まとめ

一通り対馬のスサノオ様を周ってみたが、愛知県の津島神社との繋がりはあまり感じられなかった。

韓国(からくに)=新羅のソシモリとの繋がりが多く、

 

ソシモリは高麗雅楽として残り、スサノオが五十猛と出雲の鳥上之峰に来たという話だが、

唯一、長崎県【対馬】と愛知県【津島】の繋がりを示すのが、この新羅のソシモリであり、

津島神社の居森社から熱田神宮に勧請された摂社が、ソシモリ神社ということだ。😌

(とび石づたいな繋がり😂)

 

※韓国のソシモリ(→ソウル、ソラボル等)

、、、

果たして🤔語源を何処に求めるか?ですが、

ソシモリ → ウシモリ(牛頭)

とゆー考え方では、

モリは韓国で、首長の意味であり

イモリ(居森社)だと首長が居る社な訳で

そこからソシモリを勧請したで

繋がると思いますが、、😵

😵結局、韓国の牛頭山由来てことに?😅

この際、韓国まで行ってみるべきか😂、、金スロー

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

しかし、、、それにしても

😅対馬の神社巡りは、場所探しに本当に苦労した。道のウネリもそうだが、

 

グーグルマップは電波入らず(ソフトバンク)、😅


カーナビは誤差があり山や海の中走ってたり(トヨタ車標準装備carrozzeria)、

着いたら神社の名前がマップと違うなのど、、💦

額ごとに違う社名が掲げられてる。

 

『島大國魂神社』なのに那祖師神社💦

正面鳥居⛩️横の看板には『若宮神社』の五十猛命の説明が、

鳥居の扁額は『那祖師神社』

拝殿の額は『那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社』とあり、

拝殿の中に入ると額に【島大國魂神社】と高々と掲げられていて、初めて

「あ」やはりここで良いのか😮と。

 

『島大國魂神社』ではなく、地元の方は元々の社名『那祖師神社』と呼んでるそうだ。

『島大國魂神社』の旧鎮座地は不通浜(とおらずの浜)という先にある白水山に祭られていたそうだが、禁足地で「入ると大風が吹く・災害が起こる・腹痛になる・命を落とす」などの伝承があり、

近づくことは許されず遥拝所から拝むことをしていた。

今は、那祖師神社に遷されていて「若宮神社」と共に三社が合祀されてます。

【島大國魂神社】
ご祭神 狹手依姫 スサノオ(東崎の白水山より)

【那祖師神社】
ご祭神 スサノオ 曽尸茂梨(ソシモリ)

【若宮神社】
ご祭神 五十猛命(東方1キロの海辺より)

 

全国各地を周っていて、いつもスマホのグーグルナビで目的地に向かい、

近づいたらカーナビを頼りに到着するということをしています。😌

と、いうのはグーグルのリアルタイム情報はカーナビより優れてますが、

目的地の精度が「神社巡り」に限っては極端に落ちるからです。

精度が落ちるというよりマニアック過ぎるというべきか、、

 

時々、古いGHQ(連合国日本占領司令部)の神社マップデータを使っているのでは?😅😅😅

と、思ってしまいます。マジか?!😂

 

※太平洋戦争後、GHQの政策で

「神社を沢山祭ってはいけない」とされ、

日本各地の地方の神社の多くが合祀され、一か所にまとめられた。

五所神社、十二所神社など、まとめた数を社名とするか、あるいは20社近い郷社を一まとめにして、その地方の地名をつけた○○神社などに、変えられていった。😔

こうした神社の合祀は、明治政府の一村一社制でも行なわれてきた。

廃仏、神仏習合、神仏分離からGHQの政策まで

私たちは、政治の歴史を信仰の歴史として知る機会が多い。

 

○○と信じられた、○○と考えられた、

等と思想や宗教現象の変化で語られることが多く

『信じさせた』『考えさせた』側の、

信仰を利用した政治的な宗教政策の意図を学ぶ機会は少ない。

Googleマップ上に、青ピンと赤ピンで表される同じ名称の神社からは

政治的な歴史だけでなく、民衆の信仰の変化も含めて

信仰の歴史が

不思議と感じとれる時がある。

 

 

今回も遷祀されていて、あるはずの無い場所に『島大國魂神社』がグーグルマップ上に出て、😳

うっかり禁足地だったとは知らずに不通浜を通って向かってしまった。

「見聞きしたことは話してはならない」というタブーがあるそうで、これ以上は書かない。

 

対馬では、禁足地など普段お参りしている神社とは明らかに違う場所があり、

もっと神経を研ぎ澄ましていけばよかったと、行き過ぎに後悔しました。

😔🙏⛩️

 

遥か古代、まだ日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった時代。

國クニは島単位で存在している小国が多かったが、朝鮮半島南端から九州北端には同一の製鉄文化圏が存在し、海峡文化を形成していた。

須佐之男の時代以降、ニニギや神武が登場し日本列島でヤマトが起こり、やがて国が成熟すると共に、日本列島と朝鮮半島の間の国境も成熟していった。

(新羅が任那日本府を領有して以降)

 

ヤマト・ジェネシス(創成期)

 

上古の昔、スサノオ様と、御子・五十猛命、大己貴命、親子三人の

新羅往来の伝承の残る島。

 

まだ日本神話で神話化される以前、原初の

人として生きた時代のスサノオ様を感じる聖地✨

 

日本の神々は、

ブッタ、空海、モーゼ、キリストのように、

元は人として生きた方が亡くなられた後、影響を受けた人々や子孫の方々によって神として祭られる存在です。

※新井白石談😌


(西洋人が考え出した「唯一全知全能の神ヲシンジナサーイ…アガメナサ〜イ」
とゆ〜神とは異なりますのでご注意下さい😅☝️)

時代が遡るほどに、神々は神話化されていきますが、

創作神話の時代よりもっと前のレガシーに出会えると


人として生きたジェネシスも微かに感じることができます😌🙏

 

対馬は、もっと足をはこんで感じてみたいです😌

 

※見出し画像と最後の画像は和多津美神社

豊玉姫を祭る✨⛩️日本神話の故郷


スサノオⅥ.愛知県『津島神社』建速須佐之男命

2022-06-23 | スサノオ

【津島神社】愛知県津島市神明町1

 

ご祭神 建速須佐之男命(タケハヤ スサノオのミコト)

ご相神 大穴牟遅命(オオアナムチ)

この日は、あいにく雨で画像にも白い筋が映ってしまいました。

 

 

全国3000社の津島神社の総社。もとは『日本の総社』とも。

天王さまの尊称で牛頭天王を祭る津島「天王祭」は、日本三大川祭りのひとつで、国の重要無形文化財・ユネスコ文化遺産に登録されている。

 

豊臣秀吉寄進の楼門(国重要文化財)

津島神社は創建1500年だけあって、在郷の神社の合祀や遷祀を幾重にも歴てきた歴史があり、それぞれを残し、スサノオ様は本殿とは別に境内・別宮に須佐之男命を沢山祭っていて、須佐之男六社巡りというのができる。

【本殿、荒御魂社、柏樹社、和御魂社、居森社、疹社】

私はなんとなくだが、須佐之男命という表記が、素戔嗚尊より読みやすくて好きだ。

漢字の意味付けが成熟する前の古代日本では、借字(当字)はありがちだが、「素戔嗚尊」だと一瞬

(誰??)、となっしまう😅『洲崎ノ王』=スサノオならば分かり易い。

須佐之男だと、助けを差し伸べた男の意味になるので

日本神話で出雲族の姫を助けたスサノオっぽい。

 

✨日本の神様には4つの神性『和魂、荒魂、奇魂、幸魂』があり、

スサノオ様のその4つの側面を祭られている。

和魂『平和な動き』 荒魂『勇猛な動き』

奇魂『不思議な動き』幸魂『幸せな動き』

 

 

スサノオ様がご来臨した【居森社】

 

別宮『大日霎貴命』

 

 

大日霎貴命は天照大神の別称とされていますが、こちらでは天照大神とは別にお祭りされてました。

 

 

 

【創建】西暦540年 対馬よりここ津島神社の居森社にスサノオ様が御来臨されたのが始まりという。

 

 

長崎県対馬は、江戸時代までは「津島」だったらしい。

1500年前のこと、朝鮮半島と日本列島の国境の島から遥か1000㌔近く離れたこの場所に、スサノオ様は

何故「ご来臨」されたのだろうか? 

 

興味津々、というよりこんな由緒を知ってしまったら、対馬のスサノオ様

『島大國魂神社』にも行きたくなるではないか・・・😅

対馬は、スサノオが朝鮮半島と日本列島を行き来した拠点で、スサノオが御子・大牟遅命と五十猛命を連れてやってたという伝承もあり、またスサノオ様の知られざる一面に出会えるかもしれない。

 

(行ってみたい😂⛩️☝️)

 

ここからまた、古代ミステリーロマンの天武ファン✨

として、長い文を加筆したいと思います。(また天武か😌)


ですが、その前に、

今回はスピリチュアル系っぽいエピソードを少し✨

 

今回、津島神社に行った時のこと、、


雨が降ってました⛩️☔

私は御朱印集はしていなくて、

『御札』(大麻)を買っている。

 

いつものように御札を買うつもりでいたのだけど、

お参りする前に、先に社務所に寄って御札を買えと言う(誰が?😂)

(いや、先にまずお参りなのでは?)

「先に御札を」と

(誰?🤣☝️)

 

ホンマかいな?と、お参りの前に手前の社務所で買うことにしたが、

「1400円のお納めです」👰

おろ?だいたい1000円くらいなので
ちょっと高かい😅

雨も降ってたし、財布からいちいちお賽銭出すのも面倒だったので、

この時は財布は持たずに

ポケットに御札代の1000円札だけ入れて、後は小銭をじゃらじゃらと持っていた。

「細かくてすいません」と、
なんとか1400円はあったが、

お賽銭する小銭はもうほとんど残らなかった💦

もし、先にお参りしてたら御札買えなかったかも、、😳

4時ギリギリだったので、車にお金取りにいったら多分社務所も閉まってたし、

😳なるほど~そゆこと?!

「教えてくれてありがとう!🙏」
(誰に?😂)

しかし境内にはたくさんスサノオ様が祀られてて、

これからその、スサノオ6社巡りというのをしなければならない😑残りの小銭で足りるのか?

とポケットに手を突っ込んだらナント

ちょうど60円あった😳

「さすがです!ありがとうございます!」(誰に?)

鳥居をくぐったところ

左側にひっそりと猿田彦様が祀られていた。

導きの神様✨⛩️

🙏ありがとうございました。

スサノオ様を無事に神棚にお迎えすることが出来ました🙏✨

 

 

と、いう訳で(どんな訳だ?)LCCのチケットが取れたので、

今週末は、長崎県対馬🚀へ行ってきます。😂☝️

なかなか出雲へ辿りつけませんが、

スサノオ様の旅は周るほどに情報や由緒がとびこんできて

謎が深まり(今日は牛島神社の話しが😮⛩️)

好奇心のあまり、次の目的地へいざなわれてしまいます。😌

 

長文ですが、興味のある方はお読みください↓↓

 古代ミステリーロマン・天武系の終焉

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

【津島神社】と平安京遷都の時代

(それにしても何故?スサノオ様を巡る旅なのに度々、天武天皇の存在に触れるのだろうか、😑)

 

津島神社は、9世紀初頭に嵯峨天皇が『日本総社』という社号を授け、

『スサノオはすなわち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり』

と詔したという謎めいた神社だ。

 

どこが謎めいてるかといえば、、

 

天皇家といえばスサノオの兄・天照大御神を祖神とする皇統であるのに、

本主(=本来の主・所有者)はスサノオであると天皇自らが名言し詔していることと、

 

津島神社を『日本総社』にしたこと。

最高神を天照大神とし、天照大神を祭る伊勢神宮を日本一の社格としてる神祗界からも、他のスサノオを祭っている神社からもさして反対はなかったと言うことだ。

 

もっとも、嵯峨天皇は勢い盛んな天皇だったので逆える者はいなかったのかもしれない。

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりだという嵯峨天皇は、兄の平城京のクーデターを坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、空海に東寺を与え、警察機構・機密機関を拡充し(検非違使)、源氏の創設、藤原北家の起用など、強力な親政を誇った天皇だ。

 

平安京に遷都した父・桓武天皇の様な平安時代の創建者と言っても過言でない。

 

嵯峨天王は、かの794年ウグイス平安京に遷都をした桓武天王の第二王子。

平安時代の始まりとなる平安京遷都だが、只の引越しではなく「平安維新」「平安革命」といっても良いほど、仏教政権の時代が大きく転換した重要な時期だ。

 

桓武天皇と嵯峨天皇親子の時代について書いてみたい。

 

八代続いた天武天皇系の皇統が途絶え、

天智天皇系の皇統の時代になったのが桓武天皇の父・光仁天皇から。

 

「壬申の乱」で天智系の弘文天皇(大友王子)が天武系との決戦に敗れてから実に100年が経ち、

天武系の奈良の都で権力を握っていた【法王】僧・道教ら仏教勢力を天智系が退けた時代だ。

 

桓武天皇は王子の頃から、高齢の父・光仁天皇に代わり内政外交に努めていた。

即位後は、秦氏など天武系の完全排除に動く勢力と共に、政治や社会を揺るがすほどになってしまった平城京の仏教勢力から離れ、新たに長岡京(京都府長岡京市・大阪との県境)への遷都に着手する。

 

桓武天皇は百済王氏・秦氏、坂上田村麻呂・菅原道真など渡来系氏族を重用して新政に臨んだ。

しかし、長岡京の工事責任者や王族が次々と急逝し、淀川の洪水も災いして10年の歳月を費やしても長岡京は完成せず、断念して平城京に戻るしかないという状況になってしまった。

 

ここで第三の選択肢として、平安京への遷都が発案され、実行された。そして、

 

桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍にし東征を敢行し、平安京を造営し、

内外の二大事業の幕を引いて70歳の生涯を閉じた。

 

桓武天皇の跡、兄の平城天皇が3年ほど在位したことがあったが、病気により弟の嵯峨天皇へ譲位した。しかし、病気が快復すると弟の嵯峨天皇と対立し、再び「平城京」遷都を宣言し二つの朝廷と称されるほどの事態になったが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、

ようやく世の中が落ち着き、新たな時代へと日本を押し出したのが「嵯峨天皇」だ。

遂に平安時代が始まった。

 

壬申の乱から100年、天武系の天皇は血統が途絶えていき、やがては仏教勢力の傀儡のように細くなっていき遂に皇統は天智系へと遷ったが、しかし、皇統は絶えても既得権勢力として奈良・平城京に盤踞していた仏教勢力が残存し、嵯峨天皇は是を刷新して、天智天皇系の平安時代が始まったことを示さなければならない時だった。

「空海」に始まる平安仏教の創成期。

神道においてもかつて天武天皇が天照大神を最高神として伊勢神宮の社格を日本一に押し上げたように、嵯峨天皇はスサノオを『皇国の主』とし、スサノオを祭る津島神社を日本一の社格にしようとしたのかもしれないが、

それにしても何故、、?京都八坂でもなく熊野でもなく、氷川でもなく、、津島だったのだろう?

方位学的な空間配置も考えられるが

謎、今の私には謎すぎるので、、、もう少し別の面から深掘りしてみたい

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりという嵯峨天皇と、空海、物部氏と縁のある四国に鍵がありそうな気もしますが、、嵯峨天皇と四国はひとまず置いて 

時を戻そう😔☝️

⛩️津島神社の創始の年、

長崎県の対馬から愛知県の津島に

スサノオが来臨したという

『540年はどんな時代?』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇✨

ここから先は日本書紀・古事記は無いものと思って、雄大なアジア世界の物語としてお読みください🙏😌

ギアを入れ換え、巷説の世界観でいう西暦540年頃の東アジアの出来ごととして綴っていきます。

 

538年、

百済の聖王は北方の高句麗に敗れ、
南方のサビ城に都を移していた。

和国名は『欽明天皇』

百済・和国の二ヵ国を支配していた王だ。

聖王(欽明天皇)は、中央アジアのエフタル族の末裔である。

中央アジアの雄『エフタル族』は南アジアのインドに迫り、西アジアのペルシアを臣属させていたほどの強国だったが、

北アジアの突厥(現トルコ)と西アジアのペルシアが同盟を結んでからは挟撃され中央アジアから掃討された。

西暦500年代初頭、

国を失ってしまったエフタル族は、北アジアのステップロード(草原地帯)を抜けて、東アジアまで民族の大移動を敢行した。

当時はまだ大国が少なく、国も連合国としてしか定まってなかった東アジアに亡命してくる王族や小部族は多かったが、これほど壮強な大部族が渡来してきたことはかつてなく、

西暦500年代の日本列島と朝鮮半島は混乱の時代を迎えた。

 

日本列島に上陸したエフタル族は、越・尾張(福井県、岐阜県、愛知県)に蟠踞し東和を抑え、欽明天皇の父・継体天皇の代になり新羅を降して朝鮮半島に進出。

継体天皇は嫡子の欽明と、百済の手白香姫と婚姻を進め任那四郡をつけて百済皇太子とし、新羅を養子の武烈にまかせ513年に和国へ戻った。

そして、大和の王権を継ぎ、西の九州勢力と東の大和勢力との最終決戦に勝利し、528年
日本列島の東西を統一した。
(東北をのぞく)

その後、継体天皇は味方の裏切りにより倒れてしまい、後継争いが起きる。

百済では523年に継体天皇の嫡子(欽明)が、聖王として即位していた。

 

聖王は、538年に南のサビ城に都を遷した後、北の高句麗からの圧力からまるで逃げる様に百済の大臣だった木氏(後の蘇我氏)に奉戴され和国にやってきた。

和国の玉座を奪ってた安閑、宣化らを退け、

父・継体天皇の跡を継ぎ和国王に即位した。


そして、蘇我氏は王の側近として和国で権力をふるい始める。

それが、540年代だ。

この時期に、

朝鮮半島と日本列島を行き来し、エフタル族の降臨地である尾張に『来臨』するほどの貴人は

百済・和国、二国に君臨する

欽明天皇=百済名・聖王をおいて他にいない。

スサノオよりも欽明天皇の存在が浮かびあがってしまう。

(スサノオ様が実在したと思われる時代は1〜2世紀頃ですし😌☝️)

スサノオと欽明天皇(聖王)

神武天皇や大国主命のエピソードは何人かの人物が重ね合わされていると、
巷説の世界でいわれているのと同様に

或るいはスサノオ様も😳?

と、感じてしまう。

欽明天皇は
「秦氏を味方につければ天下は治められる」と、

夢のお告げを受けて秦氏に協力を依頼し、共に和国の経営に臨んだ。

そして日本初の戸口調査を行った。

桓武天皇ー嵯峨天皇の平安時代も秦氏の協力のもとに進められた。

津島神社の創始540年と、
津島神社が『日本の総社』となった
9世紀を結びつけるのは、和国の有力渡来氏族である秦氏だ。

桓武天皇も空海自身も秦氏系とされる。

古事記・日本書紀は奥が深いといわれるが、深掘りすると
神武天皇には三代の人物のエピソードを重ね合わせているらしい。

大国主命も然りだが、

スサノオも何人かの人物、しかも渡来系の人物だけを重ね合わせているのかもしれない。

エフタル族の末裔の欽明天皇、
高句麗系の天武天皇、、
新羅の牛頭山から来たという
牛頭天王、

そして、スサノオ

「素戔嗚尊」だと蔑字っぽい響きがある。

※蔑字=中国人が他国・他国人を卑しみワザと蔑む漢字を使うこと

和国→倭国(萎える国)

日巫女→卑弥呼(卑さを広く吐く)

 

素=地のままで取るに足らなくて

戔=少なくて

嗚=嘆く・ため息

 

単なる言葉遊びでしかないが、先ほどスサノオを「州先の王」と当て字してみたが、

上陸地の王という意味にもなり、

海原を治めたスサノオらしい、制海権のある王の称号らしくなる。

 


スサノオ様にも

大海原を越えてきた王たちのエピソードが、

何代か重ね合わされているのかもしれない。

嵯峨天皇が、スサノオを皇国の本主として、津島神社の社格を日本の総社に詔したのは、

そうした渡来系氏族の崇敬を集めようとしたのだろうか、、

ある意味、同化政策にもとれる。

ようとして知れず、

更に深掘りしていきたい、、


明後日は、いよいよスサノオ様が来臨してきたという長崎県津島へ向かいます。

(勧請、分祀、遷宮でなく来臨🤔)

😂なかなか出雲には辿りつけませんが💦


荒唐無稽な文章になってしまいましたが長文を読んで下さってありがとうございました🙏⛩️✨

 

 

 

 


スサノオⅤ.愛知県【熱田神宮】神剣・草薙剣

2022-06-20 | スサノオ

【熱田神宮】
天皇家三種の神器のうち日本武尊の神剣『草薙の剣』を御神体として祀る。

『日本武尊』ヤマトタケル由縁の神社。

 

 

皇室と関係がある為、神社ではなく神宮と号している。

熱田神宮に祭られる神剣『草薙の剣』は、日本武尊が草を薙ぎ火中を脱した由縁の神剣だが、

元々は須佐之男命が出雲で八岐大蛇を退治した時に尾から発見した『天叢雲の剣』(あまのむらくもの剣)

天皇家の神器に奉じられた後、日本武尊(ヤマトタケル)が授かり『草薙の剣』と呼ばれるようになった。

相神として、天照大神と須佐之男命

そして

日本武尊と、日本武尊に伴した尾張国造の兄妹を祭る。

 

 

愛知県津島市の『津島神社』へ向かう途中、つい寄ってしまった😌✨⛩️🙏

出雲まではなかなか辿り着きません。

 

今回は、日本神話のスサノオ様に纏わる『神剣』の投稿です。

 

 

東門からの参道は、深い緑のトンネルを行く。

門前の駐車場はなんなく停められた。⛩️

 

 

 

南門

名古屋といえば鶏🐔 立派な二羽が放し飼いになっていた。

人懐こい方の一羽。

😂女性客が来ると、トコトコ後をついて行く。おっさんの方には来ない😅

 


創建は『宮簀媛命』 尾張国造の姫で、日本武尊の妃。

日本武尊は東征で、妻・弟橘姫を失った。

日本武尊は帰途、尾張にお立ち寄りになり尾張氏の姫『宮簀媛』を妃として神剣・草薙剣を預け西へ向かったが、伊勢の能褒野(三重県)でお亡くなりになった。

宮簀媛命は、日本武尊を偲び夫より預けられていた神剣『草薙剣』をここ尾張熱田(愛知県)に祀ったのが熱田神宮の創祀という。


剣の以前の所有者である
須佐之男命と

剣を封じられた天皇家の祖神である
天照大御神とが

ともに祀られている。

 

 

 

参道や本殿の周りに摂社や、皇祖所縁の社が祭られている。

 

こころの小みちの奥に鎮座してる宮は、荒魂として祭られていますが、

剣を祭っているせいか、なんだか荒々しい熱田神宮の中では、

優し気なオススメの場所。

 

 

【須佐之男命】

 

 


【天火明の命】


尾張氏の祖神でニニギ命の兄弟(または親子?)⛩️✨

※=ニギハヤヒとの説もアリ🐜

 

 

神剣をご安置していたという土用殿

 

南門の横に鎮座する別宮「八剱神社」の大国主命

 

 

熱田大神が楊貴妃になっという伝承があり、由縁の清水

 

 

 

 


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 

天皇家の三種の神器とは
八尺瓊勾玉・八咫鏡・草薙剣で

📿皇居に八尺瓊勾玉

 

🧿伊勢神宮に八咫鏡

 

🗡️熱田神宮に草薙剣が安置されている。

らしい、、🤔

草薙剣は、正式な継承者である天皇でさえも見ることが禁じられていて、
過去、草薙剣を見てしまった熱田神宮宮司やその他の者等は流罪になりまたは病になり亡くなったと言う。

熱田神宮は、相神として共に天照大神も祭り、須佐之男命を主祭神として祭っている訳ではないが、

今回のスサノオ様を巡る旅は、

😳気がつけば、計らずとも

神剣のルートを巡る旅にもなっていた為、参拝させて頂いた。


スサノオの神剣『天叢雲剣』

高天原の政争に敗れ追放されたスサノオは、さすらい出雲にたどり着いた。

ここで出雲族を助け、八岐大蛇を退治してその姫である櫛稲田姫命と結ばれる。そして

八岐大蛇の尻尾(=斐伊川の上流)から、神剣『天叢雲剣』を見つけた。

斐伊川の上流、奥出雲は古くからタタラ場がある製鉄の地。

熊野の語源は『隈野』といい、奥まった野という意味らしく、スサノオの降臨地・奥出雲の八川はその名のとおり山深くにある高原。

出雲に熊野神社が祭られ、やがて熊野信仰は紀伊半島に遷座していくが、神剣『天叢雲剣』は天照大神(又は天孫・天皇家)へと奉じられることになる。

高倉下より神剣を受けた神武は熊野川を遡上し、八咫烏の道案内で奈良奥地へと進撃していき奈良盆地を征圧。大和(奈良盆地)で初代・神武天皇として即位する。

 

大和王朝10代後、崇神天皇の時代〜

疫病が流行り世の中は荒廃していた。

『天皇家の神・天照大神と倭の神・大国魂を共に祭ったのが災い』

と、崇神天皇の娘・倭百襲姫に御神託があり、別々に祭ることになった。

やがて、大物主大神より子孫の大田根子に祭らせよとの宣託があり、その様にしたところ災いは治まった。

しかしその後も、天照大神を祭る為に崇神天皇の娘・豊鍬入姫が御杖となり

別の場所を探す旅に出て、各地を転々としていた。

丹後の国一之宮「元伊勢籠神社」など元伊勢と呼ばれる、神社が各所に残る。

豊鍬入姫命は、天照大神を祭る宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡っていたが、

天照大神を祭るに相応しい場所はついに見つからなかった。

 

豊鍬入姫命の代で鎮座する場所を定められなかったので、崇神天皇の孫、倭姫が跡を継ぎ遷座の旅を続け、26ヶ所を巡った果てに、伊勢に天照大神を祭る遷座地を遇し、倭姫は伊勢神宮の初代斎宮となった。

神剣『天叢雲剣』も天照大神と共に旅をしてきたらしく、伊勢の倭姫の元にあった様だ。

倭姫の甥である日本武尊が東征に向かうことになった時、倭姫はこの神剣『天叢雲剣』を日本武尊に託した。

神剣『天叢雲剣』を振るい関東一円を降した帰途、日本武尊は焼津で火難に遭う。

その時に倭姫から授けられた神剣『天叢雲剣』で草を薙ぎ払い、火打石で迎え火を起こし脱出した。

この時より神剣『天叢雲剣』は、草薙の剣と呼ばれるようになる。

そして、日本武尊の死後、草薙剣は熱田神宮に祀られ、

斯くして八岐大蛇を退治したスサノオの神剣は


長い長い悠久の旅を終え、現在まで鎮座されている。

 
 
 
が、、約四百年後に少し旅に出た様です🗡️
 
また古代ミステリーロマン的な視点から深堀りしてみたいと思います😌
長くなりますが、興味のある方はご覧下さい。🙏💦
 
 
 
△▼△▼△▼△▼△▼△
 
『古代日本、最大最後の動乱』と草薙剣🗡️
 
〜壬申の乱の時代 668-686年⚔️
 
社伝では日本武尊の妃・宮簀媛命が熱田神宮の創建となってるが、
 
日本書紀では、天武天皇の病が重くなり祟りを鎮めるために草薙剣を熱田に祭ったとされ、
 
二つのエピソードがあり、前者は古墳時代、後者は飛鳥時代、300年以上の隔たりがある。
 
これは、伝えるところでは
 
668年に外国の賊徒が境外に草薙剣を持ちだそうとした事件があり、暫く宮中にあったが、
 
686年、天武天皇が病になり熱田神宮へ戻ってきたという。
 
668年というと近江大津宮に天智天皇が遷った翌年のことで、
 
686年は飛鳥浄御原宮の天武天皇が亡くなった年だ。
 
686年に戻ったということは、その間は草薙の剣がどちらかの宮中にあったということだ。(668−686ばかりで目が😵)
 
672年、『壬申の乱』という天武系と天智系の決戦があった動乱の時代であり、
 
両天皇の間で、三種の神器の一つである草薙剣の争奪戦があったのかもしれない、、🤔
 
古代日本の最大最後の大戦である壬申の乱の時代とは、どういう時代か?
 
天智天皇系から天武天皇系へと皇統が変わる激動の時代、668〜686年について少し触れてみたい。
 
668年に朝鮮半島の大国・高句麗が唐に滅ぼされ、新羅や和国には高句麗からの亡命者が逃れてきた。
 
660年の百済滅亡時には大勢の百済人が亡命してきて、この頃の和国は政庁の3人に1人が百済人という状態であり、そこへ高句麗人の流入があった訳だ。
 
『草薙剣』を持ち出そうとした外国の賊徒とは、この亡命渡来人らを指しているのではないだろうか?
 
中大兄皇子と呼ばれた百済系の皇子が天智天皇に即位する前のこと
 
(大兄皇子とは=百済の皇太子の言い方☝️😌)
 
対立する大海人皇子(天武)に味方する新羅からは、中大兄皇子の天皇即位を阻止せんと27000人の兵が和国へ派兵され中大兄皇子側を威圧した。
 
一方、百済を滅ぼし支配していた唐の劉仁軌将軍は、高句麗系の大海人皇子に対抗し、朝鮮半島の唐軍からも兵を動かすそぶりを見せ和国に駐留する新羅軍を威圧した。
 
唐軍の劉仁軌は高句麗との決戦を控えていて、なんとしても和国の覇権を高句麗系の大海人皇子(天武)に渡すまいと奔走し、半島と列島の動乱勃発を抑え和解を行った。
 
唐の高宗皇帝でさえも、東アジア鎮定のため重要な国事である泰山の封禅の儀を延期した程だ。
 
斯くして、唐軍は高句麗との決戦ただ一点に集中し、668年に是を滅ぼした。
 
こうした国際的な東アジアの緊張の中で
中大兄皇子は、奈良から滋賀の
近江大津宮に遷都し、ようやく天智天皇として即位したのだ。
 
672年に天智天皇が崩御すると、後継を巡り天智系と天武系(大海人皇子)の決戦が勃発。=壬申の乱
 
大海人皇子側の勝利となり、大海人皇子は天武天皇に即位した。
 
 
草薙剣が、天智天皇の宮・滋賀の近江大津宮にあったとしたら
この後は、
奈良県、天武天皇の宮・飛鳥浄御原宮へ戻ったと思われる。
 
 
倭姫、日本武尊の時代は、神剣は奈良から三重県の伊勢へ遷り、日本武尊と共に東征を経て名古屋の熱田神宮に鎮座したが、
 
お遷りになる場所を探し初めた第10代崇神天皇から、第40代天武天皇まで
 
実に400年を歴て神剣が奈良へ戻ったことになる。
 
亡命地である和国においては
 
668年以降は、高句麗人も百済人同様に、唐に滅ぼされ国を持たない民族となっていた。
 
和国内でも高句麗系の天武天皇と、百済の天智系の遺臣の対立は続いていた。
 
天武天皇は病死とさているが、一説に天智天皇の姫を娶っていた為、その王子に暗殺されたという説もある。
 
(※毒殺暗殺は病死として伝えられることが多い😔)
 
伝えられるとおり、
 
686年「天武天皇の病が重くなり草薙神剣は熱田神宮に戻された」
 
という、事なかのかもしれない。

スサノオⅣ.東京・埼玉【武蔵三氷川】奥氷川神社と中氷川神社

2022-06-14 | スサノオ

【武蔵三氷川】

氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社の三社を武蔵三氷川と言う。

スサノオⅢ.で上げた氷川神社に加筆する感じで、奥氷川神社と中氷川神社を少しだけUPしています。

『本宮』

氷川神社の総社、埼玉県さいたま市の氷川神社。

 

『奥宮』

約50キロ以上離れた、東京都奥多摩町氷川にある奥氷川神社。

 

『中宮』

二社の中間地点にある埼玉県所沢市の中氷川神社。

 

三社はほぼ直線に並び「神の通り道」と称される。

 

【奥氷川神社】奥多摩町氷川185

多摩川上流100㌔御岳山・雲取山の山間、奥多摩駅の近くに鎮座する。

 

ご祭神 須佐之男命・櫛名田姫

創建 ヤマトタケル

 

 

鎌倉時代の植樹ご神木「三本杉」

 

 

【中氷川神社】埼玉県所沢市三ケ島5丁目1691−1

創建 約二千年ほど前

ご祭神 素戔嗚命  

 

後にヤマトタケルが少彦名命・大己貴を共に祭った。

 

中氷川神社は二カ所あるが、古書に拠ればこちらが武蔵三氷川の中宮である中氷川神社らしい。

かつては中宮(長宮)等と呼ばれていたという。

 

しかし他の氷川神社と違い、こちらでは「須佐之男命」でなく「素戔嗚命」として祭っている。

たいして意味はないのかもしれないが、、🤔

 

 

しかも京都の八坂神社を勧請し、中氷川神社本殿と八坂神社のダブルで

素戔嗚命さまを祭っている。

境内に鎮座する八坂神社

 

アラハバキも祭っているのも興味深い。😳

 

 

【中氷川神社】埼玉県所沢市山口1849

 

もうひとつの中氷川神社から車で10分ほど。

こちらの中氷川神社は、奥宮・本宮と同様に須佐之男命さまと櫛名田姫さまを祭っている。

 

 

創建 ヤマトタケル

 

そしてこちらは、なんと😳

香川県の金刀比羅宮も祭っています。

 

仏教の神さまの神社ですが、

金刀比羅宮=インド象頭山のクンピーラ(金毘羅)さま=大国主命です。

 

それぞれ違いがあって、

二社ともに創建に関わっていたヤマトタケルの意図は分からないが

それぞれに祭る役割があったのだろうか…

 

下社・上社と分かれている訳でもなく、ひょっとすると中氷川神社も

二社とも同じ神社で差し渡し4キロの大きな宮だったのかもしれません。

😌⛩️☝️

 

 

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中氷川神社のある

所沢から足を延ばして寄ってみた【聖天宮】

埼玉県坂戸市にある中国の

道教の神様が祭られている台湾の神社

 

五千頭の龍が有名🐉圧巻です😮またいずれ✨

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

奥氷川神社は多摩川と日原川、二つの川の合流地点を見下ろすように鎮座されていた。

氷川神社の氷川は、出雲の斐川(斐伊川)が由縁との伝承があるが、関東の氷川神社は多摩川流域や荒川流域など川沿いに祀られていることが多い。

 

川は蛇行して流れることから蛇に例えられ、支流・合流が多い川は氾濫が多く出雲の斐川は氾濫を繰り返した暴れ川で、西から東へ流れが変わるほど河川自体が大きく蛇行した。

斐川の上流の奥出雲はスサノオの降臨地で八川という地名があって、そのとおり支流が幾つか分かれている。

 

スサノオが退治した八岐大蛇とはこの川になぞられての事ではないかという説があり、八川は昔から製鉄が盛んでタタラ場があった事などからも、退治した後に「雨の村雲剣」を発見したという神話のストーリーとも重なる。

 

この説に依ればスサノオが八岐大蛇を退治したことは、八川を圧え斐川の荒れる流域を治める治水の神である側面も伺える。

氷川とは澄みやかな水という意味があるらしく、斐川から氷川になったのも荒れずに澄み渡る川であってとの願いがあったのかもしれない🤔

確かに川が大きく蛇行するあたりには氷川神社が多く祀られていたりする。

 

もう少し丁寧にスサノオ様への信仰の足跡を回ってみたくなった。

 

今週末は揖斐川・長良川と木曽川の流域沿いにある愛知県「津島神社」へ行ってきます。岐阜の八剣神社も、、😌⛩️

 

いつになったら出雲にたどり着くのだろうか・・・(*_*;

 


願いを叶えるパワースポット

2022-06-12 | スピリチュアル

スサノオさまを巡る旅シリーズ?の途中ですが、

このところ、古代ミステリーロマン的な投稿が続いているので、

たまにはスピリチュアル系っぽい投稿をしてみます。

 

願いを加速させるパワースポット。神戸岩

神戸(かのと)とは大嶽神社の入口という意味らしい、

 

 

 

知る人ぞ知る「神戸岩」の岩のくぼみにひっそりとある祠。

 

こちらで、知人があるコミットメントというかイニシエーションをしたところ、その日のうちに、夜になって急転直下のできごとがあり驚くような展開になったという。

 

知人からこの話をきき私も早速行ってみた。

宣言があっという間に具現化する祠、、?!🤔

 

何組か観光客がいたが誰も祠の存在に気付かず、

私も最初は何処にあるのかが分からずに往復した。

 

 

願いを叶えるというよりも、

変容を受け入れる準備ができている方がいくと、

一気に転換するという感じかもしれない、、

 

 

私は、どちらかと言うと繊細な方で(HSP?😅)、いつも人前では心にも無いとってつけた様なことばかり言っていて、本音や本当の願いが自分でもよく分からない人だ。

 

防衛機制の「自分はこうしたい」ではなく、

 

世界が100%安全で安心で、愛に溢れていて、どんな常識外れなことを望んでも、誰かに詰られることや恥ずかしめもなく、肯定に満ちた世界だったら「何を望む?」

 

それでもよく、分からない😅

 

自分からブレていることも多かったので、取り合えずこの半年は、徹底的に断捨離をしてみた。🤔

 

物も人との関係も、環境も、価値観も、SNSアカウントもTVもYouTubeも、思い切ってしがみついていたものも手放してみると、寂しくなるかな?と思ったけど、思ったよりそうでなくすっきりして、本音や、真の願いがようやくキャッチできる様になってきた。😌💖✨

 

で、今や祠の前でそれをコミットしてみた。

 

 

(祠の前に来るとモヤの様なものが降りてきたので写してみたら、祠の上でオーラの様に霞がかってました。こういうのもオーラ写真というのだろうか😮)

 

そして、、

なんと!

 

その日の夜、仕事の電話で話しているうちに急転直下の変容が。

 

今までの自分の常識や、自分のやり方(寧ろブレていた古いやり方)を一気に覆すような内容😮

 

でもそれが自分に嘘のないやり方で、(feel ture!!)

自分で話しておきながら驚いた。

 

ネタを明かせば別段新しいツールという訳ではなく、沖縄の方達がごく自然にやっている「結まーる」というやり方。ただ、それが仕事の中で活かせるのが嬉しい。

事業の進め方にも負担がなくなった。一夜にして仕事のやり方が変わった😮

 

 

神戸岩というだけあって、

本当に神様に扉を開いて貰った気分😳✨

急転直下とは書きましたが、急激な変化というわけではなく

扉の前に立つまでの準備期間があり

扉を開けて貰ったら、

見たこともない光景が入ってきたという感じです、、

(あくまでも個人の感想です😌)

それにしても、、

feel ture 〜真実であることの内なる平和を

セラピーやヒーリングの場ではなく

仕事で感じるとは、、😳

マイナスイオンをたっぷり浴びて、

お蕎麦を食べて

温泉につかって帰るだけの1DAYリトリートでは終わらなかった、、😂☝️

 

神戸岩の神様の御神威✨🙏


スサノオⅢ.埼玉県【氷川神社】須佐之男命と【女体神社】

2022-06-11 | スサノオ

【氷川神社】埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407

武蔵野国一之宮で、全国約280社の氷川神社の総社。

 

ご祭神 須佐之男命   創建 2000年前

出雲の国、杵築大社(出雲大社)を遷し、氷川神社の神号を賜ると伝わり、出雲の斐川が語源と云われる。

 

氷川神社より東南に8キロ、さいたま市緑区にある氷川女体神社に妻神の櫛稲田姫を祭っていて、氷川神社が【男体神社】であり、氷川女体神社と二社で武蔵野国一宮とのこと。

 

 

氷川神社と氷川女体神社の二社を結ぶライン上の真中にお二人の御子、大穴牟遅を祀る(大国主命)簸王子社の中山神社があり一直線に配置されている。

『氷川レイライン』と呼ばれるパワースポットだ。

 

夏至に氷川神社から陽が沈み、

冬至に氷川女躰神社に陽が登る。

 

拝殿

 

 

広い境内には、宗像神社、松尾神社、稲荷社など摂社が点在している。

 

【宗像神社】

天照大神とスサノオの誓約により生まれたという、スサノオの娘・宗像三女神を祭る。(多紀理姫、多岐都姫、市杵嶋姫)

 

 

 

 

【蛇の池】

日本神話

スサノオは高天原を追われ出雲に流れ着いた。そこで姫をヤマタノオロチに差し出さねばならず困っている出雲一族に出あう。スサノオは、ヤマタノオロチを酒に酔わせて討ちとり、出雲族の姫・櫛名田姫を無事に助け二人は結ばれた。

ヤマタノオロチ『八頭の蛇』の尻尾からは剣が出てきた。

『天の村曇の剣』といい、後に和国の天皇家に伝わり三種の神器のひとつなる神剣となる。ヤマトタケルが火難に遭った時、この神剣で前の草を薙ぎ払い生還してからは

『草薙の剣』と呼ばれる様になった。。

氷川神社の「蛇の池」は、スサノオが蛇(オロチ)を退治したという故事にちなみ名づけられたという。もともと水が沸き出ていたこの場所に神社を建立し、今でも水が沸いているという神聖なスポットだ。

(湧水地であり原始の氷川祭祀の対象で、霊験あらたかな泉を「氷川」と言うのでそれが社名となったという説もあり)

 

池の近くへは入れないが、拝所までも静謐さが漂う。

この辺りだけ異世界に入りこみ、切りはなされた別空間のように静かだ。

 

 

【氷川女体神社】さいたま市緑区宮本2-17-1

ご祭神 櫛稲田姫(スサノオの妻神)美穂津姫・大己貴命

 

氷川神社【男体神社】と氷川女体神社で、武蔵野国一之宮。

氷川女体神社の正面、参道側に進むと磐船祭祀遺跡があり、かつて御船祭りが行われていた頃は、4本の竹を立てその真ん中へ船で向かったという。

御船祭 → 磐船祭(江戸) → 祇園祭(昭和)→ 祇園磐船龍神祭(平成17年~)見沼の干拓後も、名や形を変えつつ祭祀は継承されてきたらしい。

 

氷川神女体社前の【宗像社】

こちらの先に、磐船祭りの遺跡がある。


氷川女体神社は武蔵国有数の古社で、見沼の谷にぽっこりとある古墳の様な小高い丘にあり、神社の所蔵品が多く「埼玉の正倉院」とも呼ばれているらしい。

中国道教の荒神信仰と結びついた。三寳荒神(仏、法、僧)と三宝荒神(火、土、水)のお札も売られていたので買ってきた。


『ひぬかん(火の神)』と言い台所に御安置して、沖縄では毎月15日になると祀っているお宅も多い。

 

 

氷川神社   主祭神 須佐之男命

氷川女体神社 御妻神 櫛稲田姫

二社で武蔵野国一之宮(一の宮=その地域で一番の社格の神社のこと)と云われている以上、夫婦相神をわざわざ別々の場所に祭っていたというよりも、もしかすると氷川レイラインはさいたま市大宮区という地名のとおり本当に、差し渡し8キロもある大きな宮だったのかもしれない。

古代でも九州の『伊都国』の様に25㌔区画の王都もあり、8㌔でも在りえなくはない…🤔

現在の氷川神社も参道の長さは日本一で、一の鳥居から2キロの参道が続いている長大なお宮だ。

 

平安末までは埼玉県あたりまで海が深く入り込み、沼や川も一帯に広がっていた。江戸時代に干拓もあり、現在は、加賀沼、印旛沼などが利根川周辺に残るのみ。

以前は上陸地に近い場所だったと思われ、見沼という沼があった場所に祭られている。

 

古代↓ 

まるで「関東が水没するとこうなります」というハザードマップの様だ😮

 

氷川神社系は、見沼への海(埼玉)
から多摩川の海(神奈川)の中継地点に鎮座されてる様です。

そして、香取海の方へ湾に沿って広く点在している。

現在の茨城と千葉、香取海は今は利根川という川になり、川の対岸には鹿島神宮と香取神宮が残り、かつては香取海を囲む州の崎であったと思われる場所には氷川神社が多くあり、日川という地名も残る。

 

氷川神社は海神・須佐之男命を祭る聖地✨

船魂様(女性神)との繋がりが色濃い。

 

次は、いよいよ出雲へ⛩️✨✨✨✨

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

多摩川沿いの川崎には女体神社があり、上流に馬絹神社(女体神社を合祀)があります。

女体神社は必ずしもスサノオ様の妻神「櫛稲田姫」を祭っている訳ではありません。しかし、船にかかわる女神様を祭っている様で、海神・スサノオとの繋がりも少し感じます。

 

【馬絹神社】

 

船魂様は女性神なので、女体神社が流域沿岸に祭られているのも頷ける。


今でも、東京湾を見守る様に千葉・神奈川沿岸にも観音さまが沢山祭られている。

荒波を超えていく船乗り達にとって、女神さまとは航海の安全を祈り感謝をする守護者だ。

季節と海流を知り、方角と夜空の運行を知り、どのような熟練者や大船や構造船であっても嵐と遭遇するかしないかの「運」だけが問題だった。

遥か水平線に目を凝らし、海と空の色の変化を発見した時には、既に台風回避は間に合わない。

僅かな風の匂い、湿気、温かさ、気圧など微妙な変化を五感で感じとり予測をし、どこかの小島を見つけてやり過ごすか、それでも安全とは言えず、

結局最後は祈るしかない。

船乗りの海の女神様への信仰は強い絆で結ばれている。

 

海の女神さまは、神功皇后や宗像三女神、月読、弟橘媛、媽祖、など様々で

海の氏族によって祭ってる神様は違いがありそうだが、系譜でいうと

女体神社が一番古いように思える。

 

船魂様

船魂様 猿田彦の化身と書かれているが漢服と両袖に両手を通した中国人の姿で描かれているのが印象的だ。

海の女神は、中国の海の女神・媽祖さまは弟橘媛と合祀されたり

弟橘媛さまは女体神社へ合祀されたりなど習合が繰り返されたようで、

今回のスサノオ様を巡る旅も、最初は中華街の媽祖さまと女体神社からがきっかけだっだ。

神社の習合の歴史は別として、大海原に命をかける男達は操船技術や船の性能がどんなに優れていても、結局は嵐に遭遇した時の【運】が全てを決める事を知っている。なので皆、洋の東西を問わず、どんな些細な縁起や祈りも、迷信せえも大切にする。遣唐使船の乗船者も、その返礼使の中国人も、どちらかの女神を排除するという事もなく、それぞれの女神に航海の安全の祈りを捧げていたのだろう。

 

川崎【女体神社】

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

日本神話の高天ヶ原で、スサノオは、天照大神とウケイを行ない宗像三女神を生み出した。しかしその後、乱行を行ない高天ヶ原を追放された。

スサノオは、さすらの身となり流浪し、やがて出雲に流れついた。

そこでヤマタノオロチに姫を差し出し隷属に悲しむ一族と出会い、これを退治し、姫である櫛名田姫と結ばれる。

やがて時が経ち、

大己貴命(大穴牟遅)がやってくると、絶対絶命の穴に追い込み試練を与えるが、スサノオの娘であるスセリ姫が裏でこれを助けた。

二人はスサノオから神器『十種宝』を盗み出し逃げる。スサノオはこれを追うが、諦め

『天をつく大きな社殿を造り、お前が大国主となれ!』

と、最後に言い放つ。

大穴牟遅は、その言葉どおり壮大な社殿を建立し、知恵者の少彦名命の協力を得て国造りを行ない【大国主】となった。


スサノオ様は数奇な運命を辿った人だ。

前半生が黒歴史で、後半生は別人の様な道を生きている。


(まるで波乱万丈な私の人生の様😅)

紀伊半島には、スサノオが来て木を植え『木の国』を開いたといった伝承が残る。この木の国=紀の国の誕生のエピソードは、紀元前に始皇帝の命令で徐福が日本列島にやってきて紀伊半島に上陸し、まだ日本にはなかった中国原産の梅や蜜柑などを植樹したという説と重なる。

スサノオが方方と関わりを持ったという伝承は幅広い。

スサノオの跡を継いで『大国主』となった大穴牟遅だが、最近は「大国主」とは固有の名称ではなく称号であり、
初代スサノオから、大国主の称号を受けた大穴牟遅や、大物主大神、何人かの存在の象徴であると見る向きが強い。

大物主、八千矛、葦原シコオ、宇都志国魂など多くの名を持ち、多くの妻と

70人の兄弟がいて、150人の子がいたという事を考えれば充分あり得る話しだと思う。

何より、古事記の系譜を見た方は誰もが『謎』につまづくと思うが、

スサノオの娘、多紀理姫、多岐都姫、スセリ姫を、

スサノオの六代孫の大国主命が娶っている事だ。

スサノオ三女神の末妹、市杵島姫は、

スサノオを高天原から追いやった天照大神の孫(或いはその義父)天火明命と結婚しているので、年代的にはなんとか収まる。

 

須佐之男命様の一族は、広く、そして何やら複雑だ。😵‍💫

 

 

【石上神社】氷川女体神社境内 

小さな祠だが氷川女体神社の境内に石上神社があった。石上神社は物部氏の氏神。

ご祭神は

熊野で、高倉下が神武一行を助けたとき献上した「布津御魂の剣」の

布津御魂が祭られている。

布留御魂は十種宝。紀伊半島のスサノオとの繋がりを感じる。

 

布津斯御魂は、出雲でスサノオが、八岐大蛇を退治した時の剣。

 

物部氏の「物」とは、武器・鉄器のことで、古代日本で、武器を扱う部族だったのが物部氏だ。

もののふ・ものものしい・もののけ等の語源)

 

氷川女体神社拝殿裏 もののけ道😑

 

物部氏の始祖は、饒速日尊(ニギハヤヒ)だ。

ニギハヤヒは、熊野で神武一行と敵対したアラハバキの姫を娶っていた。

しかし、

ニギハヤヒ=天火明命という説があるが、天火明命はスサノオの娘・市杵嶋姫を娶っているので、スサノオの義理の息子という事になる。それだとまた世代が合わなくなってしまう、🤪アラハバキと戦った神武はスサノオの5世代後の存在だ。

何れに

せよ、神武が熊野で奉じたという『十種宝』は、もともとはスサノオ→大国主命の手元に王の神器としてあったものなのだろう、、

スサノオ様だけでなく、周囲の神々も何やら謎が多く

暗示的な存在だ、、理解するのに深掘りするのは

まだまだ時間がかかりそう😌🙏

 

世異なる国 日本✨


スサノオⅡ.和歌山【熊野大社】熊野権現

2022-06-04 | スサノオ

熊野速玉大社・摂社「八咫烏神社」

日本神話で、神武天皇が東征で熊野へ上陸した時、道案内役になったという八咫烏(ヤタガラス)を祭る神社。


世界遺産熊野 

スサノオ様を祭る【熊野三山】
⛩️熊野本宮大社
⛩️熊野速玉大社
⛩️熊野那智大社

そして、熊野詣に行くための『熊野古道』が広範囲に広がり、日本初となる三県にまたがる世界遺産として、エリア一体が登録された。

熊野速玉大社神倉神社熊野本宮大社熊野那智大社玉置神社
神話とともに、UPしてます😌☝️長め

 

【熊野速玉大社】和歌山県新宮市新宮1

御祭神 熊野速玉大神

御配神 家津美御子(=素戔嗚命) 夫須美大神

 

『日本神話』神武の東征

西からやってきた初代天皇・神武は、河内から上陸したが敵に撃退された。

神武一行は河内からの進撃は諦め、海路より紀伊半島を周り込みここ熊野に上陸した。最初に降臨した神倉山には神倉神社が鎮座する。

当時、熊野速玉大社があった場所は海だった様で、後に『熊野速玉大社』が新宮として祭られたらしい。

 



全国にある熊野神社の総本宮とのこと。

 

 

 

熊野速玉大社の元宮は神倉神社であると云う、、

『神倉神社・ゴトビキ岩』🐸

 

熊野速玉大社から神倉神社は徒歩10分くらいなのだが、

頂上の拝殿までは心臓破りの石段が続く・・・😵膝にくる、、

お年寄りの方は、ゆっくり時間をかけて登っていた、

神武天皇より先に早くから降臨し紀伊半島を治めていた神々(ニギハヤヒ・ナガスネヒコ等)のうち「高倉下」が、高倉神社に祭られている。

高倉下(タカクラジ)は、紀伊半島に上陸後、熊の毒気に当てられて身動き出来なくなっていた神武一行のもとに現れ、神武に霊剣「布都御魂の剣」を渡しこれを助けた。

 

 

【熊野本宮大社】和歌山県田辺市本宮町本宮1110

ご祭神 家都御子大神(=素戔嗚尊)

御配神 熊野速玉大神・熊野夫須美大神

 

熊野本宮大社の跡地にある大鳥居


熊野に上陸した神武天皇は、高倉下の助けで力を盛り返した後、内陸地へ向った。途中、道に迷ってしまい、高御産巣日に使わされたという八咫烏(ヤタガラス)という三本足のカラスに出会った。そして、ヤタガラス(三足烏)は道案内役となり神武をここへ導いた。

 

熊野本宮大社跡の参道

 

拝殿跡

元々、熊野本宮大社が祭られていたが台風で流されてしまった為に移され、本殿跡地には祠が祭られている。

 

とても氣の良いところ。

向かい側の熊野本宮大社ほど混んでないので、跡地の方はのんびりと参拝できる。

 

こちらがメイン。↓今の熊野本宮大社

いつ来ても賑わっている。GW中だったが、駐車場はなんとか停めれた。

参道入口の三足カラスの旗。

ここ熊野本宮大社は熊野三山の中で最も古く、ヤタガラス(三足カラス)を掲げている。熊野は日本サッカー発祥の由縁があり、三足カラスはサッカー協会のシンボルにもなっている。

 

参道

 

三足カラスは1300年前に滅んだ高句麗の国章でもあり、神武天皇の道案内役となったヤタガラスも三足カラスなので、もしかすると高句麗の渡来人だったという事なのかもしれない。

(天孫族の神々は高天原から、日本に降臨したと神話にありますが、実は、高天原とは=高句麗の事という説もあります☝️)

句麗

孫族の

(聖地・中心地)?😅

神武がヤタガラスに導かれ、この地で十種の神器を奉じたのが由緒という。

 

熊野には、京都の八坂神社の様に素戔嗚尊(スサノオ)・牛頭天王を主祭神として祭ってる神社はない。

スサノオの別名であるという

家都御子大神(家津美御子命)ケツミコを祭っている。

 

熊野に坐す神様、証誠菩薩と家津美御子命、

国常立命(イザナギ・イザナミの7代前の神)

 

熊野では、家津美御子 = スサノオのことで

家津美御子さまは、速玉大神と夫須美大神の御子。ここでは、

速玉大神をイザナギ、夫須美大神をイザナミとして祭っているという🙄

😅ややこい・・・何故「スサノオ・イザナギ・イザナミ」と、古事記のご神名とおりに素直に祭られていないのだろう??

別名で祭る理由は分からないが、

元々、この熊野の地に所縁のあった別の存在、

『家津美御子と両親の速玉男・夫須美』を

『スサノオとイザナギ・イザナミ親子』に重ね合わせて

お祭りしたという事かもしれない、、🤔

 

『拝殿』

 

神仏習合の時代を名残りを色濃く残し、仏教色は強い。

しかし神道としての歴史も古く、日本神話のふるさとでもある。

 

 

 

御祭神である家津美御子の別名スサノオの別名が、

「牛頭天王」であることから、熊野本宮大社では

『牛王誓紙』と言う、カラス文字で書かれた御神符がある。

(別名の別名の別名?🙄)

 

この牛王誓紙(熊野誓紙)の裏に誓いを書き、もしも書いた誓目を破れば、神の使いであるカラスが死に、本人も死に至るというもので、仏教よりも修験道や陰陽道の様な呪術的な意味合いが強い。

この由緒は天武天皇の白鳳時代にまで遡るという。

しかし、同じような時代に由緒があるとする

八坂神社の様な疫神様の牛頭天王ではなく、

誓いを立てる牛王であり、疫病退散の主神といった感じはあまりない。

 

 

ライトアップされた『熊野本宮大社跡』鳥居が幻想的

 

 

古代の日本神話のヤタガラスと神武天皇の伝承を残しつつも

中世の仏教・修験道の信仰も同じぐらいに色濃く残す牛王。

 

神・仏どちらかが霞むことなく、両方の信仰に触れられる神社だ。そして、

 

牛王誓紙のカラス文字と、道案内のヤタガラス、

どちらも何故か?カラスを由緒としているのが興味深い、、

結局のところ、神・仏に関わらず三足烏への信仰?😂☝️

 

八咫烏は、

京都の鴨神社の賀茂氏の祖神・鴨健ツノミ命の化身であるとも云う。

 

熊野本宮大社境内のポスト

こんなモニュメントも、しっかり三足に作られている。

三足烏こそが熊野のシンボルであり、日本サッカー協会は、熊野のシンボルを採用したという事なのだろう。

 

熊野本宮大社拝殿の右端、、人がまばらでなんとなくホッとするスポット✨

 

 

【熊野那智大社】
熊野三山のうち、最後に三山に称せられたのが熊野那智大社らしい。

天皇家の御幸があり、仏教化が進んだ歴代の神社だけあって

今でも鳥居や神門をくぐった先に青願渡寺というお寺が並んでいる。

 

 

こちらは、熊野三山の中で最も仏教色が強い。

 

 

『熊野別当』という僧侶の統括者が置かれ、熊野三社はその配下にあった。

熊野三山はそれぞれ別の展開をしてきたが、熊野別当が統括した9世紀頃から仏教の修験場の三山として統一されていき、神社の祭神も家都御子大神/熊野速玉男/熊野夫須美になった様だ。

宗旨が変わりその雰囲気もそれぞれだが、それでいて熊野はどこか一貫している。

 

 

 

【玉置神社】奈良県十津川村玉置川1

熊野本宮大社から車で一時間ほど、険峻な山道をいく。

 

こちらは熊野三山とはまた雰囲気が違う、修験道や山岳仏教など日本独特の修験場の様だ。


玉置神社は熊野三山の奥院寺院)であって奥宮ではない。

 

熊野三山」といい「熊野三社」とは言わない。

(山号=修験場、社号=祭祀場)

また違った側面の熊野信仰に触れることが出来る神社だ。

 

真言密教が説く大日如来の二つの世界「金剛界」と「胎蔵界」

9世紀に弘法大師が日本へ持ち帰った密教の世界観を顕す。

 

日本の仏教は世界的にも特異な仏教だという。

 

玉置神社は、そんな異世界的な雰囲気が漂う独特の霊域だ。

 

京都の八坂神社は、疫神の牛頭天王

和歌山の熊野は、道案内のヤタガラス

それぞれ海神スサノオとは違う、独特な存在と出会えます。

次は、埼玉の八坂神社へ✨✨⛩️

 

 

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『熊野ご祭神の謎』

熊野本宮大社ご祭神 家津美御子命。=ケツミコ(ミケツ神)

ケツミコは、古事記・日本書紀には登場しないがスサノオの別名として知られる。(いや😅あんまり知られてない)

 

家都御子大神または家津美御子と書き

ケツは=食べ物のことなので、

美御子で、=女性神・巫女のことさして言う

つまり、

『食べ物の女性神』

猛々しいスサノオ感があまりしない・・・不思議なご神名だ

男神というより、南方の食物の神・大ゲツ姫や大御ケツ姫などの女神に親しい感じがする。

※ケツが続きますが😅☝️『ケツ』(ミケ、ケ)は食べ物のことです。

 

熊野三山では、それぞれ祭る神様が違い

 

⛩️熊野本宮大社【主祭神】家都御子大神 

【ご配神】熊野速玉男/熊野夫須美

⛩️熊野速玉大社【主祭神】熊野速玉男  

【ご配神】家都御子大神/熊野夫須美


⛩️熊野那智大社【主祭神】熊野夫須美  

【ご配神】熊野速玉男/家都御子大神

バランス良く、ケツミコ(スサノオ)とその両親をそれぞれ祭っている。

 

玉置神社では、ミケツ神を三柱として祭り

天狐、地狐、人狐という熊野阿須賀神社を本拠とする神だが、

玉置神社では本元を極秘としているらしい。

 

(ミシャグチ🤔?)

 

熊野にまつわる由縁を、追いかけるほどスサノオ様からは遠ざかっていく気もしました。

熊野大社で祭らている神様も家津美御子で、ヤタガラスを掲げ、

スサノオ様が表向き祭られているという事もなく、

「スサノオの別名」と注釈が書かれているのみ。

スサノオ様の感じはやや薄い、、🤔

三足烏は古代中国では太陽の象徴であり紀元前、始皇帝により使わされた徐福など古代中国の渡来人とも関係があるのかもしれない。

古代中国の宮廷音楽だった雅楽は日本に伝わり、神社に伝統として残っていることは、古代から中国人の渡来があったことを意味している。

宝物や調度品等は、輸入品か中国人以外の渡来人が持ち込む可能性があるが、卓越した文化や技術は人そのものが来て伝えるしか出来ないからだ。

紀伊半島には、古代中国の足跡が薫り、

紀伊半島のスサノオ様も、私達が古事記や神話で知ってる以上の側面もあるかもしれない。

 

熊野は『日本神話以上の世界観』を感じさせてくれます。

 

唯一、

神倉神社のある新宮市の神倉山の麓に、出雲大社が寄り添うように摂していて、出雲の国を助けたという日本神話のスサノオ様と繋がります。

 

 

そして、それぞれに

日本神話の初代天皇・神武の東征のエピソードがあり、皆

大和朝廷に帰順していった訳ですが、

どの神社でも神武天皇以外の神々を祭っています。

 

これも、

前勢力の信仰を、完全に排除したり、暴力的に完全破壊したりせず

ひっそりとでも残すという

外国人からみた『日本人が気づいてない日本の良さ』なのかもしれません。

 

 

 

ゴトビキ岩の裏部にひっそりと祭られているスポット。

スピリチュアル系の方は、何か感じいることがあるかもしれません。

 

和歌山県 世界遺産熊野の周辺には、磐座を祭っていた古代祭祀場(跡)が多く残るという。いわゆる、

社殿の無い古神道の神社だ。

古い熊野信仰を知る原点になる。

 

古神道、日本神道、仏教、修験道、

後世の人々の神仏習合や神仏分離など、人為的な信仰の変化だけでは

信仰の本質までは覗い知れないほど、、熊野は奥が深い。

 

行く度に、変化してくる様な不思議なスポット✨だけど、

どこか懐かしくついつい何度も足を運んでしまいます。

お伊勢参りと同様、熊野詣で、古くから大勢の日本人が訪れて来たことも頷ける。

 

熊野は、日本神話を超える世界観を感じさせてくれる

聖地。

 

✨✨✨✨✨✨✨✨✨